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「愛を追い求めなさい」

2024-05-12 19:28:38 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅰコリント12章31章-14章1節前半

神は目的をもって私たちそれぞれに霊的な賜物を与えておられます。
パウロは12章の終わり31節で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と、促しました。それはキリストのからだである教会が建て上げられていくためです。教会といいますと、多くの人は教会の建物を思い浮かべるでしょう。又それを建て上げるとなると組織づくりとか、良き運営の仕方のことを考えるかも知れません。けれど教会は人の業によって存在するのではなく、神の霊、聖霊のお働きによって形づくられているのです。
コリントの教会はこの時、残念なことに賜物をして自分を誇る人や賜物を適切に用いないため関係性が損なわれてしまうような事が起こっていました。
そこでパウロは言います。「わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
パウロはコリントの信徒たちに、1~3節「わたしが異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかなしいシンバル、たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしは何の益もない」と述べます。

パウロは「愛」のない状態を「騒がしいどら」や「やかましいシンバル」にたとえます。
ギリシャの異教の神殿では当時どらやシンバルを打ち鳴らしては悪霊を追い出す儀式が行われていました。
それらは、真の神さまを知るパウロにとってやかましいただの騒音に過ぎなかったのです。
異言という賜物は、私たちの言葉にならないような祈り、うめきや嘆き、そして讃美を聖霊がとりなして下さる、その言葉でありますから、神の恵みそのものであります。
ところが信徒の中には、それを受けたから本物のクリスチャンになったとか、受けなければ半人前などと言うような人がいたわけです。彼らは誇ろうとして所かまわず異言で語り出し、人をつまづかせていました。パウロはその人たちの行いを、やかましいだけのどらやシンバルに過ぎない、人の耳を疲れさせる騒音に過ぎないと言っているのです。

又、たとえ「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ、無に等しい」と言っていますが。
よく有名な伝道者やいろんな聖霊の賜物を与えられた人を招いては大集会が開かれたりします。ところが、そのように偉大に見られる働きや業であっても、「愛がないならば無に等しい」、働きも集会も何も無いのと同じ、と言うのです。

さらに、尊い財産や金銭をたとえ貧しい人のために使い尽くすような事をしたとしても、さらには自らを誇ろうとして為した殉教の犠牲でさえも、「愛がなければ、何の益もない」と言います。
これらの行いは、世の中では立派だと称賛される行為でしょう。
けれども、その動機が自分の栄誉や誇りのため、独りよがりのものであるのなら、「何の益もない」と言うのです。そこには神の愛が不在だからです。
あのマザー・テレサさんはかつて、「大切なのは、どれだけたくさんの偉大な事をしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」とおっしゃいましたが。神の前に尊くされるのはどんな偉大な業を行ったかではなく、たとえ小さく見える事でも、どれだけ心を込め、愛に根差してなしたか、という事なのであります。

4節~7節には「愛」のもつ特性について述べられています。
このところは、結婚をされる方がたとの準備会でも読まれる箇所でありますが。
愛は、「忍耐強い」「情け深い」「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼を失しない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みを抱かない」「不義を喜ばない」、「真実を喜び」「すべてを忍び」「すべてを信じ」「すべてを望み」「すべてに耐える」と、具体的に15項目並べられています。
その「愛」とあるところ全てにご自分の名前を入れて読んでみて下さると、どうでしょうか。自分にはそのようない愛がないということを思い知らされるのではないでしょうか。それでも何とか頑張って愛に生きようとして、たとえば「忍耐強く」「情け深く」と、ひたすら我慢して無理にゆるそうとしてストレスいっぱい、その相手は悪いことを行うがままとなれば、状況も人間関係もゆがんだままになってしまいます。
「愛は不義を喜ばないで、真実を喜ぶ」とあるとおり、間違った事はやはり正しされていくように、愛をもって祈り、努めることが問われます。

さらに、愛の特性として「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼儀を失わない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みをいだかない」と述べられます。
妬み、自慢、高慢、非礼な態度がコリントの教会の分裂を引き起こしていたのでしょう。これらは愛の特性とは正反対の人間の罪、エゴから生じるものです。
主イエスは良いパン種と悪いパン種の話をされましたが。良いパン種、すなわちキリストの愛に根差した言葉は私たちの間に天国の喜びをもたらします。一方悪いパン種、すなわち反キリスト(サタン)の言葉は混乱や不満を膨らませる、と言われました。あの人はこう言った、あの人はこうしたという誹謗中傷も同様でしょう。
しかし、ここを読んで愛の特性というのがよくわかった、じゃあそれを行おう、そのように生きてゆこうと考えて実際過ごせるかというと、先ほどこの「愛」のところに自分の名前を入れて読んでみても分かりますように、なかなかそうはいかない。私たち自身のうちにもコリントの教会の人々が抱えていた弱さがあることに気づかされます。
この「愛」を自分の中に探そうとしても到底見出せし得ない、見つけたと思っても次の瞬間、短気に怒り、額にしわを寄せるような自分が顔を出すわけですが。

