毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

心を落ち着かせる事で時間はいくらでもある。

人は時間が無いと言って、いつも追い込まれています。時間の流れを速く感じて、だから、焦って凄く急いで、そして、ますます時間が無いと感じる。全然良くありません。

 

今、この瞬間に体験している時間をしっかり感じないから、あっという間に時間が経ってしまうんです。

 

今日という1日の時間、24時間を、集中もせず過ごしてしまったなら、24時間はごく短い時間に感じられて、そして、時間が無いと感じてしまいます。

 

それよりも、例えば、1分という短い時間を長く感じられるようになれれば、時間は無いとは感じなくなります。

 

1分は60秒ですが、短いようで60秒は短くはないんです。60秒間を何もせず、ただじっとしてくださいと言われると、その時間はとても長く感じられます。

 

そのようにして、一瞬一瞬をしっかり体験できたなら、時間がものすごく長く感じられるわけです。

 

だから、時間は、自分がどう感じるかが大切なわけです。

 

時間は感じてはじめて、自分にとって意味のある時間になるわけで、一瞬一瞬の時間を全く感じないなら、それは時間が無いに等しく、実際時間はあっと言う間に過ぎ去るわけです。

 

焦りは禁物です。焦りは、時間を感じにくくします。心が逸って時間があっという間に流れてしまいます。

 

ですから、焦らない、つまり、落ち着く事です。冷静になる事です。冷静になる事で時間をゆっくり体験するんです。時間をしっかり感じるんです。

 

そのように考えると、時間は永遠とまでは言わないまでも、長く感じる事は出来ます。その時、その時の一瞬、を大事にして、しっかり集中してその時に意識を向ける事で、時間はゆっくり体験できるんです。

 

時間をゆっくり体験できるなら、時間はいくらでもあるように感じられます。時間はいくらでもあるんです。時間が無いんだとしたら、それは時間を全然感じていないからです。

 

そのように時間を捉えると、今日という1日、時間はいくらでもあるわけです。心を落ち着かせて、冷静になる事で、時間はいくらでもあるようになるわけです。その意味で、心を落ち着かせる事はとても大切です。

 

心を落ち着かせて、この一瞬に集中して、そして、時間をしっかり体験する。時間をゆっくりと感じる。永遠とまでは言わなくても、時間は長く感じられる。

 

人間はすぐ忙しくなる生き物なわけですが、時間は無いわけではないんです。それは心の問題です。心を落ち着かせて、今に集中すれば、時間はゆっくりと感じられます。時間をいくらでもあるんです。

可もなく不可もなく今日を過ごす。よく観察する事。

いつも絶好調というわけにはいきません。いつも絶好調だったら、それは絶好調ではなくて、自分にとっての普通です。良い時もあって、悪い日もあるから、だから、絶好調の日があるんです。

 

人は普通、波がありますから、良い時もあるし悪い時もあります。その意味で、絶好調の日はあるわけで、絶好調とはかけ離れた日も、当然あるわけです。それが普通です。

 

絶好調の日があるという事は、絶不調の日もあるという事を認めざるを得ません。人間には周期構造がありますから、良い時もあれば悪い時もある。そういう事です。

 

そう考えた時、今日絶好調ではない日であるというのは、普通の事と認めざるを得ません。可もなく不可もなく、今日という日はごく普通という事は十分あるわけです。

 

特に何か良い事がないからと言って、それは問題ありません。ごく普通のありふれた日というだけです。

 

何か、調子が出ないと感じる今日も、特に問題はありません。そんな日はごく普通です。絶好調の日なんかまれなわけですから、何事もない、調子も出ない、そんな1日は普通です。

 

場合によっては良い日かもしれません。絶不調の日もたまにはあるし、普通に不調の日がありうることを考えると、調子が出ない日なんか、普通も普通。そして、よく観察してみると、良い事も起こっているかもしれません。

 

日々は、よく見ないといけません。確かに可もなく不可もなく、普通の日と感じられますが、実は良い事も十分ありうるわけです。

 

いつも過剰に何かを期待してしまっていますが、過剰な事を期待する事自体がおかしいわけで、ちょっとした何か良いと感じられる事があれば、1日としては上出来なわけです。

 

そんな事より、よく観察する事です。今日という日をよく観察する事です。

 

きっと見逃しています。調子がいまいちと感じている今日の中で、良いと思えることが実はたくさん転がっています。

 

