歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、令和元年9月19日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『いだてん』第31~32回の感想です。

まずはあらすじ。
ロサンゼルスオリンピックが開幕し、日本水泳勢はメダルラッシュへと向かっていく。男子勢もさることながら、メダルを全く期待されていなかった前畑秀子(上白石萌歌)は200m平泳ぎで銀を取る。それに続けと言わんばかりに男子も100m背泳ぎで金銀銅を独占し、1500mでも金銀を獲った。男子200m平泳ぎは小池禮三(前田旺志郎)の金が期待されていたが優勝したのは何と鶴田義行(大東駿介)。二大会連続金メダルの快挙を実現したのであった。

多くのメダルを引っ提げ帰国した日本水泳勢。東京市長の永田秀次郎(イッセー尾形)は彼らをねぎらうべく迎えるが、銀メダルを取った前畑に対して「なぜ金を取らなかったのか」との落胆を伝える。田畑政治(阿部サダヲ)はその言葉に激怒するが、前畑は次回のベルリンオリンピックに向けて発奮するのであった。一方で、嘉納治五郎(役所広司)や岸清一(岩松了)らは昭和15年(1940年)のオリンピックを東京に迎えるべく、本格的な活動を始める。

ということで、




第31回は「トップ・オブ・ザ・ワールド」。
やはりメダルラッシュは見ていて楽しいですね。
それまで日本人はメダルを取れないと思われていたのに、水泳出場2回目にして1種目以外すべて制覇。
こんな快挙を成し遂げていたんですね。全然知りませんでした。


『いだてん』後半の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『いだてん』第39~40回―太平洋戦争の爪痕

同関連記事:
『いだてん』第35~36回―前畑に感動した

同関連記事:
『いだてん』第29~30回―戦前のメダルラッシュ


展開としては単純明快。
ひたすら努力を続け、満州事変で世界で孤立しつつある日本人がメダルを取りまくるという暗→明のわかりやすすぎる展開ですが、感動してしまいました笑

僕自身も単純なんですね笑


日中戦争に言及のある記事:
平和への願いとともに生まれた徳川家康(山岡荘八『徳川家康』第1巻)

日中戦争に言及のある記事:
『いだてん』第37~38回―やっぱり出征はつらい

日中戦争に言及のある記事:
横浜中華街


それと、紀行の枠ではありましたが、バロン西こと西竹一大佐についての言及があってよかったです。

第32回は「独裁者」。
永田市長の「なぜ金をとらなかったのかね」というセリフに対しては不覚にも少し腹が立ってしまいましたが、政治や岸清一に激怒されたあと「だが、それは日本人みんなが思っていること」という言葉にリアリティを感じましたね。

この無責任さって、昭和・平成の遺産というか、ビジネスクラス症候群のいい例だと思うんですよね。
「プロなんだからここまでやれよ」と言って無理難題を吹っかけてくる理不尽さ。
まぁ、結果的に前畑はその後結果を出すわけですが、それはたまたまうまくいっただけでさ。

(オリンピックの場合はお客様ではありませんが)客なんだから何を要求してもあり、という理不尽さの残照には我々の世代に至るまで苦しめられてきたわけですが、令和の夜明けとともにそういう老害は殲滅されつつあるのが幸いです。

昭和の悪しき残骸はすべて消えてほしいですね(もちろん、良い伝統は残すべきだと思います))

で、今回は昭和15年東京オリンピック実現に向かっての準備段階ということで田畑政治が結婚したこと以外目立った展開がありませんでしたが(笑)、まぁ、普通に面白かったです。

ちなみにですが、オリンピック招致委員として登場した副島道正(塚本晋也)は佐賀藩の副島種臣の三男だそうです。

今回は以上です!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)※現代劇ですが、ときどき字や諱をもっている人がいるので。
・小池 禮三 (氏不明) (諱不明)
こいけ れいぞう (氏不明) (諱不明)
・鶴田 (通称不明) (氏不明) 義行
つるた (通称不明) (氏不明) よしゆき
・永田 秀次郎 (氏不明) (諱不明)
ながた ひでじろう (氏不明) (諱不明)
・田畑 政治 (氏不明) (諱不明)
たばた まさじ (氏不明) (諱不明)
・嘉納 治五郎 (氏不明) (諱不明)
かのう じごろう (氏不明) (諱不明)
・岸 清一 (氏不明) (諱不明)
きし せいいち (氏不明) (諱不明)
・西 竹一 (氏不明) (諱不明)
にし たけいち (氏不明) (諱不明)
・副島 (通称不明) 菅原 道正
そえじま (通称不明) すがわら の みちまさ
・副島 次郎 菅原 種臣
そえじま じろう すがわら の たねおみ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
第31回
EMOTION IN MOTION(音楽レビューブログ)
ドラマ@見とり八段
韓ドラ大好きおばさんの「言いたい放題いわせてヨ!」
第32回
ドラマ@見とり八段
韓ドラ大好きおばさんの「言いたい放題いわせてヨ!」

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・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

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※この記事は、令和元年11月10日に書かれたものです。


皆さんこんばんは。
今回は歴史小説の大家津本陽氏の名作『名臣伝(めいしんでん)のご紹介です。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

津本陽氏の著作についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
津本陽『椿と花水木』

外国人が流入してきて日本人のアイデンティティが問われ始めて久しい今日この頃。
そのアイデンティティの一要素として「武士道」が叫ばれてこれまた久しいですが、とかく「武士道」というものは尾ひれがついて都市伝説化している感があります。

今回の津本陽(つもと・よう)氏の『名臣伝』は津本氏の出身地である紀州(きしゅう)藩に伝わる武士、特に初期の武士たちの逸話を集めた短編集です。


「武士道」に言及した記事:
一言坂の戦い合戦に学ぶ―がむしゃらになれ

同上:
ラストサムライ

同上:
若松義人『トヨタ流「最強の社員」はこう育つ』

「紀州」関連の記事:
雑賀・根来合戦から学ぶ―つまらない職場を楽しくする方法




初期紀州藩の家臣団


紀州藩は徳川家康の十男徳川頼宣が駿府(すんぷ)藩から移封(いほう)され、成立した親藩(しんぱん)です。
その紀州移封の際に連れて行った家臣はほとんどが駿府藩時代からの家臣であり、徳川譜代(とくがわ・ふだい)の家臣団でした。

その中でも際立つのがいわゆる「横須賀党(よこすか・とう)」と呼ばれる集団です。
彼らは関東(かんとう)移封以前の徳川家において遠江(とおとうみ)横須賀城を守っていた大須賀五郎左衛門尉康高の旧臣(きゅうしん)で、武田(たけだ)方に奪われた高天神(たかてんじん)城を奪回する際の猛攻撃に加わった武士たちでした。


関連記事:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

関連記事:
第一次高天神城の合戦-場を俯瞰する


その武勇は当時から語り草になっており、徳川家臣団の中でもその勇猛さは特にたたえられていたようです。




藩内外に響いた武勇


そんな横須賀党の子孫として名を連ねているのが市川門太夫
剣術の達人であったが藩に藩政批判を疑われ、神文(しんもん)(神に誓う文書)を書いて藩に潔白を訴えるように勧められたが、それを「腰抜け侍のすること」といって自ら首を切って果てるというすさまじさ。

また、横須賀党出身者以外でも武勇の家臣たちの個性が光ります。

長篠設楽原(ながしの・したらがはら)の戦いで武田の名将内藤修理亮を討ち取る、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い羽柴筑前隊を攪乱(かくらん)し大手柄を挙げるなどの活躍をし、老いてもなおその気迫を保ち続けた朝比奈惣左衛門

関連記事:
長篠の合戦―プライドよりも信頼関係を重視せよ

関連記事:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない


普段は温厚であるが紀州藩を貶めるような発言には容赦せず、年上で武勇の将である井伊掃部頭直孝を黙らせる迫力をもった安藤飛騨守直治など、総勢14人の家臣たちが名を連ねています。




