【福岡県飯塚市】いいづか雛(ひいな)のまつり 3月22日まで!旧伊藤伝右衛門邸 おすすめ5選

いいづか雛(ひいな)のまつりとは

旧長崎街道の宿場町として明治時代以降、炭鉱で栄えた飯塚市では、市内広域で趣向を凝らした雛人形が展示されます。イベントが各地で行われ、飯塚市を代表する観光イベントとして県内外からも多く観光客が訪れています。

今回で24回目だそうです。

2024年の開催期間は2024年2月3日~3月22日まで。

今回はメイン会場である旧伊藤伝右衛門邸に行ってきました。

2024年の旧伊藤伝右衛門邸のテーマは「優美に光る平安物語

本座敷では、紫式部の描いた源氏物語をモチーフに、平安時代の世界観を約1,000体の人形で表現されています。

本座敷の座敷雛だけではなく、邸内25の部屋ほぼ全てに雛人形や雛道具を展示しているとのこと。

イベント期間中は無休で開館しているそうです。

【入館料】

大人    310円

小中学生  100円

駐車場は無料でした。

その他 いいづか雛のまつりについてはこちら↓

お問い合わせ先:飯塚市役所商工観光課 TEL 0948-22-5517(平日8:30~17:15まで)

とても大きな門をくぐると、正面に玄関、右手から奥に入ると広々とした庭園があります。庭園に加えこの建築も国指定重要文化財となっています。

福岡県飯塚市は筑豊炭鉱の中心地でした。飯塚は旧長崎街道の宿場町でもあり、その街道沿いに「筑豊の炭坑王」と呼ばれた伊藤伝右衛門の邸宅の門が建っています。この門は福岡市天神にあった伊藤家の別邸(通称銅御殿)にあったものを移築した長屋門で、表札の「旧伊藤伝右衛門邸」は飯塚出身の元内閣総理大臣 麻生太郎の揮毫(きごう)です。

(※揮毫・・・筆をふるって字や絵をかくこと。)

伊藤伝右衛門とはどんな人物だったのでしょうか。

伊藤伝右衛門は、若いころは魚の行商や船頭など職を転々とし、きわめて貧しい生活を続けますが、やがて父と手掛けた炭鉱事業が時流に乗り、のちに“筑豊の炭鉱王”と呼ばれるまでになります。
順風満帆と思えた伝右衛門でしたが、明治43年に長年苦楽を共にした妻 ハルが45歳で病に倒れ、他界してしまいます。
その後、この本邸が舞台となる運命の女性、歌人・柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん)と再婚する事になるのです。
柳原白蓮の本名を燁子(あきこ)といい、燁子は大正天皇の従妹にあたります。
当時の柳原家は資金難に陥っており、燁子(あきこ)は兄の柳原義光が貴族議員に出馬するための資金が必要だった為、炭鉱王の莫大な資金と、燁子を引き換えとした政略結婚として当時騒ぎ立てられました。

登場人物をご説明させて頂きまして、いざ入場です。

土足厳禁でして、昔の御建物なので足元が非常に冷えます。あたたかくして来場がおすすめです。

靴は持っていくスタイルで、ビニール袋を無料でいただけます。

旧伊藤伝右衛門邸 応接間

旧伊藤伝右衛門邸は、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門と、歌人柳原白蓮が過ごした邸宅です。
アールヌーヴォー調のマントルピース(暖炉のこと)、イギリス製のひし形のステンドグラスのある応接間、一畳たたみを敷き詰めた長い廊下等様々な芸術的技法を取り入れ、伊藤伝右衛門が妻 白蓮の為にと改築を続けた歴史的建造物です。

朝ドラ『花子とアン』で一躍有名になった伊藤伝右衛門。

私は朝ドラ見たことないのですが、あらゆるところに『花子とアン』の宣伝があったもので。後から調べて知りました。

この雰囲気、オシャレでめちゃくちゃ好きです。

廊下一式に並べられたつるし雛と和人形

こんなかんじです。昼間でも明かりが少ないのでちょっと怖いです。でも可愛らしい。

こたつでくつろいでいます。正月感がありますね。

こたつの上に貝殻がちりばめられていますが、これは『貝合わせ』といって、左右一体の貝殻の内側に同じ絵を描き、装飾したもの。裏返しにした貝殻のペアを選ぶようにして遊んだものです。(トランプの神経衰弱と一緒ですね) 

