ジョニー・キャッシュとその生涯   カントリーとロックの伝道師としての姿



ジョニー・キャッシュは不思議な魅力のあるシンガーであり、カントリー歌手の代表格としても知られるが、その音楽にはロックテイストが漂う。ハンク・ウィリアムス等の古典的なカントリーは少し苦手でも、キャッシュはかっこいいと言う人がいる。キャッシュは本質的にはアコースティックギターを使用したロックミュージシャンだったのではないだろうか。彼はエルヴィスの在籍したサン・レコードからデビュー、レッド・フォーリーと並んで戦後のカントリーミュージックのアイコンとなった。ある意味では、そのエルヴィスのように破天荒な生き方も、古典的なロックミュージシャンのイメージに近い。彼の生家はアーカンソーの綿畑の農家であり、貧しい農業コミュニティで育った。中期は、フランク・ザッパやリック・ルービンからの薫陶を受けたこともあり、必ずしも、カントリー・ウェスタンの形式にこだわらなかった。彼の音楽はむしろカントリーの先にあるロカビリーというスタイルを生み出すことになった。

 

 

多くの善良なアメリカ人と同じく、ジョニー・キャッシュの音楽的な概念の中にはキリスト教の題材がある。晩年、ジョニー・キャッシュの音楽は人間的な悲哀、道徳的な試練、贖罪をテーマに取ることが多かった。これらのテーマは20世紀の多くのヨーロッパのキリスト教圏で生活する文学者が題材にした。つまり、キリスト教における一神という存在と人間の存在がどのような関係性を持つのかについてである。それは形而下としての表現に至る場合もあれば、それとは正反対に、なんの変哲もない日常生活、あるいはカソリック的な概念から見た貞節と放埒というものまで実に広汎である。例えば、フランソワ・モーリヤックや北欧のノルウェーやスウェーデンの作家はほとんど、キリスト教的な試練を人生と結びつけ、それらを農民の生活や、それとは対極にある近代の都市生活、職業分化の生活と合わせて描いていたのだった。


多くのアメリカ人が戦前から戦後の時代にかけて、裕福になり、キリスト教の地域コミュニティが優勢になるにつれ、それとはまた異なる近代的な生活形態が出てきた。シンクレア・ルイスは「バビット」という著作のなかで、これらの経済的に裕福になり、フォードのような車に乗ることに夢中になり、しだいに軽薄な生活を送るようになるアメリカ人と、旧来のキリスト教社会に絡め取られる市民生活をコミカルに描いている。スタインベックの「怒りの葡萄」が取りざたされることが多いが、実はシンクレア・ルイスの小説の方が圧倒的な内容なのである。

 

ジョニー・キャッシュが見たアメリカの変遷というのも、これによく似たものであった可能性がある。彼は、アメリカの社会が戦前から戦後にかけてどのように移ろっていたのかをその目で捉え、そしてそれらをリアリティーのあるカントリー・ウェスタン、ロカビリー、あるいは純粋なロックとして昇華してきた。そして彼は純粋な音楽制作と並行し、自分の音楽が社会的な影響を及ぼすのかについても軽視することはなかった。”Man In Black"の代名詞に違わず、シンプルな黒服を着用し、急進的なイメージを掲げ、コンサートのMCでは自分の名を名乗るだけ、そして刑務所での無料コンサートを行ったり、慈善的な活動にも余念がなかったイメージ。彼の音楽の中には、ある意味では、古典的なスタイルのダンディズム、そして男らしさというのがある。それは低いロートーンのバリトンの声、そして徹底して脚色を嫌うというのが特徴だ。今ではジョニー・キャッシュのような姿は映画の中にしか見出すことが出来まい。


ジョニー・キャッシュは、ダイスという定住植民地の地域の綿畑農場で少年時代を過ごした。フランクリン・ルーズベルト大統領が制定したニューディール農業プログラムを活用し、キャッシュが3歳の時、彼らの一家はキングスランドからダイスへと転居した。キャッシュ一家は、五部屋の家に住まい、20エーカーを持つ農場で綿花や作物を収穫した。キャッシュはこの農家で15年の青春時代を過ごす。その間、家族が抱えていた負債は返済していく。しかし、財政難の生活は楽なものではない。キャッシュ一家の癒やしともなったのが、他でもない音楽だった。彼の母親は素晴らしい音楽のバックグランドを持っていた。賛美歌、プランテーションソングをキャッシュ少年は聴いた。カントリー、ブルース、そしてゴスペル。彼の生活には音楽がいつも流れていた。彼の母親は、夜に食卓の周りで歌ったのか、はたまた寝る前に子守唄代わりに賛美歌を歌ったのか。きわめて硬派な音楽であるにも関わらず、キャッシュの音楽に夢想的な音楽性が含まれているのは、彼の少年時代にその要因が求められるのかもしれない。

