根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その② 観想から称名へ(下) 称名の地位向上と、その流行

 称名はこの時点ではまだ、観想ができない人が浄土に往きやすくするための、次善の手段に過ぎない。しかしこの考え方が変わる契機となった書が院政期に出現する。その書の名を「観心略要集」という。

 さて、そもそも天台宗の根本教義は「空・仮・中」の三つの真理で表わすことができる。この世の事物はすべて実体ではないとする「空諦」、すべて縁起によって生じた現象であるとする「仮諦」、すべては空・仮を超えた絶対的真実であるとする「中諦」、これらを総称して「三諦」と呼ぶ。そしてこの「空・仮・中」であるが、これはそれぞれ「阿・弥・陀」の三字に相当するのだ、旨を記したのがこの「観心略要集」なのである。

 「阿・弥・陀」=「空・仮・中」であるということはつまり、称名念仏は「天台の三諦の真理を含む」行為であると考えられることになる。「阿弥陀仏」の称名を唱える行為自体に、意味が生じてくることになるのだ。こうして称名を唱える行為は、大いなる功徳を持つ念仏となった。

 このように「阿弥陀仏」の名号を観想に結びつける理論を、「阿弥陀三諦説」と呼ぶ。(末木文美士氏による。)以降、叡山において「観想」と「称名」は「同等の価値を持つもの」として遇されていくようになるのである。

 このように叡山内において、称名念仏の理論上の地位向上が進んでいったわけだが、民間においては称名念仏はどのように受け止められていたのだろうか?称名念仏というスタイルを民間に流布させた代表的な僧として、「市聖(いちのひじり)」とも呼ばれる、空也がいる。

 空也は前記事で紹介した、源信とほぼ同時期の平安中期に活躍した人である。肩から下げた金鼓で拍子をとりつつ「南無阿弥陀仏」の名号を唱え、各地を回って勧進を募った。井戸を掘り、道を切り開き、橋を架けるなど、各種基盤インフラを造るプロジェクトを幾つも立ち上げ、人々のための社会事業に邁進したのである。その法会では、集まった人々に念仏を唱えさせていた、とある。

 

Wikiより転載、六波羅蜜寺蔵「空也上人像」。口から出ているのは、針金で繋げた小さな6体の仏像で、これで「南無阿弥陀仏」を表現しているのだ。素晴らしい!重要文化財だが、個人的には国宝にしてもよいのではないかと思っている。彼は叡山で受戒しているが、思想面では南都仏教の影響が強いと見られている。そういえば社会事業を行うのは、南都仏教(特に法相宗の僧)の昔からの伝統なである。いずれにせよ彼は宗派に捉われることなく、それを超越したスタンスで活動していた。なお像にもあるが、彼は肩から下げた金鼓で拍子をとりつつ、念仏を唱えていた。このことから彼の称名は、非常にリズミカルなものであったことが分かる。後年、一遍がこれをさらに進化させた「踊り念仏」を完成させるわけだが、その源流は空也にあるといえる。実際、『一遍聖絵』四には「そもそもをどり念仏は、空也上人あるいは市聖、或は四条の辻にて始行し給けり」と、あるくらいなのだ。ただ空也のそれは、あくまでもリズミカルな念仏に過ぎず、一遍が編み出した芸域にまでは達していなかったのだが。しかし彼こそが、踊り念仏の先達と考えられている。

 

 空也はどのような意図で、念仏を唱えさせていたのであろうか。当然、浄土思想に基づいた「極楽へ導くための次善の手段」としての称名念仏を指導していた、と思われるのだが、民衆の受け止め方とは若干乖離があったようである。

 当時の仏教は、おしなべて密教的要素を土台としている。台密東密の両者は勿論のこと、南都仏教でさえその影響を大きく受けている。そして密教は現世利益を求める方向性の教えであったから、「加持祈祷」という行為を生み出した。その大なるものが朝廷が主導して行う「国家鎮守」で、疫病の流行を鎮めるものや、地震などの天災に見舞われないようにするものなどがある。その最も大規模なものは、博多に蒙古が襲来した際に行われたもので、国を挙げての大規模な調伏が行われている。

 一方、ここまでスケールの大きなものではなく「個人的な欲望を満たす」加持祈祷もあった。これがまた色々あって、出世を願うためのもの、政敵を調伏するためのもの、人を呪い殺すものなど、様々な加持祈祷があった。そして最も多用されたのが医療のためのものである。

 当時の人が病気になったときの、正しい手順はこうである――まず陰陽師を呼ぶ。占いによってその原因を探る。その結果「原因がモノノケである」判断される場合がある。ここでいうモノノケとは「正体が定かでない気配」のことである。その多くは死霊や生霊だったりするのだが、その場合には僧侶による加持祈祷の出番なのである。

 モノノケを調伏するための「不動法」や、モノノケを他人に憑依させ追い出す「憑祈祷」など、様々な祈祷のバリエーションが生まれている。こうした行為こそが、当時の一般的な医療行為だったわけだ。なお験者(げんざ)と呼ばれる、こうした僧たちの中で一番人気は、園城寺の僧らであったらしい。こうした方面に力を入れて営業していたのだろう。

 こうした加持祈祷の文化は、民間にも浸透していた。そして称名念仏において「阿弥陀仏の名を唱える」行為は、「阿弥陀仏の絶大な力を働かせることができる、ありがたいおまじない」という風に受け止められたようだ。当時の一般民衆にとって、称名念仏は呪術的行為、つまり加持祈祷の延長線上として受け止められていた面が強いのである。入り口はどうあれ、こうした動きによって民衆に称名念仏が広がっていくのだ。

 平安後期になると、民衆の間にもようやく浄土思想が浸透してくる。この時期、呪術としてではなく本当の意味で民間に称名を浸透させた人物として、良忍という天台僧の名が挙げられる。彼は「融通念仏」という名の運動を創始した。これは「1人が唱える念仏も、皆で一緒に唱えると、その人数分だけ唱えたことになる」というものだ。

 称名念仏は、唱えれば唱えるほど功徳があると考えられていた。回数が多ければ多いほどいいのであるが、1人が唱えられる称名には物理的な限界がある。しかしこの考え方によると「一緒に100人で称名を1回唱えると、それに参加した人それぞれが、100回唱えたと同じ功徳が『融通される』」という、便利なシステムなのである。つまりこの会に参加する人数は、多ければ多いほどいい、ということになる。そんなわけで、この運動は大変な盛り上りを見せたのであった。

 このように聖(ひじり)と称される、全国を行脚した彼らのような僧によって、民間に称名念仏が浸透していくのであった。(続く)

 

Wikiより転載、京都中京区にある神泉苑空海がここで加持祈祷を行い、雨を降らせたという。以降、東寺管轄となり雨乞いの為の道場となった。雨乞いは典型的な「五穀豊穣のための加持祈祷」であるが、こうした種類の加持祈祷は、後世には村々で行う祭事へと転化していった。かつて農村において行われていた、害虫を駆除する「虫送り」などがそれである。

 


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なおこの神泉苑においては、融通念仏の中興者・円覚上人による教えを無言劇とした「大念仏狂言」という芸能が今も行われている。なぜ無言劇なのかというと、昔は演者は能面の下で念仏を唱えながら演じていたから、という説があるのだ。融通念仏の教えを広めるために始められた芸能であるから、演者も観る方も念仏を唱えながらこれを行うわけである。なお神泉苑における「大念仏狂言」の歴史は比較的新しく、明治になって始められたものである。維新後、壬生寺において行われていたものが続けられなくなり、それを迎え入れる形で神泉苑にて行われるようになったのだ。壬生寺における本家の「大念仏狂言」は戦後に復活を遂げる。祭りや文化などの伝統は1回途絶してしまうと復活させることが難しいものなのだが、幸い神泉苑において途切れることなく続けられていたから、復活させることができたのだ。なので演者の殆どが、壬生寺神泉苑の両方を掛け持ちする、とのことである。

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

 このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉新仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただければ・・・

 さて鎌倉新仏教は、既存の仏教に対するアンチテーゼとして生まれた宗派である。平安末期よりまず武士が、遅れて庶民らが台頭してくるわけだが、既存の寺社勢力は広大な荘園を抱え、皇族や有力貴族らの子弟が座主に就任する貴族仏教であったため、必然的にその教えも体制を補強するものとして利用されていた。新興勢力であった、彼ら武士や庶民らを対象とするものではなかったのである。