徳川家臣団のすさまじさ


こんな感じで江戸(えど)時代初期の紀州藩の家臣たちのエピソードを集めた本作品ですが、そこで垣間見えるのは徳川家臣団のすさまじさですね。

よく戦国(せんごく)時代最強の武将は?みたいな問いがなされますが、それは間違いなく徳川家康だと思います。

彼は温厚な人柄だと思われていることが多く、合戦の武勇もあんまり語られることはないのですが、実は直情型の武将だったという話があります。

家臣団も異常なまでに忠誠心が高く、猪突猛進(ちょとつもうしん)の猛攻を行う武将が多かったようです。

現に、徳川家康が直接参加していて負けたのは桶狭間(おけはざま)の戦いと三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの二戦のみで、あとは勝ち続けているんですね。
(武田軍にいくつか城を落とされるなど、参加していない戦での敗戦はいくつかありますが)


関連記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める

関連記事:
三方ヶ原の合戦―最強の能力「豹変力」


そんな徳川家最強説を裏付けるエピソードとして、また、江戸時代初期の生々しい「武士道」を語る上で欠かせないのがこの『名臣伝』です。

是非ご賞味ください!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・徳川 権大納言〔通称不明〕 源 朝臣 頼宣
とくがわ ごんのだいなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん よりのぶ
・大須賀 五郎左衛門尉 平 康高
おおすが ごろうざえもんのじょう たいら の やすたか
・市川 門太夫 源 (諱不明)
いちかわ もんだゆう みなもと の (諱不明)
・内藤 修理亮〔通称は源左衛門〕 藤原 朝臣 昌豊
ないとう しゅりのすけ〔通称はげんざえもん〕 ふじわら の あそん まさとよ
・羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の ひでよし
※豊臣秀吉は「羽柴秀吉」から「豊臣秀吉」に改名したわけではない(参考:『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
・朝比奈 惣左衛門 藤原 泰倫
あさひな そうざえもん ふじわら の やすとも?
・井伊 掃部頭〔通称は弁之助〕 藤原 朝臣 直孝
いい かもんのかみ〔通称はべんのすけ〕 ふじわら の あそん なおたか
・安藤 飛騨守〔通称は彦兵衛〕 安倍 朝臣 直治
あんどう ひだのかみ〔通称はひこべえ〕 あべ の あそん なおはる
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参考
今回はなしです。

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※こちらの記事は、平成30年12月25日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「合戦における戦術について」シリーズの第3弾ということで「三分一原(さんぶいちはら)の合戦」について書きます。
『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の花ヶ前盛明氏の記事を参考にしています。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


参考
第1弾 勝弦峠の合戦
第2弾 戸石城の合戦
第3弾 長森原の合戦

まずはどのような戦だったのかというと




天文(てんぶん)5年(1536年)、越後頚城郡(えちご・くびきぐん)の三分一原にて守護代(しゅごだい)長尾為景と、守護一族の上条定憲との間に行われた戦いです。

前回の記事を読んでくださった方はわかったと思いますが、上条定憲は長森原(ながもりはら)の合戦では最初は上杉顕定方だったものの途中で為景方につき、ともに顕定と戦った人物です。
彼は上条上杉(じょうじょう・うえすぎ)家という一族で、越後守護の上杉家とは近い血筋の人物です。


長森原の合戦についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
長森原の合戦―負け上手は合戦上手

上杉顕定関連の記事:
権現山の戦いから学ぶ―弱い者の戦い方


長森原の合戦では一時的に為景に味方したものの、決して為景本人に味方したわけではなく、新越後守護の上杉定実に味方したようです。

そのため、定実が為景と敵対すると定憲も為景と敵対し、この三分一原の合戦となったようです。

仕掛けたのは定憲で、緒戦は定憲方有利に進みますが、柿崎景家の裏切りによって窮地に陥り、結局敗退したようです。

そのため、為景方は積極的に勝利を収めたわけではなく、内応(ないおう)によって勝利を収めたわけですね。

ですから戦略としては結局
・敵方の有力者柿崎景家を内応させた説得力と魅力

ということが勝因となりますね。
いや、分析も何もありません 笑

中身のない記事ですいません 笑

まぁ、歴史としてはこの戦いで越後長尾(ながお)氏は完全に越後を制覇し、為景は嫡男(ちゃくなん)の晴景に家督(かとく)を譲り、着々と長尾景虎こと上杉謙信が活躍する土壌が形勢されていったわけです。


関連記事:
栃尾城の合戦―どんな手を使ってでも味方を増やす

関連記事:
川中島の合戦―場を俯瞰し、目先の動きに没入しない

関連記事:
七尾城の合戦―明るい未来を描けない組織は内部崩壊を起こす


※写真は長尾為景の居城春日山城です。

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・長尾 信濃守〔通称は六郎、弾正左衛門尉〕 平 朝臣 為景
ながお しなののかみ〔通称はろくろう、だんじょうさえもんのじょう〕 たいら の あそん ためかげ
・上条 播磨守〔通称は弥五郎〕 藤原 朝臣 定憲
じょうじょう はりまのかみ〔通称はやごろう〕 ふじわら の あそん さだのり
・上杉 四郎〔官職不明〕 藤原 (朝臣?) 顕定
うえすぎ しろう〔官職不明〕 ふじわら の (あそん?) あきさだ
・上杉 (官職・通称不明) 藤原 (朝臣?) 定実
うえすぎ (官職・通称不明) ふじわら の (あそん?) さだざね
・柿崎 和泉守〔通称は弥次郎〕 平 朝臣 景家
かきざき いずみのかみ〔通称はやじろう〕 たいら の あそん かげいえ
・長尾 左衛門尉〔通称は弥六郎〕 平 朝臣 晴景
ながお さえもんのじょう〔通称はやろくろう〕 たいら の あそん はるかげ
・上杉〔長尾〕 弾正少弼〔通称は平三〕 藤原〔平〕 朝臣 政虎〔景虎、輝虎。入道謙信〕
うえすぎ〔ながお〕 だんじょうのしょうひつ〔通称はへいぞう〕 ふじわら〔たいら〕 の あそん まさとら〔かげとら、てるとら。入道けんしん〕

参考
新・馬屋古の独り言!
戦国らいふ
hamさんのひとり言。

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Travel SourcedによるPixabayからの画像
※こちら記事は、平成29年8月12日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回はまた『哲学ニュース』の記事「大航海時代に日本が侵略されなかった理由wwwww」について検証してみようということで、

第1回  ヨーロッパと日本の距離について
第2回  日本から産出された資源について
第3回  日本の産業について
第4回  日本とヨーロッパの戦力差(前編)
第5回  日本とヨーロッパの戦力差(後編)
第6回  1501年時点での日本の統一状態について
第7回  1549年時点での統一状態について
第8回  本能寺の変直前の統一状態について

に続いての第9弾です。


これまで上記の内容を調べてきましたが、第9弾は…




1590年の豊臣秀吉の天下統一直前での群雄割拠の状態を調べようと思いましたが、戦国大名時代から生き残っているのが西から島津、毛利、長宗我部、羽柴(豊臣)、徳川、上杉、北条、里見、佐竹、岩城、伊達、相馬、大崎、最上、小野寺、葛西、南部、戸沢、安東、大浦などで、東北勢は比較的戦国大名の家が残っていますが、それ以外の地域は各地方の覇者とその家臣たちが大名化している状態でほとんど群雄割拠と呼べる状態ではないので、羅列しても意味がないと思いました。

そこで、統治についての今までのおさらいしてみようと思います。

まず、1501年段階では独立した戦国大名が75家と日本中が混乱の様相で、この頃ヨーロッパ勢に攻められたらひとたまりもありませんが、この頃はまだヨーロッパ人はたどり着けていませんでした。

1501年の群雄割拠の様子を知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(6)―1501年時点での日本の統一状態について

続いての1549年は大名家は68家と減ってはいますが具体的な大名家の様子を見ると日本はますます混乱していたようですが、ヨーロッパはまだザビエルが来たくらいで(視察にきたという説もあります)、攻めるかどうかは決めていなかったようです。

