あなたの神、主を愛しなさい

一人でも多くの方に福音をとどける思いで、ブログを書かせていただいております。

まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか(ルカ3:7~9)

(今回は、神のさばきをのがれたいがために集まってくる群衆、についてふれたいと思います)

 

ルカによる福音書・3章の7~9節より

『さて、ヨハネは、彼からバプテスマを(=罪を清めるために、身を川などの水にひたす儀式を)受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ(=神から離れ、悪魔(サタン)に属している者たちよ)、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか(=ヨハネは罪の悔い改めを説いていました。にもかかわらず、群衆にはどういうわけか、神のさばきからのがれられるという話が中心となって、こうして自分は助かりたいとの思いで集まってきていたものと思います。ですがヨハネは、こうした者たちもキリストに向けさせるために遣わされているのです。もっとも神のさばきからのがれられるというみことばも、聖書にはしるされています(マラキ4:5~6など))。だから(=せまっている神のさばきからのがれたいというなら)、悔改めにふさわしい実を結べ(=ここでヨハネは、罪を悔い改め、神に立ち返ったふるまいをすることが肝心なのだと、本来の主旨をつたえなおしています)。自分たちの(=神の民である自分たちイスラエルの)父にはアブラハム(=神への信仰があり、イスラエルの租(そ)である人物)があるなどと、心の中で思ってもみるな(=アブラハムの子孫だという理由だけで、神の国に入れると思わないように)。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧(おの)がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて(=要は形だけのバプテスマをうけたところで、信仰にもとづいた歩みがともなわないなら)、火の中に投げ込まれるのだ(=救いはえられず、永遠の滅びにいたるのだ)」』

 

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(聖書でいう “悔い改め” とは、神に謝ることではありません。神から離れた方を向いてしまっている心を変えて、再び神の方に向けることが悔い改めにあたります。ですからその場で謝っておわる類(たぐ)いのものではなく、継続して神を見つづけて、信仰の歩みをたもっていくことにその意味がおかれています。どうか一人でも多くの方が、自分が罪人であるのをみとめて、キリストを信じますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします)