毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は「考えながら」身体を使ってマルチ作業する生き物。

考えるという行為は、人間の基本的な行為です。何もしていなくても、考える事はやってしまいます。考えているというか、単に考える事の断片にもなりがちで、単に散漫に考えているだけという事もあるわけですが。要はそれが煩悩につがなっていくわけです。

 

その意味では、考えるという行為は、有効なものと有効でないものとあるというわけで、出来れば、有効に考える行為を行う方が良いわけです。

 

何かものを書く時、言葉を紡いだり、文章を作ったりするわけですが、そういう場合にも、考えながらものを書くわけです。ノートに向かってペンを使って何かを書くわけですが、もしくは、キーボードを使ってパソコンに向かって何かをタイプするわけですが、そういったときは、考えながら何かを書くわけです。考える事で、何かを書く質を上げるわけです。

 

書く行為だけではなく、何かを作る時もそうです。手を使って何かを作る時、作る事に対して何かを考えるわけです。考えるという行為を、手を使って作るという作業に足すわけです。アシストするわけです。何かを作る事こそが現在行っている事の対象であり、その対象の為に考える行為でアシストするわけです。

 

そのような意味で、考える行為というのは、本来的には何かに先行して行うものではなくて、何らかの行為や作業の中で、考えながらそれらを行うわけです。

 

人は、例えば、何かを見て、何かを触って、手作業で、または、歩いて、そして、それらをしながら考えているわけです。色んな事は習慣としての行為で、同時並行的に色んな事を行っています。それらマルチの行為に対して、頭の中で何かを考えながら、後方支援的にアシストしているわけです。

 

歩いたり、何かを持ったり、見たりする事は、他の動物でもやっていますが、その意味で、それらは習慣として学習して身につけているわけですが、そのようなマルチな行為に対して、頭を使って後方支援的に考えているのが人間であって、その点で人間は優れていると言っていいのかもしれません。

 

一方で、人間は座禅を組んで考える事に集中したり、ただ考えを巡らせて哲学したりする生き物でもあるのですが、だからと言って、デカルト心身二元論的に、思考で身体をコントロールしているわけではありません。

 

身体が何かを行為していて、その行為に頭がアシストしているわけです。身体は基本的に動かすものですが、その動かすという行為に、頭を使っているわけです。

 

そういうわけで、人は考える行為を行う生き物ですが、単に考えているだけではなくて、本来的には、考えながら、マルチ作業をする生き物だと思います。また、後方支援的に考える行為を行いながら、身体を使う生き物だと思います。