参考記事:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(7)―1549年時点での統一状態について

続く1582年の本能寺の変直前では織田信長が天下統一にリーチをかけ、各地方は島津、毛利、長宗我部、徳川、北条などが覇権を握り始め、東北以外の土地は統一されてきていました。
この頃にヨーロッパが攻めてきても、各地の覇者が手を結んで撃退するくらいのことはできそうでした(あくまで想像ですが)。

参考記事:
大航海時代に日本が侵略されなかった理由(8)ー本能寺の変直前の統一状態について

そして本能寺の変で国内が混乱するかに見えましたが、豊臣秀吉の手によって10年足らずで統一され、ヨーロッパ勢がたやすく征服できそうな状態ではありませんでした。


本能寺の変についての記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

豊臣秀吉の天下統一の戦い:
小田原征伐に学ぶ―相手に口実を与えない


という訳で、各戦国大名の統治システムそのものを見ていくには学術論文ばりの労力が必要になりそうなのでできませんが、全体的な統治の様相を見てみると、ヨーロッパ勢の征服の準備が整う前に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑によってとっとと天下統一されてしまったようですね。

徳川家康の天下統一の戦い:
関ヶ原の戦いに学ぶ―相手に納得感を与える

運もありますが、やはり織田、豊臣、徳川は偉大だったというわけでしょうか 笑

こんな感じで、このシリーズも最近アクセス数が落ちてきているので次にもやるかわかりませんが、興味ある人はFacebookとかtwitter、google+などでいいねを押してください!
※令和3年11月10日注:現在はgoogle+は廃止されています。

※画像はイメージです。

参考
しばやんの日々
ナチュラリストの散歩道
るいネット
こん

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※この記事は、令和3年6月24日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第12回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『青天を衝け』の楽しみ方】
・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について
・第3回―平岡家について・第4回―阿部家について
・第5回―藤田家について・第6回―美賀君の血筋
・第7回―井伊家について・第8回―岩瀬忠震の出自
・第9回―安政頃の西郷吉之助・第10回―安藤信正について
・第11回―高崎城について


まずはあらすじ。




第12回のあらすじ


文久(ぶんきゅう)3年(1863年)、渋沢栄一(吉沢亮)は従兄の喜作(高良健吾)とともに江戸(えど)にいた。

高崎(たかさき)城襲撃のため、武器を調達していたのである。

栄一たちは自分達を監視する者がいることに気づき逃亡を図る。

しかし捕らえられ土間(どま)に座らされると、そこには一人の男がいた。

一橋権中納言慶喜(草彅剛)の家臣(かしん)平岡円四郎方中(堤真一)であった。

栄一は斬られることを覚悟したが、彼の志を聞いた円四郎は栄一に、連れてこられた喜作と一緒に自分の家臣にならないかと誘った。

突然の誘いに戸惑った両名は断るが、円四郎は気が変わったら訪ねてくるように伝え、去っていった。

高崎城襲撃計画の日が近づき、血洗島(ちあらいじま)に戻った栄一と喜作は、京都(きょうと)から戻った尾高長七郎(満島真之介)を迎えた。

しかし、喜び勇んで謀議に加わると思われた長七郎は、計画への反対を表明した。

長州(ちょうしゅう)も薩摩(さつま)もイギリスと戦って負け、攘夷(じょうい)をあきらめたという情報に触れていた長七郎は、兄・惇忠らの計画が無謀であると感じていた。

長七郎の命がけの説得を受け、惇忠、栄一らは計画を中止した。

計画は中止したものの、それまでの動きによって幕府(ばくふ)の役人(やくにん)である八州廻り(はっしゅうまわり)に目をつけられていた栄一は、父・市郎右衛門に計画のすべてと家の稼ぎを横領したことを告白した。

市郎右衛門はすべてを受け止めた上で、さらに栄一にお金を渡し、「道理に外れたことだけはするな」と栄一を諭した。

父の言葉に感動した栄一は、喜作とともに京都へと旅立った。

ということで、




第12回「栄一の旅立ち」の感想


栄一&喜作と平岡円四郎の邂逅(かいこう)、楽しかったですね!

軽妙で芯を捉えた平岡円四郎の話し方は、天然で頭の回転の早い人の話し方そのものですね。
(それを作れる脚本家の方がすごいです)

話のテンポがよくて楽しいです。

ただ、ドラマの中では円四郎が栄一や喜作を見初めたのはあの一瞬だった、みたいな描かれ方でしたが、下記ゆーくんままさんのブログで引用されている渋沢栄一の自伝『雨夜譚(あまよがたり)』の記述では、その前からちょこちょこ会っていて、家臣に誘われる頃にはすでに仲良くなっていたような感じですね。

このドラマで初めて脚色らしい脚色を感じた気がします。

そして、長七郎の命がけの制止は名演でしたね!

あの鬼気迫る演技もすごかったですし、長七郎が何となく精神をやられてるんじゃないかという目運びにも恐れ入りました。

締めくくりは栄一の父・市郎右衛門の懐!

子供のやることに「いいよ、いいよ」と何でも許容するのは愛とは言えないとは思いますが、止めたい気持ち、否定したい気持ちを踏み越えての許容には力を感じますね。

器ですね!

これも、下記ゆーくんままさんのブログによると史実とのことで、こんなにすごい人が名の知られていない農村にいたんだなと思うと、なんだかほっとしますw




第12回の楽しみ方―一橋徳川家について―


今回は一橋慶喜が当主を務め、平岡円四郎らが活躍し、後に渋沢栄一・喜作が仕えることになる一橋(ひとつばし)家について書こうと思います。

まずは呼称についてなのですが、このブログでも大体「一橋家、一橋家」と書いていますが、正確には「一橋徳川(ひとつばし・とくがわ)家」となります。

「一橋家」と書いている例を見たい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第11回―高崎城について

当時は現代のように戸籍で名前がガチガチに固められていたわけではありませんが、「一橋」という呼称は名字(みょうじ)として認知されていたわけではなく、あくまで「徳川家」の枠の中での「一橋流」であり、正式な名字は「徳川」となります。
※御三家(ごさんけ)の尾張(おわり)家、紀州(きしゅう)〔紀伊(きい)〕家、水戸(みと)家の名字も「徳川」です。

参考記事:
武家や公家の名前について

一橋徳川家の大元は、8代将軍家・徳川右大臣吉宗にさかのぼります。

吉宗は徳川宗家(そうけ)の分流・紀州家の四男であり、本来であれば紀州家相続も夢のまた夢、と思われる相続順位にいました。

しかし次兄(じけい)は早世し、長兄(ちょうけい)の権中納言綱教、三兄(さんけい)の左近衛権少将頼職が相次いで死去したため、22歳で紀州徳川家を継いでいます。

さらにその後、徳川宗家では7代将軍家(しょうぐんけ)・内大臣家継が死去し、男系(だんけい)が絶えるという事件が起こりました。

多少の曲折がありつつも、徳川家の分家(ぶんけ)・紀州家の四男という境遇から宗家、つまり征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を継いだ吉宗は、男系直系(ちょっけい)の相続がなかなかに難しいことを実感していたのでしょう。

そもそも御三家のうち尾張家と紀州家は、東照大権現(とうしょうだいごんげん)徳川家康が徳川宗家の血筋が絶えた時に宗家を継ぐ家格(かかく)として建てた家でしたが(※)、その紀州家も当主の相次ぐ死を経験していました。
※水戸(みと)家は元々は水戸松平(まつだいら)家と呼ばれており、尾張家・紀州家と並ぶ家格ではありませんでした。


徳川家康について:
苦難の時代の幕開け―山岡荘八『徳川家康』第5巻

同関連記事:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない

同関連記事:
徳川家康の生涯を貫く思想―山岡荘八『徳川家康』第4巻


そういった経緯からか、より徳川宗家に近い血筋として、宗家の直系が絶えた時に宗家を継ぐ家として建てた家のひとつが一橋徳川家でした。
※もう一家は田安(たやす)家で、9代将軍家・右大臣家重の代に作られた清水(しみず)家を加えて「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれています。

