
泡盛ってなんで泡盛って言うの?歴史や名前の由来を知りたい。
沖縄で古くから愛されている泡盛。
泡盛は、600年以上もの歴史を持つ日本最古の蒸留酒です。その起源は14世紀の琉球王朝時代に遡り、シャム(現在のタイ)から蒸留技術が伝わったとも言われています。以来、琉球の人々は独自の技術と工夫を凝らし、泡盛を育んできました。
原料には、タイ米と黒麹を使用し、独特の風味と深いコクを生み出します。その製法は、まさに琉球の風土と人々の知恵が融合した結晶と言えるでしょう。
泡盛の名前の由来には諸説ありますが、その一つに、泡盛を造る際に盛んに泡立つ様子から名付けられたという説があります。また、かつて泡盛の原料に粟が使われていたことから「粟盛り(あわもり)」が転じたという説もあります。
琉球王朝時代には、泡盛は王府の管理下に置かれ、首里の赤田・鳥堀・崎山の三か所でのみ製造が許されていました。そのため、泡盛は「首里の酒」として珍重され、王族や貴族の間で愛飲されたのです。
この記事では、泡盛マイスターの筆者が、泡盛の歴史や名前の由来などをわかりやすく解説しますので、ぜひ最後までお読みください。
- 泡盛の歴史
- 泡盛の誕生について
- 昔の原料
- 琉球王国時代の泡盛
- 泡盛の名前の由来

この記事は沖縄移住生活13年、泡盛酒造での勤務経験もある泡盛マイスターのももとが書いています。

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泡盛の歴史 知っておきたい基本情報

泡盛の歴史は、14世紀頃に東南アジアから琉球王国へ蒸留技術が伝わったことから始まります。泡盛の誕生や昔の原料、琉球王国時代の泡盛について詳しく解説します。
- 泡盛の伝来・誕生
- 泡盛の昔の原料は何だったか
- 琉球王国時代の泡盛
泡盛の伝来・誕生
泡盛の歴史は、14世紀頃に琉球へ伝えられたという説が有力ですが、実はその詳細は謎に包まれています。泡盛がどのように沖縄へ伝わったのか、そのルートも定かではありません。現在、有力とされているのは主に2つのルートです。
一つ目は「北ルート」。朝鮮半島から日本を経由して琉球へ伝わったという説です。当時、琉球は日本や朝鮮との交易が盛んであったため、このルートで蒸留技術が伝わった可能性は十分に考えられます。
二つ目は「南ルート」。中国から東南アジアを経由して琉球へ伝わったという説です。琉球は東南アジア諸国との交易も盛んであり、特にシャム(現在のタイ)との交流が深かったことから、このルートで蒸留技術が伝わった可能性も高いとされています。
このように、泡盛の伝来ルートは未だ解明されていません。しかし、どちらのルートを通ったにせよ、当時の琉球がアジアの交易拠点として栄えていたことが伺えます。様々な文化や技術が交流する中で、泡盛は独自の発展を遂げ、琉球の文化に深く根付いていったのです。
- 北ルート:朝鮮→日本→琉球
- 南ルート:中国→東南アジア→琉球(こちらが有力)
泡盛の昔の原料は何だった?

泡盛の歴史を語る際に欠かせないのが、原料の変遷です。14世紀頃に遡る泡盛のルーツですが、当時の琉球では米の栽培がまだ一般的ではなかったため、泡盛の原型となる蒸留酒は主に「粟」を原料として造られていたと考えられています。
現在の泡盛の原料は主にタイ米ですが、それが定着したのは昭和になってからです。それ以前は、沖縄産の米だけでなく、中国や東南アジア産の米も使用されていましたが、最終的にタイ米が泡盛造りに適していることが分かり、現在はタイ米が使用されています。
大正末期には、粟を混ぜた泡盛はほとんどなくなり、原料は米のみとなりました。

琉球王国時代の泡盛
琉球王国時代、泡盛は王府の重要な産業であり、その製造は厳しく管理されていました。特に、首里の赤田、鳥堀、崎山の三つの地域(首里三箇)は、王府から泡盛の製造を独占的に許可された特別な場所でした。
首里三箇では、王府の監督のもと、熟練した職人たちが泡盛を製造していました。原料の粟や米は王府から支給され、製造された泡盛は王族や貴族の間で消費されたほか、薩摩藩や江戸への献上品としても用いられました。
今の泡盛は安いからみんな飲んでいますが、昔は高価で貴重なものだったため庶民は飲めないお酒でした。
首里三箇で造られた泡盛は、その品質の高さから「首里の酒」として珍重され、琉球王国の文化を象徴する存在でした。現在でも、首里三箇の地域には泡盛の酒造所が点在し、その伝統を受け継いでいます。
泡盛の歴史 名前の由来

