普遍と平熱

かつてけっこう本気バンドをやっていて、途中で透析が始まったひとの平熱くらいの温度感の話

80年代アイドルの曲を聞くと去来する独特の感情がある

昭和のアイドルブームが訪れることがたびたびある。最近聞いているのはうしろゆびさされ組だ。そのユニット名にもなっている「うしろゆびさされ組」という曲をちょっとどうかというくらいに繰り返し聞いている。単純に曲がかっこいい。そしてあの時代の曲のサビの強さったらない。

当時の曲ってあの時代にしかない独特の雰囲気を醸し出していると思う。曲の良さもさることながら、その雰囲気を感じたくて聞いている部分もある。昭和とは言ったけど、主に80年代のアイドルを集中的に聞いており、聞くたびに曲に感心しながらエモみばしった心境になっている次第だ。

なんだろう、うまく説明ができないのだけど、バブル的なわっしょいわっしょいの雰囲気が曲から滲み出ているような気がして、「戻らないあの時代」というものを感じて胸が締め付けられるような気持ちになるのだ。伝わらなそうだなあ。

しかも80年代なんて物心がついていくらも生きていないキッズもキッズの時代で、バブルだったことなんてあとから知った。「あ〜、あの頃はよかったなあ…」なんてことにはならない。なのになぜ前述のような心境になるのかが自分でも謎だ。

ちなみに、アイドルだけでなく、米米クラブの初期の曲にもこのエモみは適用される。米米クラブがあまり広くない屋外会場でビーバップハイスクールのワンカットみたいな雰囲気で演奏しているライブ映像を見ると思い出なんぞビタイチないのに泣きそうになる。なぜだ。

これは言い過ぎだけど、これを大きくしたようなステージ

こういうのってそれぞれの世代であるものなんだろうか。例えば、90年代のTKブームの様子などを見聞きするとむせび泣いてしまうとか、00年代初頭の浜崎あゆみの豹柄を見ると膝から崩れ落ちてしまうとか。

幼少期のうちに何かしらのかたちで心に刻みつけられた音楽、現象について触れると発露する気持ちなのだとしたら、どの世代にもトリガーはあるのだろうから真剣にそれを聞いてみたい。

ついでなので曲のたいしての所見も述べておくと、80年代のアイドルってニューウェイブっぽさがあってそれも好きな理由のひとつだ。海外で流行っていたから取り入れているのはわかるのだけど、ただ、海外のニューウェイブ風の楽曲をそのままやっているわけではなく、日本の歌謡曲独特の陰鬱さをうまいこと配合しているように思う。Winkとか中森明菜とか工藤静香とか。海外の曲は”憂い”という表現が当てはまるのだけど、日本は前述の通りどこか陰鬱なものを感じる。それが良いという話ですよ、念の為。Winkのニュームーンに会いましょうとか最高。

今回のアイドルブームにいたってはちょっとコピーバンドとかまでやりたくなっている始末だ。ひさびさにギター練習してみようかな🎸

 

 

 

 

 

 

ペンは適正価格でお手柔らかにお願いします

就活の面接等で、面接官の持つペンを10,000円で売ってみて欲しいというやりとりが行われることがあるという。当然そのペンは10,000円もしないものであると思う。それをうまいことやって売ってみなはれやという趣旨である。

その価値があるとは思えないものをどう売るか。ペン本体の商品価値は上げようがないのであとは付加価値とかその辺りのペンそのもの以外の部分で勝負していくしかないのだろうなと思う。

ひとつの手段として思い浮かんだのが、ペンをその場で使わなければいけない状況を作り出すということだ。今すぐそのペンを買わないと相手が損してしまう状況を作り上げるのだ。

”ペンを売るだけ”ということで考えればペンと一緒にサインをすれば即10万円が支払われる契約書を用意すれば売れちゃうんじゃないかなと思ったりする。採算とれてないし、ペンがその場に売り物のペンしかないとは限らないし、むしろそれはペンではなく契約書を売っているようなものなのではという話になってくるけれども、”売るだけ”という話であればまあ一応売れはしているしなあと考えてはもらえないものだろうか。こういうのを屁理屈というのだろう。僕のフィールドへようこそ。

