*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。
8.
チャンミンは、ユンホにとって「命の恩人」ともいうべき男だ。
医者なのだから、患者の手当てをするのは当然とも言えるが…
銃撃を受けた時、ユンホは自らの死を覚悟した。
それほどの大けがを負った自分を助けてくれたチャンミンに、
礼の一つも言わずに病院を逃げ出した。
だが、チャンミンはそんな不義理な自分を責める様子もなく、
ただ少しの皮肉だけで許してくれた。
《ここはもう観念して、ドクターの言う通りにするしかない》
食事を終えたユンホが老婆に礼を述べると、
チャンミンは待ちかねたように
「では…そろそろ出発しよう。
マーサ婆さん、私の馬車は来ているかな?」
「それが…まだのようで」
「そうか…仕方がない。ベンは…また二日酔いかもしれないな」
懐中時計をポケットにしまい、
チャンミンは小さくため息を吐いた。
だが、それは怒りでも失望でもなく、
まるで可愛い弟の様子でも思い浮かべているかのような表情だった。
「あの…ドクター…」
「チャンミン、でいいよ。ドクターなんて堅苦しい。
それに敬語もいらないよ。友達に話すように話して」
尤もな顔で言われると、ユンホは何も言えなくなる。
チャンミンに対する申し訳なさと後ろめたさが、
まだ尾を引いていた。
「はあ…チャ、チャンミン…
表に馬が繋いであったけれど…あれはチャンミンの馬なのですか?
ならば…俺はあの馬に乗り、チャンミンは後から馬車で追いかけてくれば…」
チャンミンと一緒に馬車に…二人きりで乗るなんて、
ユンホには気の重いことだった。
ならば、自分はチャンミンの馬に乗り、
チャンミンはベンとやらが引いて来る馬車に乗ればいいと思った。
「馬?私は…馬など持っていないよ?
表に繋いである馬は、この家のものだよ」
「えっ…?!」
チャンミンは馬でここまで追いかけてきたのではないのか?
野戦病院からほぼ半日かけてやっとたどり着いた。
自分が病院から姿を消したことがわかったあとで、
追いかけてきたというならば…
馬でも使わない限り、追いつけないはずだ。
しかも自分よりも早く、
チャンミンはすでにこの家に着いていた。
「徒歩でここまで?俺よりも早くたどり着いたと?
そんなの…あり得ない…」
チャンミンを問い質そうとした、その時…
「すいやせん。遅くなりやした」
前歯の抜けた大男が、にやりと笑ってぬうっと家の中を覗き込んだ。
「ベン。遅かったじゃないか。また飲んでいたのか?」
「チャンミン先生…酒が入ってないと調子が出ねえんで。へっへっへ」
「医者としては認められないが、今更どうこう言っても仕方がない…
さあ、これからユンホの故郷へ向かうんだ。ヨハネスにね」
「ヨハネス…ずいぶん遠いなあ。でも、先生の頼みだ。行きやすぜ」
チャンミンは親しげにベンと笑みを交わすと、
さっさと馬車に乗りこんだ。
躊躇うユンホを見て
「さあ、乗りなさい。一等とは言えないが、ベンは貴族の馬番も務めていた男だ。
馬の扱い、乗り心地は悪くない。
遠くヨハネスまで快適な旅ができるだろう」
そう言って、チャンミンはユンホに手を差し伸べた。
深い琥珀色の瞳が潤んでいた。
すべてを包み込むような眼差しに、ユンホは吸い寄せられる──
どんなに藻掻いても、チャンミンを超克することはできないのかもしれない。
《少なくとも、この馬車に乗れば…故郷へ帰れる。辛抱しろ、ユンホ》
自分に言い聞かせ、ユンホはチャンミンの手を取った。
馬車は田舎道を走り出す──
「ユンホは…そんなに故郷に帰りたいのか?」
「自分の故郷に帰りたくない人間はいないでしょう?
戦場で九死に一生を得たのだから…自分の家族や故郷が恋しくなるのは当然かと」
「そして、恋人にも…だろう?」
「ええ、もちろん!」
「ふうん…」
馬車の中はチャンミンが言ったように、意外にも快適だった。
粗末な木製の馬車だが、田舎の悪路でもほとんど揺れなかった。
チャンミンと向かい合って座ると、
互いの膝が擦れ合って、長い脚が邪魔だと感じることもしょっちゅうなのだが。
「ドク…チャンミンは…家族は?」
ユンホは初めて会話らしい言葉を投げかけてみた。
チャンミンは聞こえないのか…窓の外をぼんやり眺めているだけだった。