「原理講論」の誤解と正解

「原理講論」の誤解と正解

「原理読み」の「原理知らず」

原理講義の間違い例 — 受肉・蕩減・体恤 —

2025年03月02日 | 検証・解説

★ 日本統一教会の代表的な講師達の間違い

★以下を見ただけで、彼らはまともに韓国語聖書を読んだことも、まともにキリスト教会に通ったこともないことが判る。


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①「受肉」             (画像クリックで動画起動)

(42:10~)
「神の言葉を徹底して我々は受肉していくことが重要なのであります。」←間違い: 「受肉」の本当の意味


②「蕩減」             (画像クリックで動画起動)

(42:55~)
「『蕩減』とは『蕩』は『誤り』、『放蕩息子』の『蕩』、それを『減』ずる。」←間違い: 「蕩減」の本当の意味


③「体恤」              (画像クリックで動画起動)

(03:57~)
「神の心情を体恤する。」←間違い: 「体恤」の本当の意味

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韓国語聖書に登場する「蕩減」「体恤」「受肉」はキリスト教に於いて最も重要な用語です。
それが原理講論には恰も仏教用語のような全く異なる意味で使われております。
普通に韓国のキリスト教会に通い、普通に韓国語聖書を読んでいた人なら間違う筈のないことを。

その理由

<統一教会の使い方>
「蕩減」=自分の先祖や自分の罪をつぐなうこと
「体恤」=自分が完成するために神の心情を体験すること
「受肉」=自分が完成するために御言葉を血肉化すること

<キリスト教会の使い方>
「蕩減」=自分に負債のある人の負債をゆるしてあげること
「体恤」=苦難の中にいる人の苦難を共にし助けてあげること
「受肉」=神が人の体(イエス)を着て顕現されたこと
…こちらがオリジナル


意味の違いの他にもっと重要な違いがあるのに気づきませんか?

統一教会
「蕩減」=「自分の償いのため
「体恤」=「自分の完成のため
「受肉」=「自分の完成のため
… 「自分のため

キリスト教
「蕩減」=「人をゆるしてあげること
「体恤」=「人をたすけてあげること
「受肉」=「人の救いのため神が顕現
… 「人のため


「蕩減」の本当の意味
https://blog.goo.ne.jp/genrikouron/e/c4a86377b91371b5a4e272cbf0fc6602

「体恤」の本当の意味
https://blog.goo.ne.jp/genrikouron/e/31b3a2ccb5fe3c1142d22e9aed871ea8

「受肉」の本当の意味
https://blog.goo.ne.jp/genrikouron/e/758966158dd933c75e140ae9feedb571

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原理講義の間違い例「体恤」

2024年11月09日 | 検証・解説
(03:57~)「神の心情を体恤する。」(画像クリックで動画起動)
第25回 創造原理(17)「三大祝福~『第一祝福』とは」より
 
 
「日・韓・米 原理講論対訳用語集」(光言社) P.63より
「たいじゅつ(体恤) experience, incarnation 체휼」

この「体恤」の使い方は完全な間違い。
 

■ 原理講論 第一章 創造原理 に登場する「体恤」
_________________
第一章 創造原理 第三節 創造目的(二)神の喜びのための善の対象 P.66
「神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントⅠ三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。」

第一章 創造原理 第四節 創造本然の価値(三)愛と美… P.73
「創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。」

「四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。」

第一章 創造原理 第六節 (三)(2)霊人体の構成とその機能 P.86
「神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。」
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★「神の心情を体恤する」という使い方は間違い。「体恤」は全く違う意味の言葉。
また「体恤」の英訳は「experience(体験)」「incarnation(受肉)」ではなく、「compassion(憐れむこと。「苦難を共に」が原義)」。
聖書に登場し、説教の題目としてもよく使われるキリスト教用語。

 
■ 聖書に於ける「あわれみ」の韓国語訳
_________________
聖書には「あわれみ」と言う言葉が頻繁に登場する。その韓国語訳は、
「휼(恤)」(節数215箇所)
その中に、
「긍휼(矜恤)」(節数168箇所)
「연휼(憐恤)」(節数2箇所)
「체휼(体恤)」(節数2箇所)
が含まれまれる。更に、
「자비(慈悲)」(節数46箇所)

●「体恤(體恤)」の原義(中国語・韓国語・日本語)

(A)中国語大辞典(角川書店)
 「その身になって情けをかける。親身になって人のためを思い、同情や世話をする。

(B)大漢韓辞典(省文社・韓国)
 「上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒をみてやり助けてやること」。

