“私が聖師さまのお側で御用をさせて頂くことになって、一番うれしく考えましたのは、これからは聖師さまから直接神様のお話を聞かせて頂くことが出来るだろうと思ったことです。ところがあにはからんや、日々のお話はご冗談やら面白いお話ばかりで、私の期待は全くはずれました。ある時、私はたまりかねて、ご冗談ばかり仰言って、神様のお話を少しもしていただけないのは、どういうわけでしょうか、とお聞きしたのです。そしたら聖師さまは事もなげに『ワッハッハ』とお笑いになり、
『身たま相応や』
と仰言いました。私は、ああ私は罪の深い人間だから神様のお話は聞かせて頂けないのか、とあきらめの気持ちになりました。
すると、聖師さまは真面目なお顔をなさって、
『もうわしの言うべきことは、「霊界物語」と「神霊界」に言い尽くしてある。神典として残してある。わしが恋しくなったら物語を読め』と仰言いました。それで私は、読んでも、すぐに片っぱしから忘れてしまいますと申し上げますと、聖師さまは『忘れてもかまへん。読んでさえおけば、それがまさかの時にご内流となって出てくるのだから、読んでさえおけばそれでよいのだ』と申され、『この物語は、三日に一篇(冊)あげてあるのだから、三日に一冊読んでもらいたい。それが出来ないようだったら、なんぼ忙しゅうても一日に一頁でも半頁でもいいから毎日読むように』とお諭しくださいました。そして私に、『霊界物語を読まない人は、なんぼ肉体はわしの側にいても、魂は遠い所にはなれているのと同じだ。また、その反対に、物語を読む人は、肉体は遠くにはなれていても、魂はわしの側にいるのと同じだ』とお示しくださいました。
このお言葉から考えますと、現在私達は、聖師さまとは霊界、現界にはなれていても、物語をいただくことによって、いつもお側におらせて頂いていることを信じるものでございます。この世相のきびしい時代に、何かと戸惑って、どうしたらよいだろうかと心に迷いの出たとき、正しいお内流をいただくために、三代教主さまのお示しのように、朝夕真剣にお祈りをし、物語を頂くことによって、正しいご内流を頂くことが出来ると思わして頂きます。また、人の病気のときに、物語を頂くことによって、病人は苦痛からのがれてスヤスヤと眠ったり、赤ん坊に手こずったりするとき、物語を読ませて頂くことも大切なこととお聞きしております。
殊に人の昇天されたあと五十日の間に、物語を読んだり、また祝詞をあげると、中有界に迷っている霊が、それを聞いて天国に救われる
とお聞きしております。
亀岡の大本婦人会では、人が昇天されたとき、ご霊前に物語を拝読させて頂いております。藤津英子さんがご昇天されたとき、物語拝読に伺わせていただきました。あの方は信仰の徹底した方でしたので、娘さんの春子さんに「お母さんは信仰の熱心な方だったから、死ぬとき何か言ってゆかれませんでしたか」とおたずねしましたら、「何も言いませんけど、霊界を研究しにゆく」とのことでした。翌日、春子さんに道でお会いしましたら、「ゆうべ、お母さんがお礼を言いに来ました。昨日はそこらがパッと明るくなって、まるで春のようでこんなうれしいことはなかった」とのことでした。私はそのとき、霊界物語の大切なこと、また霊界は何か遠い所のように思うけど、この世のうつしであり、うてばひびくように通じるものであることを、つくづく痛感いたしました。
聖師さまは綾部へおこしになると、山水荘にお泊りになるのです。いつものように物語を読ませて頂いておりますと、(聖師さまはお休みになっておられます)誰もいるはずのない二階からトントンと人がおりてくる足音がして、私の横に座る気配がしました。私はとても気持ち悪く思いましたが、そのまま拝読をすすみ、終わりましてから、聖師さまに伺いますと、
『あれは中有界に迷っている霊が、この物語を聞きにきたのだ。物語を聞いて、天国に救われるのだ、だから霊界物語を読むときは、そこに誰もいなくても、声を出して読めというのはそのことだ」
とお教え下さいました。
聖師さまは毎晩、物語を聞きながらお休みになるのです。ご奉仕さして頂きました間、ほとんど毎晩のように拝読させて頂きました。一時間半から二時間、声色を使って、男の声、娘さんの若い声、バケモノが出てきたら「ギャッハッハッハ」と登場人物になり切って読むわけです。高姫、黒姫のバァさんは渋いにくまれ声、それを聞かれながら聖師さまは殊の外のごきげんで、『ワッハッハッハ』とこの世で最高のお楽しみのように見受けました。私がここはどういうふうに読むのかと迷っていますと、読み方を教えてくださいます。殊に天祥地瑞のひなぶり調など、うたいぶりを教えてくださいました。
