定年帰農の成れの果て

定年で帰農し、「都市近郊における露地野菜経営の確立」を目指した20年弱の体験をもとにしたエッセイです。

あれから4年の成れの果て

2024-03-05 14:19:48 | エッセイ

 2020年2月には「定年帰農の成れの果て」をまとめ、あれから4年が経ちました。

 2020年12月には、特例農地の納税猶予期間が過ぎたことから、2021年からは、水田を委託に出した。さらに、市街化区域内の畑は農地を宅地に転用し借地とした。

 2022年度は、誰も役員の成り手がいなく、20年ぶりに再度町内会長を引き受けました。

 わが町内会は、1975年(昭和50年)365世帯でしたが、現在ではおよそ1500世帯程となっています。

 近年では社会環境の変化もあり、近所の付き合いも薄れ、町内会の意義も理解されにくくなっています。

 そこで、この意義を明確にしようと考え、「町内会のコンセプト」を作りました。

 内容は、昔のように、距離の近い付き合いだけでなく、少なくとも顔見知り程度、顔があったら、挨拶する程度の、「面識社会」を目指す。その手段の1つとして、ちょい役を担ってもらう「協働作業」、社会で厳しく求められる「金、効率、公平」の価値観から、地域に戻ったら「お互い様、寛容」を主体とする、ほっとするいわば「大きな家族」をキーワードにコンセプトを明確にしました。

 公園の掃除、堤の桜の草刈り、周りのゴミ拾う掃除の日など、若い人の参加もちらほらあります。若い人は、夜勤の人もあり、大変です。

 コロナでイベントは中止となりましたが、イベントだけが、交流を深めるとは限りません。イベントに参加するだけでなく、イベント開催の役員としての参加の方が面識が広まるように感じます。

 

 

 

 


あらすじ

2020-02-07 19:56:31 | エッセイ

 

大規模化、高生産性農業の推進を目指した北海道農業の一端に、公務員として携わった一郎は、定年を迎え、退職後は民間に再就職する道もあるが、自分にそのスキルがあるかとよく考えてみれば、自信がない。
 自分の資質、今までの職場環境、実家の農業設備など、今置かれている状況を棚卸した結果、「都市近郊における露地野菜経営の確立」を目指して、水田30a、畑20aの零細経営の実家を継ぐことにした。
 このエッセイは、その20年弱の体験を綴ったブログ https://blog.goo.ne.jp/teinennrakunou   を再編集したものです。


目次
1 北海道農業の発展

2 退職

3 北海道を離れる
4 実家に戻る
5 どんな農業をしようか
6 就農に農地確保は高い壁か                                                    p1
7 都市近郊における露地野菜経営の確立
8 農薬の使用
9 水田の畦草刈
10 グリーンアスパラガス
11 はなさん                                                                             p2
12 農業大学校での公開講座を受ける
13 コマツナの栽培
14 JA女性部への加入
15 正月菜の初出荷
16 稲刈り                                                                                p3
17 正月菜に病害虫
18 正月菜の防除
19 お日待ち
20 サトイモの栽培
20-2 煮味噌                                                                          p4
21 みどりくん
22 2002年収支
23 JA女性部の役員を要請される
24 やわた旬鮮の開店
25 ホウレンソウの播種                                                                p5
26 播種で気をつける事
27 農事組合副組合長
28 おくみどり
29 東三河青果市場
30 ホームページ作成                                                                 p6
31 昭子の勤めるスーパーが閉店
32 町内会区議員
33 農業簿記
34 町内会長
35 法性寺ネギ                                                                          p7
36 初めての年金
37 確定申告
38 過去の経営の反省点
39 初めてのブログ
40 図鑑が一番                                                                         p8
41 アスパラガスの茎枯れ病
42 黒大豆を作付けよう
43 コンバインの廃棄
44 稲作 相続時の納税猶予の壁
45 年金満額                                                                            p9
46 価値観の変化
47 地域にとけ込む方法
48 もったいないコーナーの新設
49 農事組合長
50 農事組合の法人化                                                              p10
51 九条ネギ
52 近くにスーパーマーケットが開業 
53 土づくり
54 54 八幡在来種ネギ
55 万引き                                                                               p11
56 「三方良し」を心得とす
57 黒大豆の作付け

57-2 物々交換
58 自主防災会立ち上げの準備
59 体力の衰え                                                                        p12
60 e-Tax
61 ブロッコリー「やま緑」
62 フリーウェイ経理Lite
63 西光寺の世話方
64 墓苑整備                                                                           p13
65 町内会活性化委員会の委員長の引き受け
66 町内会活性化委員会
67 黒大豆の生産を拡大できない
68 一郎72歳。視力の低下
69 暦年経営収支                                                                    p14
70 これまでの総括
71  家庭菜園
72  ブルーベリー
73  農的生活                                 p15

 

1 北海道農業の発展

2020-02-07 19:55:04 | エッセイ
             (参考資料:道立自然公園野幌森林公園要覧より)
 