 

その後、ジョニー・キャッシュは日曜の教会に通い、ゴスペル音楽を吸収した。彼の母親はペンテコステ教会に属しており、また純粋なキリスト教信仰者でもあった。彼の母のキャリーはキャッシュに歌手としての才能を見込むと、実際にそれほど裕福とはいえないのに、お金をかき集め、彼にレッスンを受けさせた。最初の三度のレッスンで、彼の先生は歌に関しては何も教えることはないと言った。すでに12歳の頃に曲を書き始めていたキャッシュ少年はその後、ポピュラー音楽の薫陶を受ける。以後、ラジオから流れてくるカントリーミュージックが音楽的な啓示となる。カントリーウエスタンは、当時のポピュラー音楽であった。彼の家族はバッテリー式のラジオを家の中に置いていたが、キャッシュ少年はその不思議な箱から不思議な音楽が流れてくるのを耳にする。彼は若い時代を通じて、メンフィス、カーターファミリー、グランドールオープリー、それらの歌手のホスト役からカントリー音楽の薫陶を受けたのだ。

 

音楽というのは、そもそもその制作者が持つ最初の音楽体験と、それにまつわる思想形態が複雑に混ざり合う。それは記憶と概念の融合でもある。ジョニー・キャッシュのいちばんはじめの体験は、カントリー・ミュージックの素朴さと黒人霊歌の持つバックグラウンドの深さ、そしてそれはそのままアメリカという国家の歴史的な背景の重みでもあった。彼はテネシー・ワルツやそれとは対極にある宗教音楽としてのゴスペル、あるいはその中に含まれるキリスト教的な概念、そういったものに触発され、あるいは薫陶を受け、最初の音楽的な土壌を精神的に培っていったのだ。もうひとつのダンディズムや映画俳優のような硬派な歌手のイメージはその後の軍隊生活を送った期間に培われた。音楽活動のはじまりとして、アーカンソー州のブライスビルの高校集会でライブパフォーマンスの経験を積む。

 

高校の卒業後、彼はミシガンのボンティアックで短期間の労働を経た。彼は自動車工場で車のボディの組み立てをした。ブルーワーカーの肉体的な強靭さはすでに若い時代の農場で培われていた。その夏、彼は米軍に入隊する。John R Cashとして空軍に所属し、サンアントニオのラックランド空軍基地の訓練兵として派遣される。そこで、将来の妻、ビビアン・リベルトと運命的な出会いを果たす。空軍での四年をドイツのランツベルクで過ごしたこともあった。彼は無線の迎撃官、ソ連の無線トラックの盗聴等あらゆる米軍の任務を忠実に遂行したのだった。

 

 

これらの時代において、キャッシュはのちにサン・レコードからリリースする「フォルサム・プリズン・ブルース」、「ヘイ・ポーター」を作曲している。彼は、このドイツの時代に、空軍の仲間とバンドを結成し、ランズバーグ・バーバリアンとして活動している。ジョニー・キャッシュは、後にこのドイツの時代をドイツビールにかこつけて、少しジョーク交じりに回想している。「わたしたちの演奏はひどかった」と。「楽器をホンキートンクにもっていって、観客がわたしたちを追い出すか、それか、戦いがはじまるまで演奏を続けていたんだ」

 

1954年、キャッシュは空軍を退いた後、なんと家電のセールスマンへと転職する。空軍での肉体的なタフネスを身につけた後のセールスマンとしてのキャッシュの来歴は、音楽業界で生き残るための強かさを与えた。彼はメンフィスに定住し、ルーサー・パーキンス、マーシャル・グラントとギター、ウッドベースのバンドを結成し、教会や地元のラジオ局でライブ演奏を行う。キャッシュはこの頃、ドイツで購入した安い5ドルのギターを手に演奏した。最初の本格的なバンド活動は、ゴスペルに合わせて、カントリーウエスタンのスタイルを探求する契機となった。同じバンドにいたマーシャル・グラントはのちに2006年の自叙伝で、キャッシュのボーカルについて回想している。「彼はスタンダードな歌手であり、さほど素晴らしい歌手ではなかった」「しかし、不思議なことにその頃から彼の声には力強さと存在感があったのです」

 

 