 そこでこうした新興勢力のニーズを満たすために、「大衆を救う」新しい教えである鎌倉新仏教が生まれた、というのが史学界における定説である。

 日本におけるこうした動きを、西欧でいうところのカソリックプロテスタント宗教改革と、同じ構図として比することもできる。確かに「神の意思」と「人の自由意志」をどう捉えるか?という点など、教義上においては幾つかの共通点が見られる。(これに関しては別の記事で取り上げる。)特に戦後はそういう見解が強かった。だが、そもそも西欧の宗教改革は中世の終わりに発生し、時代を近世へ導く要因のひとつとなった運動である。

 一方、日本の鎌倉新仏教の発生は中世初頭である。時代的にはズレているのである。それでも昔は西欧と同じように「古代という時代を終わらせた、宗教改革」として受け止める向きが多かったのである。

 つまり中世に入り、古代においては体制側であった既存の旧仏教勢力は勢いを失い、代わりに新興勢力である鎌倉新仏教がメインストリームの宗教となった、と捉える考え方である。しかし本当にそうであろうか?これ以降、鎌倉新仏教が爆発的に流行したと思われがちであったが、実情を見るとそこまでではないのである。

 少なくとも中世初期における鎌倉新仏教は、あくまでも異端扱いされており、主流ではなかった。南都や叡山・高野山などの旧仏教は、権門寺院として引き続き強力な勢力を保ち、体制側としての役割を長く果たし続けたのである。1975年に黒田俊雄氏が唱えたこの「顕密体制論」は、大枠として今も広く支持を集めている。(この論をさらに拡大発展させたものとして「権門体制論」があるが、このシリーズではそこまで立ち入らない。)

 本当の意味で、鎌倉新仏教が「庶民の仏教」として大きな力を持つのは、室町後期を待たなければいけない。とはいえ平安末期に鎌倉新仏教という、新しい教えの萌芽が見られたのは間違いないのである。

 さて当たり前だが、鎌倉新仏教は突然に出現したものではない。社会構造の変化にリンクする形で、古くから続く教えが変遷した末に辿り着いたものであるわけだ。これについては深遠な思想体系を対象にした、先達による壮大な研究史がある。ブログ主の知識と力量では、それら全てを消化し紹介することは不可能であるのだが、迷える凡夫なりに理解したことを、自分の言葉で分かりやすく紹介してみたいと思う。

 鎌倉新仏教の教義が生まれるに至るまで、重要なピースは3つある、というのがブログ主の個人的見解である。まずは教義の基本である「浄土思想」、それにリンクする形で発展した「称名念仏」、そして「本覚思想」である。

 「浄土思想」と「称名念仏」は互いに密接に絡み合っており、ひとつのものとして取り上げたほうがいいかもしれない。またこの2つは既に過去の記事でも解説しているが、情報を追加捕捉する形でもう一度解説してみようと思う。

 奈良~平安初期までの「念仏」には、「称名」と「観想」の2種類があった。称名は現代の我々が想像する「南無阿弥陀仏」とか「何妙法蓮華経」とか色々あるが、いわゆる口に出して唱える念仏である。一方、観想というのは口で唱えず、頭の中だけで仏を念ずる行為である。古代においては、この観想念仏こそが主流であったのだ。

 日本に浄土思想と共に称名念仏を紹介したのは、天台の僧・円仁であることも過去に触れた。円仁は唐の五台山で行われていた「五会(ごえ)念仏」の儀式を日本に導入したのである。これは「浄土への往生」を目的とする儀式なのだが、独特の節回しで称名念仏するというもので、非常に音楽性が高かった。以降、叡山においては「不断念仏」という名で年中行事として行われることになる。こうして浄土思想の流行と共に、称名念仏が広がっていく。10世紀頃には、叡山において称名念仏はかなりポピュラーなものになっていったようだ。

 しかし、そもそも念仏する目的とは何であろうか?浄土思想は、死後に浄土に往くことを目的とする教えである。死後、安らかに浄土に往く為には、臨終の際に観想念仏する、つまり浄土をイメージしつつ往くのが重要なのである。しかし死の寸前に心穏やかな境地に至るのは難しい。病による痛みで意識が朦朧とし、そうした観想ができない人もいるだろう。そこで心をそうした状態に導くために、称名念仏するのである。

 なおこの考え方によると、意識がはっきりしたうちに往生するのがいい、ということになる。極端な話、後世には「自害往生」する者が現れるようになるのだ。往生を確実にするために、老いて健康が悪化する前に自害してしまうのである。鎌倉期の御家人・津戸三郎為守が有名で、彼は齢80にして見事切腹して往生を遂げたのであった。

 また同じく鎌倉期の「沙石集」という仏教説話には、入水して往生を遂げんとする僧の話が載っている。彼は念仏を唱えながら湖に飛び込むのだが、脇に縄を抱えているのだ。これはなぜかというと、入水したはいいが命が惜しくなり生への執着が沸くと、往生が失敗してしまうので、もしそういう気持ちが起きたらやり直すために縄を持つのである。

 案の定、水の中から綱が引かれたので、僧は引き上げられた。本人曰く「苦しくなって妄念が沸いてしまった。これでは往生できないと思ったので、今回はやめた。」そこで数日して再チャレンジしたが、やはり失敗してしまうのだ。こういうことが何回か続いたので、いい加減縄を持つ人も「またかよ」と思っていたそうな。ところが何度目かのチャレンジの際、あれ?一向に綱が引かれないではないか。上がってこないぞ。もしや・・・そう!無事に成功したのだ。途端に空に音楽が聞こえ、水面に紫雲がたなびいたので、人々は涙を流して喜んだ、とある――まるで落語のような話だが、美談のつもりで書いているのである。

 話がそれてしまった――称名念仏に話を戻すと、つまりこの時点では称名はあくまでも観想に導く手段としての使われ方なのである。浄土思想の教学を発展させたのは横川の僧・源信であるが、彼は「往生要集」という「臨終の際に、どうすれば浄土へ逝けるか」という具体的なテキストを著している。その基本論調は「観想ができない人は、仕方がないので称名すべし」というものであった。(続く)

 

補陀洛寺所蔵「那智参詣曼陀羅」の一部を拡大したもの。補陀落渡海とは、西方にある浄土を目指し、二度と帰らぬ渡海に挑む行為である。僧が船に乗り込むと、屋形の外から釘を打ち付けた後、四方に鳥居を組み、間には卒塔婆を以て忌垣を設けられた。また沈みやすくするように穴を開けることもあったという。つまり本気で物理的に浄土に往ける、と思っていたわけではなく、これも一種の「自害往生」だといえる。確認できるだけで56件の補陀落渡海が行われているが、記録から漏れたケースもあると思われるから、実数はもっと多いだろう。画像にある、先頭を走る船が補陀落船である。この曼陀羅図の所蔵先である補陀落山寺の住持は、死期に臨むと舟に乗り「補陀落渡り」するのが通例であったという。ところが16世紀末ごろ、補陀落山の住職だった金光坊という僧は、生きながら入水するのを拒んだのである。そこで役人は金光坊を無理やり「補陀落渡り」させ、海中に沈めたと伝わっている。「流石にそれはちょっと・・」という声があったのだろう、以降、存命のまま入水することは行われなくなり、住職が死亡した後に儀式を行う、いわば水葬のような形に落ち着いたという。それでも自ら志願して補陀落渡海する者はいたのである。最古の事例は紀伊国の熊野において868年11月3日に行われたもので、慶龍上人が渡海している。驚くべきことに明治になっても行われている。1909年に高知県足摺岬金剛福寺の天俊上人が行ったものがそれで、これが最後の補陀落渡海となった。さらに驚くべきことに、補陀落渡海を行ったが、生きて琉球までたどり着いた例が、複数(!)あったことが分かっている。うちひとりは日秀という僧で、彼は1520~40年までのどこかで、熊野那智から補陀落船に乗って琉球に漂着した。彼は那覇で廃れていた護国寺を再興したのち薩摩に渡り、幾つかの寺を開基し、そこで一生を終えている。

 

上記の金光坊を主人公とした作品を含む、短編集。「補陀落寺の住持は、補陀落渡海をするもの――」。周囲からの、そんな強烈な同調圧力にさらされる金光坊の、死に向かう恐怖と葛藤を描いた作品。同じ境遇になったとき、自分なら何を考え、どう行動するだろうか。

 

こちらはうって変わって、「補陀落渡海」を伝奇ホラーものとして取り上げた作品を収録した短編漫画集。妖怪ハンターというシリーズものであるが、すべて独立した話なので単体でも楽しめる。作中にある「帰還」がそれである。江戸時代に補陀落渡海に挑んだ僧が、出航直前に一目美しい少女を見てしまう。その妄執故に成仏できず、僧の乗った補陀落船は今も海を彷徨うのだ。怪奇現象を目にした僧が、最後に呟く一言が何とも効いている。

