畝傍山(うねびやま)は、平成17年に名勝指定された大和三山

(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝傍山

(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2メートル。大和三山では一番高い山です。橿原市の

中心部に位置します。周囲には、橿原神宮や神武天皇陵など

名所旧跡が点在しています。

畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く

持つところからつけられたそうです。「古事記」「日本書紀」

「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」

「慈明寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。
万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が大和三山

のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くに

あるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」

 

 

 

 

香具山は 畝傍山を妻にしようとして 耳梨山と争ったそうだよ 

神代からそうであったらしいよ 昔からそうだったから 

いまでも畝傍山を妻にしようと 耳梨山と争ってるんだってさ

大和三山
大和三山は藤原京を囲むように三角形の位置に並んでいます。
まさに三角関係ですね(笑)

通説では香具山と耳梨山が男で、女の畝傍山を妻にしようと争った

ことになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地

と記された橿原。天照大神〈あまてらすおおみかみ〉の子孫で

ある神日本磐余彦火火出見天皇〈かむやまといわれひこほほでみ

のすめらみこと/※後の神武天皇〉が、豊かで平和な国づくりを

めざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を

乗り越え、畝傍山〈うねびやま〉東南の麓に橿原宮を創建されました。
第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,680

余年前のことです。
日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点とも

いえるでしょう。

 

橿(17)原(10)=27

神(9)武(8)天(4)皇(9)=30

2&6&8=16(8 8)

一&27&30&16=74・・・7&4=11

 

 

よくテレビで紹介されますね~~

玉砂利がたくさん敷き詰めてあるので、雑草が

一本も生えていませんでした。

歩くのが大変なくらいの玉砂利でしたよオッドアイ猫

 

第二鳥居

 

南手水舎

南神門

 

 

👆

紀元二千六百八十四年 2684・・・2&6&8&4=20(1 1)

 

御歌碑・さざれ石

【 国歌『君が代』 】
君が代は 代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで

千&八千=9000

君(7)が代(5)=12&5=17

9000&17=9017・・・9&1&7=17・・・1&7=8

 

皇后陛下御歌

石碑には平成2843日の神武天皇二千六百年大祭にあたり、

天皇皇后両陛下(当時)が橿原神宮へ御参拝になられた際の

お気持ちを、美智子皇后陛下(当時)がお詠みになられた御歌

が刻まれています。

遠つ世の 風ひそかにも 聴くごとく 樫の葉そよぐ 参道を行く

 

 

橿(17)原(10)=27 訓読み:かし

樫(15)の葉(11)=27

27&27=54・・・(2&7=9)(2&7=9)(11×9)

2&8&4&3=17

二千六百=2600

1&7&2&6=16(8 8)

 

外拝殿

大絵馬

👆

五本爪の龍凝視

高さ:4.5m 幅:5.4m

4&5&5&4=18(9 9)(11×9)

 

五本爪の龍

最高位の王を表していました。五本爪が使えるのは皇帝

だけであり、もし他の人が間違えて使うと政治犯として

罰せらました。

中国で五本爪の龍が確立された元・明・清の時代において、

日本は元に攻められたり(元寇)、日本が朝鮮半島を侵略

したり(文禄・慶長の役)して日本と中国は微妙な関係でした。

 

 

 

内拝殿

 

内拝殿の先に本殿があります。見えないけど^^;

内拝殿の前まではお正月に行けるそうです。

向かって右=廻廊

絵馬

神楽殿

 

深田池

長山稲荷社

御祭神は宇迦能御魂神〈うかのみたまのかみ〉・豊受気神〈とようけのかみ〉

・大宮能売神〈おおみやのめのか〉です。橿原神宮の末社であり、橿原神宮

御鎮座以前からこの長山の地にお祀りされており、橿原神宮の御造営

・御鎮座を御加護されてきました。開運厄除・五穀豊穣・商売繁盛の

御神徳を持つ霊験あらたかな稲荷社です。

昭和8年(1933)に大阪市在住の篤志家の寄進により現在の地に奉遷され、

鎮座した5月2日を例祭日とし現在に至ります。

 

第二鳥居 第一鳥居

神橋

森林遊苑 藤棚

 

 


 

 

 

神武天皇は畝傍山の東南の橿原宮(かしはらのみや)で即位されたと

『日本書記』に記されています。その即位の地に、明治23年(1890)

に創建されたのが橿原神宮です。本殿は京都御所の内侍所(賢所)

(ないしどころ〈かしこどころ〉)を明治天皇より下賜され移築した

もので、国の重要文化財に指定されています。本殿の手前には幣殿

(へいでん)、内拝殿(ないはいでん)、外拝殿(げはいでん)が

整然と並び、その壮大さと美しさに圧倒されます。

甲子園球場の約13個分という広大な境内には、森林遊苑や芝生広場、

水鳥たちが遊ぶ深田池などもあって、市民の憩いの場としても親しま

れています。

 