(C)大漢和辞典(大修館書店・日本)
 「己の身を其の人の境遇に置いて察しあわれむ。

(D)日本国語大辞典(小学館・日本)
 「その人の身になってあわれみの気持ちを示すこと。

「体恤」が単なる「同情」、「あわれみ」と違うところは「体」の部分、即ち
「己の身を其の人の境遇に置いて」という意味が加わり、更に韓国語では
「面倒をみてやり助けてやること」となっている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 
「compassion」:
-[名][U] (切実な)同情(心), 哀れみ 《[類語] ⇒pity》〔on, upon, for〕
:have [take] ~ on [upon, for]… …に同情を寄せる.
【ラテン語「共に苦しむ」の意 (com-+pat~i 「苦しむ, 耐える」)】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■ 韓国語版聖書に於ける「体恤」の登場する聖句
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(1)ペテロへの第一の手紙3章8節
마지막으로 말하노니 너희가 다 마음을 같이하여 체휼(體恤)하며 형제를 사랑하며 불쌍히 여기며 겸손하며
「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、
あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」の「同情し」が「体恤し」となっている。

(2)ヘブル人への手紙4章15節
우리에게 있는 대제사장은 우리 연약함을 체휼(體恤)하지 아니하는 자가 아니요 
「この大祭司は私たちの弱さを思いやることのできないような方ではない。」
の「思いやる」が「体恤する」となっている
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      → 「体恤」の間違い INDEX
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「受肉(incarnation)」の使い方の間違い

2024年11月09日 | 検証・解説

●統一教会の「受肉(incarnation)」の使い方

この語はキリスト教の最も基本的用語ですが、原理講論英語版「Divine Principle」で使われ、日本語版では他の表現「御言葉の完成実体」に書き換えられており、一見問題はないように見えますが、原理講義や信仰生活上で間違った使い方がなされ続けております。その原因は教祖・文鮮明師自身のようです。

聖酒式の御言葉 1970年10月10日水沢里
「この聖酒式は、イエス様を中心として言えば、聖饗式である。血と肉の代りにパンとぶどう酒を飲む。堕落したんだからイエス様の体を受けることで新しい肉と体を受肉しなければならない。
 それと同じように、この聖酒式は堕落した行程と反対の方向にもって行かなければならない。」

キリスト教では、こういう使い方はしません。
「受肉(incarnation)」は「神が人となったこと」であり、「人が神になることではありません。
ここで統一原理の特殊性についてしっかりと説明する必要があります。


●「聖饗式」と「受肉」の違いとは?

「聖饗式」はキリスト教の儀式であり、キリストの体と血を受けることを指します。
 一方、「受肉」は神が人となったことを意味します。
これらは異なる概念であり、以下に詳しく説明します。

1.聖饗式:

・聖饗式は、キリスト教の伝統的な礼拝の一部であり、
主日礼拝やその他の特別な祭りで行われます。

・聖饗式では、パンと葡萄酒がキリストの体と血に変化すると信じられています。
これは「実在的な変化(実在変化)」として知られています。

・聖饗式は、信者がキリストの愛と赦しを受けるための神秘的な瞬間であり、信仰生活において重要です。


2.受肉:

・「受肉」とは、神が人間としてこの世に降臨したことを指します。これはイエス・キリストが人間として生まれ、歩み、最終的に十字架で犠牲になった出来事です。

・受肉は「神が人となった」ことを意味し、キリスト教の中心的な教義です。イエス・キリストは神性と人性を同時に持つ存在であり、神の愛を人々に示すためにこの世に来られました。

したがって、「聖饗式」は「受肉」ではありません
前者は信者が聖饗式を通じてキリストの愛を受ける行為であり、
後者は神が人間として降臨した出来事です 。

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「体恤」の間違い

2024年11月09日 | 検証・解説
 
▲「日・韓・米 原理講論対訳用語集」(光言社) P.63より
 
「たいじゅつ(体恤) experience, incarnation 체휼」 ← 間違い!
 
「たいじゅつ(体恤) compassion 체휼」 ← これが本当の意味!
 
「体恤」の英訳は「compassion(憐れむこと。「苦難を共に」が原義)」。
聖書に登場し、説教の題目としてもよく使われるキリスト教用語。
下記の「神の心情を体恤する」という使い方は完全な間違い。
 

■ 原理講論 第一章 創造原理 に登場する「体恤」
_________________
第一章 創造原理 第三節 創造目的(二)神の喜びのための善の対象 P.66
「神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリントⅠ三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。」

第一章 創造原理 第四節 創造本然の価値(三)愛と美… P.73
「創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。」

「四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。」

第一章 創造原理 第六節 (三)(2)霊人体の構成とその機能 P.86
「神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 
■ 聖書に於ける「あわれみ」の韓国語訳

聖書には「あわれみ」と言う言葉が頻繁に登場する。その韓国語訳は、
「휼(恤)」(節数215箇所)
その中に、
「긍휼(矜恤)」(節数168箇所)
「연휼(憐恤)」(節数2箇所)
「체휼(体恤)」(節数4箇所)
が含まれまれる。更に、
「자비(慈悲)」(節数46箇所)
 

●「体恤(體恤)」の原義(中国語・韓国語・日本語)

(A)中国語大辞典(角川書店)
 「その身になって情けをかける。親身になって人のためを思い、同情や世話をする。」

(B)大漢韓辞典(省文社・韓国)
 「上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒をみてやり助けてやること」。