1999年、秋、どこまでも広い空は、真っ青というより、ちょっと薄い青という感じ。一郎はこの薄めの青が好きだ。真っ青だとなぜか重圧感を受けてしまう。
 ミズナラの群生した茶色の葉がまたいい。地味だが見ていると落ち着く。
 ここは札幌の中心部から東方約12kmの野幌森林公園の一角にある北海道百年記念塔の前です。
 この塔は、北海道開道百年を記念して1971年に一般公開された。
 一郎は、ちょうどその年に札幌で就職し、よく独身寮の連中と、ここに来たものだ。
 当時、開道百年と聞くと、長い間かかって発展してきたと感じていたが、それからもう30年弱も経ってしまっているのだ。
 塔は、鉄骨でできているのだが、その錆が目立つ。
 一郎は、公務員として北海道で公共事業の面から農業の開発に携わっている。
 この30年の農業発展はすさまじく、酪農、水稲をはじめ、バレイショなどの畑作も機械化、大規模化が進み、サラリーマンの年収をはるかに超えた農家も数多くあり、家族で法人化し青色申告している農家もある。住宅も青や赤い屋根で見違えるほどモダンになった。
 就職当時に道北の酪農家を見て回る機会があったが、厳寒の中、脆弱な住宅が気になってしかたなかった。
 また、その頃の北海道産米は、全国的な米余りの中にあって、ヤッカイドウ米と言われていた。今はやっと品種改良が進み、内地米と肩を並べるまでになった。
 北海道は、冷害に強く、多収が育種目標であったが、新潟県などに比べ、良食味米の改良が遅れた。しかし、今後、圃場の大区画、逆に冷涼な気候を生かし、低コスト、良食味米の生産が可能であろう。
 
<参考>あれから23年、「あの空に立つ塔のように」2023年NHK紅白歌合戦で大泉洋さんが歌いました。あの塔は、北海道百年記念塔をイメージされたものと推察します。この塔は2023年夏に解体されました。
2023.6.18撮影

 

 


2 退職

2020-02-07 18:30:02 | エッセイ

 2 退職

一郎は2年後、55歳で定年を迎える。
 公務員に定年はないが、50歳前半で後進に席を譲る慣例になっている。
 公共事業は、予算は役所でつけるが、工事等の実施は、主に民間事業者が行い、一体となって事業の効果を発揮している。
 定年後は、現職の時の能力を生かせる民間事業者に再就職する道もあるが、よく考えてみると、自分にそのスキルがあるかと問えば、自信がない。
 なるほど、職場の和を乱さず、組織としてそれなりの貢献はしているつもりだが、今の組織を離れて自分で何ができるかと問われれば、心もとない。
 そんな折、2000年2月、愛知県の実家から、82歳の父親の急逝の知らせが入る。
 実家は、20年前に母親を亡くしており、父親が1人で水田30a、畑20a の農業を営んでいた。
 実家に戻って農業を始めるのもハードルが高い。
 年金は、60歳からしか出ない。公務員には失業保険はない。
 妻の昭子は「農業は身体にも優しいし、しばらくの間私が働くから、大丈夫だよ」言ってくれた。
 妻も同郷だったので、北海道を離れることには特に障害がなかった。
 農業の一般的な知識はあっても、栽培技術の知識、技能はゼロに近い。
 農地、トラクター、軽トラなど農機具や資材などは一応そろっている。
 野菜も、鮮度の差が出るコマツナなどを栽培し、直売を行えば、鮮度だけはスーパーに負けない。
 一郎は、自分の資質、今までの職場環境、実家の農業設備など、今置かれている状況を棚卸した結果、2001年7月に退職し、実家の農業を継ぐことにした。


3 北海道を離れる

2020-02-07 18:29:09 | エッセイ


 2001年7月。一郎と昭子は、小樽港発23時30分、敦賀港行きのフェリーのデッキに居た。
 小樽の夜景が、どんどん小さくなっていく。
 思えば、18歳の年、将来北海道で酪農をやろうと思い、上野駅から特急「はつかり」、真夜中の0時から青函連絡船「摩周丸」、5時函館発特急「おおぞら」に乗り次いで、初めて北海道に渡った。
 あれから途中中抜けはあるものの、通算30年の間、いい人や環境に恵まれ、当初の夢はかなわなかったものの、楽しい人生を送ることができた。
 昭子とは同郷での見合い結婚だった。
 赴任先の稚内に嫁いできた。
 結婚してから25年間に9回も引っ越しをした。その他、単身赴任1回。昭子は、慣れない土地で出産、子育てなど、苦労したと思う。
 今は、子供達も独立し、夫婦2人だ。
 夜景が見えなくなり、船室に戻っても次々と思い出がよぎってくる。
しかし、これからは、これまでの人々の恩は大切にしなければならないが、甘えてはならない。気持ちをリセットし、ゼロからの出発であることを覚悟する。