そういった事をきちんと見つけ、拾い上げる。それが、1日の過ごし方です。可もなく不可もなく今日を過ごせばいいし、でも、そんな中で案外良い事もたくさん起こっているんです。

 

絶好調の日なんてそんなにないし、期待に応えてくれるような良い事なんて、日々の中には基本的に無いんです。ごくたまにしかないんです。

 

そんな事よりごく普通の、ありふれた1日。可もなく不可もない今日という日。そういう何の変哲もない今日という日をよく見て、良い事を見つけ出すんです。その良い事が、飛躍するきっかけになるかもしれません。その可能性を見つけるだけで十分なんです。

人は「考えながら」身体を使ってマルチ作業する生き物。

考えるという行為は、人間の基本的な行為です。何もしていなくても、考える事はやってしまいます。考えているというか、単に考える事の断片にもなりがちで、単に散漫に考えているだけという事もあるわけですが。要はそれが煩悩につがなっていくわけです。

 

その意味では、考えるという行為は、有効なものと有効でないものとあるというわけで、出来れば、有効に考える行為を行う方が良いわけです。

 

何かものを書く時、言葉を紡いだり、文章を作ったりするわけですが、そういう場合にも、考えながらものを書くわけです。ノートに向かってペンを使って何かを書くわけですが、もしくは、キーボードを使ってパソコンに向かって何かをタイプするわけですが、そういったときは、考えながら何かを書くわけです。考える事で、何かを書く質を上げるわけです。

 

書く行為だけではなく、何かを作る時もそうです。手を使って何かを作る時、作る事に対して何かを考えるわけです。考えるという行為を、手を使って作るという作業に足すわけです。アシストするわけです。何かを作る事こそが現在行っている事の対象であり、その対象の為に考える行為でアシストするわけです。

 

そのような意味で、考える行為というのは、本来的には何かに先行して行うものではなくて、何らかの行為や作業の中で、考えながらそれらを行うわけです。

 

人は、例えば、何かを見て、何かを触って、手作業で、または、歩いて、そして、それらをしながら考えているわけです。色んな事は習慣としての行為で、同時並行的に色んな事を行っています。それらマルチの行為に対して、頭の中で何かを考えながら、後方支援的にアシストしているわけです。

 

歩いたり、何かを持ったり、見たりする事は、他の動物でもやっていますが、その意味で、それらは習慣として学習して身につけているわけですが、そのようなマルチな行為に対して、頭を使って後方支援的に考えているのが人間であって、その点で人間は優れていると言っていいのかもしれません。

 

一方で、人間は座禅を組んで考える事に集中したり、ただ考えを巡らせて哲学したりする生き物でもあるのですが、だからと言って、デカルト心身二元論的に、思考で身体をコントロールしているわけではありません。

 

身体が何かを行為していて、その行為に頭がアシストしているわけです。身体は基本的に動かすものですが、その動かすという行為に、頭を使っているわけです。

 

そういうわけで、人は考える行為を行う生き物ですが、単に考えているだけではなくて、本来的には、考えながら、マルチ作業をする生き物だと思います。また、後方支援的に考える行為を行いながら、身体を使う生き物だと思います。

「好き」と「自分事」とともに生きる

人は「好き」という感情がとても大事だと感じます。いつも「好き」という感じを抱いていると、それだけで生きていきやすく感じます。

 

好きという感情は快の感情であり、心理的にも身体的にも良い感情です。ですから、いつも自分自身や自分の周りにあるものが好きであるならば、それはとても生きやすいし、幸せだと思います。

 

自分自身の事が好きである事ももちろんですが、自分事が好きというのも、とても大切だと思います。

 

自分の持っている仕事、例えば、会社での仕事もやらされ仕事でなく、自分事としての仕事であれば、それはきっとやり易いし、その仕事は好きなんだと思います。その意味で、仕事は自分事としてやるのが良いと思います。

 

収入を得るという意味でなくても、趣味みたいなものも、自分のビジネスという言い方も出来るわけで、そのような、個人的なビジネスも自分事としてやれば、それはとても楽しいし、幸せな事だと思います。

 

要は、自分事としての仕事、自分事としてのビジネス、マイビジネスである事がとても望ましいという事です。

 

