RIYO BOOKS

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主に本の感想文を書きます。海外文学が多めです。

『リリオム』モルナール・フェレンツ 感想

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こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

 

心のうちの愛情を素直に表わせないならず者リリオムの悲劇を、作者ならではのユーモアをまじえて描いた名作戯曲。原典からの初訳。


モルナール・フェレンツ(1878-1952)は、ドナウ川を挟むハンガリーの首都ブダペストで、医者を営むドイツ系ユダヤ人のもとに生まれました。ブルジョワに位置する家庭環境で、その生活は裕福でしたが、病弱であった母親が亡くなり、社会に出る前に深い悲しみを抱えることになります。学生のあいだにジャーナリストとして活動することを心に決め、執筆や取材を独自で進めていましたが、父親の意向により法学を学ぶことを迫られた彼は、スイスのジュネーヴ大学へと進学しました。それでもジャーナリストとして活動することを諦めきれない彼は、新聞への寄稿を続け、そして掲載されて生計を立てることができるほどになりました。また、強い関心を寄せていた海外文学(主にフランス文学)の翻訳をも試み、自らも作品を生み出したいという野心が芽生えます。彼は諷刺的な要素を踏まえた散文作品を執筆していましたが、この頃に生まれた作品のひとつが『パール街の少年たち』で、現在でも児童書として広く読み継がれています。文筆家として書き進める彼は、1902年に発表した戯曲『医者』が舞台作品として大好評を博します。このことで作家としての基盤が築かれ、世に多くの作品を生み出していくことになります。1906年に女流画家マルギット・ヴェッシと結婚しますが、モルナールの慢性的な酒癖の悪さと、それによる暴力によって結婚生活は長続きしませんでした。娘ひとりに恵まれていましたが、結果として数年後に離婚します。このときのモルナールが「贖罪」の意思を込めて書き上げた戯曲こそ、本作『リリオム』です。


ハンガリーでは、オスマン帝国オーストリアによる支配が長かったことで、ロマン派の民族主義を主流とした作品が文壇で支持されていました。しかし国家の変革を望む若手作家たちは、フランスを中心とした西欧の文学思潮を受け、自国文壇の保守的な立場に反発する運動を起こします。この中心となった文芸誌が『西洋』(Nyugat)で、参加した若手作家たちを「西洋派」と称します。戦間期に隆盛したこの思潮は読者を保守派と分断し、新たな強い支持を受けることになりました。「ハンガリーボードレール」と呼ばれる詩人アディ・エンドレがこの思潮の代表詩人とするならば、モルナールはこの思潮の代表戯曲作家と言え、文壇に重要な存在感を示すとともに、以後の戯曲作品へ大きな影響を与え続けています。


彼は「都会作家」と呼ばれることがあります。作品はさまざまな物語や背景を備えていますが、そこに登場する人物たちはどれも都会的な性質を持っており、作品の主題には「都会人の心情」が織り込まれています。この性質には都会で生活する人間だからこそ生まれる不満や葛藤といったものであり、社会構造(ブルジョワとプロレタリア)や理想と現実の乖離によるもので、都会人が満たされていながらも得られない「満足」が根底を成しています。都会にいれば自分よりも満たされ、自分よりも幸福を感じている他者を多く目にすることになり、それを眺めることで膨らむ理想像が、自分の置かれた虚しい現実から大きくかけ離れていきます。そして、そのような理想像は、非現実的なものであることを自覚しています。都会人は、この卑屈とも言える鬱積した感情を、何かしらの大胆な行動で覆したいという欲求が生まれ、感情は粗暴となり、内の不安定な精神から抜け出そうと試みます。当然ながら、置かれた環境と自己分析が為されていない状態でそのような粗暴な感情に身を委ねた場合、単純な暴力しか発揮できず、そして効果を得られず、また元の平凡な現実へと留まることになります。モルナールの作品は、こういった都会人の心情が強く描かれています。また、このようなある意味でのレアリスムを見せる心情描写からは、現実を反映した諷刺やそのアイロニーが垣間見え、モルナールによる社会を見据えた鋭い観察眼が窺えます。