 

根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

 前記事で紹介したように、紀州根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との間で派閥争いが表面化してくるのだ。

 客僧はあくまでもゲストであって、根来寺においては重要な職に就くことはできなかった。いずれは地元に帰っていく者たちが多く、その数も少なかったから、当初はそれでもよかったのだ。だが時代が下るにつれ、客僧の数が増大してくる。日本全国から集まってきた客僧には、また極めて優秀な者たちが多かったのだ。

 根来の座主は、京にいる院家出身の僧・醍醐寺三法院門跡が就くことが続いており、彼らはめったに紀州まで足を延ばすことはしなかった。そこで根来における学侶僧の実質的なリーダーは、学問面でのトップということになる。かつて頼瑜が務めていた「学頭」という役職がそれである。しかしいつの頃か、客僧方と常住僧方でそれぞれが学頭を擁立するようになっていた。これは客僧方の力が、以前より徐々に勢力を強めてきたことを意味する。

 そして1400年代後半からは、学頭より更に上の、「能化」という役職が成立するようになるのだ。

 この初代能化の座に就いたのは、信州・諏訪の出身である道瑜である。彼は客僧方であったにも関わらず、学問面で極めて優れていたため、常住方の寺院である十輪院の住持に抜擢され、先達30人をゴボウ抜きして学頭の座に就いた天才である。その功を讃え、彼を「能化」と呼び始めたのが始まりで、以降、根来においては学問面でのトップを「能化」と呼ぶようになったのである。

 そしてこの「能化」職を巡って、客僧と常住僧が争うようになるのだ。初代能化の道瑜であるが、元は客僧であったにも関わらず、常住僧に鞍替えした裏切り者ということで、どうも客僧方からは評判がよろしくなかったようだ。そこでこの時は、客僧方でも新たに能化を出すことにしたようである。

 この時の「二人能化」の時代は、そう長くは続かなかったようだ。だがこの後しばらくたってからのことになるが、常住僧に妙音院玄誉という男が能化職に就いた際には、客僧方はこれに対抗して頼空という人物を擁立したと伝わっている。この時は実際に、山内において乱闘に近い小競り合いが見られたようだ。幾ばくかの血が流れた後で、今後はこうした争いを避けるため、能化職は「客僧方・常住僧方で交代して務める」ことが制度化されたようである。

 ところがよりによって、1584年に常住僧方の能化であった妙音院頼玄は、同じ常住僧方である妙音院専誉に能化職を譲ってしまったのである。これに対抗して、客僧方からは智積院玄宥を能化としたことで、再び「二人能化」が出現する事態となったのである。

 これにより山内を二分する紛争に発展し、山内の仏事も絶えるほどであった、と伝わっている。それにしてもタイミングが最悪であった。1584年といえば、秀吉vs家康の「小牧の役」が発生した年であり、根来行人方が秀吉に向かって正式に戦いを挑んだ年であったのだ。

 

「小牧の役」に始まる、行人方子院の大阪侵攻については、こちらの記事を参照。秀吉の中央集権構想においては、中世・根来寺のような存在は、決して相入れないものであった。

 

 詳しくは上記の記事に始まるシリーズを読んでいただきたいのだが、翌1585年には秀吉の紀州侵攻が始まる。これに抗しきれず、根来寺の伽藍の殆どは炎上、中世根来寺は滅亡してしまうのである。これは構造的なもので、避けようのない道だったのかもしれない。

 しかし開戦前にその殆どが主戦派であった、行人方を止めることができたのは学侶僧方だけだったはずで、その行く末を決定する肝心なときに、学侶僧らの間で深刻な派閥争いが起こっていたことは、根来寺にとってプラスになることではなかったのである。

 10年ほど根来山内に住み、兵火直前に高野山に難を逃れた、日誉という僧がいる。彼は半世紀ほど後の1636年に「根来破滅因縁」という書を著すのだが、「根来寺の破滅の因は寺自体にあった」と記している。

 彼によると、一つの因は学侶僧の能化職をめぐる対立で、もう一つの因は行人僧の武力による悪行が度重なって生じた、とある。この二つが因となって、院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招いたのだ、と明記しているのだ。

 

根来寺最後の「二人能化」のうち、客僧方・智積院の住職であった玄宥僧正。根来滅亡の難を高野に逃れ、豊臣秀吉が亡くなった1598年に、京都東山にて智積院を再興させた。以降、こちらを「新義真言宗・智山派」と呼ぶ。なお第3代目の智積院能化には、先に紹介した「根来破滅因縁」を著した日誉が就任している。豊島区にある大正大学は、四宗五派の宗派が集った仏教集合大学であるが、最も古い源流がこの智積院ということになっている。

 

「二人能化」のうち、常住僧方の能化であったのは、妙音院の住持・専誉僧正である。彼もまた兵火を逃れ、のち秀長に招かれ大和・長谷寺の住持となった。こちらを「新義真言宗豊山派」と呼ぶ。江戸期に入って、紀州根来寺豊山派の寺として再興を許されるようになるのだ。なお明治に入り、仏教各宗派は政府の指導の下、統合・再編成が成されることになる。根来の地は新義真言宗の根本道場とされ、智山派と豊山派が交代で大伝法院の座主を勤めるようになるのだ。第二次大戦後、宗教法人法の改正により、根来寺を総本山とする新義真言宗が創設され、現在に至っている。

 

 中世が終わり、近世となる。覚鑁の興した根来寺新義真言宗は上記の通り、2つの流れとなり再興するわけだが、両寺の再興した姿は中世以来の権門寺院としてではなく、幕藩体制の枠の中で発展していくという、近世以降の宗教権門としての姿であった。

 ――以上が、根来寺新義真言宗に関する概略となる。教義に関することでは深いところにまで踏み込めておらず、また個人的な推測も一部含まれているので、プロの方々から見ればとんでもないことを書いているな、と思われる個所もあるかもしれない。致命的な事実誤認があれば、お手数だがコメント欄でご教示いただければ幸甚である。(終わり)

 

このシリーズの主な参考文献

・日本仏教史 思想史としてのアプローチ/末木文美士 著/新潮文庫

・浄土思想/岩田文昭 著/中公新書

・ビジュアル仏教の世界 浄土の世界/世界文化社

・鎌倉仏教/平岡聡 著/角川選書

浄土真宗とは何か/小川聡子 著/中公新書

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

・中世都市根来寺紀州惣国/海津一朗 編/同成社 中世史選書13

・久遠の祈り 紀州国神々の考古学②/菅原正明 著/清文堂

根来寺文化研究所紀要 第一号~第六号/根来寺文化研

根来寺を解く/中川委紀子 著/朝日選書

・歴史の中の根来寺 教学継承と聖俗連鎖の場/山岸常人 編/勉誠出版

・その他、各種学術論文を多数、参考にした。

 

 

根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

 覚鑁派の本流であった大伝法院が高野山から退去し、根来の地に合流したことによって、ようやく本格的な根来寺の興隆がはじまった。軌を一にして、大伝法院伽藍群の建設が本格的にスタートする。金堂大伝法院・鐘楼堂・大塔・阿弥陀仏堂・不動堂など全ての堂塔群の完成を見るのは、それから実に300年後のことになるのだが。

 根来がここまで大きくなれたのは、何といっても先の記事で紹介した、頼瑜の功績が大きい。彼によって構築されたテキスト群が全国に広がったことにより、地方の真言学侶僧が最先端の根来教学を学びに、来山するようになったのだ。このテキストは特に東国において普及したようで、多くの僧が関東以北から訪れている。

 最新の密教を学ぶなら、紀州へ行け――根来寺は高偏差値で人気のある、密教単科大学の様相を呈するのである。特に真言の理論面・教相の分野においては本家の高野と人気を二分する勢いであった。この地を「根来寺」と号するようになったのも、この頃からである。(なお西国や四国の僧で教相を学ぶ者は、高野山に行くものが多かったようだ。また儀式の所作である事相に関しては、仁和寺醍醐寺が2トップの権威で、事相を学ぶものは両寺に行くのがトレンドであった。)

 時を同じくして、根来寺では行人方子院の数も増えてくる。そもそも多くの荘園を抱えていた大伝法院だが、その管理・維持には多くの人出を必要とした。そうした管理業務は、下級僧であるいわゆる行人層が担うことになっていた。