その意味でも、自分の事が好きという事はとても重要です。自分の事が好き過ぎて、自己中心的になるのは良くは無いと思いますが、ちゃんと自分の事を好きである事はとても良いと思います。ちゃんと自分を愛するという事です。

 

自分をちゃんと愛せているなら、それは凄く自分を心地よい状態にするし、安定にしてくれます。安心感ももたらせてくれます。

 

自己認識が大事である事も、自己理解が大事である事も、自己受容が大事である事も、自分と向き合う事、自分を客観的にちゃんと観察する事が大事である事も、みんな自分の事が好きという事につながる事です。

 

そういう意味で、自分の事をちゃんと愛せているなら、自分事は当然愛する対象になるし、好きな事です。

 

だから、自分の事が好きだという感情がとても大事であるとともに、何に取り組むにも、自分事として取り組むというのがとても大事だという事です。

 

仕事であろうが、趣味であろうが、何であろうが、基本的には自分事として取り組むのが良くて、そういった事を大事にする事です。

 

そのようにして自分事を大事にしながら、自分事とともに生きていくというのは、とても幸せな事だと思います。いつも、「好き」とともにいるという事だし、「好き」とともに生きるという事ですから。

 

そういうわけで、人にとって好きという感情は生きていく上でとても大事で、もちろん自分を愛する事もとても大事です。そして、好きなものとしての自分事とともに生きるというのは、とても重要な事です。

動物も植物も、そして、仕事も、人は生命っぽいものが好き。

人は何故こうにも昔から仕事というものをやっているのでしょうか。もはや、人は仕事というものが好きなんだと思います。最初の頃は、仕事は好きで始めたわけではなくても、ずっとやっているうちに気が付いたら好きになっているという事はよくある事です。

 

会社勤めでも何でも、仕事をしていると、やっている仕事を育てるような要素があるように思います。自分の仕事を、大事に育てていくという事です。最初のうちはすぐには結果にはつながりませんが、コツコツ続けているうちに結果が出ている。そういう事です。

 

これって、農業というか、植物を育てるというのに似ています。植物は、自分でも勝手に育っていくとも言えますが、それはその植物に適した場所、適した環境が与えられているからであって、その意味で、ちゃんと育ててあげなければ育たない。植物とはそういうものです。

 

逆に言えば、植物はちゃんと育てれば育てた分だけ、ちゃんと育つ。そういうものです。

 

仕事もこれに似ているという事です。

 

仕事も安易に取り組めば、良い結果にはつながりませんが、ちゃんとコツコツ取り組めば、いずれはそれ相応に結果が出ます。ちゃんと実ります。やった分だけ、必ず結果につながります。

 

仕事は、その意味で植物に似ていて、さらに言えば、生き物っぽいところがあるという事です。

 

仕事は無機物的なものではなく、有機物的なものであって、常にちゃんと手を付け続ける事で、その仕事は生きてきます。放っておくと、その仕事は終わってしまいます。死んでしまいます。

 

その意味で、仕事は生き物ですから、手を抜くと、また、手を入れないと、気が付いたら枯れてしまいます。

 

だから、仕事は、常に自分と関係しているし、その仕事をまるで生き物のように大事にしていなければならないんです。

 

そういう意味で、仕事は、人が関心を持ってしまう何かがあるわけです。

 

要はそれって、仕事が好きっていう事です。

 

人は、基本的に人間というものが好きだったりしますが、それは生き物であるから、その意味で、動物も、植物も好きなわけです。

 

そして、仕事も何か生命っぽいわけで、その生命を大事にしたいわけです。手が離させないわけです。ずっと育ててきたわけですから。ずっと関わっていたいし、どう育っていくのか、その先も気になるわけです。

 

人と仕事の関係は、人が仕事を一方的に作るという非対称な関係ではなく、人が関わる事で仕事は生き、仕事が生きている事で人が関わる、そういう相互の関係です。そして、人は、そのような生命っぽいものが好きという事です。

今を精いっぱい生きる。

先の事が心配になったりする事ってあると思います。将来何が起こるか分からないし、その為に何かを備えないといけないような気がしますが、それも何か分からない。

 

将来を心配する事やそれに備える事は確かに大事かもしれませんが、そんな事より、まず、今を精いっぱい生きる。その事の方が大事だと思います。

 

今に集中できていないと、気が付いたら先の事を考えてしまっています。意図的に、意識して、将来の事を考えているならまだしも、無意識にただ考えてしまっている。そういう事の方が多いと思います。