(C)大漢和辞典(大修館書店・日本)
 「己の身を其の人の境遇に置いて察しあわれむ。」

(D)日本国語大辞典(小学館・日本)
 「その人の身になってあわれみの気持ちを示すこと。」

「体恤」が単なる「同情」、「あわれみ」と違うところは「体」の部分、即ち
「己の身を其の人の境遇に置いて」という意味が加わり、更に韓国語では
「面倒をみてやり助けてやること」となっている。
 
●「体恤(體恤)」の英訳 →「体恤の正しい英訳」
「compassion」:
_________________
-[名][U] (切実な)同情(心), 哀れみ 《[類語] ⇒pity》〔on, upon, for〕
:have [take] ~ on [upon, for]… …に同情を寄せる.
【ラテン語「共に苦しむ」の意 (com-+pat~i 「苦しむ, 耐える」)】
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■韓国語・中国語・英語・日本語聖書に登場する「体恤(體恤)」

詩篇 69篇 20節
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훼방이 내 마음을 상하여 근심이 충만하니 긍휼히 여길 자를 바라나 없고 안위할 자를 바라나 찾지 못하였나이다
辱罵傷破了我的心.我又滿了憂愁.我指望有人體恤、卻沒有一個.我指望有人安慰、卻找不著一個。
Insult has broken my heart, and I despair; I looked for compassion, but there was none, for comforters, but found none.
そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした。
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へブル人への手紙 4:15
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우리에게 있는 대제사장은 우리 연약함을 체휼하지 아니하는 자가 아니요 모든 일에 우리와 한결같이 시험을 받은 자로되 죄는 없으시니라 ! 
因我們的大祭司並非不能體恤我們的軟弱。他也曾凡事受過試探,與我們一樣,只是他沒有犯罪。
For we have not a high priest, who can not have compassion on our infirmities: but one tempted in all things like as we are, without sin. 
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
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へブル人への手紙 10:34
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너희가 갇힌 자를 동정하고 너희 산업을 빼앗기는 것도 기쁘게 당한 것은 더 낫고 영구한 산업이 있는 줄 앎이라
因為你們體恤了那些被捆鎖的人,並且你們的家業被人搶去,也甘心忍受,知道自己有更美長存的家業。
For we have not a high priest, who can not have compassion on our infirmities: but one tempted in all things like as we are, without sin.
さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
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1ペテロ 3:8
_________________
마지막으로 말하노니 너희가 다 마음을 같이하여 체휼하며 형제를 사랑하며 불쌍히 여기며 겸손하며
總而言之,你們都要同心,彼此體恤,相愛如弟兄,存慈憐謙卑的心。
Finally, be ye all of one mind, having compassion one of another, love as brethren, be pitiful, be courteous:
最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
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「体恤」反対派の批判

2024年11月09日 | 検証・解説

体恤の間違い

■萩原遼「淫教のメシヤ・文鮮明伝」より

「聖神時代のこの愛とは、その愛が次第に成長して人格的復活において抱かせるエデンの愛である。
故にキリスト人が新生した後に復活的信仰をもつようになると聖神と一体となって体恤させることに
よって人格的復帰をみると同時に情欲を聖化する愛である」
(金百文著「聖神神学」P.132~133 下の写真)

体恤とは統一教会もしばしば用いる独特の用語であり、朝鮮語にしかない、朝鮮製漢字である。
『大漢韓辞典』によると、普通の意味は「上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒を
みてやり助けてやること」

血分け教ではこの言葉をもう少し別の意味、即ち「神の心情を体恤する」という用法のように
「血肉化する」とか「心に抱く」という意味に用いているようだ。このくだりで述べていることは、
要するに聖神とキリスト教信者が肉体的に一体となることによって人格的復帰と情欲の聖化
同時に得ることができるというのである。

>「体恤とは…朝鮮語にしかない、朝鮮製漢字である。」

★これは間違い。中国製の熟語で昔から中国・韓国・日本で使われている。
今では専ら漢文に出てくる位で韓国・日本では殆どお目にかかることはないが、韓国語聖書の中で使われ、また韓国のキリスト教会の説教でも使われる。

> 「神の心情を体恤する」という用法のように「血肉化する」とか「心に抱く」という意味に用いて
> いるようだ。このくだりで述べていることは、要するに聖神とキリスト教信者が肉体的に一体と
> なることによって人格的復帰と情欲の聖化を同時に得ることができるというのである。

「血肉化する」と正式に定義化されてはいないが、概して統一教会の信徒たちは、
「体験を通して神の心情を自らの血となし肉となす」というような意味に解釈している。

★『大漢韓辞典』によると、本来の意味は「上位にいる者が下位の者の困難な事情を理解して面倒をみてやり助けてやること。」

これは彼等の言うことが正解。
中国・韓国・日本いずれの辞書にも載っている。

■体恤 

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