 覚鑁高野山上で大伝法院を立ち上げてすぐ後、1134年の記録には、大伝法院には201人の僧が属していたとある。大別すると、このうち学僧は覚鑁その人も含めて133人で、実務を担う夏衆・久住者・預・承仕・大炊・花摘などと呼ばれる下級僧が68人いる。構成員の30%以上が行人僧なのである。この中では特に夏衆と呼ばれる行人僧が多く、これだけで50人を数える。管理の実務を担っていたのは、主に彼らであろう。

 大伝法院の紀州・根来への移転が完了したのが1400年代、既に時代は中世後期に入っている。この頃より、根来寺では行人方の力が強くなってくる。1427年2月、桟敷に関する扱いを巡って、学侶僧である寺務方と行人方が対立する事件が起きている。これは要するに行人方の待遇を巡る問題で、こうしたトラブルが発生すること自体が、行人方の社会的地位が向上している証拠なのだ。結束した行人方は、寺務方の代官である聖天院景範法印の罷免を求め、坊舎を破却し(一部火災も発生したようだ)一斉に離山するというストライキを行ったのである。

 当時の大伝法院の座主は「黒衣の宰相」の異名を持つ、三宝満済である。足利幕府を影で支える懐刀であり、当時最高の実力者でもある。満済は、行人方のこうした動きを許さず、守護の畠山満家に行人らを還住させるため「成敗」を命じたのであった。「やつらの首根っこを掴んで、強引に連れ戻せ」というわけである。ところが各地に散在してしまった行人らを持ち場に戻すのは、守護方にとっても相当な難事であったらしい。弱気になった満家は「ここはやはり、形だけでも代官を交代させないことには・・」と満済に対して打開策を提案する。

 満済はしぶしぶこれを了承する。これを受けて行人方は続々と山に戻ってくる。行人方の勝利でストライキは終わったのである。しかし満済は景範を代官から罷免するにはしたのだが、代わりに「中性院・五坊」に補任したのである。景範は代官ではなくなったが、引き続き根来寺にあって強い影響力を維持したのであった。

 こうした動きに行人方は納得しておらず、不満は燻っていた。彼らにしてみれば、騙されたという思いがあったのだろう。何がきっかけだったのかは分からないが、この4年後の31年正月、行人方は景範の坊舎を襲ったのである。景範は殺されはしなかったようだが、結局、山内から追い落とされてしまったようだ。

 

Wikiより転載、「三宝満済肖像画権大納言・今小路基冬の実子である。足利義満に可愛がられ、醍醐寺第74代座主となり、最終的には大僧正に任命された。ただのボンボンではなく、相当な修行を積んでいる。これは当時の院家出身の僧では極めて珍しいことで、学識・経験共に一流の僧と認識されていたようだ。東寺第一長者・四天王寺別当・大伝法院座主など、有力寺院のトップを幾つも兼務し、足利幕府体制下において寺社勢力を制御するのに大いに力があった。特に義満の孫である義教の信任が厚く、くじ引きというアイデアで義教を第6代将軍に就任させたのも、彼の力によるものだ。義教は信長に比するほどの相当な専制君主だったのだが、満済の言うことは素直に聞いたという。彼の残した「満済准后日記」は、政権中枢にいた立場の者が20年以上にも渡って記した、極めて貴重な第一級史料である。全体において情報を客観的に捉えようとする姿勢が見られ、直接関与・見聞したことにのみ記述を限定する、という傾向が見られる。このことからも、極めて優れた政治家の資質を持っていたことがで分かるのだが、かといって非情であったわけでもなく、人情には厚かった。同時代人から「天下の義者」とも評されるほどの人であった。

 

 将軍を擁立するほどの実力者である、満済に対してこうした動きができるほど、行人方は力をつけていたということなる。そしてこうした行人方の台頭は、大伝法院の根来への移転完了の時期と重なっているのだ。これは何を意味するのだろうか?行人方は根来に移転したから力をつけた、ということだろうか?

 いや、そうではないだろう。どちらかというとその逆で、大伝法院が根来へ移転する前から行人方の権力は拡大していた、と考えるのが筋ではないだろうか。それどころか、移転した原因のひとつであった可能性すらある。

 こうした行人方の台頭は、根来に限った話ではない。高野山粉河寺においても、(程度の差はあれ)同じ現象が起きているのだ。紀州にあるこの3つの寺が、軌を一にして同じような動きをしているのは偶然ではないだろう。

 要するに、こういうことではないだろうか――各地に散在していた遠隔地の荘園を失いつつあったこの時期、残されたのは膝下の荘園のみ。ここだけは絶対に取られてはいけないわけで、他勢力につけこまれないように、これまで以上に支配を強化する必要があった。だがこれは諸刃の剣で、必然的に実務を担当する行人方も力を持ってしまうことを意味する。こうして行人方の権力が拡大していったわけである。

 この時期、多くの守護が守護代に領地を乗っ取られる事態が、日本全国で頻発する。こうした動きに対抗する手段はただひとつ、京の一条氏が一族を引き連れて土佐に下向し戦国大名化したように、本拠を本貫地の直近に置くことで、現地勢力を掣肘するしかないのだ。

 根来と高野は直線距離で20kmほどしか離れていない。しかしそれでも大伝法院が高野山上にあるよりは、4つの荘園の中心に位置する根来の地にある方が、そうしたリスクは減るわけである。あくまでブログ主の推測でしかないが、大伝法院の根来移転の裏には、こうした事情も幾らかは加味されていたかもしれない。

 根来寺は(規模は遥かに劣るが、高野山粉河寺も)この後、地域の一大勢力として覇を唱えていくことになる。周辺の土豪たちが、競って領地を寺に寄進し、代わりにその地の代官として生まれ変わる、という形で更に領地を拡大、パワーアップしていくのである。この辺りの解説は過去のシリーズでしているので、そちらを参照されたい。

 

根来寺行人方子院に関しては、こちらの一連のシリーズを参照。根来寺において、僧兵とも称される行人たちがどのようにして増えていったか、また強大な戦力を持つようになったのかはなぜか?を記してある。最初期のシリーズなので、今見ると足りないところが目につく。本当は全面的に改訂したいのだが・・・

 

 こうした形で周辺の土豪らが根来寺に続々と参入するのは、上記の事件より更に半世紀ほど経った、戦国期に入ってからのことである。更に拡大し、武力と経済力を備えるようになった行人どもは、寺内における構成比率でも学侶僧らを凌ぐようになり、遂には根来寺の対外外交の実権を握るようになるまで成長するのである。

 だが先ほど紹介したエピソードから分かるように、行人方の権力の拡大の萌芽ともいえる動きは、戦国期以前から始まっていたというわけである。(続く)

 

根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

 高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。

 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺の攻撃により、大伝法院が火災で焼失するという事件も起こっている。

 さて覚鑁の死後100年ほどが過ぎた頃、ひとりの僧が頭角を現してくる。のち、根来中興の祖と称される、頼瑜(らいゆ)である。1226年に根来近辺の山崎村の豪家に生まれた彼は、幼少期より才あって、大伝法院をはじめ、東大寺興福寺仁和寺醍醐寺などで修業を積んだ。当時の優秀な学僧は、宗派を横断して学ぶのが常であったから、頼瑜も南都六宗を含む八宗を学ぶことで幅広い見識を養ったのである。

 そして、その学識の高さで1286年40歳の時に大伝法院の学頭(座主ではない。先に紹介したように、座主の座は高貴な出自である院家出身の僧らに占められていた)に就任するのである。

 頼瑜は覚鑁のように、盛んに伝法会を行っている。彼は伝法会を効率的に進行させるために、事相・教相の体系化を進めた。具体的には、分かりやすくテキスト化したのである。伝法会が行われるたびに、テキストの注釈は増え、改訂が行われていった。また伝法会の際には、修行僧が「堅義(りゅうぎ)」というテストを受けるのが常なのだが、このテストの際に使用される問題集まで作成したのである。

 結果、それが根来真言の教学の発展につながった。生涯で450巻、という膨大な量のテキストを残したことにより、これらが多くの僧の手によって写書されたのだ。高野や根来から遠く離れた地方、特に東国においてこれらのテキストが多用されたことにより、覚鑁派の教学が全国に広がっていくことになったのである。

 ――さて頼瑜が学頭に就任したのと同じ年、大伝法院に大湯屋建設の動きが持ち上がる。大湯屋とは要するに風呂の施設のことなのだが、山上にあがる際に身を清める施設として必須のものであり、それ故に自治のシンボルともいえるものなのである。

 そもそも1242年の火災で失われていた、大伝法院の大湯屋を再建するという話なのだが、問題となったのはその大きさであった。どうも金剛峯寺の大湯屋よりも遥かに大きな大湯屋を建設する、という話だったようで、これは金剛峯寺にとっては看過できない問題であった。またもや合戦のごとき騒動があり、多くの人が斃れた後、大伝法院勢は遂に高野下山を決断する。1288年に発生したこの「大湯屋騒動」を契機に、大伝法院のすべての勢力は根来へと移転することになるのである――

