●石田三成のもっと知ってほしい願望逸話 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

●「おぬしは頼朝公を知らんのか!」

「三成! なぜ捕縛されるまで、見苦しく山中を逃げ回った! おまえもひとかどの武士ならば、何処にても潔く自害できたろうに、恥を知れ!」

家康家臣・本多正純のこの罵りに、三成は、

「腹切るは端(葉)武者なり。おぬしは源頼朝公が石橋山の敗戦後、伊豆土肥の山中を逃げ回り、絶体絶命となっても自害しなかったことを知らぬのか。

そして海を渡って安房まで逃れ、ついには天下人となったではないか!」と。

正純唖然。古書「甲子夜話」にある逸話。

▼伊豆土肥の山中の頼朝が隠れていたという巨大な洞穴

 

●「大義を抱く者は最後の最後まで命を大事にする…」

「のどが渇いた、腹が減ったゆえ何か食わせよ」と、三成。

「ここに柿がある、これを喰らえ」と、護衛の武者。

柿は腹を冷やす、だめだ

「これからすぐ刑場で首討たれる者が腹冷やすとは笑止!」

おぬしも武士なら命をだいじにせよ。大義を抱く者、最期の瞬間まで命を大切にするものよ」

古書『茗話記』より。

 

洞窟に匿われている三成を密告した村人…

関ヶ原で大敗した三成は、伊吹山中を逃げ、母のふる里、現長浜市木之本(旧古橋村)まで行きついた。

そこで村人に匿われ、洞穴に隠れた。

古橋村の人々はふだんから領主の三成を慕っていた。

私(列伝)が二十数年前古橋村を訪れたとき、現地の方に訊ねてみた。

 

「三成が岩窟に隠れているのを、探索方に密告した者は村内の養だったので、以後養子は信用出来ないと、古橋村では最近まで養子は取らなかった、という話を読んだんですが、これって本当ですか?」

洞穴に三成を匿った村人与太夫の娘婿は他村からの養子だった。

この婿が三成のことを探索の武士に密告、三成は捕まったというのだ。

▼正面石垣の上がかつての古橋村の与太夫屋敷跡という 


「はい。確かにそうでした。まあ、昨今はさすがにそんなにこだわっていませんが。

昭和20年代頃までは、この村は養子は他村からもらっていないはずです」

「三成が死んでから四百年以上たっているのにですか?」

私は疑い深くもう一度聞き返した。

「本当です。私は七十歳を越えとります。生まれたときからずっとこの村におります。
若い頃、よく『他から養子は貰っちゃならねえ』などと聞いてました。

この村はだいたい150世帯ぐらいでしたが、村内だけで養子縁組をずっとやっとったようです。まあ、そんなことで村の結束を固めたりしてたんでしょうな」

三成は死後四百年近くたっても、この村では敬慕されていたのか。

 

●「米俵を堤防の土嚢とせよ! 早急にじゃ!」

大暴風雨のため淀川の堤防が危ない!

三成は駆け付けると、淀川沿いの米蔵を全部開け、

「米俵を土嚢の代わりに積め、急げ!」

「そ、それじゃ、米が…」

三成は備蓄されていた米俵を次々と積みあげ、大洪水を抑えた。

しかし濡れた米俵どうする…。

三成は、濡れた米俵1つと土嚢1つを交換するとお触れを出した。

百姓たちはこぞって交換、新たな堤防も完成、米も無駄にならず!

「秀吉感謝斜めならず。三成、無双の才覚ぞ!」と。古書「翁物語」に。

 

●鹿児島・尚古集成館で見た三成の花押に胸打たるウゥゥ

鹿児島市尚古集成館。

ここに全国でただ一つ、太閤検地で使われた「検地尺」が残り、展示されている。

初めて見た。太閤検地は近世の石高制の基礎となった。

縦46㌢、横6㌢、厚さ4㍉の柾目檜板。

その表側に1尺の長さに目盛り線が引かれ、その目盛線の中央に「×」が記され、

おぉ!そこに検地奉行・石田三成の「治少」の花押が記されているではないか。

世は太閤検地、太閤検地というが、何百枚いや何千枚と作られた検地尺に、一枚、一枚、「治少」の花押を自署したのは石田三成ではないか!

何が太閤検地か!まさに「三成検地」「治部検地」、全教科書、訂正じゃ!

 

●「三成、日々夜々の勤めおこたらず。大風雨の夜などは城周り破損のことを、卯の刻には言上せしとぞ。普請奉行にては巳の刻に言上なり」古書『名将言行録』より
 

以上、しまいにはいささか感情的になってしまいましたが、三成の良い話も、悪い話もまだまだ伝えられています。しかし何がほんとの話なのか、今も昔も難しい。

またの機会に三成逸話を書きたいと思っています。

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