その一橋家は、10代将軍家・右大臣家治の養子として太政大臣家斉が将軍家を継ぐことでその役割を果たします。

しかし、一橋家4代当主・参議斉礼以降5代続けて当主の早世(そうせい)を繰り返し、参議斉礼の死後、たった17年で9代目当主を迎えました。

その9代目当主が、今回のドラマで活躍している権中納言慶喜です。


他ドラマでの徳川慶喜:
『西郷どん』第46~47回―不覚にも感動しました

同関連記事:
『西郷どん』第35~36回―近江屋事件と錦の御旗

同関連記事:
『西郷どん』、盛り上がってきたかな?(第34回)


今ほど医療の発達していないこの時代、男系相続がどれだけ難しかったかということを物語っていますね。

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・渋沢 栄一〔栄二郎、栄一郎〕 源 美雄
しぶさわ えいいち〔えいじろう、えいいちろう〕 みなもと の よしお
・渋沢 喜作〔成一郎〕 源 英明
しぶさわ きさく〔せいいちろう〕 みなもと の ひであき
・(一橋)徳川〔松平〕 権中納言〔幼名は七郎麻呂〕 源 朝臣 慶喜〔昭到〕
(ひとつばし)とくがわ〔まつだいら〕 ごんのちゅうなごん〔幼名はしちろうまろ〕 みなもと の あそん よしのぶ〔あきむね〕
・平岡〔岡本〕 円四郎 源?〔清原?〕 方中
ひらおか〔おかもと〕 えんしろう みなもと?〔きよはら?〕 の けたち
・尾高 長七郎 (氏不明) 弘忠
おだか ちょうしちろう (氏不明) ひろただ
・尾高 新五郎 (氏不明) 惇忠
おだか しんごろう (氏不明) あつただ(ドラマ中では「じゅんちゅう」)
・渋沢 市郎右衛門〔元助〕 源 美雅
しぶさわ いちろううえもん〔もとすけ〕 みなもと の よしまさ
・征夷大将軍〔将軍家〕 (紀州、紀伊)徳川〔松平〕 右大臣〔通称は新之助〕 源 朝臣 吉宗〔頼久、頼方〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 (きしゅう、きい)とくがわ〔まつだいら〕 うだいじん〔通称はしんのすけ〕 みなもと の あそん よしむね〔よりひさ、よりかた〕
・(紀州、紀伊)徳川 権中納言〔通称不明〕 源 朝臣 綱教
(きしゅう、きい)とくがわ ごんのちゅうなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん つなのり
・(紀州、紀伊)徳川〔松平〕 左近衛権少将〔通称不明〕 源 朝臣 頼職〔頼元〕
(きしゅう、きい)とくがわ〔まつだいら〕 さこんえごんのしょうしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん よりもと〔よりもと〕
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川〔世良田〕 内大臣兼右近衛大将〔通称不明〕 源 朝臣 家継
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ〔せらだ〕 ないだいじんけんうこんえのだいしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん いえつぐ
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 太政大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ だじょうだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 右大臣〔通称不明〕 源 朝臣 家重
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ うだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん いえしげ
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 右大臣〔通称不明〕 源 朝臣 家治
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ うだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん いえはる
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 太政大臣〔通称不明〕 源 朝臣 家斉
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ だじょうだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん いえなり
・(一橋)徳川 参議〔通称不明〕 源 朝臣 斉礼
(ひとつばし)とくがわ さんぎ〔通称不明〕 みなもと の あそん なりのり
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ぴえーるのテレビブログ
ゆーくんはどこ?
韓ドラ大好きおばさんの「言いたい放題いわせてヨ!」

/
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・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

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※こちら記事は、令和2年8月4日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今年の大河ドラマ『麒麟がくる』に関しての楽しみ方を解説していたこのシリーズですが、ドラマの放送休止に伴い、今回からは代替番組『麒麟がくるまでお待ちください』の楽しみ方を解説していきたいと思います。

番組を見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い
・第21回―松平蔵人の親族


ということで、




『国盗り物語』の感想


『国盗り物語』は昭和48年(1573年)に放送されたものです。

司馬遼太郎(しば・りょうたろう)の同名小説を原作としており、前半は斎藤道三(平幹二朗)の生涯を、後半は織田信長(高橋英樹)と明智光秀(近藤正臣)にフォーカスして描かれています。


司馬遼太郎氏作品についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
司馬遼太郎『関ヶ原』上

同関連記事:
司馬遼太郎『関ヶ原』中

同関連記事:
司馬遼太郎『関ヶ原』下


僕はこの大河を見たことがなかったのですが、登場人物の思考を俳優がアフレコしているのに驚きました。

アニメみたいですね。

新鮮ではあったし、その人物が考えていることは伝わりやすいとは思いますが、今見ると滑稽な気がしますし、俳優の表情や仕草での演技の方が好きです 笑

その表情や仕草の理由が分かったときの感動が違いますしね。

それと道三こと松波庄九郎が奈良屋(ならや)のお万阿(まあ)(池内淳子)と結ばれたときの庄九郎のセリフ「どう料理るか」に笑いました。

「料理る(りょうる)」とは江戸時代から存在する言葉で、字のごとく「料理する」という意味から派生して「対象物をうまく処理する」という意味で使われるのですが、昭和のこの時代まで使われていたのですね。

昭和中期頃までの時代・歴史小説にはちょこちょこ登場する表現なので、おそらく司馬遼太郎氏の原作にあったセリフなのでしょうね。

で、結局、今回のダイジェストを見ただけでは『国盗り物語』全体の魅力はわかりませんでした。

正直、ダイジェストと見た段階では特に見たいなとは思わなかったのですが、多くの人が名作とおっしゃっている大河ですし、今回の『麒麟がくる』は『国盗り物語』をオマージュしているともいわれているので、機会があったら全話見てみたいです。




『国盗り物語』の楽しみ方―斎藤道三二代説―


というわけで、『国盗り物語』と『麒麟がくる』の道三の描き方に不自然さを感じた方はいらっしゃると思うのですが、実際に異なる描き方をされています。

それは、道三の成り上がりの過程について。

ここで、道三の成り上がり過程を復習してみましょう。

①明応(めいおう)3年(1494年) 山城国乙訓郡(やましろのくに・おとくにぐん)(現在の京都市西京区・向日市・長岡京市(きょうとしにしきょうく・むこうし・ながおかきょうし)の辺り)で生まれる(永正(えいしょう)元年(1504年)説あり)。幼名:峰丸(みねまる)

②永正2年(1505年) 京都・妙覚寺(みょうがくじ)にて僧となり、法蓮房(ほうれんぼう)を名乗る。

③年代不明 還俗(げんぞく)して松波庄五郎(庄九郎)を名乗る。

④年代不明 油問屋(あぶらどんや)・奈良屋の娘を娶り、山崎屋(やまざきや)の屋号を名乗って油商人となる。
※『麒麟がくる』の劇中で「油売り」と言っていたのはこのことを指しています。

参考記事:
『麒麟がくる』第17~18回―斎藤家の血族関係と永禄元年までの織田家

※『国盗り物語』で「料理る」という言葉が出てきた場面です。

⑤大永(たいえい)年間(1521~1528)年 美濃(みの)守護(しゅご)・土岐(とき)氏家臣である長井越中守長弘に仕え、西村(にしむら)家の家名を継ぐ。
西村勘九郎正利と名乗る。

⑥大永7年(1527年) 土岐左京大夫頼芸の美濃守護補任(ぶにん)に協力する。

⑦天文(てんぶん)2年(1533年) 長井越中守を殺害し、長井新九郎規秀を名乗る。

⑧天文7年(1538年) 美濃守護代(しゅごだい)・斎藤大和守利良の死により斎藤(さいとう)氏の名跡(みょうぜき)を継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗る。
美濃守護代となる。

とこんな感じで、これ以降は『麒麟がくる』で描かれていましたね。

ここで問題になるのが油売り・松波庄五郎(庄九郎)の存在です。

『麒麟がくる』では確か、道三の息子の新九郎高政が道三に向かって「油売りの子」と言っていたはずです。

道三のことを「油売りの子」と言っているんですね。

あれ?おかしいですよね?