 というのが、長きに渡って伝えられてきた「大湯屋騒動」なのだが、この騒動が本当にあったことなのか、どうも怪しいらしい。そもそもこれは400年以上経った1693年になって、金剛峯寺の立場で記された「高野春秋」に載っている話で、該当する話は当時の文献には見当たらず、考古学的調査でもこの時期に山上で火災があった痕跡が発見できていない。実際、1288年以降も高野山に大伝法院が残っていた形跡があるのだ。

 実際に大伝法院が本拠を根来に移す動きが始まったのは、言い伝えられている「大湯屋騒動」より、遅れること50年ほど後のことのようだ。理由としてどうも大湯屋は関係ないようで、本当は鎮守社天野社や荘園の支配権をめぐる、利権の喪失が原因のようだ。

 これまで全国に広大な荘園を保持していた寺社勢力であったが、時代が下るにつれ院や公家の弱体化が進み、南北朝期には特に遠隔地の荘園の大半が武士たちに奪われることになる。大伝法院のライバル・金剛峯寺もその限りではなく、代わりに近辺の荘園の支配強化を進めることになるのだ。

 この頃、大伝法院は近辺に多くの荘園を持っていた。うち金剛峯寺の荘園に隣接していたのは、鳥羽上皇覚鑁に寄進した「相賀荘」と、覚鑁が損害弁済のため取得した「渋田荘」である。ところが1333年の後醍醐天皇の勅裁によって、「紀ノ川より南」の地域がことごとく高野山金剛峯寺に帰属するものと認定されてしまったのである。これを後醍醐天皇による「元弘勅裁」と呼ぶが、この勅裁により大伝法院は両荘の大部分の支配権を失ってしまう。

 大伝法院には、このままでは金剛峯寺側の経済的な侵食に負けてしまう、という認識があったようだ。例えば高野山上において、最盛期の大伝法院は13の堂宇で構成されていたのだが、1242年の火災でその殆どが焼失してしまっている。その後、再建が行われてはいるが、全面的な堂宇の再建には至っていない。どうも経済的には、あまりうまくいっていなかったようなのである。

 それならば覚鑁の避難以来、それなりに発展を続けてきた根来の地に本拠を移転して、仕切り直ししよう――というのが、移転の真相のようである。

 もうひとつの理由として、中世権門寺院の更なる体質変化が挙げられる。要するに本寺だろうが末寺だろうが、この頃の有力な寺社の座主はほぼ院家出身の権力のある僧で占められており、また複数の座主を兼任することが常態化していた。そういう意味では、本末の区別はそこまで重要ではなくなってきていた。金剛峯寺も大伝法院も上位機関である本寺の影響から、徐々に抜け出しつつあったのである。

 この辺りの経緯は複雑なので詳細は省くが、大伝法院にしてみれば根来に移転することで、しがらみのある関係性をリセットし、二重の意味で己らが拠って立つ地を造ろうとした、ということになる。

 そんなわけで大伝法院の高野から根来の地への移転は、時間をかけて比較的平穏に進められた、というのが真相のようだ。おそらくは70~80年ほどかけて行われたものらしく、根来の地に完全に移ったといえるのは15世紀初頭になってからと見られている。

 こうして紀州の地に、晴れて根来寺が成立したのであった。(続く)

 

紀州根来寺にかつて存在した「大湯屋施設」。湯屋(温室とも)は聖域には必須の施設である。日本の仏教は「神仏習合」の影響を受け、穢れを忌避する傾向があった。俗世から離れた修行の場に入る際には、斎戒沐浴して身を清める必要があったのである。なので大きな寺院には、こうした湯屋が必ず設置されていた(なお中世の湯屋は、湯舟はなくて全て蒸し風呂、つまり湿式サウナである)。移転後の紀州根来寺にもこうした温浴施設があったことが、発掘調査で判明している。左は武内雅人氏による、根来寺境内東側にあった温浴施設の敷地再現図である。面積は南北25m・東西に60mにも及ぶ広大な敷地であった。調査の結果、ここには蒸し小屋である湯屋が東西にひとつずつ(図では温室とある)、その他に井戸が3つあった。湯屋が2つあったのは、学侶僧用と行人僧用で分けられていたのかもしれない。なお図の中央には「温浴用施設」とあるが、ブログ主はここは山の清水をかけ流した石造りの泉ではないか?と思っている。現代のサウナーのように火照った体を冷水浴で引き締めて、その後は脱力して「ととっていた」に違いない!・・・そうであって欲しい。右は鳴海祥博氏による、湯屋の復元イメージ。湯屋の右奥に更に個室があるが、ここが湿式サウナの浴室になる。右下にお湯を焚く釜戸と繋がっており、ここから蒸気をサウナに送り込む仕組みである。或いはヨモギなどの薬草も一緒に蒸して、香りのついた蒸気を送り込んでいたかもしれない。それにしても薪で焚いているわけだから、火加減が難しそうだ。(それぞれ「中世都市根来寺紀州惣国」「根来寺文化研究所紀要第4号」より抜粋)

 

根来寺・新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

 覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。

 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、カリスマであった覚鑁が不在でも、一朝一夕になくなるものではなかった。彼の教えは、引き続きこの大伝法院において引き継がれていくことになる。

 この時期の大伝法院を率いていたのは、先に記事で少しだけ触れた隆海であるが、彼が大伝法院座主の座に就いたのは、なんと19歳の時である。彼は覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子であった。

 数多いる直弟子を差し置いて、孫弟子に過ぎない彼がなぜ座主に就任できたのだろうか?実はこれは彼が、関白職にあった藤原師通の孫、つまりは摂関家の出であるからなのだ。

 要するに、金剛峯寺との政治的争いを見据えたゆえの動きなのである。だが彼はただのボンボンでなかった。特に密教修法の分野に精通しており、いくつもの著作を残している。

 知性の面で十分にその資格のあった彼は、しかしそれ以上に政治というものを理解していた男であった。なにしろ摂関家の一族の出なのである。スポンサーである鳥羽上皇はいまだ健在とはいえ、隆海には覚鑁ほどの学識やカリスマ性はない。東寺の強大な政治力に対抗するためには、摂関家のコネを動員して、政治的な争いを戦い抜かなければならなかったのだ。そしてそれこそが、彼のもっとも得意とするものだったのである。

 しかし隆海が政治的な戦いを繰り広げるうえで、ひとつ不利なことがあった。それが覚鑁の定めた「座主は山を下りてはいけない」というルールである。

 高野の本寺は、京にある東寺である。元々は東寺のトップである東寺一長者が、大伝法院の座主に就けないようにするために定めたルールであった。しかし隆海が政治活動を行う際は、権門の中枢近く――要するに京にいて、朝廷に様々な働きかけを行うことが不可欠なのである。

 そこで彼はどうしたかというと、なんと大伝法院座主の座を弟子に譲ってしまったのである。1166年、隆海47歳の時である。こうして自由の身になった彼は、晴れて政治の中心地である京に本拠を構えた。しかし彼は大伝法院の実権を手放さなかった。要するに「院政」をひいたのである。

 隆海は在京しながら、そののち3代に渡って次の座主を指名するなど、トータルで40年にも渡って大伝法院の実権を握り続け、金剛峯寺との政治的な戦いを繰り広げたのであった。

 1168年の4月ごろ、金剛峯寺と大伝法院との間で、「裳切(もぎり)騒動」が発生する。これは大伝法院が金剛峯寺の定めた法衣のルールに従わなかったために起きた騒動のようだが、事態がエスカレートし、双方相乱れる合戦のような大騒動になったのである。結果、高野山上にあった大伝法院は、護摩堂や大温室など200の僧房が破却され、仏像や経典類まで奪われるという大被害を被ってしまったのであった。

この時に活躍したのが隆海である。

 この当時、院政をひいていたのは後白河上皇である。後白河上皇自身は当初は中立的な立場であって、どちらかに肩入れするのを迷っていたようだ。しかし隆海はそんな上皇に対し、盛んにロビー活動を行ったのである。結果、4月中旬には金剛峯寺検校以下17名の取り調べが行われ、5月3日には責任をとる形で検校・宗賢が薩摩国へ、玄信が壱岐国へ、覚賢が対馬へと流罪となっている。6月下中には、大伝法院が被った全ての被害を金剛峯寺に弁償させるなど、全面勝訴の内容を勝ち取ることに成功するのだ。長年にわたり在京していた、彼の人脈がものを言ったのである。