本作の主人公「リリオム」は、まさに理想と現実に悩まされる典型的な都会人型と言えます。彼は、都会の外れに住む粗野で暴力的なごろつき、といった印象で、真摯な行動とはかけ離れているように見えます。リリオムは、回転木馬の呼び込み職人としてその容姿と弁舌を巧みに用い、誰よりも人気を誇った職人で、客だけでなく、幾人もの女性を誑かし、雇い人まで魅了していました。ところがユリアという若い女性に恋をして、真実の愛に気付き、今までの生活から足を洗ってユリアと結婚します。しかし、回転木馬の呼び込み職人という職を無くすと働くことをせず、博打や怪しい儲け話にばかり精を出します。そこへユリアの妊娠が発覚し、父親となることを理解したリリオムは、これからの生活を安定させるために資金を調達しようと考えます。真っ当な働き方など「自分に合わない」としている彼は、日頃から連んでいた同様のごろつきである「伊達者」に持ちかけられた「強盗計画」に取り組みます。ユリアは言動の怪しい二人から危険を察知し、なんとか止めようと掛け合いますが、努力も虚しく彼らは実行するために出て行ってしまいます。ところが、この計画は見事に失敗し、危険と絶望に挟まれたリリオムは、凶器に用意していた刃物で自分の胸を突き刺します。そして、舞台は「死後の世界」へと転換して行きます。


本作では、1920年代以降に見られた都心部ブダペストの「暗の部分」が、登場人物たちの言動と心情描写から浮かび上がってきます。そして物語が進むと、このような社会描写から「犯罪の本質」という点に、焦点が合わさっていきます。犯罪を犯す環境、状況、感情、関係などが見え、やがて自己犠牲と感情コントロールの不可能性が相互に現れ、物語に悲劇性を与えています。モルナールが言うように、「人はどのような結末を迎えるかではなく、どのように生き、決断し、世界と関係を築くか」という点が、人生で最も重要なことであると本作は明示しています。


例えば、本作最終幕で初めて顔を合わせる自分の娘に、リリオムは天上より盗んだ「星」を土産として渡そうとします。しかし、恐れを抱いた娘はこれを受け取らず、リリオムを外へ押し返そうとします。彼は「彼なりの愛」を否定されたことで一瞬にして絶望と憤怒に包まれ、押し返そうとする娘の手を打ってしまいます。リリオムが娘のために天上から星を盗んだことは、彼にとっては最大の「善行」であり、社会から言えば確実な「悪行」です。まだ見ぬ娘のために危険を冒して「天上」のものを贈りたいという欲求は、自身を悪に染めるという自己犠牲を経たものであり、リリオムにとっては最大限の愛情表現でした。彼は「悪行」でしか行動できない、もしくは表現ができないと考えるならば、理想を実現し得ない人間は、自己の卑しさを認めざるを得ず、自分は理想に描く幸福とは乖離した存在なのであると理解するしかないと訴えているように受け止められます。


ユリアの最後の描写からは、リリオムへの「許し」が感じられます。本作で見せる人間の「悪行」と「心の弱さ」は、その原因である社会を批判する態度の結果であり、作品に諷刺的な印象を与えています。しかしながら、リリオムの言動を通して「愛」の存在を示す星のような希望の光が残されています。リリオム自身の救済は理想と掛け離れていますが、リリオムが真に望む「ユリアからの許し」を得られるのであれば、その後の永遠の破滅を受け入れたとしても、彼の心は救済されたのだ考えられます。

 

人生はそんな気樂に終るものじゃあない。死んでしまった今でも、みんなが名前を知っている。顏も覺えている。何時何を言ったかも知っている。何處で何をしたかもだ。目附きや、聲や、握手の仕方がどうだったか、どんな足音をたてたかも、人は覺えている。その當人を思い出す者が一人でもいる限り、未だしなくてはならんことが澤山あるのだ。え、どうだね、お前は知らなかったろう。人間というものはだな、みんなから本當に忘れられてしまうまでは死んだのではないのだぞ。


「liliom」は、ラテン語「lilium」が由来で「百合の花」を意味しています。ハンガリーの葬儀では最も使用される花で、死者の魂が「無垢」な状態に戻ることを象徴しています。リリオムにとっての百合の花は、ユリアからの許しであったように思います。

戯曲として珍しい天上世界の描写を含んでいますが、その内容は非常に読みやすく、理解をしやすい作品となっています。リリオムの理想と現実の乖離による苦悩を、ぜひ読んで体感してください。

では。

 

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