これで10,000円で売って利益を出してくださいだったら完全にNGである。しかし、そもそもの話になってしまうのだけれども、何の変哲もないペンを10,000円で売れというのもムチャぶりがすぎるという話ではある。というか悪徳ですらないか。これに比べればレゴランド内のフードの価格設定なんて慈悲に満ち溢れたものだ。

あとはペンが仕込み銃になっていて、その照準は面接官の眉間に定まっている状態で「今なら10,000円ですが?」と言ったら30,000円で買うかもしれない。これなら利益が出る。それはもう商売ではなく命のやり取りを含むただの恫喝であるが。

そもそも、この価格設定の間違えているペンは商品企画部の目が完全に節穴であり、その責任を若手営業になすりつけて逃げようとしているのだ。入社前からパワハラ三昧、ブラックもブラック、ダークマター企業である。はやくその場から逃げて!

とね、いつものようにクダを巻いてしまっているわけなんですけれども、この質問で確かめたいところは実際に売れるかどうかではなく、思考のプロセスなんだとか。まあそりゃそうか。

僕はこういうのからきしで、過去に居酒屋のホールでアルバイトをしていた際におすすめはなに?と聞かれたときも「食べたことないものはすすめられないなあ…」と本気で考えていた人間である。適当なものを見繕ってすすめはしたけれどもね。完全に営業に向いていないタイプ。欲しいひとは勝手に買うでしょ」くらいに思ってしまう。というか僕がそうなのだ。口コミとか全然みないで欲しいという思いのみで買い物をすることがしばしばある。ちょろ客といえばまあそうなんでしょうね。

営業って毎日そういうことしているんだものな。心の底から尊敬する。僕には絶対に無理だし、仮に成績を上げることができたとしても心を病みそうだ。売り物に陶酔しているとかならまた話は別だろうけど。

世の営業職のみなさん、本日もお疲れ様です。

 

本当にゴールデンかというと疑問は残る

なんとなくぬるっとした質感のGWに突入。今年は果たして本当にゴールデンなのかと監査の目が光りそうな細切れ連休ぶりを見せているが、それも考え方ひとつというものであるだろうと考えている。

小粒ではありつつも、連休が連続で訪れると言うのはどかっと10日くらい連続で仕事を休むよりも地に足のついた状態を保てるわけで、社会性を維持したままなお休息がとれるので堕落する前に現実に帰って来られると言えるだろう。

金塊でも砂金でも金は金。砂金だって集めれば金塊になり得る(がんばれば)。なので今年のGWがゴールデンでないとは言えないということで監査の目をくぐりぬけてもらおうと思う。

そんなGW前半戦、妻の実家に帰省をしていた。在来線のみで移動が可能なのでそこまで移動の煩わしさもなく、平和に移動し、ゆるくゆるく帰省時間を過ごすことができた。

ゆるさの象徴といえば散歩である。歯ブラシを持参することを忘れていたことに気づき、散歩がてらコンビニまで出かけることとする。コンビニまでの道のりは妻の通っていた小学校への通学路であったらしく、なにやら妻のノスタルジーメーターがぐいぐいと上がったようだった。ついでだし、通学路を歩いて小学校まで行ってみようという話に。

道中、妻の小学生時代の話を聞かせてもらい、へーとかほーとか言いながら小学校へ到着。せっかくだからと校門前で記念撮影などをしてみる。たぶん、入学式とかで撮られた同じ構図の写真が実家に眠っているんじゃないかと思っての撮影だったのだけれど、妻にも義母にもあまり響かなかったようだった。まあこういうのは後でじわじわ効いてくるくるものだ。数年寝かそう。

ノスタルジーを乗り越えコンビニで歯ブラシをゲット。帰りは少し遠回りしてみようということでのらりくらりと歩いていると、営業しているんだかどうなんだかわからないくらいの絶妙な工場を発見。BUCK-TICKのSEXUAL XXXのPVで登場したような趣のある工場である。それだけでもけっこう良いものを見つけたなあと思うところであるのだけど、工場敷地内にプレハブ小屋が設置されており、その入り口に「居酒屋」というプラスチックのプレートがかかっているではないか。

なにこれ、アツすぎる。雰囲気から地元のひとですら入店を憚られるビジュアルであるが、それがまたそそられる。時刻は17時をまわっていたけれども営業している様子はなかったので写真だけ撮ってその場を後にしたが、後で営業しているかを確認しに行けばよかった。次回の目的ができた。