 しかし東寺・金剛峯寺との政治的争いに、決着がつく兆しは見えない。「裳切騒動」が一段落した1173年、この年54歳を迎える隆海は、なんと「権威を募り、師跡を守らんがため」大伝法院を仁和寺御室守覚に寄進してしまったのである。

 「老い先短い自分が死んでしまった後、伝法院を支える新たな保護者が必要だ」――そう考えた隆海は、自らに代わる新たな保護者として、覚鑁が若いころ修行した、京にある仁和寺を選んだのである。そのためには「住山不退」の規定が妨げとなる。そこで彼はこの規定をも削除してしまった。これにより独立した寺院であった大伝法院は、仁和寺の末寺となってしまったのだ。

 

桜の名所で有名な、京・仁和寺。888年に開創された典型的な門跡寺院で代々、皇族が住職を務める寺である。この仁和寺の傘下に入ったことにより、大伝法院座主には出家した皇族が就くことになり、一度も山上に来ない座主が増えることになるのだ。単なるお飾りと化してしまった座主の代わりに、学問上の実践は学頭が務めるようになる。

 

 東寺をバックに持つ金剛峯寺に対抗するための処置とはいえ、これは覚鑁の定めたルール、「在洛名利に囚われた~」という教えに反する行いといえる。東寺にしてみれば「ほら、みたことか。偉そうなことを言っていても、結局は仁和寺が東寺にとって代わろうとしただけじゃないか!」ということになる。

 この後、実際には仁和寺は大伝法院のバックとして、そこまで強大な力を振るうことはなかったのであるが、これを契機に大伝法院座主の座は外部勢力に流出することになってしまうのだ。高野における2大勢力、金剛峯寺は東寺系、大伝法院はその他の外部勢力系、という対決構図が出来上がってしまうのだ。(続く)

 

根来寺・新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

 高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自分は密厳院にて趣味?である無言行に入ってしまっている。

 ではなぜ彼は、そこまでして金剛峯寺座主の座を求めたのだろうか?

 そもそも高野山のトップである金剛峯寺座主の座は、これまでずっと京にある東寺のトップ、東寺一長者が兼帯してきた。「本末制度」により、高野山は東寺の末寺化してしまっていたことは過去の記事で述べたが、覚鑁はこれを問題視していたのである。1134年、金剛峯寺座主に就任した彼は、新たに以下の3つのルールを定めている。

 

①・伝法院座主は覚鑁門跡が師資相承すること

②・「住山不退・弘法利生の者」が座主となる資格を有すること

③・伝法院座主が伝法院・密厳院など200余僧の補任権を掌握すること

 

 ①番と③番は要するに、引き続き改革派が高野の実権を握ることを目的として定めたものである。問題は②番の「座主の住山不退」であるが、これはつまり座主は山から下りるな、ということである。彼はこう書き残している――「在洛名利に囚われた東寺長者の元では、住山乗戒の禅徒を指導することはできない」。

 覚鑁は、高野山の東寺からの自立を目指したのである。上位に東寺がいる限り、高野の改革は進まない。そこで覚鑁は、まず自らが金剛峯寺の座主になることで、大元のルールを変えてしまったのである。

 まず、その①で「座主は覚鑁の意思を継ぐものに限り」、その②で「東寺の者を座主から排除し」、その③で「山内の僧の補任権を握る」ことで、山内の主導権を打ち立てようとしたのであった。ここまでしなければ改革などできない、と認識していたのだろう。

 しかし覚鑁は、元は仁和寺で修行した僧である。彼が身に着けた学識、特に事相は仁和寺系統のものである。東寺にしてみれば、金剛峯寺仁和寺に代表される、外部勢力に乗っ取られてしまったように見える――実際に覚鑁は、山内で催される法会においては、「高野山で修行を積んだ僧のみが、役務につける」という、これまでのルールを変えている。大伝法院が開催する法会においては、京や奈良で修行を積んだ客僧でも、役務が担えるようにしていたのである。そして高野生え抜きの僧たちは、これに強く反発したのであった。ことは寺内に留まらず、仏教界を巻き込んでの政争、そして権益を巡る縄張り争いになってしまったのである。

 覚鑁金剛峯寺の座主に就任したのが1134年12月であるが、実のところその半年前の6月には、反対派が「非法」として東寺長者に訴えを起こしているのが確認できる。主張で特に目を引くのが「金剛峰寺座主と大伝法院座主の兼務の停止」である。

 重ねて言うがこの訴えを起こしたのは、覚鑁金剛峯寺座主就任の半年前である。にも関わらず、この時点で「両座主の兼務の停止」を主張していることから、既に「覚鑁が両座主を兼任しそうだ」という話が山内で出ていたことが分かる。

 ここから見えてくるのは「新興かつ外部勢力の、大伝法院なぞの思い通りにされてたまるか」という、金剛峯寺保守派の強い反発である。この時は鳥羽上皇の強い政治的支持があったため、反対派の意見はあっけなく潰されてしまい、半年後の覚鑁の両座主就任という動きにつながるわけだが、既に金剛峯寺には根強い反対派がいたことが分かる。

 そして覚鑁は遂に、金剛峯寺内の反対派を抑えることはできなかったのである。実のところ、就任1年にして両座主の座を後進に譲ったのも、覚鑁が政治的に不利な立場に立たされた結果であると思われる。

 その証左に、1136年には東寺一長者である定海が金剛峯寺の座主に返り咲いてしまうのだ。東寺が高野の本寺であった、以前の形に戻ってしまったことになる。更にその翌1137年には、高野山における反覚鑁派の先鋒である良禅一派が、金剛峯寺ナンバー2の座である検校と、そしてよりにもよって覚鑁が建立し、教義上の改革の場であった、大伝法院の座主の座まで占めてしまうのだ。反対派に高野山のトップ3の座を占有されてしまった形となる。

 かと思うと、翌1138年、更なる巻き返しによって、今度は覚鑁派の若きホープ・隆海が大伝法院座主となる。このように、高野山の主導権を巡って激しい派閥争いが繰り広げられるのだ。

 派閥争いの行きつくところは、過激派による実力行使である。1140年、遂に反対派は兵を挙げ、覚鑁の自所であった密厳院を襲撃、ここを焼き払ってしまうのだ。覚鑁自身も殺されかけたところを危うく逃れ、弟子たちと共に命からがら山を下りた。向かった先は大伝法院が抱える荘園のひとつであった、弘田荘にある豊福寺(ぶぷくじ)だ。

 

過激派ら(間違いなく行人たちであろう)は覚鑁の命を狙い、その自所であった密厳院不動堂を襲撃したが、覚鑁は辛くも窮地を逃れている。伝説によると、乱入してきた過激派らであったが、不動堂には覚鑁の姿は見えず、ただ代わりに1体しかないはずの仏像が2体あった。一心に観想念仏していた覚鑁は、仏像と化していたのである。どちらかが覚鑁に違いないと考えた過激派らが、試しに錐で膝を刺したところ、双方の像から血が流れたため仏罰を畏れて退いた、とある。これが覚鑁殺害未遂事件、「錐もみの乱」である。なお高野山には今も密厳院が存在するが、この時に焼けてしまったようで、建物は同じものではない。画像にあるのがそれであるが、現在の密厳院には宿坊があり泊まれるようになっている。情けないことに2020年9月から2年間、休業したと虚偽申請し、コロナ用の雇用助成金あわせて約621万円を不正に受給していたことが分かり、つい最近にニュースになっている。

 

 この地において覚鑁は再起を図るべく、改めて神宮寺、そして彼のライフワークである伝法会を開催すべく、円明寺を創建したのである。しかし自身はこの地に来て、僅か3年で亡くなってしまったのであった。

 上記で説明した通り「錐もみの乱」の際には、テロリストたちは仏像、そして仏像と化した覚鑁の両者を共に刺した、と伝えられている。この時、覚鑁は実際に刺されて負傷しており、その際の逸話をこのような伝説に昇華させた、ということかもしれない。そうだとしたら覚鑁はその傷の後遺症で若死にしてしまった、という可能性もある。

 いずれにせよ、覚鑁という巨星は墜ちたのである。しかし覚鑁の衣鉢を継ぐ者たちの多くは、翌年には再び高野に戻り、彼の思想を守り広げるための戦いを始める。高野に大伝法院はまだ健在なのだ。覚鑁の興した新しい動きは、まだ終わったわけではなかった。(続く)

 

根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

 さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。

 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。

 覚鑁高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。

 記録によると、このとき建てられた伝法院の堂宇の大きさは、わずか1間(1.8m)四方しかなかった、とある。覚鑁はまず手始めにここを改革派の拠点として、己の教学の研究を進めると共に、東密内部に広げ始めたのである。

 小さい堂宇とはいえ、組織を運営するには銭がかかる。先立つものはやはり銭、人を集めて何か行うには、費用面でのバックアップが必須なのだ。実は覚鑁は、1126年頃から財源確保のための運動を始めているのが確認できる。それが功を奏し、29年には石手荘という荘園を賜っているのだ。翌30年の伝法院の設立には、こうした財政面の裏づけあってのことだったのが分かる。

 しかし覚鑁は、この時点で一介の僧でしかない。さりとて権門出身でもない、庶民出身の彼がどのようにして、荘園を獲得することができたのだろうか?