橿原神宮

「鮎みくじ」500円(左)、「金鵄みくじ」500円(右)

 
(Wiki)

金鵄(きんし)は、『日本書紀』に登場し、神武天皇による

日本建国を導いた金色

『日本書紀』の記述では、東征を進める彦火火出見(後の

神武天皇)が長髄彦と戦っている際に、金色の霊鵄が天皇

の弓に止まると、その体から発する光で長髄彦の軍兵たち

の目がくらみ、東征軍が勝利することができたとされる。

この霊鵄を指して「金鵄」と呼ぶ。

ただし、『古事記』に金鵄は登場せず、神武東征の際に熊野

から大和へ東征軍を道案内した八咫烏と混同、あるいは同視

されることが多い。金鵄と八咫烏が同一であるか、それとも

別の存在であるかはっきりしないが、いずれにしろ日本建国

に関わった霊鳥として、吉事や勝利あるいは建国の代名詞と

して使われ、特に大日本帝国時代には金鵄勲章をはじめ、

意匠や名称が多方面で採用された。

また、平安時代から存続する賀茂神社においては、金鵄および

八咫烏ともに、賀茂建角身命の化身とされており、この二つを

合わせて「金鵄八咫烏」と呼び祀っている[1]

 

 

 

魚のアユは、漢字で「鮎」と書きますが、これは中国語では「ナマズ」

の意味です。「鮎」は日本で作られた漢字で、文字どおり「占う魚」

という意味を持っています。では、いったい、何を占うのか?
 
『日本書紀』には、鮎と思われる魚がしばしば登場します。

 有名なのが、新羅に遠征した神功皇后のエピソードです。

『日本書紀』には、もう一つ有名なアユ釣りの場面があります。
 神武天皇が現在の奈良県の丹生川で、占いをします。天香具山の土

で「厳瓮(いつへ)」という壺を作り、「この壺を川に沈め、大小

の魚が川面に浮かんでくれば、この国を統治できる」と宣言した

ところ、見事にアユが浮かび上がってきたのです。ツボには酒が

入っていたので、魚が酔っ払ったということです。

このように、日本の神話では、アユと酒壺は非常に大きな意味を

持っています。

実は、先に示したアユと酒壺が描かれた旛には、下に「萬歳(万歳)」

と書かれています。万歳と皇室は、非常に深い関係があるのです。

 
「万歳」は、文字どおりに取れば「1万年」という意味で、長い年月の

ことです。これが、日本では「長きに渡って天皇の御世が続きますように」

という意味で使われるようになりました。時代が下ると、転じて、めで

たいことを祝う叫び声になったわけです。ただし、当時は「バンザイ」

ではなく「バンセイ」と発音されました。

 

 

鮎(16)みくじ&金(8)鵄(17)みくじ=22&31=53・・・5&3=8

 

 
 

一説によると、トビ・トべ(その変化としてのトミ)またナガ(ナカ)は 

 「蛇神」をさす呼称であり、金色の鵄は本来、長髓彦(登美彦)側の神であり

 「金色の蛇(トビ)=金色の鳥(トビ)」である。

 

 
 
 
 

藤原京は16年間で廃都となりましたが、その間、大宝元年(701年)

に大宝律令が完成し、政治の仕組みが整備されました。富本銭に続く

和同開珎も発行され、経済の仕組みにも変化を生みました。
藤原京は、日本が律令国家として歩むきっかけとなる重要な時代の

都なのです。また初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を

発した遣唐使です。

しかし、これほどまでに国家の礎を築くほどの繁栄と力がある大都市が、

なぜ16年という短命で終わったのでしょうか?

立地や地形の問題、飢饉・疫病、遣唐使から得た唐の情報に対する隔たり

の大きさや都城としての藤原京の限界…数々の諸説がありますが、真相は

依然、定説もなく謎のまま。

 

ただひとつ言えるのは、「日本」を語る上で欠かせない都がこの橿原市に

あり、今なお多くの人から親しまれていることです。

 

 

 

 

 

 


 

(Wiki)

和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年6月3日

和銅元年5月11日)[1]から、日本で鋳造・発行されたと推定

される銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。

皇朝十二銭の1番目にあたる。

直径24mm前後の円形で、中央には、一辺が約7mmの正方形の

穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに

和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年

発行された開元通寳を模したもので、書体も同じである。

律令政府が定めた通貨単位である1として通用した。当初は

1文で2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に

相当したとされる。

 

(8)(6)(12)(9)=35・・・3&5=8