『国盗り物語』では松波庄五郎(庄九郎)も道三も平幹二朗さんが演じていたはず…




実は、江戸(えど)時代~20世紀に入るまで、上記①~⑧はすべて道三一人の所業とされていました。

しかし、1960年代の調査で上記①~⑧は父子二代にわたる所業なのではないかという説が浮上しました。

『麒麟がくる』では、この「成り上がり父子二代説」を採っている訳ですね。
※通説はあくまで道三一人の所業とされています

※ちなみに、⑤の辺りまでが道三の父のやったことで、彼は最終的に長井新左衛門尉(豊後守)と名乗ったとされています。

↓参考:美濃斎藤氏略系図
※クリックで拡大されます。
美濃斎藤氏略系図





『利家とまつ』の感想


『利家とまつ』の放送は平成14年(2002年)でこの頃僕は大学一年生でした。

ちょうどそのころ、僕は恋にバイトに学業に大忙しでテレビ離れをしていた時期で、大河ドラマどころかテレビ番組をほとんど見ていなかった時期に当たります。

また、これ以前5年間くらいの大河は総じてあまり「面白い」という噂を聞いたことがなかったのもあります。
※『利家とまつ』に関しては「面白くない」という噂も聞いたことはありませんが 笑

ですのであまりいい印象はなく、今回の『~お待ちください』で『利家とまつ』の冒頭を見たときもあまり面白そうだとは思いませんでしたが、中盤になって感想が変わりましたね。

おそらく、主演の唐沢寿明氏・松島菜々子氏をはじめ反町隆史氏や香川照之氏等俳優陣の熱量がすごかったのでしょうね。

あとは、前田又左利家と羽柴藤吉郎秀吉の出世争いのデッドヒートが面白かったです。

このドラマは見たくなりました。




『利家とまつ』の楽しみ方―利家の生涯―


ドラマ中で描かれているはずですが、ここでは前田又左衛門利家の生涯をおさらいしておこうと思います。

・天文7年12月(1539年1月) 尾張荒子(おわり・あらこ)城主(現在の名古屋市中川区荒子(なごやし・なかがわく・あらこ)前田縫殿助利春の四男として誕生。幼名:犬千代(いぬちよ)

・天文20年(1551年)、小姓(こしょう)として織田三郎信長に仕える。

・天文21年(1552年)、三郎信長と織田彦五郎信友が争った萱津(かやづ)の戦いで初陣(ういじん)
元服(げんぷく)して又左衛門利家と名乗る。

・永禄(えいろく)元年(1558年)ごろ、三郎改め上総介信長の親衛隊的部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」に抜擢される。
篠原主計(一計)の娘であり、父・前田縫殿助に養育されていたまつを正室(せいしつ)に迎える。

・永禄2年(1559年)、上総介の同朋衆(どうぼうしゅう)である拾阿弥(じゅうあみ)といさかいを起こし殺害する。
柴田権六、森三左衛門のとりなしで死罪を免れ、浪人となる。

・永禄3年(1560年)、桶狭間(おけはざま)の戦いに無断参戦。

参考記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める

・永禄4年(1561年)、斎藤家との戦いである森部(もりべ)の戦いに無断参戦し、功績を認められ、織田家帰参(きさん)を許される。

・永禄12年(1569年)、上総介改め織田弾正少忠信長の命で、兄・蔵人利久より荒子前田(あらこ・まえだ)家の家督を継ぐ。

・元亀(げんき)元年(1570年)、金ヶ崎(かねがさき)城の戦、姉川(あねがわ)の戦い、春日井堤(かすがいつつみ)の戦い(対石山本願寺(いしやま・ほんがんじ)戦)に参戦。


参考記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

参考記事:
姉川の合戦-即座に方針転換する


・天正(てんしょう)元年(1573年)、一乗谷(いちじょうだに)城の戦いに参戦。

・天正2年(1574年)、長島一向一揆(ながしま・いっこういっき)との戦いに参戦。
柴田権六改め修理亮勝家の与力(子会社への出向的な扱い)となる。

・天正3年(1575年)、長篠(ながしの)の戦いに参戦。
越前(えちぜん)一向一揆を平定。柴田修理より、佐々内蔵助・不破河内とともに越前・府中(ふちゅう)10万石を与えられる。
→以降、対上杉(うえすぎ)戦で各地の戦闘に参加。

・天正6年(1578年)、摂津・有岡(せっつ・ありおか)城の戦いに参戦。
~天正8年(1580年)、播磨・三木(はりま・みき)城攻めに参戦。

・天正9年(1581年)、織田弾正少忠改め前右大臣信長より能登(のと)一国を与えられ、七尾(ななお)城主23万石となる。

・天正10年(1582年)、本能寺(ほんのうじ)の変が勃発。又左は越中・魚津(えっちゅう・うおづ)城攻めに参戦していた。
柴田修理の与力として、羽柴筑前との和睦(わぼく)の使者となる。

・天正11年(1583年)、柴田修理方として賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに参戦するが、戦わずして撤退。
越前・府中城に籠るが、羽柴筑前の使者である堀久太郎の勧誘に応じて降服。柴田修理の籠る北ノ庄(きたのしょう)城攻めの先鋒(せんぽう)となる。
羽柴筑前より加賀(かが)二郡の加増(かぞう)を受け、居城を金沢(かなざわ)城(尾山(おやま)城)に移す。

・天正12年(1584年)、小牧長久手(こまき・ながくて)の戦いに呼応して挙兵した佐々内蔵助が末森(すえもり)城に攻め寄せるが撃退。
越中に攻め込む(~天正13年(1585年))
佐々内蔵助が降服。
嫡子・前田孫四郎利長が越中三郡の加増を受ける(前田家石高76万石)

・天正14年(1586年)、九州征伐(きゅうしゅう・せいばつ)時に畿内(きない)を守備。
羽柴(はしば)氏の名乗りを許され、筑前守・左近衛権少将に任官。
伊達(だて)氏、南部(なんぶ)氏ら東北諸大名との交渉役となる。

・天正16年(1588年)、豊臣(とよとみ)姓を下賜(かし)される。

・天正18年(1590年)、参議に任官。
北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)等に出席。
小田原(おだわら)の役の際には上野・松井田(こうづけ・まついだ)城、武蔵・鉢形(むさし・はちがた)城、八王子(はちおうじ)城を落とす。
奥羽(おうう)鎮圧。

・天正19年(1591年)、肥前・名護屋(ひぜん・なごや)城入城。
関白〔太閤〕秀吉の留守中は徳川左大将家康とともに指揮を執る。

・文禄(ぶんろく)2年(1593年)、朝鮮(ちょうせん)への渡海準備中に文禄の役が終結。金沢に帰城。

・文禄3年(1594年)、従三位権中納言に任官。

・文禄4年(1595年)、嫡子(ちゃくし)・孫四郎改め権左中将利長が越中の残りの一郡を加増され、前田家は加賀・能登・越中にまたがる84万石となる。

・慶長(けいちょう)元年(1596年)、従二位権大納言に任官(にんかん)

・慶長3年(1598年)、醍醐(だいご)の花見に出席。
嫡子・権左中将に家督(かとく)を譲り、隠居。
太閤(たいこう)より隠居が許されず、五大老(ごたいろう)に任じられる。
太閤秀吉没。

・慶長4年(1599年)、豊臣秀頼の傅役(もりやく)として伏見(ふしみ)城の年賀に出席。
大坂(おおさか)城に入城。
徳川内府家康の法度(はっと)違反を咎め、会見。お互い譲歩することで和解。
大坂の自邸で病没。

てな感じで例にもれず波乱万丈な人生です。

『利家とまつ』では布団の上で平和に没しておりましたが、一説によると病床で割腹(かっぷく)したという話もあります。

ドラマ中で描かれなかったこともきっとあると思いますので、上記を踏まえた上で楽しむとまた違った見方ができるかもしれません。

関連記事:
賤ケ岳の戦いに学ぶ―相手の心に寄りそう

関連記事
『麒麟がくる』第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い

こんな風に、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

というわけでまだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・斎藤 山城守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 利政〔道三〕
〔長井 新九郎 藤原〔大江?〕 規秀〔秀龍〕〕
さいとう やましろのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん としまさ〔どうさん〕
〔ながい しんくろう ふじわら〔おおえ?〕 の のりひで〔ひでたつ〕〕