しかし、二時間も読んでおりますと、目がトロリとなってこちらが華胥の国へゆきそうになり、しまいに「で」とか、「に」とかを読みちがえることがあるのです。すると大変、『ウン、ちがう』とたしなめられますので、ちょっとの油断も出来ません。しまいに、まだお休みにならないかな、早くお休みになってほしいなとお顔を見ると、目をサンサンと輝かされ、ジッと天井をごらんになっています。そのうち、お休みになりますと、グウグウといびきがきこえてくるので、「ああしめた、やっとおひまが出た」とぬき足さし足で、お部屋をさがりますと、大きな声で『オイ、それから先どうなったんや』とお声がかかりますので、またぞろお部屋へ行っては拝読させて頂いたものです。今から思えばほんとにもったいないことでした。
聖師さまがご昇天になったお通夜のとき、二代さまは私に『先生はあんたの読む物語を喜んで聞きなはったやろ、今夜も先生に物語を読んであげな』とおっしゃったのが、最後の物語拝読となったのです。二代さまもそれから『わしにも物語を読んでくれや、物語はよいな』とおっしゃって、聖師さまと同じように物語をお聞きになりながらお休みになりました。
九月十八日は丁度物語ご口述の記念日にあたり、瑞生祭後の宣教部の方針としまして、一年間の物語拝読の計画をお立てになったとお聞きしました。身魂磨きに物語拝読をおすすめになった聖師さまの御言葉のうえからも、ほんとうによい計画と、ぜひ私も参加させて頂きたいと存じております。”
(「おほもと」昭和51年9月号 三浦玖仁子『聖師さまと霊界物語』)
・二代様の言葉
“……聖師の御昇天後、われわれに対し、(二代様が)お前読んでいるかとお尋ねになる。
「わししか神さんから知らされていないと思っていたことや、この秘密は守らないかんと思って誰にも言わず苦しんで隠しておったたことも、聖師さんはみな書いておってやで」
と話しておられた。”
(「いづとみづ No.19」1981年10月号 『「霊界物語」はみろくの世建設の基(座談会)』より)
“道場へ朝拝に来られて瑞祥館へお帰りの時、車のあと推しをするわけです。その時、
「お前物語読んどるか」
と言われる。そして
「わしは神様に一厘の秘密は、わしだけしか教えてもろうていないと思うとった。これだけは誰にも喋れんと何十年も心に秘めておったが、このごろ物語読んでもらうと、みんな書いておってやで。大正十一年とかやろ、先生(聖師のこと)みな書いておってや。読んどってか」”
(「いづとみづ No.23」1982年2月号 『出口王仁三郎聖師を語る(座談会 第二回)より』)
・「霊界物語」の中の予言
“「むかし桜井重雄氏にこんな話を聞きました。聖師から物語の中のここを読んでみよと言われ、何字目かを横に読んだら予言があった。その内容は今は言えないと、ちょっと教えてもらったのですが、必要な時になったらそこだけが光るんだと聖師はおっしゃったというのです。桜井氏はあとで、そこをなんぼ探してみても出てこないというんですね。」
「H氏も同じようなことを言っています。むかし見せてもらったがあとでいくら探しても見当たらんと言うのです。それでもう一回調べ直すんだと調べ直しています。」
「N氏は若い頃、本部奉仕を辞め帰郷しようと思ってオヤジに相談したら好きなようにしろと言われ、物語から悟らせていただこうと思って拝読したが、ある余白歌から私のようなものでもご奉仕せねばいかんのやな、と悟らせて頂き奉仕を続ける決意をしたというんですが、その余白歌をいくら探してみても、どこにあるのかいまだに分からんというのです。そんなこともあります。白煙となって消えてしまうというのですか。(笑)」”
(「いづとみづ」№69 『摩邇の玉むかえ真心の花咲く祝歌』より)
・霊界物語は精霊の糧(かて)
“人間の肉体にはあまりに端的でわからないが、精霊が聞いた時ははっきりと判るのである。従って、この物語は精霊の糧であるとも示されている。
そのゆえに出口聖師は判らなくても読んでおりさえすればいつとなく判るようになる。またいつとなく、御霊のふゆが、増してゆくようになると教示された。
霊界に行ったときにはじめて物語の糧に育まれていたことが実証される、すなわち救いの書であるゆえんである。”
(「おほもと」昭和50年8月号 大国美都雄『聖師の血肉霊界物語』より)
*せめて生きている間に霊界物語の凄さがわかれば、多くの人が先を争って読むようになると思うのですが、まさに「お筆先」にあるように、『このしくみ、わからねばならず、わかりてはならず、わからぬからかいしんができず、神ももどかしいぞよ』で、こればかりはどうしようもありません。大本信徒ですら、どうせ読んでもわからないから読まないとか言って最初から読もうともしない人がいますが、聖師様は『これは救いの書だから一巻だけでも読んだら救われる』と言われていますし、生きている間にせめて一巻だけでも音読しておけばよいのに、本当にもったいないことです。そもそも霊界物語は意図的に『前もっては判らんように』書かれたものであり、これは肉体の糧ではなく『精霊の糧』です。たとえ肉体レベルの知性では理解できなくとも、誰でも霊体、魂の奥底には届いており、要するに、霊界物語を読めるのは「霊主体従」の状態にある、或いはそれに向かって精進している人だけで、読もうともしない人は「体主霊従」の状態のままでいるために肉体の意識に邪魔されて物語の価値がわからず、それで読む気になれないでいるのです。出口聖師が『霊界物語は最後の審判書である』、とか『物語を読まない者は私に反対するのだ』と言われたように、霊界物語の拝読は、『ミタマ磨き』であるとともに、読む読まないが、そのまま『ミタマの検(あらた)め』でもあります。どうか縁ある方々は、このことに早く気づいて、せっかくの機会を逃さないようにして頂きたいと思います。