 

人間は自動予測する生き物ですから、暇があったらすぐに頭は自動的に先の事を考えてしまいます。それが普通の事です。

 

ですが、だからと言って、それに任せていてはいけません。それにただ任せていると、ずっと心配な事に気を取られます。

 

そうではなく、今に集中する事です。未来の事の前に、また、未来の為にも、今にコミットして、今やれる事を今取り組むんです。

 

今の事についてやる事もいっぱいあるし、また、今の事について、考える事もいっぱいあります。今の事について精いっぱい生きているなら、未来の事は考える暇がありません。

 

そして、今を精いっぱい生きた後に、未来がやってきます。その意味でも、今を精いっぱい生きる事が大切です。

 

今に集中しているなら、案外、今充実しています。充実感を持って、今を生き生きと生きる事が出来ます。

 

そして、今に集中しているなら、今の状態に満足できていたりもします。今充実し、今満足しているなら、将来の心配をする事はほとんどありません。

 

そのようにして、今を精いっぱい生きているなら、今の状態がきっと好きだと感じるはずです。好きという感覚はとても大事です。今、何かを好きでいられるなら、それで十分幸せだし、喜びだと思います。

 

今を、そのような状態に出来ているなら、きっと将来の事を心配にはなりません。むしろ、未来に向かって前向きな気持ちになれます。希望も持てます。その為にも、今を充実して過ごす事がとても大事です。

 

そういうわけで、何か先の事が心配になり始めたら、今に集中できていないのではないかと疑ってみるのも良いと思います。今を精いっぱい生きていないのではないかと考えてみると良いと思います。

 

その事に気付いて、今に集中する。今にコミットする。そうする事で、今の状態は充実して満足し、そして、好きになります。未来の心配も無くなります。その為にも、今を精いっぱい生きるという事です。

今上手くいっている感覚を取り戻す為には、基準が自分自身にある事が大切。

調子が悪くなってくると、今上手くいっていないという感覚になってしまいます。この「上手くいっていない」という感覚が、なお自分の調子を悪くします。ですから、調子がいまいちだと感じたら、「今上手くいっている」という感覚を取り戻す事が大切だと思います。

 

そもそも、「今上手くいっていない」というのはどういう事なんでしょうか。何故上手くいっていないんでしょうか。

 

それは、ひとつに、自分の「上手くいっている」という感覚、というか、基準が、高く設定され過ぎているからではないでしょうか。その基準が高過ぎて、自分の今の基準から離れすぎている場合には、上手くいきようがないわけですから、それでは常に、自分は上手くいっていないという事になってしまいます。それでは苦し過ぎるし、調子も当然悪くなってしまいます。

 

そして、自分以外の事ばかり気にしている、という事も関係していると思います。自分以外の事ばかり気にして、それらの事に価値の基準を置いてしまうと、その価値に自分の水準を合わせないといけないですから、それは大変な作業です。

 

また、自分以外の価値が多様にたくさんあった場合、すべての基準に適応するのは極めて難しくなります。実現不可能かもしれません。その意味で、自分以外の事ばかり気にしている事が問題になる可能性があります。

 

そのような意味で、価値の基準のようなものは、自分自身、もしくは、自分のそばにある事が大事です。自分のそばにあれば、その基準をすぐに満たす事が出来ます。自分自身にあれば、それこそすでにその基準を満たしているわけで、常に上手くいっている事になります。

 

考えてみると、基準が自分以外にある場合は基準を満たしていない事がほとんどで、基準が自分自身にある場合は基準を満たしているのは当然なわけですから、やはり、基準はいつだって自分自身にある方が良いわけです。

 

たしかに、向上心や成長という観点からすると、基準は自分から離れている方が良いのかもしれません。

 

ですが、基準が自分自身にあったからと言って、成長しないとも限りません。自らその基準を設定することだってできます。

 

逆に、基準がずっと自分自身から離れていると、ずっと自分以外の基準を追いかけるばかりになってしまって、苦しいままであり、安心できないままです。

 

そうではなく、基準は自分自身にある事が大事で、そうする事で、今上手くいっているという感覚を取り戻す事が出来ます。上手くいっているという感覚が自分自身を安定にして、自分を自分で助け、自分自身で成長する事だって可能にします。