・織田 右大臣〔右府。総見公。通称は三郎、上総介〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ うだいじん〔うふ。そうけんこう。通称はさぶろう、かずさのすけ〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・明智〔惟任〕 日向守〔通称は十兵衛〕 源〔大神〕 朝臣 光秀
あけち〔これとう〕 ひゅうがのかみ〔通称はじゅうべえ〕 みなもと〔おおが〕 の あそん みつひで
・松波 庄五郎 藤原 (諱不明)
〔西村 勘九郎 (氏不明) 正利〕
〔長井 豊後守〔通称は新左衛門尉〕 藤原〔大江?〕 朝臣 (諱不明)〕
まつなみ しょうごろう ふじわら の (諱不明)
〔にしむら かんくろう (氏不明) まさとし〕
〔ながい ぶんごのかみ〔通称はしんざえもんのじょう〕 ふじわら〔おおえ?〕 の あそん (諱不明)〕

・長井 越中守〔通称は藤左衛門尉〕 藤原〔大江?〕 朝臣 長弘
ながい えっちゅうのかみ〔通称はとうざえもんのじょう〕 ふじわら〔おおえ?〕 の あそん ながひろ
・土岐 美濃守〔通称不明。左京大夫〕 源 朝臣 頼芸
とき みののかみ〔通称不明。さきょうのだいぶ〕 みなもと の あそん よりのり〔よりあき〕
・斎藤 大和守〔通称は新四郎〕 藤原 朝臣 利良
さいとう やまとのかみ〔通称はしんしろう〕 ふじわら の あそん としなが
・斎藤 新九郎 藤原 高政〔義龍〕
さいとう しんくろう ふじわら の たかまさ〔よしたつ〕
・前田〔羽柴〕 権大納言〔通称は又左衛門〕 菅原〔豊臣〕 朝臣 利家
まえだ〔はしば〕 ごんのだいなごん〔通称はまたざえもん〕 すがわら〔とよとみ〕 の あそん としいえ
・関白 羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
かんぱく はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし
・前田 縫殿助〔通称は蔵人〕 菅原 朝臣 利春〔利昌〕
まえだ ぬいのすけ〔通称はくろうど〕 すがわら の あそん としはる〔としまさ〕
・織田 大和守〔通称は彦五郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信友
おだ やまとのかみ〔通称はひこごろう〕 ふじわら〔いんべ〕 の あそん のぶとも
・篠原 主計〔官職なのか通称なのか不明〕 (氏不明) (朝臣?) (諱不明)
しのはら かずえ〔官職なのか通称なのか不明〕 (氏不明) (あそん?) (諱不明)
・愛智 (通称不明) 源 (諱不明)〔拾阿弥〕
あいち (通称不明) みなもとの (諱不明)〔じゅうあみ〕
・柴田 修理亮〔通称は権六または権六郎〕 源 朝臣 勝家
しばた しゅりのすけ〔通称はごんろくまたはごんろくろう〕 みなもと の あそん かついえ
・森 三左衛門 源 可成
もり さんざえもん みなもと の よしなり
・前田 蔵人 菅原 利久
まえだ くろうど すがわら の としひさ
・佐々 内蔵助 源 成政
さっさ くらのすけ みなもと の なりまさ
・不破 河内守〔通称は太郎左衛門尉〕 藤原〔源〕 朝臣 光治
ふわ かわちのかみ〔通称はたろうざえもんのじょう〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん みつはる
・堀 久太郎 藤原 秀政
ほり きゅうたろう ふじわら の ひでまさ
・前田 左近衛権中将〔通称は孫四郎〕 菅原 朝臣 利長
まえだ さこんえごんのちゅうじょう〔通称はまごしろう〕 すがわら の あそん としなが
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・羽柴 右大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでより
(文献上「羽柴」を名乗った例はありませんが、名字に該当するものは「羽柴」です)
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
『国盗り物語』について
それゆけ!! Kassy号〜♪ season14
ぴえーるのテレビブログ
歴代大河の帰蝶像について
今につながる日本史+α
『利家とまつ』について
森の中の一本の木
あずきブログ
やまもも書斎記

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※こちらの記事は、平成30年11月15日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第39~41回の感想です。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

まずはあらすじ。
明治時代になって東京(とうきょう)を退き、薩摩(さつま)改め鹿児島(かごしま)に戻った西郷隆盛(鈴木亮平)。政府のことは大久保利通(瑛太)に任せ、東京に出仕(しゅっし)するつもりはなかったが、横山安武(笠松将)の諫死(かんし)と弟従道(錦戸亮)の勧誘、そして息子菊次郎(城桧吏)の言葉により東京行きに傾いていく。

利通は廃藩置県(はいはんちけん)を進めるため、岩倉具視(笑福亭鶴瓶)とともに勅使(ちょくし)として鹿児島を訪れた。廃藩置県を進めるために国父(こくふ)島津久光(青木崇高)に力を貸してくれるよう説得するが失敗する。隆盛は利通の政策に賛同し、雄藩(ゆうはん)の旧藩士(きゅう・はんし)を集めて御親兵(ごしんぺい)を作る提案をし、上京することになった。東京にて新政府の会議に参加した隆盛は一枚岩ではない政府の様子を見て、複雑な思いを抱く。

隆盛が上京したあと、岩倉や利通らは政治制度を学ぶために欧米に行くこととなった。隆盛はその間の留守を任されるが、長州(ちょうしゅう)出身の陸軍大輔(りくぐんたいふ)山県有朋の不正が発覚し、窮地に立たされる。そんななか、天皇陛下の行幸(ぎょうこう)を企画し、鹿児島に帰ることになる。そこで久光に呼び出され、意外なことに叱咤され、感激する隆盛であった。

ということで、




第39回は「父、西郷隆盛」。
まぁ、ドラマとしてはよかったと思います。
しかし下の「敬天愛人(けいてんあいじん)」さんを読むと、横山安武と西郷隆盛の関係性がうまく描かれていなかったようですね。
まぁいいか 笑


他ドラマで西郷吉之助隆盛の登場する回についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第31回―井上家について

同関連記事:
『青天を衝け』第30回―五代家について

同関連記事:
『青天を衝け』第17回―武田耕雲斎について


で、僕が気になったのはやはり「名前」ですね。
僕は常々言っているのですが、一般的に幕末(ばくまつ)~明治にかけての人物の改名の認識は間違っています。
一般的な認識は

・西郷吉之助→西郷隆盛
・大久保一蔵→大久保利通
・桂小五郎→木戸孝允
・西郷信吾→西郷従道

なのだと思いますが、実際は

・西郷 吉之助 藤原 隆永→西郷 吉之助 藤原 隆盛
・大久保 一蔵 藤原 利済→大久保 一蔵 藤原 利通
・桂 小五郎 大江 孝允→木戸 小五郎 大江 孝允
・西郷 信吾 藤原 隆道→西郷 信吾 藤原 従道

です。


武家の名前について詳しく知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
武家や公家の名前について

関連記事:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称

関連記事:
神主は「名字」ではない「氏」の存在を認識すべき


明治の法令で戸籍上の名前は「苗字(みょうじ)ひとつ、名前ひとつ」と決められ、上記のような通称を名乗ることは禁止されてしまったのでおおっぴらには名乗っていなかったようですが、大久保一蔵は変わらず大久保一蔵ですし、西郷吉之助は変わらず西郷吉之助です。

そもそも、現代は上記「武家や公家の名前について」に書いたような通称の伝統をほとんどの人が覚えていなくて、さらに戸籍名=本名という認識ですから無理もないのですが、武家や公家の本名は上記「武家や公家の名前について」に書いた形式のものです。戸籍名と本名は違うんですね。

第40回は「波乱の新政府」。
ドラマとしては今回も悪くなかったと思います。
ただ、廃藩置県の会議で利通の主張についていけない土佐(とさ)肥前(ひぜん)の面々が政府を去ろうとしたとき、隆盛の説得で翻意(ほんい)したのはよくわかりませんでした 笑