あの感じ、従業員が飲みスペースをノリノリでこさえて、興が乗って「居酒屋」って看板をぶらさげてしまったという線も捨て切れないが、いちおう店名も一緒に掲示されていたのでお店であることを願いたい。確実に店主はめんどうなタイプのひとであると予想されるが、それ込みで楽しむというのがお作法というものだと思われるので、次回強い心を持って挑もうと思う。

思わぬディスカバリーを経て帰宅。ふだん過ごす自宅にはテレビが未設置なので、せっかくだからとテレビをぼんやり眺めて過ごす。まだテレビを設置していた数年前に人気が出始めていたような芸人さんがメインMCで番組を持っていたりして時の流れを感じたし、サクセスってあるものなのだなと感じた。番組として好みかっていうとちょっとあのテンションについていけないかなあというところではあるのだけど。まあ見たくなければ見なければよいだけなので、これからも適切な距離感を保っていこうと思う。

それよりもCMのほうが気になった。知らないCMはただただ知らないCMだけれども、けっこう前からやっているライザップのCMが今もやっていたのでコンテンツとして人気なのだなあと感心するなどした。

ライザップといえばビフォーとアフターを同時に流すことでその効果を見せつけるスタイルのCMだ。あんなにだるんだるんのひとがめちゃくちゃしまった体型になっちゃうんだから並々ならぬ努力があるのだろうと慮ることができるが、もしかしてビフォーだけ撮ってアフターにまでたどり着けてないひと、けっこういるんじゃないかなと思ってしまった。だとしたらビフォーデータ集なんかがあったりして、連続でみたら気を病むこと間違いないだろう。こわ。

主にそういった余計なことを考えながらのGW前半戦であった。明日からは飛び石というにはわりと飛び越せなそうな距離感のある平日を過ごしてGW後半戦に臨んでいこうと思う。

 

繁華街のよくわからんお店、行っちゃダメなんだった

昨日は今年度から同じ島に配属となったおじさんの歓迎会だった。島の中でも若輩だからなのか、殊更お酒が好きだからなのか、会場確保に抜擢されがちだ。

しかしはっきり言える。今回の件で完全に気づいた。僕は歓送迎会に適したお店の良し悪しを嗅ぎ分ける嗅覚をまったく持ち合わせていないようだ。島の飲み会自体あまりないのだけど、前回も個室にこだわるあまり座敷牢みたいな店を予約してしまったという経緯がある。

takian2000.hatenablog.com

こういうのも慣れというものなんだろうか。職場の方々はお酒が好きでなかったりわりと老輩だったりで会社オフィシャルの飲み会というものが開かれない。慣れるのはたぶん無理なのでやはり次回から幹事を固辞しようと思う。

反省の意味も含めて何がダメだったかというのを書いておこうと思う。

まず席がめちゃくちゃ狭い。お店のある場所柄、広々というのは期待していなかったけど、期待していたスペースの7割くらいの広さだった。もちろん想定人数を前提とした席の予約はした。僕が求めるパーソナルスペースが広すぎるだけかとも思ったが、島の姐さんからがっつりイジられたのできちんと狭い空間であったのだと思う。僕とお店の狭小観に大きな隔たりがあったのは間違いない。狭いとこ好きなひともいるからね、それはそれで良いけどお店は広くね、とお伝えしたい所存。

そして飲み放題のメニューが奇想天外すぎた。なんとお茶割りの類がなかったのだ。ウーロンハイだの緑茶ハイとかのあの類が。飲み放題メニューになかっただけで一般のオーダー枠にはあったのだろうけど、飲み放題にお茶割り系がないなんてことある?

