真理を求めるあなたに

聖書を紐解き御言葉の意味を読み解きながら真理を探っていきます

御子も御父に従う

2024-06-08 08:37:35 | 黙示録
【[コリント人への手紙 第一  15:20〜28]
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。】

ここを読めばわかるように、新しい天と新しい地では、御子であるイエス様は、主権を御父にお渡しになります。
なんとも麗しい御子の謙遜のお姿ではないでしょうか。
神であられる御子、御父、御霊が統合され、一つとなり、
キリストが王として地をを治めるのはメシア王国においてです。
その後、完全にサタンを滅ぼし、新しいエルサレムが下りてくる時に、イエス様は、権威を父なる神にお返しします。
そこで、主を信じる我々も主と共に永遠に過ごすことになるのです。
到底言い表すこともできないような素晴らしい新しいエルサレムにて、我々は神と共に住むのです。
ハレルヤ。

[詩篇 73:25]
 あなたのほかに
 天では 私にだれがいるでしょう。
 地では 私はだれをも望みません。






黙示録最後の言葉

2024-06-07 07:00:31 | 黙示録
【[ヨハネの黙示録 22:6〜21]
 御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。
「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」
 これらのことを聞き、また見たのは、私ヨハネである。私は、聞いたり見たりした後に、これらのことを示してくれた御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。
すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」
また私に言った。「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。
不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」
 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
 「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください
 主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。】

これは、黙示録最後のまとめの部分です。
黙示録の言葉を締め括っている箇所です。

御使いは、ヨハネの聞いてきた言葉が真実で信頼に値すべき言葉であると語っています。
また、啓示の内容は直ぐに起きるべきことであると言っています。
神のしもべたちは、常に警戒しているべきであり、苦難の打ち勝つようにと励ましています。
「この書の預言のことばを守る者は幸いである」という力強い祝福の約束が為されています。
また、御使いにひれ伏そうとするヨハネに、礼拝すべきお方は神のみだということを説いています。
「この書の預言のことばを封じてはなりません」と言って、再度、この書の大切さを
強調しています。
黙示録22:11には、人々が黙示録の受け取り方によって二分化されることが明記されています。
不正な者は益々不正に、聖なる者は益々聖くなることが示されています。
次に、イエス様はご自分がどのような方かを示しておられます。
キリストは罪人をそのわざに応じてさばくお方です(白い御座のさばき)。
子羊の血によって贖われた聖徒たちは、罪のさばきを逃れます。
携挙されて、祝福の為のさばきを通過することになります。
それぞれの行いに応じて褒賞が決まることが、(キリストの裁きの座)、第一コリント3:11〜15、第二コリント2:10に書かれています。
キリストは永遠の昔から永遠の未来にまでおられるお方であり、全能のお方であることを宣言しています。
14節の「自分の着物を洗って」とは、子羊の血潮の贖いを受けた者という意味です。
その者だけが、新しいエルサレムの住人になれるのです。
15節には贖われていない者の悲惨な状況が記されています。
16節でヨハネに啓示を与えたのはご自身だということを示しています。
イエス様からの直接の啓示であるが故に黙示録は信頼に値します。
イエス様は、自らを「ダビデの根、また子孫、輝く明けの明星」であると語っています。
「来てください」これは、イエス様のご再臨を待ち望む切実な嘆息なのではないでしょうか。
18〜20節で、イエス様は二つの警告を発しています。
一つは、黙示録の預言に何かを付け加えることの禁止です。
二つ目は、この書から何かを取り除けることの禁止です。
要するに黙示録の言葉に手を入れてはならないということです。
20節で、主イエス様ご自身がこう言われます。「わたしはすぐに来る。」
聖徒たちは、応答します。「主イエスよ、きてください。」
21節で、黙示録は祝祷をもって終わっています。
「イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」




新しいエルサレムの描写②

2024-06-06 08:39:16 | 黙示録
【[ヨハネの黙示録 21:1〜8]
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
  「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
  神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
  神ご自身が彼らの神として、ともにおられる
  神は彼らの目から
  涙をことごとくぬぐい取ってくださる
  もはや死はなく、
  悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
  以前のものが過ぎ去ったからである。」
 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」】

旧約聖書の預言者たちは繰り返しメシア的王国の到来を預言しています。
これが苦難の中を通過している契約の民への励ましとなってきました。
メシア的王国は永遠の御国ではなく、文字通り千年で終わるものです。
それが黙示録20章で啓示されました。
それで、クリスチャンはメシア的王国を千年王国と呼びます。
千年王国の先について、旧約の預言者たちは何も預言していません。
それを預言しているのが黙示録21章と22章です。