1955年前後はエルヴィス・プレスリーがサン・レコードから登場し、ロック・ミュージックの誕生した記念すべき時代でもある。いわば、それ以前のブルース、ソウル、カントリー・ウェスタン等旧来の音楽が古典的なものに切り替わりつつある時代に、キャッシュは音楽シーンに登場している。つまりキャッシュは、急進的なイメージを持って登場したプレスリーとは異なり、古い時代の音楽とそれ以後の時代の音楽の橋渡し役としてシーンに現れた。当時、メンフィスのエルヴィスは、最初のレコードをリリースし、すでにローカルなヒーローとなりつつあったが、この最初の現象は彼のプロデューサーであるサム・フィリップスに対する世間的な関心を引き起こした。キャッシュの脳裏にあったのは、自分のレコードを出したいという思いと、もしかするとエルヴィスのようなローカルスターになれるかもしれないという切望だった。その年の後半、キャッシュはパーキンスとマーシャル・グラントを引き連れ、なんとサン・レコードのオフィスを連絡もとらずに訪れ、そしてサム・フィリップスのオーディションを受けた。フィリップスは、ジョニー・キャッシュのバンドの曲が好きだったというが、市場がロックへと移行しつつあるのを鑑みて、ゴスペルの選択はベストではないと考えた。サム・フィリップスはジョニー・キャッシュにオリジナルの曲を書いてまた戻ってくるように伝えた。

 

トリオはサム・フィリップスの助言を忠実に遂行する力があった。ジョニー・キャッシュによって書かれた「ヘイ・ポーター」の制作に取り掛かり、最初のサン・セッションを無事に終えたのだった。フィリップスはこの曲とフォローアップ曲「Cry, Cry, Cry」を痛く気に入り、ようやく彼はトリオとの契約にサインする。サン・レコードの契約名義は、Johnny Cash& Tennesse Twoだった。ヒット作請負人ともいえるフィリップスの見込みは大当たりだった。1955年にリリースされたジョニー・キャッシュの最初のシングル「Hey Porter」は圏外だったが、2ndシングル「Cry, Cry, Cry」はビルボードチャートで14位にランクインした。

 

サン・レコードからデビューした当初のジョニー・キャッシュ・バンドの快進撃は留まることを知らなかった。 「So Doggone Lonesome」「Folsom Prison Blues」等ヒット・ソングが続いた。キャッシュの最初の大きな成功が舞い込んできたのは、それから二年後の1956年のことだった。「I Walk The Line」はカントリー・ミュージックチャートで一位を獲得し、200万枚を売り上げた。シングルリリースとしては驚異的な数字であり、彼の人気の凄さがうかがえる。

 

 

「I Walk The Line」

 

 

 

 

音楽的な成功を手にしたジョニー・キャッシュは私生活での幸福にも恵まれた。後にグラミー賞を受賞するカントリー歌手、ジューン・カーターと結婚したキャッシュは、四人の子供に恵まれた。おそらくこれらの幸福な期間は数年は間違いなく続いたのだった。しかし、1960年代頃、プロミュージシャンとしての過密なスケジュールに加え、商業的な音楽の成功へのプレッシャーは計り知れないほど大きくなっていた。プロミュージシャンと家庭生活のバランス感覚を失ったキャッシュは、しだいに家庭内で威圧的な態度を取るようになっていった。その間、彼は家族とともに気分を変えるために、カルフォルニアに引っ越し、そしてグループとしても年間300日もの外泊をすることを余儀なくされた。彼と家庭との間に何が起きたのか。少なくともこの時代のことについては晩年の贖罪というテーマにも繋がってくる。キャッシュは家庭内の不和により、徐々に薬物やアルコールに依存しはじめた。こういった生活が数年続いた後、夫の不在に不満を抱くようになったカーターはついに二年後の1966年に離婚を決意する。当時のことについて、キャッシュは、「私は、飲むべきすべてのドラッグを飲んでいた」と振り返っている。「私が150ポンドもの距離を歩いたため、乗り越えたといった。その頃の私は歩く死のようだった」

 

 

そんなキャッシュに復活のチャンスが訪れた。彼はボブ・ディラン、ルイ・アームストロングまで当時の流行のミュージシャンを紹介するテレビバレエティ番組「ジョニー・キャッシュ・ショー」の司会に抜擢される。また彼はそれ以前の時代の反映を踏まえて、音楽活動と並行してより啓発的な活動に取り組むようになった。彼は多くの社会問題を定期するフォーラムを提供したり、ベトナム戦争から刑務所の環境改革、そして、ネイティブ・アメリカンの権利に至るまで多角的な議論の場を提供した。この時代、ジョニー・キャッシュが取り組んだのはアメリカの社会を善良な視点から捉え、それらの現実的な解決策を用意するように、対外的に働きかけるという内容であった。テレビ番組での司会と合わせて、キャッシュはフォルサム刑務所でのライブ・アルバムとしてリリースした。

 

 

この1968年のアルバムでキャッシュはグラミー賞を獲得するが、作品自体は批判と称賛の双方を巻き起こした。しかし、少なくともこのアルバムは商業的な成功に見舞われ、彼の人気を復活させる要因となったと言われている。その後も、キャッシュは立て続けにヒットシングルを連発した。