これは僕が事前に飲み放題メニューをきちんと確認しなかったのが悪いのだけど、あんな原価率フレンドリーなドリンクを飲み放題メニューの中に入れてないなんてことがあるとは1ミリだって思わないでしょう。どういう理由で入れてないのか聞いておけばよかった。僕が飲むわけじゃなかったけど、そんなバカなという空気が場に流れてかなり気まずかった。あとついでに言うと芋焼酎麦焼酎が選べたけど、芋焼酎はこれまで飲んだどの芋焼酎にも分類されない芋の概念を考え直す味、麦焼酎にいたっては無味であった。芋って言っても色々あるからキャッサバとかあのあたりだったのかもしれない。

食べ物に関してもそのお店独自と言えるものは特に出てくることなく、かつて(20年くらい前)の笑笑、和民等のグランドメニューで威光を放っていたようなラインナップであった。食べたらおいしいとは思うんだけど、お店まで行っていまそれを頼まないかな、的なね。

おかしいな…予約時のコース料理のラインナップを見たら「お、これはいけそう!」と思ったはずなんだけどなと改めて見返してみると、「○○鳥、地鶏のザンギ」とか「海鮮カルパッチョ」とか、言い方の妙で乗り切っているのだなと腹落ちした。

ザンギについては要はからあげだし、鮮魚のカルパッチョだって予約時では何の魚か言及していない。実際出てきたのはサーモンにドレッシングをかけただけのもの。まあ定義からは外れてない…か…商売ってそう言うことなのかもしれないなと素直に敗北を認めようと思う。

めちゃくちゃ愚痴っぽい内容になってしまった。あれこれ言ったが一言で片付けてしまうのなら”値段に見合っていない”これに尽きる。からあげをザンギと言おうがカルパッチョがギリギリだったりしても値段に見合っていればそこまで不満もないが、支払った値段に対してなんぼなんでもしょぼい(言っちゃった)ということである。

繁華街にある有名じゃない知らないお店なんて行くものではないなと思ったわけであるけれども、似たような経験を20代の頃にしていたのを思い出した。新宿でバンドのライブを終え、さー、打ち上げだと歌舞伎町に流れていったのだけど、店の確保がめんどくさくなってキャッチに声をかけられてまんまと入店したことがあったのだ。

そのお店、本当にすごくてきゅうりスティックを頼んだら長めのきゅうりを3分の1に切ったものをさらに4分割したもの(要は4本)をカクテルグラスに敷き詰められた氷にぶっ刺して「600円でござい!」と平気で言い放つお店だった。そのインパクトが凄すぎて他のことをあまり覚えてないけど、あまりのあまりぶりにすぐお店を出た。みなさん、キャッチがいるような意お店行っちゃだめですよ。今はその頃よりだいぶクリーンなんだろうけど。

そこで学んでいたはずなのにな。久々にやらかしちゃったな。お店を途中で出るわけにもいかなかったし。せめてもの救いとしては会話はいちおう盛り上がったことだ。(席が狭くて)ひとが近かったので会話に熱を帯びやすかったのかもな。それが狙いだったらたいしたものだけど、そんなわけはないとどんなリスクの低いギャンブルよりも強気でそんなわけがない方に張れる。

みなさまにおかれましては歓送迎会は庄やとか値段的に中堅の居酒屋チェーンを予約することをおすすめします。

 

 

 

笠地蔵 おじいさんとクセ強笠

子の寝かしつけのために昔話を流すことがあり、昨日は笠地蔵を見ていた。笠地蔵といえば善良なおじいさんが風雪にさらされたお地蔵さんに笠をかぶせてあげて、その恩返しを受けるという昔話の中でもハリウッドセレブばりに有名な話である。

昨日も”知っている話”としてお話を見ていたのだけど、ふと気になったのだ。

笠、それしか持っていかなかったの?と。

わりとオーソドックスな設定として、金銭的な理由で年末のごちそうやらお酒やらを手にいれることができなかった老夫婦のおじいさんが街へ自作の笠を売りに行き、ひとつも売ることができなかった帰路におじぞうさんがおり、その数はおじいさんの持っていった笠より1体多いというもの。そしてその1体多いおじぞうさんにおじいさんの持ち物で(有名なのは手拭い)で雪除けを施すというものだ。

昨日見たお話のおじぞうさんの数は6体。ということはおじいさんは笠を5つしか持っていかなかったということになる。年末年始の彩りを求めて金策のために街に向かったというのにかさ5つでその財源を確保できる見込みがあったのだろうか。

現代の、というか僕の感覚で考えると年末年始の夫婦のごちそう、お酒を潤沢に揃えるのであればどう安く見積もっても10,000円は欲しいところ。そうなると笠ひとつ2,000円〜で売りたい。けっこうな値段じゃないか。僕はてっきりひとつ数百円程度の売値のイメージだった。