 当時は平安後期、院政絶頂期である。この時に院政をひいていたのは、鳥羽上皇だ。最高権力者である鳥羽上皇に近づいた覚鑁は、持ち前の知性とカリスマ性でたちまち上皇を魅了したのであった。

 当時の貴族社会において、浄土思想と末法思想は大変流行していた。鳥羽上皇は鳥羽に居を定め、そこに自らの御殿である「鳥羽殿」を建てたが、内部に幾つか仏堂を建立している。そのうちのひとつ「安楽寿院」に今も伝えられている本尊は、やはり当時流行りの阿弥陀仏であった。

 浄土思想を取り入れ、アップデートされた覚鑁真言の教えは、鳥羽上皇の信仰心にジャストミートしたのではないだろうか。上皇覚鑁を「聖人」と呼んで、深く帰依した。当時の仏教界上層部は権門出身の僧で占められていたから、無冠の僧であった覚鑁上皇の帰依を受けるのは、前代未聞のことであった。

 

鳥羽上皇院政期、鳥羽には鳥羽御殿があり、短期間であったが政治・経済の中心地であった。京の南に位置する、鳥羽についての記事はこちらを参照。

 

 そうした経緯があって、伝法院の設立・運営に至ったわけだ。だがこれは手始めにすぎなかった。続いてなんと、鳥羽上皇自身がスポンサーとなって、高野山上に新たに御願寺が建立されることになったのである。その名もズバリ「大伝法院(前にあった伝法院と区別するためにこう呼ばれる。)」、院主はもちろん覚鑁だ。

 1131年10月17日に、高野山上で行われた落慶法要には鳥羽上皇行幸があり、多くの公家たちが参加しているのが確認できる。出席者は前関白・藤原忠実、関白・藤原忠通など錚々たるメンバーであったが、それだけでなく新堂落慶の供養導師は、東寺のトップである東寺一長者・信勝法橋が勤めている(彼は仁和寺覚鑁の兄弟弟子であった)。如何に覚鑁の影響力が大きかったか分かる。また大伝法院の設立に前後して、覚鑁鳥羽上皇から大伝法院領として、更に4か所もの荘園と、密厳院(こちらも覚鑁が設立した子院)領として1か所の荘園を正式に寄進されている。

 こうして時の最高権力者・鳥羽上皇から、物心両面でのバックアップを受けた覚鑁は、勢いのまま突っ走る。いわば覚鑁派の本拠地といえる、大伝法院に属する僧はあっという間に増え、数年後には学僧・行人ら合わせて201人の数が確認できるまで、その規模は拡大するのだ。

 

高木徳郎氏の論文「大伝法院の成立と展開」を元に、ブログ主が作成したイメージ図。荘園の境目は、そこまで正確なものではない。地図にあるように、覚鑁が大伝法院領として賜った荘園のうち、4つは隣接していた。うち弘田荘には、古くから「豊福寺」という寺があったが、覚鑁はここを大伝法院の末寺とした。賜った当初は小さな寺でしかなかった豊福寺だが、ここがのち根来寺として発展していくことになるのだ。なお豊福寺は、葛城の峰を法華経に見立て山中を巡る、「葛城信仰」という山岳修行の第34番目の行場であった。葛城信仰はのち、山伏たちによる修験道の場として発展していくことになる。なお根来寺における修験道の管轄は、学僧ではなく行人たちにあったようである。

 

 そして1134年、遂にその時が来た。覚鑁上皇からの院宣を受け、高野山を統べる金剛峯寺の座主に就任したのだ。あり得ないほどのスピード出世である。覚鑁この時、知力も体力も男盛りの40歳であった。(続く)

 

根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

 さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。

 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。

 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で天災などは防いでくれるが、他人の生き方や魂まで救えるわけではないのだ。

 だからもし本心から救われたいと欲するならば、自分もスーパーマンになるしかない。そのためには、膨大な量の知識と煩雑な所作を勉強しなければならない。現実問題として、それができるのは余裕のあるよほど裕福な者か、凄まじく頭の良い者だけである。では、それができない貧しい凡夫は置き去りなのか?諦めるしかないのだろうか?つまり真言密教は、「庶民のための宗教ではない」ということになる。

 そんなわけで密教は、新興階級である武士や庶民層の支持を得ることはできなかったわけである。これは構造的な問題であって、仕方なかったことかもしれない。いずれにせよ密教の二大勢力・台密比叡山)と東密高野山)もまた、あくまでも従来通りのやり方を踏襲したから、救いを求める彼らに本当の意味で向き合うことはなかったのであった。

 そうした流れの中で、のち「鎌倉新仏教」が生まれるのである。人々は新しい救いの形を求めていたから、法然(浄土宗)・親鸞浄土真宗)・栄西臨済宗)・道元曹洞宗)・日蓮日蓮宗)・一遍(時宗)らの興した「万人を救う教え」に、そろって帰依することになるのである。

 これら鎌倉新仏教を興した開祖らの殆どは天台宗出身、もしくは延暦寺にて修行経験のある僧である。過去の記事で何度も触れたが、最澄天台宗を興すにあたって4つの宗派を融合させたわけだから、多様性を内包していた。そうした理由で延暦寺は仏教の総合大学的性格を持っていたから、新しい考え方が芽吹く土壌を有していたのである。

 例えば、浄土思想をきちんとした学問として発展させたのは、源信という天台宗の僧なのである。しかし源信延暦寺の世俗化を嫌い、叡山の外れにある横川に隠棲していた僧であり、彼が打ち立てた浄土思想教学も、天台宗のメインの教学に取り入れられることはなかった。

 このように、天台宗の教えそのものは変わらなかったから、せっかく芽吹いた新しい思想を有する人たちは源信のように隠者となるか、鎌倉新仏教の開祖たちのように比叡山から巣立っていき、新しい宗派を興すことになるのである。(そして後年、古巣の比叡山からは排撃されることになるのだ)

 対する真言高野山は、密教の専科大学である。構築された理論に矛盾がなく、ガッチリ固まっている。また天才・空海が編集した教えであったから、教理上に隙がなく、それ故に発展する余地が少なかった、とも評されている。

 実際その通りで、真言宗の確立から150年、東寺と高野山の間で「どちらが本寺となるか」というような政治的な争いはあったが、教義上は大きな混乱もなく順調に続いてきた。それ故に、これら末法思想や浄土思想の流行に対して総じて鈍感であった。だが中には、こうした動きに強い危機感を持つ、心ある宗教人もいたのである――そのひとりこそ、根来寺開祖・覚鑁であった。

 覚鑁末法の世がはじまって40年ほどたった、1095年に肥前で生まれている。学問の面で天性の才があった彼は、13歳で出家を志し、16歳で上洛し仁和寺に入った。

 仁和寺は当時、東大寺の学侶も参加する「経論」の論議が盛んに行われるなど、密教教学の研究が非常に盛んな寺であった。覚鑁はこうした刺激的な環境に身を置きつつ、多くの優れた師の元で研鑽を積む。20歳の時、高野山に登り勉学に励み、教相と事相を習得。35歳にして真言の教えのことごとくを会得し、伝法灌頂を行い「空海以来の天才」と称されたのであった。

 そして身につけた莫大な知識を基に、彼は真言に新風を吹き込むのだ。覚鑁の深遠な教えを、恐れ知らずの著者が超砕けた物言いにまとめてみよう。

 覚鑁は言う――「今は末法の世である、というのは間違っていますよ。だから厭世的になる必要はないんです。前向きに生きましょうね。でも阿弥陀仏信仰(浄土思想)は認めます。だって私の解釈ではそれは元々、真言密教の中に既にあるものなんですから。え?どういうことかって?つまりですね、密教の教えに従って精進したものはこれまで通り、即身成仏への道が開かれます。だから引き続き、頑張りましょう。でも精進が足りなくても大丈夫、ってことなんです。凡夫でも、その時(死ぬ時)が来たら順次往生できます。辿るルートは一見違うけれど、結局は同じことなんですよ。両者とも最終的には『密厳浄土』に行きつくんですから」