 

「A Thing Called Love」(1972)、「One Piece at a Time」(1976)である。ミュージシャンとしての着実な成功を手にする傍ら、彼は活動の領域を制限することはなかった。「Gunfight」(1970)で映画俳優として出演、さらには「Little Fauss and Big Halsy」(1970)のオリジナルサウンドトラックを手掛け、映画音楽の作曲も手掛けた。

 

また執筆活動も行うようになり、その中にはベストセラーとなった自伝「Man In Black」を出版した。その中で文化的な功労者としてのイメージも高まり、1980年代にはカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たした。キャッシュはその後も、さまざまな活動を行うように鳴り、バンドでの活動と合わせてコラボレーションや他のプロジェクトに取り組むこともあった。ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービンソンとのバンド活動や、一般的な人気を獲得した「The Class of '55」をレコーディングした。また、クリス・クリストファーソン、ウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングスとハイウェイマンを結成し、1985年から1995年にかけてスタジオアルバムを三枚リリースしている。有名なロックアーティストとのコラボも行い、1990年代には、U2とスタジオ制作を行い、1993年の「Zooropa」に収録されているトラックに参加している。これほど広汎な活動を長期間に渉って続けたアーティストというのは他に類を見ないほどである。

 

その後、キャッシュは健康問題を抱えるようになり、心臓バイパス手術の治療を受けながらも、音楽活動を断念することはなかった。これほどまでに彼を音楽に駆り立てた理由はなんだったのだろうか。1992年にロックの殿堂入りを果たした後、1994年にはリック・ルービンと組んで、「American Recordings」を発表した。このアルバムでは古典的なフォークバラードと現代のプロダクションを融合させ、彼の音楽がまだ色褪せていないことを証明した。このアルバムは、1995年のグラミー賞最優秀コンテンポラリーフォークアルバムを獲得している。その時のキャッシュの60過ぎという年齢を見るとほとんどこれは驚異的なことである。また同時の執筆活動も継続させ、1997年には二度目の回顧録「Cash: Autobiography」を出版した。やはりその後、神経疾患により入退院を繰り返した後、2000年代に入っても音楽を制作し続けた。ビートルズからナイン・インチ・ネイルズのオリジナルカバーとミックスを収録した「American Ⅳ・The Man Comes Around」を発表した。NINのトレント・レズナーは当初、それほどこのカバーに積極的ではなかったというが、最終的にはジョニー・キャッシュの熱い思いに降参した。「それは温かい抱擁のように感じた。私はそれについて考えると鳥肌が立つようでした」




ゴスペルやカントリーに始まり、そしてロックへと変遷していったジョニー・キャッシュの人生はその自伝を当たってみるの一番だ。しかし、彼は音楽の伝道師であり、その歌声を通じてさまざまな人々に感動をもたらし、そして音楽的な啓示を与えてきた。アーカンソーの農場で始まり、そして、12歳のときに作曲を始め、軍隊への入隊、そして、エルヴィスと並んでロックのヒーローでもあり続けた。もちろん、彼の音楽に対する欲求や創作意欲は晩年になっても薄れるどころか、強まる一方だった。ジョニー・キャッシュの音楽とは、彼が見たアメリカの時代の変遷の記録なのであり、また、その国家の歩みを音楽やアーカイブという形に留めるということである。

 

最後のアルバム「American Ⅴ」の録音に協力したリック・ルービン。そして、その傍らにいたであろうキャッシュの脳裏にはさまざまな光景がよぎる。アーカンソーの農場の生活が途絶え、グラミーの華やかな世界に変わる。ステージでカントリーとロックを歌う自分の姿、妻との離婚、必ずしも良い夫ではなかったこと。刑務所での慈善コンサート、また、彼自身も麻薬問題により人生の中で複雑な暮らしを送ったこと。贖罪の思いに駆られる。原初的なキリスト教の教えは、最終的にロック、カントリーと同時に、同じような弱い境遇にある人々に対する讃歌へと変わる。幼き日に歌ってくれた母の賛美歌。そして、教会で聴いた聖歌が脳裏からうっすらと遠ざかっていった。

 

2003年にジョニー・キャッシュの死の傍らにいた名プロデューサー、リック・ルービンは次のように回想している。「6月がすぎても、彼は何かを記録するのに充分なくらい生きる気力を持っていました。しかし、生きるのに精一杯だったのです」とリック・ルービンは言った。「6月が過ぎた明くる日、彼はこんなことを言いました。私は毎日何かをする必要があるって」ルービンは言った。「もし、そうでなければ、私がここにいる理由などないのですから」