もしかしておじいさん、笠職人だったりするのか。むしろ本職か。そうであればひとつ2,000円でも安いくらいなのは納得できる。とはいえ売れ残っているので買い手はついていない。というかむしろひとつも売れていない。プロの作る笠をもってしても買い手がつかないとなると、よほどのクセ強笠でもこさえていったんだろうか。それかこだわりが強すぎて価格設定を見誤ったか。

いずれにせよ売れなければ意味がないということで持ち帰られたクセ強笠。家のスペースを肥やすくらいであればおじぞうさんの役にたって欲しいという気持ちもじゅうぶん理解できる。良いことしたね、おじいさん。

が、おそろしいのはこの後の展開であった。

おじいさんが帰宅し、あとは寝るだけといったタイミングで風雪吹き荒ぶ家の外から声が聞こえる。

「笠をかぶせてくれたおじいさんはどこだ〜」

え?わし?がっつり心当たりのあるおじいさん。でも悪天候の中深夜に自分指名で探し回られるなんてただごとではない。もしかしておじぞうさんに売れ残りのクセ強笠をかぶせちゃったの、まずかったんじゃ…と後悔し始めると外からもうひと声。

「おばあさんもどこだ〜」

ばあさんバレしてる…!?日中ひとりで行動していたはずなのに。そこまでバレているならもう大人しくするしかない。「こちらです…」と観念するおじいさん。

すると家の前で重たいものが地面に落ちたような音がして、無駄な抵抗を諦めたおじいさんが戸を開け家の外を確認すると、ごちそう、お酒のみならず、金銀財宝が積まれていたのだった。怯え驚きながらもあたりを見回すと降り注ぐ雪の向こう側にクセ強笠をかぶったおじぞうさんが去っていくのが見えたのであった。

というね、そういう話だったかと思います。

ちょっとした優しさの見返りが随分と大きすぎやしないかと訝しんでしまうけど、良いことしてると極楽浄土にいけますよ的な仏教的思想に基づいたお話であると考えれば理解できる範疇ではある。もしかしたらおじぞうさんがなにかしらのロンダリングのために老夫婦へ一時的にその財産を託したという可能性も捨て切れないが。老夫婦の不憫すぎる最後というシークレットエンドがあるかもしれない。子には絶対に見せられない。

ちなみに、昔話でよくあるなにかしらのきっかけで富を得る話を到富譚(ちふたん)というらしいです。我が人生に訪れろ、到富譚。

 

 

 

追いおあげでセミ衣笠丼未遂

数日前、妻がこんなものを買ってきていた。

これのためにどん兵衛食べてる

カップうどん、どん兵衛に入っているおあげを単品で売っているのを発見し購入してきてくれた。どん兵衛を食べるときは何を差し置いてもこのおあげを楽しみにしていると言っても過言ではない。カップうどんってうどんかって言われるとそうでもないような気がするけど、おあげに関してはおあげ以上におあげであるが故に、麺よりこのおあげを食べたくてカップうどんを買っている節すらある。

追いおあげとされてはいるが、なによりも楽しみにしているおあげを単品で食べてもよいという夢のような商品なのだ。

基本的にはどん兵衛に追加おあげとして使用することが推奨されているようではあるが、この商品を見た瞬間に真っ先に思い浮かんだ食べ方がある。

そう、あおげ丼である。

どん兵衛とおにぎりを食べることはもはや常識であると言えるだろうが、おにぎりのチョイスとして、具入りのおにぎりよりも銀シャリおにぎりをあわせたくなるというのが人情であろうというもの。その状態を再現した丼であるというのがこの写真というわけなのである。

でもこれってセミ衣笠丼みたいなことかもしれないな。と、思って食べたらこのおあげ自体に味染みということではないようで、わりと難しい顔をして食べていたと思う。おいしかったけども。ただ、やりたかったことに対しての達成度は75%くらいだったと思う。

100%に近づけるためにはだし汁で煮込む等の対応が必要となるかと思われるが、そうなってくるとふつうに油揚げを買ってきて煮込むのと大差なくなってしまい商品の存在意義を揺るがすことになってしまうので、やはり推奨されているどん兵衛の追いおあげとして食べるのが正解なのかもしれない。余計なことしといてぶつくさ言いなさんなって言われれば押し黙ることしかできない。カレールーなんかも隠し味といってあれこれ手を加えたりするけれども、メーカー推奨の食べ方はルーを箱のレシピ通りに作ることらしいので同じことなのかも。