 「浄土思想」と「末法思想」からの問いかけに対する、覚鑁からのアンサーがこれなのである。まず彼は、とかく厭世的な性格を持つ末法思想を否定した。しかし浄土思想の方は否定せず、浄土思想でいうところの浄土もまた、真言でいうところの三密で規定された現世と同じものである、とすることで、逆に真言の内部に取り込んでしまったのである。東密の教えそのものを「再編集・再構築」して、浄土思想にまで広げるという、教義上の改革を行ったのであった。

 

京都知恩院蔵「覚鑁上人像」。「密厳浄土」とは何か。密厳は密教でいうところの三密の教えに則った現世世界、浄土は浄土思想でいうところの極楽のことであり、この両者を合体させた、覚鑁が新たにつくった造語なのである。覚鑁はその著書で「浄土思想でいうところの阿弥陀仏とは、密教大日如来と同じものである。また浄土思想でいうところの極楽は、密教でいう密厳、つまるところ現世の世界と同じなのである」旨を述べている。

 

 かつて空海真言宗の教義を構築する際、南都六宗などの既存の他宗をその内に取り込んでしまっている。見方によっては、覚鑁はこれと同じことをしたといえる。長い真言の歴史のうちで、これほどまでに大胆な教義上の改革を行った者はいなかった。それ故に彼は「空海の再来」と称されるのである。

 

空海の「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の思想については、こちらを参照。既存の教えを全て呑み込んでしまうスケールの大きな発想であるが、これは空海のパーソナリティをよく表していると思う。

 

 宗教が後世に至るまで残っていくには、社会構造や人々の意識の変化に対応していく必要がある。時代に合わせて教義をアップデートさせなければ、本当の意味で生き残ることはできない。

 最澄とその弟子たちの台密は、中国の天台宗を日本向けにアップデートさせた結果、生まれたものだ。時代の転換期になって、そこから更に鎌倉新仏教が生まれ、巣立っていった。

 一方、覚鑁が行ったこの教義改革は、東密内で行われた初のアップデートであり、そして最後のものだったのである。(続く)

 

根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

 平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。

 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂阿弥陀堂無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。

 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したという。これが浄土思想的には、理想の死に方だったのである。

 

福山敏夫氏による「法成寺伽藍推定図」。法政寺は現在の京都市上京区東端、鴨川西岸に建てられていたが、残念ながら現存していない。その規模は東西2町・南北3町に及び、摂関期最大級の規模を誇っていた。「栄華物語」によれば「寺の池の砂は水晶のごとく煌めき、池の水は青く澄み、造花の蓮の花が台となり、そのひとつひとつに仏が据えられている。伽藍のことごとくが池に映えて、まるで仏の世界に見えた」とある。浄土思想の考えでは、往生した人は浄土の池から生えている、蓮の花のつぼみの中に転生することになっているから、それを再現しているわけである。なお浄土思想的には、生前に悟っている必要はない。浄土で悟ればいいのである。浄土は悟るのに最適の場所だから、そこにいるだけで修行が捗ることになっている。なので往生してしばらくしたら、誰でも成仏することができる、という設定なのだ。

 

 道長が死んだのは1028年のことだが、このすぐ後辺りから「末法思想」という考えが流行し始める。これは元々、4世紀末にインドから中国にもたらされた「月蔵経」という経典にあった教義で、「正しい仏の教えはやがて衰え、最後には滅んでしまう」という教えから発展したものだ。6世紀の中国では、この教えを基にした「三階教」という特異な一派が起こり、大変に流行した。

 この三階教が日本に伝えられていたかどうかは定かではないが、月蔵経自体は大乗仏教の5大経典のひとつ「大集経」に納められている経典だから、末法思想そのものは大集経が日本にもたらされたと同時に伝えられていたようだ。そして平安末期になって、この末法思想が急速に蔓延しはじめるのである。

 この末法思想、一見キリスト教でいう終末論(ハルマゲドン)と、似たような思想に見える。ただキリスト教の終末論では、不信者は容赦なく地獄行きだが、正しいキリスト教徒は天国に行って「めでたし、めでたし」で終わるから、そこに救いがある。敬虔な信者の中には、ハルマゲドンを待ち望んでいる人たちさえいるのだ。キリスト教系カルトなどは、特にこうした傾向が強い。

 しかし末法思想は異なる。正しい教えが伝えられなくなるということは、人々は悟ることができなくなる、ということだ。そこに救いはない。

 比叡山の僧・皇円は「扶桑略記」に「1052年の疫病の流行と共に、末法の世に入った」と記しており、これが当時の日本における認識だったようである。この頃、前九年・後三年の役があり、続いて保元・平治の乱平氏の台頭、そして源平合戦からの鎌倉幕府の設立など、日本中が戦乱に巻き込まれる期間が続くのだ。それに伴い、新興勢力である武士たちが表舞台に台頭してくる。

 武士だけではない。国家や寺社・貴族たちに隷属する存在であった、一般の人々もまた、経済的な力をつけてくる。上位存在に仕えるだけの「職能人」から、利権を拡大しそれを確保する「職業人」への変化である。平安末期は、職人共同体や商人階級の萌芽がみられる時期なのである。古代という時代が終わって中世に入ったのだ。世の中の仕組み自体が変わろうとする、転換期にあったのである。

 所詮これまでの宗教は、あくまでも皇族・貴族らなど支配階級のものでしかなく、庶民への関わり方としては、統治のためのツールとしての面が強かった。彼ら庶民たちが力をつけてきたことによって、ようやく自律的に宗教と対面できるようになったともいえる――とはいえ、宗教が本当の意味で庶民のものになるには、室町期を待たなければならないのだが。

 

庶民による宗教的自治がピークに達したのは、15世紀後半から16世紀半ばにかけてで、一向一揆法華一揆がそれにあたる。特に法華一揆については、上記を参照。

 

 既得権益を侵されそうになった、旧秩序の体現者である貴族層や寺社勢力は、こうした新しい動きに激しく抵抗した。そもそもこの時代、先人たちの理想とした山林仏教の姿は既にない。妻帯する僧も珍しくなかったし、上級の僧位は権門子弟に独占され、下級僧である堂衆らは僧兵として暴れまくっていた。

 そんな彼らは、世に蔓延する末法思想に対してどのように対処したのだろうか?この時期に成立したとみられる「末法灯明記」は、当時の僧たちの自己弁護の書であるが、ここにはこのようなことが書かれている――「正法の時代には、戒律を守らねば破邪となる。だが現在のような末法の世においては、戒律そのものが成立していない。そんな時代にも関わらず、我々は僧をやっている」

 ここまではいい。だがこう続くのである――「だからこそ戒律を守っていないが、名目だけでも僧をやっている我々は、実に健気な存在であるといえる。だから世間は我々を大いに敬うべし」。末法思想に対する、当時の貴族仏教が出した答えがこれである。もはや己の破戒ぶりを隠そうともせず、開き直っているのである。

 こうした姿がまた、正しい教えを伝えていない末法の世を象徴する姿、として人々の目に映った。結果、今までの寺社による「悟り」の否定につながる。つまりは真言で教えるところの「即身成仏」する方法論そのものが間違っている、ということになるからだ。

 ここで脚光を浴びたのが、先の記事で触れた死後の極楽浄土への往生を求める考え方、つまりは「浄土思想」だったのである。現世で救われないならば、せめて来世で救われることを望んだのである。この時期に浄土思想に基づいて建てられた有名な寺院としては、先に述べた「法成寺」や「平等院鳳凰堂」、「中尊寺金色堂」などがある。(続く)

 

Wikiより転載「平等院鳳凰堂」。ここには道長の別荘・宇治殿が建てられていたが、その子である関白・藤原頼通が寺に改めた。末法の世が始まった、1052年に建設が始まっている。極楽浄土をこの世に映したその様は、当時の俗謡に「極楽疑わしきは、宇治の御堂をうやまえ」と謡われるほどであった。時代が下るにつれ密教系の影響が入ってしまっているので、往時の浄土思想の形は幾分かは薄れてしまっているが、平等院本堂は創建当時の姿を残している。上記の画像は昼だが、想像してみよう――夜になる直前、空が深く蒼くなる薄暮どき、池を前に置いて対岸から鳳凰堂を臨む。すると堂内にある如来像が明かりに灯され、幻想的に浮かび上がる。また鳳凰堂そのものも手前の池に映しとられ、まさしく浄土がこの世に顕現するのである。