創世記、1章以来、続いていた被造世界は、やがて過ぎ去ります。
新しい天と新しい地が創造されます。
これは罪の影響の全くない新しい宇宙の秩序です。
新しいエルサレムが天から降って来ます。
エデンの園で、アダムとエヴァは神に対して罪を犯したので、神は地を呪われました。
千年王国はエデンの園の状態の回復ではありますが、罪は依然として存在します。
永遠の秩序が現れる前に、以前の天と以前の地はなくなります。
新しい天と地が、古いものにとって代わります。
今の地球とは異なった環境が出現し、海はなくなります。
新しい天と新しい地の中に新しいエルサレムが据えられます。
新しいエルサレムは新たに創造されるのではなく、天から降ってきます。
新しいエルサレムは第三の天に既に存在していました(ガラテヤ4の26)。
新しいエルサレムには罪や不義は存在しません。
新しいエルサレムは実際に存在する都です。
「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」と描写されていますが、私たちは栄光の体をもってそこに住むようになります。

新しい天と新しい地の幻について2つの宣言が聞こえてきます。
第一の宣言は神が人と共に住んでくださると言う約束です。
「神の幕屋が人とともにある」とは、シャカイナ・グローリーである神の栄光が人と共にあるという意味です。
私たちは新しいエルサレムで永遠にシャカイナ・グローリーに囲まれて生活するようになります。
「神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」というのは、創造主と被造物を遮断するものは何もなくなり、私たち神と直接的に交わるようになるという意味です。
「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」というのは、悲しみの原因が全て取り除かれるという意味です。
涙を流す理由がないのです。

第二の宣言は、新しくするという約束です。
これは新しい天と新しい地が創造されるのは確実だという意味です。
「事は成就した」と、全能の神が計画の完成を宣言されました。
神が約束された事は全て成就します。
「わたしアルファであり、オメガである。初めであり、最後である」とは、神の永遠性と全能性を表現するお方であるという意味です。
「いのちの水の泉」が用意されることが約束され、これは信じるものがだれもでも無代価で受けることのできる祝福であり、この水は永遠に渇きを癒す水であるということが示されています。
「勝利を得る者」とは、信者のことであり、新しい天と新しい地、新しいエルサレムを神の子として相続していくということが記されています。
一方で、不信者が相続するものは「火と硫黄の燃える池の中」にあるものであり、それは第二の死ことを示しています。



新しいエルサレムの描写①

2024-06-05 07:47:44 | 黙示録
【[ヨハネの黙示録 21:9〜26]
 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、
第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。】

「ここに来なさい」と、言って、より高い次元で神の啓示を見せようとしています。
「子羊の妻である花嫁」とは、新しいエルサレムのことです。
ヨハネは聖なる都エルサレムが天から降ってくるのを見せられました。
21:11から22:5まで、聖なる都エルサレムの特徴の描写がずっと続きます。

神の栄光とは、シャカイナ・グローリーのことです。
ヨハネは人間の言葉では描写できないことを伝えようとしています。
城壁はこの都に与えられる神の守りを象徴しています。
資格のないものはこの都に入れないことを表しています。
城壁には十二の門があり、それを守る天使が任命されています。
一つの門に対して一人の天使が置かれています。
十二の門にはイスラエルの十二部族の名前が記されています。
十二部族の名前は永遠に覚えられ、救いはユダヤ人から来ることを記憶するようになります。
城壁は東西南北の四面からなっていて、各面に三つの門が配置されています。
住民は自由に出入りすることができ、聖徒たちは新しいエルサレムの外で住むこともできると思われます。
聖なる都エルサレムは永遠に続きます。
また土台石には十二使徒の名前が記されています。
教会時代の信者はこの都の住民となることが暗示されています。
都は長さも幅も高さも全く同じ立方体の形をしています。
これは人類の歴史上最大の規模の都市です。
あらゆる時代の生徒たちが住むのに十分なスペースが確保できます。
ソロモンの神殿の至聖所は立方体でした。
この都は永遠の至聖所としての役割を果たします。
城壁は碧玉でできていて、都そのものは、混じり気のないガラスに似た純金でできていると書かれているように、透明に近い純金だということです。
これは私たちが見たこともない新しい材質であり、描写不可能な情景をヨハネが自分が知っている言葉で表現しているに過ぎません。
新しい天新しい地には神殿がなくなります。
三位一体の神ご自身がそこに臨在し神殿になってくださるからです。
神に会うために特定の場所に行く必要がなくなるのです。
太陽と月もなくなり、それはシャカイナ・グローリーが都を照らし、子羊が都の灯りとなってくださるからです。
異邦人と地の王たちはこの光に導かれて生活をするようになります。
「諸国の民」とは異邦人を表す言葉ですが、この箇所からユダヤ人と異邦人の区別は永遠に続くことがわかります。
彼らは神に栄光を帰すためにこの南の都に行きます。
イスラエル人も異邦人もそれぞれ別々の方法で神の栄光を表します。
聖徒たちだけがこの都に入ることができます。
真珠でできた12の門は永遠に開け放たれたままですが、それは都には夜がないからです。
罪のない世界では、闇が取り去られるのです。
栄光の体に変えられた聖徒たちは、眠る必要がなくなります。
都に入る人々は、「子羊のいのちの書」にその名が記されたものたちだけです。
贖われた聖徒たちだけが都に入るのです。
罪人たちは第二の死によって、火の池に閉じ込められているので、決して都に入ることができません。