よくあの説得でとどまるなって 笑

ここは主人公補正強すぎですね。

第41回は「新しき国へ」。
この回も、山県有朋の山城屋(やましろや)事件が本当は天皇行幸のあとであるがドラマでは逆になっていた、という脚色があって不満ですが、それでも久光の「やり抜け!」はよかったです。

急激に久光がいい人キャラになって疑問を抱きましたが、やはり僕は単純なのか、今まで対立していた人と分かり合えるというシチュエーションに弱いですね 笑

という感じで、今までどおり文句はありつつも割りと楽しんでします 笑

※写真はイメージです。

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・西郷 吉之助〔吉之介〕 藤原 隆盛〔隆永〕
さいごう きちのすけ〔きちのすけ〕 ふじわら の たかもり〔たかなが〕
・大久保 一蔵〔正助〕 藤原 利通〔利済〕
おおくぼ いちぞう〔しょうすけ〕 ふじわら の としみち〔としずみ〕
・横山 正太郎 (氏不明) 安武
よこやま しょうたろう? (氏不明) やすたけ
・西郷 信吾 藤原 隆道〔従道〕
さいごう しんご ふじわら の たかみち〔じゅうどう〕
・西郷 菊次郎 藤原 (諱不明)
さいごう きくじろう ふじわら の (諱不明)
・岩倉 (官職・通称不明) 源 朝臣 具視
いわくら (官職・通称不明) みなもと の あそん ともみ
・島津 左近衛権少将〔通称は三郎〕 惟宗〔源〕 朝臣 久光
しまづ さこんえごんのしょうしょう〔通称はさぶろう〕 これむね の あそん ひさみつ
・山県 小輔〔狂介〕 源 有朋
やまがた しょうすけ?〔きょうすけ〕 みなもと の ありとも
・木戸 小五郎 大江 孝允
きど こごろう おおえ の たかよし
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
雑記帳
ブログ 敬天愛人
真田のよもやま話
第40回
ブログ 敬天愛人
真田のよもやま話
雑記帳
第41回
雑記帳
ドラマ@見とり八段
真田のよもやま話

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※こちらの記事は、平成20年4月14日に書かれたものです。

もう10巻まで出ているようですが、9巻の感想を書きます。
山口貴由先生の『シグルイ』です。


『シグルイ』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
シグルイ

参考記事:
シグルイ8巻


8巻でついに伊良子(いらこ)の秘剣を真っ向から受けた藤木(ふじき)ですが、防戦あえなく失敗。
倒れる藤木、助太刀する牛股(うしまた)

ここで牛股の過去が描かれますが、相変わらずすさまじい。
目を覆うような過去。


関連記事:
『シグルイ』10巻

関連記事:
覚悟のススメ 完全保存版第1巻

関連記事:
蛮勇引力




「何もそこまでしなくても」
とは思うんですが、あまりのひどさに圧倒されます。

暴走する牛股。

漫画の中で、いろいろと矛盾点はあるようですが、それも納得してしまう画力。

牛股の暴走は止まったかのように見えるも、場面は虎眼流(こがんりゅう)追放後の伊良子の描写に移り、また伏線。

どうなるんでしょうかね?
もう10巻出てますけど(笑

参考
ぺん獣日記
360度の方針転換


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broquitosによるPixabayからの画像
※こちらの記事は平成20年8月31日に書かれたものです。

こんばんは。
今回は村山孚氏の訳と解釈による徳間書店の「中国の思想」シリーズ第10巻の『孫子(そんし)・呉子(ごし)』についてです。

僕が『孫子』という書物の存在を知ったのは確か10歳くらいのとき(笑

『ジョジョの奇妙な冒険』という漫画中で主人公が(ジョセフ・ジョースターですが)、「兵は詭道(きどう)なり」とかその辺の言葉を引用していたことで知りました。


『孫氏』に言及している記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし

同関連記事:
姉川の合戦-即座に方針転換する

同関連記事:
安芸城の合戦―「タイミングの勢法」の威力





そのときはさすがに『孫子』自体は読まなかったのですが、ジョセフ・ジョースターにはあこがれ続け、『孫子』の存在はずっと気になっていました。

『ジョジョ~』関連の記事:
スティール・ボール・ラン15巻

その後実際『孫子』(正確にいうと『孫子』の日本語解説書)を読んだのは高校性のときで、図書館から借りて読みました。

そして大学生になってから別の解説書を買って読み、さらに最近この村山孚さんの訳本を買いました。

でも、本当は『孫子』が読みたかったんじゃなくて、『呉子』が読みたくて買ったんですよ。

上に書いたように『孫子』は穴の空くほど読んでいて、格別必要ではなかったので。
ただ、村山孚さんなりの解説があって面白かったし、『孫子』や『呉子』の他にも、いわゆる「武経七書(ぶけいしちしょ)」といわれる『尉繚子(うつりょうし)』、『六韜(りくとう)』、『三略(さんりゃく)』、『司馬法(しばほう)』、『李衛公門対(りえいこうもんたい)』や『孫臏兵法(そんぴんへいほう)』も収録されていて、かなりお得でした。

『孫子』に関しては、現代ビジネス社会に合わせたキャッチーな解説書がたくさん出ていて、かなりとっつきやすいと思うんですが、あんまり僕はそういうのは読みたいとは思わないんですよね(笑

結局、そういうキャッチーなものにつられてしまうという行為が、逆に『孫子』にのっとって敵に誘い出されているような気がするので(笑

まぁ、人の行為にはそれぞれ意図があり、不可解な行動には必ず隠された目的が存在する。しかも、自分自身が必ずしも自分自身の意志で動いているとは限らない、ということでしょうか。僕自身も含めて。

さらに、『孫子』を読んでいたとされるナポレオンは最終的には敗退し、毛沢東(もう たくとう)もいつでも順風満帆であったわけではないという史実は、とても重要だと思う。


その他『孫氏』への言及のある記事:
世の中は「巧遅」よりも「拙速」であるほうが結果が出やすいのに、「巧遅」の方が高級だと思っている人が多い気がする

同関連記事:
ハリー・ポッターと賢者の石

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※こちらの記事は、令和3年3月28日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第41弾として、「人取橋(ひととりばし)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】
第1回 今山の合戦第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦第8回 金ヶ崎城の合戦
第10回 二俣城の合戦第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦第13回 野田城の合戦
第14回 叡山焼き討ち第18回 長篠の合戦
第22回 江古田原沼袋の戦い第24回 権現山の戦い
第26回 石山合戦第29回 第一次国府台の戦い
第30回 上月城の戦い第31回 河越城の戦い
第32回 三木合戦 第33回 鳥取城の戦い
第34回 備中高松城の戦い第35回 本能寺の変


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の今野信雄氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

皆さんは、普段、どれだけ最悪の事態の想定をして生きていらっしゃるでしょうか?

乗っている飛行機が落ちるかもしれない。

歩道を歩いていたら車が突っ込んでくるかもしれない。

新型コロナウイルスに感染して死ぬかもしれない。

身近な人が命を落とすかもしれない。


こういった最悪の事態を想像すると不安が増大し、精神的に不安定になる方もいらっしゃると思います。

普段の生活では、このような最悪の事態が起こる可能性などみじんも感じられないかもしれません。

しかし、可能性としては十分起こりうるものだということは理解できると思います。

今回は、こういった最悪の状況を脱した伊達美作守政宗のお話です。


伊達政宗関連の記事を読みたい方は、下記リンクをクリックしてください:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

関連記事:
『真田丸』、幸村が信繁なら勝永は吉政では?(第41回)

関連記事:
『真田丸』第24回―伊達と官兵衛




人取橋の戦いまでの流れ


天正(てんしょう)9年(1581年)頃、それまで陸奥(むつ)南部〔宮城県(みやぎけん)南部~福島県(ふくしまけん)北西部〕と出羽(でわ)の一部〔米沢(よねざわ)地方〕を領していた伊達(だて)家の支配体制が崩れ、従属していた諸大名(しょだいみょう)が帰趨(きすう)が怪しくなり始めます。