どん兵衛おあげのアイデンティティを揺さぶる朝食を終え、この日は古くからの知人が家に遊びに来ることになっていたのでせっせと部屋を整えるなどして午前中を過ごした。片付け、と言い切れていないところがポイントである。

お昼頃には知人と合流。昼酒かっくらいながらまったりと過ごす。古くからの知人とは言ったものの、間でちょくちょく5年くらい会っていない時間が発生しており、この間久々に行ったライブでたまたま再会を果たしたのであった。そしていつの間にやら子がいたりなんかして。思えば会ったばかりの頃相手が高校生だったりしたんだった。20年くらい時が経っている。時の流れがこわい。

あった頃はとめどない悪ノリが続いたものだったけれど、僕らももう人生の正午を迎える年齢である。きちんと日暮れ前に解散となった。酒を飲んでいながらだいぶ健康的だったと言えよう。

その後はどん兵衛のおかげなのか酔い方も上品なまま必要なことをきちんとこなし眠りについた。良き休日。

元穴であった空間をコレクションする鬼、ということですか

「雷様におへそを取られちゃうよ」と、こどもの頃に言われた記憶があるひとはいると思う。僕も言われた記憶がある。おへそがなくなったら一大事!素直に怯え、おへそを服なり手なりで隠して雷が止むのを待ったりしたものだ。

そもそもなんでおへそ?の話は以下のサイトをどうぞ。

めちゃくちゃざっくりいうと雷が鳴るような気候下では冷たい風が吹きやすすくなるのでおなかを保護しましょうねの意味でおへそあたりをガードするようにうながしたのでは、という説が有名なようだ。

ほー、なるほど。幼児に理科的な説明をしても響かないだろうから考えられたものだなあと思ったところではたと思う。

おへそって”穴”だよな。”穴を取る”ってどういう状況?と。

少なくとも僕のおへそは窪んでいる。それを穴と呼ぶことにそう違和感はないだろう。それを取るとは。穴を取り除いておへそがあった部分が平地になったとして、雷様がゲットしたおへそは元穴であった空間であるということになる。それは穴と言えるのだろうか。そしてそれはおへそを取ったと言えるのだろうか。

雷様が上司に報告する際、「ほら、こ〜んなにおへそが!」と自分の成果を誇ったとしてもそこにあるのは元おへそとされる空間のみだ。そんなもの「ばっかもーん!!」である。おへその周りの肉ごと持ってくのとかは怖すぎるので今この場では議論しないものとします。空間を集めるってなんだか港区民あたりにうけそうな響きだし。

これっていわゆるドーナツの穴に対する哲学と同じ種類なのではと思ったところででべその存在を思い出した。特にお笑い芸人、東京03の角田氏のあのでべそを。知っているひとは知っていると思うけど、氏のおへそはでべそという言葉で片付けられないほどに主張が強い。身体の外側に出ちゃった嚢胞レベルであるとすら言える。

雷様があれを取っていくと考えたらどうだろうか。途端にコレクションみを感じる。きちんと物体としてハントしていくので上司の評価も得やすいだろう。でべそも個性なのでいろいろなでべそがあるだろうし。

穴と哲学といえばドーナツの穴が有名なようだ。ドーナツをドーナツたらしめているのはあの穴であるが、あれを有ととらえるか無ととらえるかということである。穴が”有る”わけだけれども、生地はそこに”無い”状態。そしてドーナツの穴を食べるという行為は結果として穴を広げるだけの行為となり、最終的には穴を消滅させることとなる。それは穴を食べたと言えるのか。

いや知らねえよって話ですよね。でも哲学ってそういうものらしいです。屁理屈っぽさあるなあと思うけど、思考のストレッチ的な要素があるような気がして僕はけっこう好きだったりする。

そもそもなんで雷様がおへそを取ろうとしているのかというバックグラウンドがわからないし、取ったものをどうするのかもとんと検討がつかないけど、コレクターってのは得てして世間一般には理解されないものなので「そういうひと」ってことで生あたたかい目で次の雷の日を待とうと思います⚡️、