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大友宗麟 自ら大坂城へ 豊臣秀吉に謁見。大友家が豊臣秀吉の傘下に入ることと引き換えに、軍事的支援を懇願

大友家存続のために出した大友宗麟の「決断」とは
大友家の力だけでは、もはや島津の侵攻を食い止められないと思い至った大友宗麟は、ここでひとつの重大な決断を下しました。それは「豊臣秀吉」への臣従です。
1586年(天正14年)、大友宗麟は自ら「大坂城」(大阪府大阪市:現在の大阪城)へ出向いて豊臣秀吉に謁見。大友家が豊臣秀吉の傘下に入ることと引き換えに、軍事的支援を懇願します。豊臣秀吉はこの懇願を聞き入れ、支援を約束しました。
大友家は、豊臣秀吉の家臣となることで存続への道を切り開いたのです。

大友宗麟


豊臣政権下で活躍した立花宗茂
父の死を乗り越え、島津軍へ攻撃し成果を挙げる立花宗茂
立花山城の留守を預かる立花宗茂は、迫りくる島津軍に対して籠城戦を行なうこととなります。その間に立花宗茂は、籠城している最中にもかかわらず、機動力を駆使した遊撃戦術を実行。また、降伏するかに見せかけて島津軍の本陣を襲い、敵将を含め数百人を討つ「詐降の計」(さこうのけい)と呼ばれる作戦も実行していたとされています。
しばらくして豊臣軍が大友家の要請に応える形で九州に渡ると、島津軍は立花山城の包囲を解き、その場から撤退していきました。
立花宗茂は、到着した豊臣軍に合流して島津討伐軍に加わり、本格的な反撃に転じることになります。最終的には、高橋鎮種が討ち死にした岩屋城を奪回し、「宝満城」(福岡県太宰府市)をも奪回する働きを見せました。苦境にあっても奮戦し、立花宗茂が挙げた武勲は、のちに豊臣秀吉から高く評価されるのです。














大名になった立花宗茂の家紋
祇園守紋
「祇園守紋」(ぎおんまもりもん)のベースは「八坂神社」(京都府京都市東山区)で配布されたお守りがモチーフ。中央で巻物が交差するデザインでユニークなのですが、実は6種類の祇園守紋を使用して完成されたとされています。
よく見ると、交差している部分がキリスト教の十字架に見えなくもありません。これはかつての主君であり敬虔(けいけん:神仏を深く敬いつつしむこと)なキリシタンでもあった、大友宗麟の影響を受けた意匠とされています。ただし、立花宗茂自身がキリシタンであったかどうかは分かっていません。

祇園守紋


立花宗茂が残した名言とは












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