天正13年(1585年)8月、それまで伊達家に従属していた塩松(しおまつ?)〔二本松市(にほんまつし)〕領主・大内備前守定綱〔以降「備前(守)」〕は伊達家に反抗しますが敗退。
二本松〔畠山〕右京大夫義継〔以降「右京(大夫)」〕の元へ逃亡します。

それを受けた伊達家当主・美作守政宗〔以降「美作(守)」〕は右京大夫を攻めますが、右京大夫は伊達家に降服します。
※大内備前は蘆名(あしな)領へ逃亡。

10月、和睦(わぼく)の挨拶のために宮森(みやもり)城にいる伊達美作守の父・左京大夫輝宗〔以降「左京大夫」〕を訪れた二本松右京大夫は、なんと伊達左京大夫を拉致(らち)し逃亡します。

美作守はそれを追いかけ、追いつくことはできたものの止めることができず、やむなく父・左京大夫もろとも二本松右京大夫を射殺します。
※一説によると、逃げ切れないと悟った右京大夫が伊達左京大夫を刺殺し、自身も自害したとも言います。

美作守は父の弔い合戦のため軍を集結させ、当主を失った二本松城を囲みます。

しかし、11月には二本松家を助けるため、常陸(ひたち)佐竹常陸介義重〔以降「常陸介」〕が蘆名家、二階堂(にかいどう)家、岩城(いわき)家、石川(いしかわ)家、白川結城(しらかわ・ゆうき)家等の3万の兵を率いて出陣。

美作守は二本松城に一部の兵を残し、この佐竹(さたけ)連合軍に対するため兵7,000で本宮(もとみや)城に入ります。




人取橋の戦い


本宮城を出陣した美作守は観音堂山(かんのんどうやま?)に布陣(ふじん)

それを受けた佐竹連合軍は伊達陣を目指して動き始め、伊達軍はそれを迎撃し、阿武隈川(あぶくまがわ)支流の瀬戸川(せとがわ)にかかる人取橋で両軍が激突しました。

激突したといっても佐竹連合軍は3万、伊達軍は7,000。
圧倒的に伊達軍が不利であり、伊達軍は崩れ敗走します。

そんな中、伊達家重代(じゅうだい)の老臣・鬼庭左月斎が殿軍(しんがり)を引き受けました。

鬼庭左月斎は討ち死にしますが、伊達安房守成実の奮戦もあり美作守は本宮城に撤退することに成功します。

このままでは直に本宮城も囲まれ再び窮地に陥ることが明白だった伊達軍。

しかしその夜、佐竹家の重臣(じゅうしん)小野崎義昌が家臣(かしん)に刺殺されるという事件が起こります。

さらに水戸(みと)の江戸但馬守重通、安房(あわ)の里見刑部大輔義頼が佐竹領に攻め寄せるという噂が立ち、佐竹軍が常陸に撤退します。


里見家関連の記事:
円覚寺(2)―戦国の兵火

同関連記事:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

同関連記事:
各合戦の動員人数について(6)第二次国府台の合戦

同関連記事:
各合戦の動員人数について(4)第一次国府台の合戦


連合軍の主力だった佐竹軍の撤退により、他の大名も撤退し、美作守は窮地を脱します。




最悪の想定を受け入れる


今回は、人生最大のピンチと言われる戦いを乗り切った伊達美作守政宗の話でしたが、やはり、自身のこととして想像してみることが大事です。

3万の大軍の進軍に対してわずか7,000の兵で迎え撃つ。

これほど恐ろしい体験はないと思います。

美作守がなぜ本宮城に籠城せず、寡勢(かせい)ながらも出陣したのかはわかりません。

一説によると美作守は織田右府信長にあこがれていて、この戦いを自身にとっての桶狭間(おけはざま)と位置付けたのかもしれません。


桶狭間関連の記事:
徳川家康の生涯を貫く思想―山岡荘八『徳川家康』第4巻

同関連記事:
『麒麟がくる』第21回―松平蔵人の親族

同関連記事:
『麒麟がくる』第19~20回―足利将軍家の動きと桶狭間の戦い

同関連記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める


美作守の恐怖がいかばかりだったかは想像するしかありませんが、もしこれが自分だったらと思うとぞっとします。

これほどのピンチは、現代人の人生ではなかなか訪れません。

しかし、不利な状況、辛い状況というのはそんなに珍しいことではないのではないでしょうか?

そんな時、どれくらい最悪な結果を想定できるかということが大事です。

乗っている飛行機が落ちるかもしれない。

歩道を歩いていたら車が突っ込んでくるかもしれない。

新型コロナウイルスに感染して死ぬかもしれない。

身近な人が命を落とすかもしれない。

こういった嫌な想定は、想像するだけで心が痛むものですから、できれば考えたくないですよね。

しかし、考えなくてはいけません。

最悪な状況に陥った時、いかに対処するか、どう動くか。

以前、車の運転免許取得の時に教官に言われた「かもしれない運転」の話をしました。

参考記事:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

最悪の事態を迎えた人の多くは「そんな最悪の事態は起こらないだろう」という甘い想定をしています。

逆に、最悪の事態を想定してある程度対策を考えておくと不思議と最悪の事態は起こらず、状況が好転することが多いです。

心も落ち着きます。

実際に最悪の事態が起こったとしても、やることはあらかじめ決めているのですから、思ったよりも動揺することが少ないです。

しかし、「そんな最悪の事態は起こらないだろう」という甘い想定をしていると、いざ最悪の事態が起こった時に心が受け入れることができず、動揺します。

そして対処が遅れ、もっとひどい状況を迎えます。

安全対策は過剰なくらいがちょうどいいんです。

最悪の事態を想定をしていれば、心が落ち着き、冷静に対処することが可能となります。

伊達美作守は、きっとそうやってこのピンチを乗り切ったのだと思います。

関連記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

常に最悪の事態を想定し、そんな状況を迎えずに済むように、そしてそんな状況を迎えても難なく乗り切れるような生き方をしていきたいと思います。

ということで、今回は「最悪の想定を受け入れる」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・伊達 美作守〔陸奥守。通称は藤次郎〕 藤原 朝臣 政宗
だて みまさかのかみ〔むつのかみ。通称はとうじろう〕 ふじわら の あそん まさむね
・大内 備前守〔通称は太郎左衛門〕 多々良〔藤原〕 朝臣 定綱
おおうち びぜんのかみ〔通称はたろうざえもん〕 たたら〔ふじわら〕 の  あそん さだつな
・二本松〔畠山〕 右京大夫〔通称は七郎〕 源 朝臣 義継
にほんまつ〔はたけやま〕 うきょうのだいぶ〔通称はしちろう〕 みなもと の あそん よしつぐ
・伊達 左京大夫〔通称は彦太郎、総次郎〕 藤原 朝臣 輝宗
だて さきょうのだいぶ〔通称はひこたろう、そうじろう〕 ふじわら の あそん てるむね
・佐竹 常陸介〔通称は次郎〕 源 朝臣 義重
さたけ ひたちのすけ〔通称はじろう〕 みなもと の あそん よししげ
・鬼庭 周防守〔通称不明〕 藤原 朝臣 良直〔号左月斎〕
おににわ すおうのかみ〔通称不明〕 ふじわら の あそん よしなお〔号さげつさい〕
・伊達 安房守〔通称は藤五郎〕 藤原 朝臣 成実
だて あわのかみ〔通称はとうごろう〕 ふじわら の あそん しげざね
・小野崎〔佐竹〕 (通称・官職不明) 源 義昌
おのさき〔さたけ〕 (通称・官職不明) みなもと の よしまさ
・江戸 但馬守〔通称は彦五郎〕 藤原 朝臣 重通
えど たじまのかみ〔通称はひこごろう〕 ふじわら の あそん しげみち
・里見 刑部大輔〔通称は太郎〕 源 朝臣 義頼〔義継〕
さとみ ぎょうぶのたゆう〔通称はたろう〕 みなもと の あそん よしより〔よしつぐ〕
・織田 前右大臣兼前右近衛大将〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ さきのうだいじんけんさきのうこんえのだいしょう〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
今日は何の日?徒然日記
年表でみる戦国時代
うつつなき太守のブログ



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