御国の福音

2024-06-04 09:54:22 | キリスト者の基本的な知識

御国の福音

イェシュアが洗礼を受け、荒野でサタンの誘惑に会った後、宣教を開始した初めての言葉 が「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」でした。

初めに、四福音書の中で、「御国」または「神の国」についてイェシュアが語られている 箇所を読んでみましょう。

「御国」と「神の国」は、同じです。

【[マタイの福音書 4:17]
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言
われた。

[マルコの福音書 1:14,15] ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

[ルカの福音書 4:43]
しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなけ ればなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

[ヨハネの福音書 3:3,4,5]
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれな ければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができま
すか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によっ て生まれなければ、神の国に入ることはできません。】

「悔い改めなさい」という言葉は、よく誤解されているように「自分の罪を悔いて改める」 ということではなく、神の方向に向きを変えなさいという意味です。
原語のギリシャ語では「メタノエオー」といって、「心を変える、考え方を変える」とい う意味がありますが、これをヘブル語で言い表すならば、「シューヴ」であり、「立ち返 る、向きを変える」という意味合いを持っています。
自分中心の生き方から、イェシュアに心の向きを変えて、イェシュアに焦点を充てた生き 方をしなさいということですね。
それは、同時に、御国に焦点を当てて生きるということにもつながります。
もちろん神の方向に向きを変えて、神に真摯に向き合い、そして主の御心に適うような生 き方がしたいという願いが起きた時、聖霊によって自分の内側の罪が示されるということ はあるとは思いますが「イェシュアがおっしゃっている「悔い改め」とは、直接的には「罪 を悔いて改める」という意味ではありません。
悔い改めのない者の生き方は、神の目から見たら的外れな生き方です。
自分の思い、自分の判断、自分の感情と意志で動きます。
時には、占いに頼ったり、心理カウンセラーの指示を仰いだりもするでしょう。
しかし、神に向きを変えた時、神の御心を尋ね、神の願う通りの生き方をしたいと思うよ
うになることでしょう。
それでも、自分の力では、御心が果たせないことを痛感した時に、自分の内側にある罪に 気付かされます。
でも、その前に、先ず、神に向きを変えること、神に立ち返ることが必要なのですね。
自分の罪に気付かされるのはのは聖霊による働きなのです。
ですから、イェシュアが「悔い改めなさい」とおっしゃったのは、まず神のほうに向きを 変えること、自分自身の考えや思い、意思や感情をもとに生きていくのではなく、神の御 心を見ようとし、神の意思を尋ね求める生き方をすることなのだと思います。
次に、「御国が近づいたから」という言葉ですが、御国が近いので、あなた方はそのよう な生き方をするようにとイェシュアは宣教されているわけです。

御国が来ることは世の初めから決まっていることではありますが、益々、御国が来る時は
迫っているということですね。
その時は近いのですということです。
イェシュアが宣教を始めてから、さらに2000年以上の時が経とうとしていますけれど も、未だにに神の国は来ていませんね。
けれども、神の目から見て本当に長い歴史の中でのこの2000年という年月は本当に短い 期間であり、歴史の動きを見てもますます終わりの時が近づき、神の国が近いという事は 私たちも感じるのではないでしょうか。
また、イェシュアは、祈りについて聞かれた時に、このように教えられました。

【[マタイの福音書 6:9,10]
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、
地でも行われますように。】

イェシュアが、最も重んじてこられたこと、人々に目を向けて欲しかったのは、「御国」
なのです。
イェシュアは、最終的に、この地にご自身の王国を実現する為に来られたのです。
私たちにも、そのことに目を向け、そのことの為に祈るようにとおっしゃっているので
す。
イェシュアは、ここから始まる公的生涯の中で、数々の癒しや奇跡を行うことになります が、イェシュアの為される言動の全ては、御国を指し示すことなのです。
言ってみるならば、イェシュアの言動の全ては、御国のデモンストレーションです。