ここでは、泡盛という名前について歴史や由来を解説します。
- 泡盛と呼ばれる以前の呼び名
- 泡盛という名の登場
- 泡盛となった4つの説
- 泡盛の沖縄の方言での呼び方
泡盛と呼ばれる以前は
泡盛の歴史は、約600年前に遡ると言われていますが、「泡盛」という名称が文献に登場するのは1670年代以降のことです。
泡盛が「泡盛」と呼ばれるようになる以前、人々は一体何と呼んでいたのでしょうか。現在でも沖縄の方言では、酒のことを「サキ」と呼びます。この呼び方は、古くから変わらず受け継がれてきたと言われています。つまり、「泡盛」という言葉が定着する前は、「サキ」というのが一般的な呼称だったと考えられます。
また、古来、酒は神への供物として用いられ、古代日本語では酒を「くし」と呼んでいました。現在でも沖縄の方言では、神酒としての泡盛を「ぐし」や「うぐしい」と呼ぶことがあります。
この「くし」や「ぐし」という言葉は、「薬(くすり)」と語源を同じくし、薬効を持つものという意味合いがあったとされています。実際に、泡盛は古くから薬酒としても珍重されてきました。
沖縄県竹富島には、現在も「ぐし」という名の泡盛が販売されています。これは、泡盛がかつて「くし」や「ぐし」と呼ばれていた時代の名残を今に伝える貴重な例と言えるでしょう。
泡盛という名の登場
琉球王国時代、泡盛は江戸幕府への貴重な献上品でした。その献上品目録を紐解くと、「泡盛」という言葉がいつから使われるようになったのかがわかります。記録によると、1671年に初めて「泡盛酒」という言葉が登場しました。この出来事を境に、「泡盛」という呼称が広く定着していったと考えられています。
- 1634年:「焼酎」
- 1644年:「焼酒」
- 1649年:「焼酎」
- 1671年:「泡盛酒」←初めて泡盛という言葉が!
泡盛となった4つの説

「泡盛(あわもり)」という名前の由来には、4つの説があると言われています。
泡説(あわせつ)
泡説には二通りあり、泡盛の名前の由来では泡説が有力と言われています。
①「強い酒を注ぐ時に泡立つから泡盛」
昔は、アルコール度数を調べる時、40~50㎝の高さから酒を注ぎ、泡の立ち具合で度数の強弱を判断していました。強いお酒ほど泡立ったそうです。
②「蒸留の際、泡が盛り上がることから泡盛」
蒸留の際、垂れてくる酒が容器に落ちる時、泡がさかんに盛り上がるので泡盛となった。また、八重山地方では蒸留直後に出てくる度数の高い酒を「アームリ」や「アームル」と呼んでいました。
原料説
泡盛の語源には諸説ありますが、原料に「粟(あわ)」が使われていたことに由来するという説があります。
現在、泡盛の主な原料はタイ米ですが、かつては米と粟が併用されていました。タイ米が主流となったのは昭和時代以降であり、それ以前は粟も重要な原料だったことから、「粟盛り(あわもり)」が転じて「泡盛」になったと考えられています。
梵語(ぼんご)説
泡盛の名前の由来には諸説ありますが、古代インドのサンスクリット語に由来するという説もその一つです。サンスクリット語では、酒のことを「アワムリ」と呼ぶため、これが沖縄に伝わり、発音が変化して「アワモリ」になったというものです。
琉球王国は、東南アジア諸国との交易を通じて様々な文化や技術を取り入れていました。その過程で、インドの文化や言葉も伝わった可能性は十分に考えられます。
この説は、泡盛のルーツがアジア広域にわたることを示唆しており、その長い歴史と多様な文化の融合を物語っています。
薩摩説
泡盛の語源には諸説ありますが、薩摩藩が命名したとする説もその一つです。
当時、薩摩藩は琉球王国を支配下に置いており、泡盛を江戸幕府への献上品としていました。その際、薩摩藩は自国の焼酎と琉球の焼酎を区別する必要がありました。そこで、「琉球の焼酎」を意味する言葉として「泡盛」という名称が生まれたと考えられています。
泡盛の沖縄の方言での呼び方
泡盛の沖縄方言での呼び方は、「泡盛」という名称が定着する以前からの「サキ」が今も使われています。
また、島の産物を意味する「シマー」も泡盛を指す際に用いられ、泡盛が沖縄の風土と文化に深く根ざした酒であることを示しています。筆者の感覚では、「サキ」よりも、地元の人々は親しみを込めて「シマー」と言っている人が多かったです。
泡盛の歴史のまとめ
この記事のポイントをまとめます。
- 泡盛は14世紀頃に東南アジアから琉球王国へ伝わった
- 泡盛の伝来には、北ルートと南ルートがある
- 泡盛の昔の原料は米だけでなく粟も使用されていた
- 琉球王国時代には泡盛の製造は首里三箇と呼ばれる三つの地域に限定されていた
- 泡盛と呼ばれる以前は「サキ」と呼ばれていた
- 泡盛という呼び名になったのは4つの説がある
- 沖縄の方言では「サキ」や「シマー」と呼ばれている
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