平安時代から伝わる貴族の遊びです。

かるたかな?百人一首ですかね?小さくて見えないですが楽しそう。

目が赤く綺麗だったので写真に収めました。日本人形だけではなく、あらゆる種類のお人形で囲まれています。

二階座敷 白蓮居間

伝右衛門は白蓮を迎え入れる為、旧伊藤伝右衛門邸の改築を行います。
敷地面積約2300坪という敷地に、部屋数25という広大な家屋を設けるのです。
しかも、その内部は京都からわざわざ宮大工を呼んで技を尽くさせたという、細やかな美の技法に満ちています。

長押(なげし)に施された精巧な木彫、落ち着いた雰囲気の聚楽壁(じゅらくかべ)、帯地をほどいて埋め込んだ壁に竹を組んで作られた網代(あじろ)天井等…まさに贅を尽くした豪邸です。

特に二階の白蓮の居室には、竹の節だけを残した欄間(らんま)や銀箔を張った襖など驚くような技法を使い、白蓮好みに仕上げています。
また、天井に結界を設け、平民はこれを境に立ち入り禁止にするなど、伝右衛門は白蓮に精一杯気を遣っていました。

階段が急なんで気を付けてください。昔のおばあちゃんの家を思い出します。

こちらが二階です。天井に結界を設けているとな…。どういうことだ。

ちなみに右側には着物がかけられておりました。白蓮の着物かな。

これ、よーーーーーーーく見てください。『伊藤』って書いてる。後ろのお客さんが発見していて、便乗して撮りました。よく気が付きましたね。

二階から一望できる庭園。いいですね~。

本座敷には約1,000体のひな人形が!

下に降りまして、本屋敷です。

約1,000体のひな人形がどーんとお出迎えです。すごいすごいごいごいすー!!(語彙力のなさ)

みんな舟とか乗っています。スケール大きい。見ていて楽しいです。

全体像。きらびやかですね。

手前のホットカーペットに皆さん救われていました。(足が寒いんです…)

広々とした庭園を一周

お庭の紹介の前に、伊藤伝右衛門夫妻の話の続き。

ここまだと伊藤伝右衛門夫婦ともにハッピーに思えますが、伝右衛門は昔から続く女遊びが収まらず、さらに伝右衛門と白蓮は25歳という年の差もあり、二人の心には結ばれることのない溝が生まれていきます。
それでも伝右衛門は愛する白蓮のために、何冊も歌集を出版し、白蓮も病に倒れた伝右衛門の看病もしたといわれております。
そんな日々が続く中、白蓮35歳のときに、7歳年下であった雑誌「解放」の記者・宮崎龍介と恋に落ちてしまいます。
勉学に勤しむ暇もなく炭坑一筋で続けてきた無学の伝右衛門と比べ、東大出のインテリで年下の龍介に白蓮は心惹かれます。
当時であれば姦通罪。この罪の意識がさらに二人の恋を燃え上がらせる事になります。駆け落ちってやつです。

意を決した白蓮は新聞社を通して伝右衛門に「公開絶縁状」を叩きつけます。
「筑紫の女王」と呼ばれた歌人白蓮が炭鉱王伝右衛門を捨て、7歳年下の愛人との駆け落ちした出来事に世の中は騒然となりました。

その後、白蓮は伊藤のもとに戻ることなく、結婚して10年すれ違い続けた二人の恋物語も終わりをむかえる事となりました。

先程のお雛様が飾られていた旧伊藤伝右衛門邸を外から見るとこんな感じです。

お庭トコトコ。愛娘かわいいです。私も自然に触れられて嬉しい。

旧伊藤伝右衛門邸広いですね。25部屋もあればそりゃあ広い。

二階の白蓮のお部屋を外から。

池もあります。橋もあります。

謎の石。ところどころ立っている…。

橋は渡れないみたいです。残念そうな娘。笑

伊藤伝右衛門の死後、この屋敷は一度売却され、数年前には取り壊しなどの方針も検討されておりました。
しかし、文化遺産として存続を求める飯塚市民の署名運動などによって飯塚市に譲渡が決まり、1年余りの補修を経て、現在一般公開にてその建築美と二人の恋物語をご覧頂き、ご来場頂く多くの皆様に感動を与え続けているそうです。

おしまい。

おまけ

【和田や:わだや】

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この記事を書いた人

とにかくパワースポットが大好きです。このサイトを見て皆さんの運気が上がるように願っています。
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