・「前もっては判らんように書いてある」
“……細かい筋書きはとうてい判るものでもなく、また前もって判ったら、神業が潰れると神示に出ております。
「機織る人にさえも織りもって、機の模様のわからん仕組」
だとの神示もありますから、われわれに判らんのはもちろんだと思いますが、聖師様は、
「霊界物語には全部書いてある。書いてはあるが、豫めはドンナ偉い信者がドンナに勉強しても、前もっては判らんように書いてある。しかしあとになったら誰でも、何じゃ、こんなところに書いてあったと、直ぐ判るように書いてある。神様に先が見えなんだとあっては神の権威に関するからなァ」
とおっしゃいました。大本事件の事でも、霊界物語四十四巻だったと思いますが「無条件降伏だ、臥薪嘗胆十年の忍苦だ、無条件還付だ」と、妙なところへ取って付けたように書き込んであります。”
(「神の國」昭和28年1月号 小山昇『弥勒三会の暁』より)
・「霊界物語」に反対する者
“未決出所後、昭和十七年八月七日からご昇天までに、
「物語読んでるか」
と、何度も繰り返して注意されました。第二次の大本事件の法廷でさえ、
「物語を読まぬのは私に反対しているのです」
と裁判長に答えられました。”
(「おほもと」昭和33年1月号 木庭次守『大炬火をかかげよ』より)
“第二次大本事件当時、ある幹部役員が昇天の際、二代さまはその人の魂が、突然に割れた大地の中に落ち込んでゆく夢を見られたそうです。熱心に御用された方だったのに……と思われていましたら、五十日祭も終わったころ、ようやく衣冠束帯で上がって来られたとのこと。聖師さまにお聞きなさると、
「その通りや。わしに『霊界物語をもう出すことを止めてください』と云って反対したんだ。わしに反対したものは、例外なく一たんは中有界か地獄界に落ちねばならぬ」
と言われたとか。”
(「綾の機」13号『聖師さまのお示しに学ぶ②』より)
・霊界物語の神秘 (額からの霊光)
“霊界物語は単なる人為の書物ではなく、真の神が出口聖師に聖霊をみたして述べられた、神伝直受の教典であります。霊界物語の神秘について先輩の故成瀬言彦先生から昭和四十五年頃に、次のように伺いました。
先生が四国へ派遣されていた昭和初期の頃、大本の徳島分所で、五、六十人の信徒に、霊界物語拝読のすすめを内容とした講演をされた時に、話終わって壇を降りると、分所長が礼を述べに来て「徳島の信徒は、皆、熱心な方ばかりで、物語拝読も皆さんがなさっていると確信いたしております」と付け加えられました。先生は、そうですかと言って再び昇壇して、皆に、
「今、分所長から、お聞きの通りのお言葉がありました。しかし、私の見るところ、皆さまの中で拝読なさっている方は三人しかいない。今から私がその三人を当てます」と言って指し示したそうです。
そのあと言をついで「今示した三人以外に読んだことのある人は、遠慮なく手を挙げてください」というと、皆下を向いて、答える人はなかったそうです。
先生はさらに、その三人が、それぞれ何巻まで読んだかを言い当て、皆を驚かせたそうです。
「真の神に祈り、心を込めて物語を拝読すれば、一巻を読み終えると額から蛍火のような霊光が、十五、六巻では懐中電灯のように、月の光を強くしたような霊光が出ている。さらに三十五巻以上ともなれば、さながらヘッドライトの如く強烈な霊光が発しているもので、自分はその顔を見ただけで、何巻の拝読をしているかがわかる」
と話しておられました。”
(「人類愛善新聞」昭和63年1月号 松平隆基『万民救済の神書』より)
・霊界物語拝読による世界の浄化
“聖師さまは
「霊界物語を読まなければいけない。これを読めば神風おのずから起こって、大本は発展するし、世界も清まってくる」
とはっきりお示しになっている。”
(「おほもと」昭和36年12月号 桜井八洲雄『霊界物語拝読の真意義』より)
“聖師さまが昭和十七年八月七日第二次大本事件で保釈出所されてからは、親しくおそばへ行き、物語の中の疑問についておたずねいたしました。聖師さまは一々物語の中の言葉のままにお答えを頂きました。
「物語が一組さえあれば、これを種にしてミロクの世は完成する」
と教えられました。ミロク神政は、霊界物語の音読の言霊から始まることを肝にめいじて、大本神業に奉仕させて頂きましょう。”
(「霊界物語のしおり」第16号 木庭次守『物語拝読は音読』)
この神書若(も)しなかりせば地の上に
みろくの神世は来たらざるべし