日記 | Woo-Meow

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三島あい


こんにちは。

すっかりのんびりとさせてもらってました。

気候も安定してきたので、自律神経も安定してきたので、少し気が楽です。梅雨が怖いけれど。今日の雨も頭痛と少しダルさを感じています。




寛解を迎えているものの、うつと付き合い始めて4年。4年は長いよなぁ。お前は恋人か何かなのかと。家族以外だとカロリーメイトの次に私と付き合いが長いじゃないか。


少しずつ自分の感覚の修正が出来るようになりました。

柔軟性とはストレスに強いとはこういうことか、と思うことが増えました。

寛解に至ろうとも、自分が鬱になった原因と日々向かい合っています。

私は自責が強く、自我も強い為にこうやって向き合えて居ますが、普通なら他責にして逃れたい所だと思います。




自我と自己との違いはご存知でしょうか?



https://riceball.network/arila/2021/07/21/fumiki/12351/


ユング心理学においての自己

http://rinnsyou.com/archives/317#



こちらの方が分かりやすいかも。

こころラボさんによる自我と自己の違いの記事

https://cocololabo.com/blog1/childrens-growth-ziga-ziko/



私はとても自我が強いです。
その反面、自己がとても弱いです。

病気にならない人はこの自我と自己のバランスがとても良く取れています。

病気になっていても本人は気がついてなくて、でも周囲が問題だと思っているケースはあります。(それがパーソナリティ障害)


自我とは自分の持っている自分のイメージ、

自己とは対人関係における(対人関係で表出する)自分の事です。


私はよく優しいと言われます。おっとりしている、のんびりしている、とも。

私が私自身に対して「私は優しい」と感じる事はありません。いじわるもいたずらもしています。

でも、きっと優しいのだろうと思います。対人関係に於いては(だって、自分の優しさを自分が感じる事、体験できる事がないので)。

この「自己」を正しく認識できる様になるのに、20年以上はかかってますね。


たまに、自分は何かしらのパーソナリティ障害もあったのでは?と思うことがありますが、きっと周囲は問題とも思っていなかっただろうので、パーソナリティ障害ではないのでしょうね。自分がそう思う事があっても。



この、「自己」というものがとても難しく、厄介で。

自己には他人との関わりも含みますよね。

他人の視線も、他人の意見に囚われてしまう事も簡単に起こる。

私はこの「自己」の部分に偏りがありました。

対人関係においてこの部分は得意、不得意というものではなくて、自分への信頼感がない部分と他人の視線を気にしすぎる部分。

この2つが著しく低かった。

だから、自我と自己との間に乖離があって、その差を埋めなければ、という気持ちがあったのではないか?と思います。

きっとね、多くの人がこの自我と自己との間にギャップを感じてその差を埋めようと頑張ったのではないか、と思うのです。その結果が鬱だったり、無敵の人なのではないか?と思うのです。

個人的にそう感じているだけで、実際にはどうかわかりませんが…。



私は今、鬱を経た事で自分の中のキャパシティが少し広げられたのか、仕事を通してこの人はこういう人なんだな、と冷静に見られるようになりました。

鬱前の私は他人に許せない部分があると、なぜそうなるのか?と改善しないのか?と不思議で堪らなかったし、憤っていました。

(介護で私より経歴が長いのに下手な事が許せなかったんですよね。介護経歴が長いのだから自分のやる事一つで利用者もえらいことになると想像がつかないのか?とずっと思っていました。)

でもそれは違うんですよね。

その場の状況が悪いときもあれば(会社が改善する気がないとか出来ないとか)、私以上の人も以下の人も居るという現実が普通にあるというだけ。

私はその事がどうしても特養に居たあの一年ちょっとの間、許せなかった。

他人は他人であっていいのに、他人にしておくべきなのに、自分の事の様に考えてしまった。


まぁ、元々あの特養には問題しかありませんでしたけどね。

どこか、自分なら変えられると信じていたのでしょうね。

他人はその人の中に変わろうとする意思がなければ変わらないのに。

背負いすぎたのでしょうね。


今はね、そんなこと(そんな事と言えるようになりました)を気にしなくても良いので、大分違います。

ある意味ね、若かったと言えばそれまでですが、若かったという言葉の責任にしてよいのか悩みます。

まぁでも、何でもかんでも老成して熟している人間がいればそれはもう人間ではないので、私が人間であったという証拠なのでしょうね。

きっと私は死ぬまで私という人間はわかりません。一生、自己に悩みと葛藤と疑問と…と抱くと思います。

でもそれが、今の時代ではきっと普通の事だと思うのです。

それがきっと自己の時代という事だと思うので。


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