●敦賀 水戸天狗党処刑者が眠る哀しい塚 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

播州・丹州からの帰路は若州路から東へ。

 

途中、敦賀の松原神社・水戸天狗党の塚に墓参。

もう何度めか。

一千余の武士家族などを率いた総大将武田耕雲斎の像が戦死者・処刑者の眠る塚の前に立っている。

この日は曇り空にて、松林が伐採され塚一帯が寂しさを増していた。

かつてはこんな荘厳な感じだった。

 

天狗党は、水戸を発って中山道、信州路を経て若狭に至ったが、ついには反乱者の汚名を着せられ、主だった武士353人が連日この地で断罪された。

 

尊王攘夷を掲げる水戸天狗党一行は、水戸から中山道を進軍、京都へ向かった。

しかし反乱軍とみなされ、幕府は街道筋の各藩に鎮圧を指示、信州では和田峠にて松本・諏訪藩と干戈を交えた…。

 

和田峠に立つ和田峰合戦の碑。

後方の石碑には、水戸天狗党方の戦死者名が刻まれ、塚がある。

……かつて拙著『信州往来もののふ列伝』に天狗党総大将の武田耕雲斎伝、また同じく拙著『負けても負けぬ三十二将列伝(ともにしなのき書房)』には副大将・藤田小四郎伝を載せた…。

 

昨今の幕末の注目は、竜馬、高杉、新選組あたりばかりなり…。

という中、2020年の大河ドラマ『青天を衝け』には、耕雲斎、小四郎が登場! 

ひとり、「おおおぉお!」と叫び、狂喜しました(笑)。

本ブログには遠い昔、2010年武田耕雲斎伝、2018年藤田小四郎伝を載せています。

前段の部分を載せました。こんな際ぜひご一読いただければ幸いです。

◆武田耕雲斎(たけだこううんさい 1803~1865)

熱く散って逝った武者たちへのレクイエム

幕末の水戸藩・尊王攘夷派の武士。

安政3(1856)年藩主・徳川斉昭の執政となる。

斉昭死後の元治元(1864)年、尊王攘夷派が天狗党として挙兵、総大将・首領に推される。

その素志を天皇に訴えんと中山道筋を京へ進軍。

幕府から鎮圧を命じられた諏訪・松本藩兵と信州で合戦となる。

行軍の末、越前にて全員降伏、353人死罪。耕雲斎享年63。

天狗党にとって衝撃だったのは幕府鎮圧軍の総大将は、水戸斉昭一子の一橋慶喜だったこと。

15代将軍になる以前の慶喜にとって「反乱軍・天狗党」を取り抑えよという幕命に逆らえなかった。

総大将が自分たちが頼みとする慶喜と知ったときの天狗党の落胆ぶりやいかに!

察するに余りある。ついに天狗党は全面降伏、すべての武器を差し出した。

 

ところが素直に無抵抗で降伏をしたにもかかわらず幕府による天狗党の処分は凄惨をきわめた。

日本史上、このような大量斬罪大量処刑の例は他にない。

斬首処刑となったのは武田耕雲斎、その長男彦右衛門、藤田小四郎をはじめとして353名、流罪130余名、180余名追放刑…。

悪魔も沈黙するようなむごい斬首刑が延々と何日も続いた…。

 

後に天狗党処断の一部始終を知った薩摩の大久保利通は、

「かくも非道な幕府の扱いは、幕府が近々滅亡することを自らが示したものである!」

と怒りと嘆きを日記に記している。

その予言通り2年後、徳川幕府は滅亡した。

静かに眠る天狗党、15基の石碑に全員の名が刻まれている。


  

 

水戸市内の回天神社に、天狗党の受難者も祀られている。

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