イェシュアは、あらゆる癒しや数々の奇跡を行いましたが、それはすべて御国がどのよう なものであるかを指し示すデモンストレーションでした。
さて、話は変わって、天の御国は「既にあなた方のただ中にある」という面と、「いまだ に到来していない」という二つの面があります。
私たちの内側にイェシュアが御霊として住んでいること自体が、もう既にそこには神の支 配があり、神の統治を受けているという意味では、既に私たちの内側には神の国は来てい るのです。
けれども、イェシュアが王として君臨し、現実的に支配する神の国(メシア王国)はこれか ら到来するのですね。
そのためには私たちはまず花嫁として整えられ、この世において、その使命を全うし、そ のようにして、御国の住民となる準備をさせられていくことになります。
王なる祭司として、イェシュアと共に御国で支配していくわけですから、充分に整えられ て行く必要があるわけです。
その為に、私たちは、時には苦難があり、神から訓練を受けるわけです。

【[へブル人への手紙 12:5~8]
そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことば を忘れています。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。
主に叱られて気落ちしてはならない。
主はその愛する者を訓練し、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるのだから。」
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練 しない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であっ て、本当の子ではありません。】

また、王なる祭司となる為には、御言葉を良く食し、良く咀嚼して、良く整えられていく 必要があるわけですね。

【[テモテへの手紙 第二 3:16,17] 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。】

携挙で天に挙げられることになるか、もし、携挙の前に眠ってしまったならば、私たちは 復活のからだをいただいて、御国に入ることになるでしょう。
(御国に入るまで、地上での患難時代の間は、天でイェシュアとの婚宴があります。)
時代は、今後、イェシュアが再臨されるまでの間に、大きな激動の時となることでしょ
う。
それはイスラエルを民族的に救われ、イスラエルが御国においてとても重要な位置を占め るために、必要な期間なのです。
イスラエルに民族的な悔い改めが起きるという代表的な御言葉を読んでおきましょう。

【[ゼカリヤ書 12:10,11]
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分
たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のた
めに嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように
大きくなる。】

ここで言われている「その日」というのは、終わりの日のことであり、患難時代を指しま
す。

それは、今後の歴史の上で、必ず実際に訪れる出来事であり、イスラエルを民族的に救う
ために通らなければならない苦しみの時なのですね。
イェシュアが公的生涯の1番最初に語られた「悔い改めなさい、天の御国が近づいたか ら」という言葉の重みをもっともっと考えるべきではないでしょうか。
私たちはイェシュアが十字架にかかられ、贖いをなされたことにのみ気持ちを取られがち
です。
もちろんそれは贖い主、救い主として、恵みの福音の中で、本当に大きな働きではありま したが、イェシュアが最終的な目標としておられる御国の到来をもっともっと重要視すべ きではないでしょうか。
私たちも、神が見ているものを見、神が意図してらっしゃるもにを意図し、神が目指して
いるものを目指す者でありたいですね。
神が関心を向けられていることとは何でしょうか。
神は最もイスラエルに心を留めておられるのではないでしょうか。

【[創世記 12:1,2,3]
主はアブラムに言われた。 「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする。
あなたは祝福となりなさい。 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。 地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」】

神が関心を寄せておられるイスラエルに私たちも関心を寄せ、神が最終的に目指しておら れる御国に視線を向けることが私たち王なる祭司の務めなのだと思います。

御国すなわち千年王国(メシア王国)がどのようなところかを端的に表している箇所を読ん でみたいと思います。

【[ヨハネの黙示録 20:6]
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死 は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の 間、王として治める。】

イェシュアの為に殉教した者、または、従い通した者は復活のからだをいただいてキリス トと共に王として王国を治めることになります。
なんと光栄で畏れ多いことでしょう。
それに対して、イスラエルは、復活のからでではなく、生身のまま御国に入り、そこで増 え広がります。
そこにおいて、上に記したイスラエルに対する御言葉の成就があるのです。
最後に私が感銘を受けたウォッチマンニーの文章を読んで終わりたいと思います。 「神の御心が天では決して妨げられる事はありません。
神の御心が地で執行されるのが妨げられているのは、地がサタンによって腐敗させられて いるからです。
地は神の敵によって強奪されています。
しかしながら王国がやってくる時、地は完全に回復され、神の命目的と願いは、天で執行 されているように、地でも執行されるでしょう。
サタンはアビスで縛られ、もはや神の御心を妨げることはできないでしょう。
今日、主望んでおられるのは、人がこのために祈り、神の御心が実現するのを促すことで す。」