今になってやっと、
東日本大震災の当時のニュース番組を見ることができました
あの日、私は福島にいましたが
地震発生から電波障害?でニュースも見れなかったので
地震の瞬間、どんな報道がされてたのか知らなかったんですよね
19歳の大学生だった私は
福島での勉強合宿に参加してました
その初日があの日
そうそう、当時はガラケーだったな
私のいたところは震度6弱だったみたい
15時にセミナーの開会式ということで
大きい広間に全員集まって座ってました
幸いガラスは割れませんでしたがすごい揺れでした
情報がなかったから、
今いるココが一番大きく揺れたんだろうなと思ってて
結構のんきに実習してた
合宿所は予備電源と合宿用の食料も備蓄があったみたい
災害伝言板がありましたが使用しませんでした
そんな大げさな・・・と思ってました
その夜にテレビ映像を見ることができたんですけど
気仙沼?が燃えてたのを覚えています
何の映像かわからなかった
みんな情報がなかったけどとりあえず生活物資はあったから
予定してたカリキュラムを進めてたのだと思う
それが変わったのが
原発が爆発した、って噂が流れてきた頃
計画を変更して、合宿は切り上げ
できるだけ早く遠くに逃げることに
バスに乗り、ふさがってない道を伝って
福島から那須塩原、埼玉を通過して東京へ行ったのだったか
埼玉の春日部を通るとアナウンスがあって、
あ、春日部に来るのは初めてだな、と思った気がする
当時は車で移動しようとする人達で道路がいっぱいでしたね
ガソリンスタンドで給油待ちの列がすごかった
ガス欠の車も大量に立ち往生してて
一ミリも動かなかったこともあったと聞いてます
バスの中では誰かがネットからの情報を拾ってて、
「原発が爆発して、黒い雨が降ってきて被ばくする」
との噂が流れてました
何の情報もなく不安で
否定することもできずホントかもと思ってました
そんなのデマだ、と断定することは
当時の私には無理だった
今、また被災してこういう噂が上がってきても
やっぱり断定できないと思う
主催者の人が各地に連絡してくれて、
私と友人はどこかの大学の留学生用の寮に
一泊させてもらうことができました
スーパーで物資を調達しようと向かいましたが
棚に品物はほとんど無くて
私はとりあえずコンデンスミルクを買った覚えがあります
レジは長蛇の列でスーパーの中をぐるっと一周してましたが
パニックはなく皆さん整然と並んでいました
そのあと羽田から地元に飛行機が飛ぶと聞き、
友人と共にすぐに予約をとって羽田に向かいました
余震が続いてたので欠航する可能性があったけど
動けるうちに動こう、と進みました
その時に初めて両親と連絡がつながり、
飛行機で帰るので空港まで迎えに来れるかと
お願いしました
当初私は福島に行くことだけ伝えて被災し、
2日ほど音信不通だったので
家族内では死亡説が出ていたようでした
そして無事に自宅に帰りつくことができました
生き延びたことは本当に運がよかったと思います
当時、私たちを迅速に安全に逃がしてくださった主催者のみなさん、
本当にありがとうございました
被災の前日に宿泊した新白河のホテルのエレベーターで
よく眠れるようにと
手作りのヒノキの置き物を貸してくれたおじさんは無事だったろうか
当時の記憶は正直曖昧なところが多いです
しかも年を追うごとに薄れて変化していきます
なので、今覚えている範囲で書き残させてください
津波での被害もそうですが、
火事など本当に予期せぬことは人生に降り注ぎます
私も例外ではない
昨今の日本を見てると
モノを残すことの難しさを感じます
ノートに書いたことも
跡形もなくなくなる日が来るでしょう
これはいつか失うかもしれない
私の大事な記憶の一部です
残す努力くらいしないとね
どんだけ祈っても大災害の回避はできませんから
せめて、対策はコツコツ積み上げていきたいです
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