ところで、私たちが愛というとき、新約聖書のギリシャ語では男女間の愛をエロス、身近な人や家族、友への友愛をフィリアと言い表されます。
私たちがこの地上に生まれて最初に感受する愛は、親や親のように養護してくれる存在からでしょう。さららに成長とともに、家族以外の人とも接する機会が増え、ある人は友だちや異性との出会い、ある人は恋愛や結婚、又ある人は新しい家族というふうに、様々な愛を知る時が与えられるでしょう。
けれども私たちの愛は燃え上がることはあっても、それがずっと持続可能かというと、そういったものではありません。
状況や事態が変わってしまうと、愛情が薄れたり、揺れ動いたり、果ては泡のように消えてしまうようなことも生じていくものです。
私たちの愛情で最も次元が高いとされている母親の子への愛情でさえも、無償の愛といいきれるでしょうか。
どんな人間の愛もエゴや自我の思いが混ざり込んでいるのではないでしょうか。
しかし、たとえそんな未熟な愛でも、神さまはいつくしんでくださることを、私たちは知っています。

さて、この4-7節までに語られている愛について特に心に留まりますのは、愛は忍耐することで始まり、すべてに耐えることで完結している事です。
パウロはローマの信徒への手紙5章で、「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。(次が大事です。)わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
先に申しましたように、愛も、そこに必要な忍耐も自分の中に探したところで十分だと言えるものはありません。しかしその私たちの心に神の愛が注がれると、希望と共に忍耐強く愛に生きる力が与えられるのです。
この愛は、人間の自己愛や友愛ではなく、ギリシャ語でアガペの愛、神のご性質を示す愛です。それは、キリストがすべての他者、それも敵対する者に対してさえ自らを与え尽くされた愛です。唯、神のひとり子イエス・キリストを通して具体的にあらわされたこの愛と私たちは出会い、本当の愛を知ったのです。
キリストが侮辱を受けても、傷つけられても、苦しめられても、あの十字架上で自分をののしる者、敵対する者の救いと真の解放のため祈られ、最期を遂げられたそのお姿。私たちは唯、この神の愛の奥深さを知らされ、その愛に満たされて初めて自分も他者も神の愛によって愛せるのです。

さらに、パウロは8節~13節で「愛は決して滅びない」と、その愛の永続性を語っています。一方で、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と、それらの賜物が一時的なものに過ぎないことを伝えます。
私たちも又、神さまから様々な霊の賜物を戴いているのでありますが。そうした種々の賜物はみなこの地上において神の愛と救いがよりゆたかに分かち合われてゆき、神がほめたたえられるためにと、与えられたものです。だからこそ、それぞれに与えられている賜物を活かし、神と人に仕えることが大事です。

パウロがⅡコリント4章で「わたしたちは土の器」と言っているように、人はだれも欠け多い者、もろさを持つ者であります。けれどもその土の器の中に宝を納めている。それこそが愛なるキリストであり、土の器であるわたしたちのうちに生きておられる、その事が土の器を価値あるものとしているのです。私たちの内に住まわれるキリストの愛によって、私も又神の愛を持ち運ぶ者とされているのです。


パウロは又、「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と言います。
では、何が残るのでしょうか。「愛」です。
パウロが言うように、私たちがまだ神の愛を知らなかった時、幼子のような身勝手な愛しか持てませんでした。しかし神の愛に出会い、幼子であることを棄てたのです。そうして神の愛に生きるようになりますが、しかしその働きも完全なものとは言えません。それをパウロは「おぼろに自らを映す鏡」にたとえたのです。
ちなみに、この当時の鏡は、今のようにはっきり映る物ではなく、銅を磨きこんでおぼろげに映るようなものでした。つまり、どんなに素晴らしい賜物や祈りをもった行いも、今は神の栄光をおぼろげにしか映し出せないのです。しかし、必ずいつの日か、完全なものが来る。その時には、もはやおぼろげにではなく、全てが明らかにされます。キリストが私たちのことをすべて知っていてくださることを、私たちもはっきりと知ることになる、というのです。
その日が来たなら、私たちはもはや、神の賜物は必要でなくなります。顔と顔とを合わせて神を直接見る者とされるからです。私たちはその日を神の愛によって共に忍耐しつつ、待ち望んでいるのです。
それゆえに、13節「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。」
そして「その中で最も大いなるものは、愛である」。
聖書は今日も、私たちに呼びかけます。「この愛を追い求めなさい」。
祈ります。
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