ヒナフキンの縄文ノート

スサノオ・大国主建国論から遡り、縄文人の社会、産業・生活・文化・宗教などの解明を目指します。

195 縄文社会研究の方法論

 「縄文社会研究会」では1万数千年の縄文文化・文明(採集栽培・漁労狩猟・生活・家族・集団・技術・文化・宗教・言語)の全体像を明らかにし、たかだか2千年あまりの農耕・工業・戦争の文化文明の前に全世界に共通した文化・文明を明らかにし、持続的発展可能な平和な未来社会への参考にしようと取り組んできました。

 考古学は遺跡・遺物の「物」からの帰納法により「縄文社会」を推理する着実な方法ですが、当研究会では現代人さらには古代人の様々な活動から縄文人の活動へと仮説演繹的に「縄文社会」を推理してきました。

 「物」からというと科学的と思われがちですが、「発見物」からの推理という大きな限界があり、「未発見物」への推理を欠くことから、「新発見物」により容易にそれまでの定説がパアになる危険性があるのです。

 一例をあげると、出雲にめぼしい遺跡がないことから記紀に書かれた出雲神話は8世紀の創作とされてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡でのかつてない大量の銅器(銅槍・銅矛・銅鐸)の発見により、記紀に書かれたスサノオ大国主一族の建国が物証により裏付けられました。八百万神信仰により「銅槍圏(通説は銅剣圏)・銅矛圏・銅鐸圏の統一」がなされたことが明らかになったのです。

 この「荒神谷・加茂岩倉ショック」により考古学者は自らの方法論の限界を反省し、天皇中心史観の記紀分析をやりなおすべきだったのですが、未だに大勢としては従来の物からの帰納的推理の「ただもの(唯物)史観」のままであり、シュリーマンのように神話(記紀)から仮説を立てて大国主卑弥呼の墓の発見を目指すような考古学者は現れていません。

 「八百万神」神道のこの国では、死者の霊(ひ)は全て神として子孫や人々に祀られるのであり、「神話=霊話=人話」なのです。確かに記紀神話には天上の「高天原」神話のように一見すると荒唐無稽な内容が見られますが、一方ではその場所を「筑紫日向橘小門阿波岐原」と具体的な地上の地名として書いています。記紀は表面的には天皇家建国の歴史を書きながら、その裏では巧妙にスサノオ大国主国史を書き残しているのです。

 考古学者の帰納法に対し、縄文社会研究会では主催者の上田篤さん(建築家:元阪大教授)は主に「現代人の生活・文化」の伝統から歴史を遡って「縄文人の生活・文化」を演繹的に推理してきました。一例をあげると、「家の中に神棚や仏壇を祭る」文化・宗教のルーツを縄文社会に求めていくというような方法です。―『縄文人に学ぶ』(新潮新書)参照

 さらに私はスサノオ大国主7代の建国史から縄文社会を演繹的に推理するとともに、西アフリカで誕生して日本列島にやってきたY染色体D型人の大移動の痕跡を残すアフリカ・アジアの共通の文化・文明の分析から演繹的推理により縄文社会の解明に取り組んできました。

 一例をあげると、「八百万神」信仰の神名火山(神那霊山)崇拝、山の神(女神)崇拝、神籬(ひもろぎ:霊洩木)崇拝、金精(男性器)崇拝などのルーツが縄文時代さらにはアフリカに遡るのではと仮説検証を行ってきました。はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」参照

 縄文社会の全体的・総合的な解明に向けては、この帰納法推理、演繹的推理の両方が欠かせず、「文献史学、古地理学、古気象学、考古学、民俗学、神話学、女性史学、東アジア学、人類学、言語学アイヌ学・沖縄学を始めとする各地域学、各種産業技術史学等」(上田篤)に、「霊長類学、遺伝子学、生態学民族学、食物・栄養学、建築学社会学、芸術・芸能学、宗教学」(筆者)などを加えた総合的な取り組みが必要と考えます。

 ただ、そのためには専門家による取り組みの前に、現代人の生活・文化・文明の諸問題の中から人類のルーツに遡って「なぜだろう」と考える直感がまずは必要であり、市民的な研究活動が出発点になると考えます。

 一例をあげると、私の岡山・兵庫の田舎の両祖父母の家には「大黒柱」があり、柱に添って「神棚」が設けられていましたが、そのルーツは出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」の「大国柱」ではないか、祖先霊を「仏壇」に「仏」として祀る以前は「神棚」に「神」として祀り、天から招き送り返していたのではないか、さらに「心御柱」のルーツは祖先霊の依り代である「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」ではないか、そのルーツは東アフリカの万年雪を抱くルウェンゾリ山やケニヤ山から死者の魂が天に上るとした「神山天神信仰」でナイル川を下って平野部では人工の神山として上が白く下が赤いピラミッドに伝わったのではないか、諏訪地方の阿久・阿久尻縄文遺跡の石棒から円錐型(神那霊山型)の蓼科山へ向かう2列の石列や、蓼科山へ向いた19の巨木建築は蓼科山の「神山天神信仰」を示していないか、諏訪地方に伝わる御柱祭は「天神信仰」の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」ではないか、などと演繹的・帰納的に縄文宗教を推理していく方法です。

 このような私たちの身近な体験からの市民的研究を輪を広げるとともに、各分野の研究者との交流を行いながら、縄文社会の総合的な解明に取り組みたいと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

ナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキン邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 

Gooブログ 「スサノオ・大国主ノート154  『アマテラス』から『アマテル』へ」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 縄文社会論と関係がないように思われるかもしれませんが、縄文人の宗教が一神教の「太陽信仰」なのか、それとも氏族社会・部族社会の多神教の「霊(ひ:祖先霊)信仰」なのか、という判断に関係してきます。

 「縄文人太陽信仰説」はイギリスのストーンヘンジを参考にして、石棒円形石組を「日時計」とし、環状列石などが冬至夏至の太陽の昇る方向を向いているということと、天皇家の「アマテラス(天照)太陽神信仰」を根拠としているのに対し、私は次の主な6つの根拠から「縄文人(ひ)信仰説」を主張してきました。

 

 諏訪の原村の阿久遺跡の石棒からの2列の石列が、ヒジン(霊神)様が住む女神山として信仰されてきた神名火山(神那霊山)型の蓼科山へ向かっている。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」参照

 隣接する茅野市の阿久尻遺跡の19の巨木方形柱列(楼観と考える)は蓼科山を向いており、神名火山(神那霊山)信仰を示している。―縄文ノート「104 日本最古の祭祀施設―阿久立石・石列と中ツ原楼観拝殿」「105 世界最古級の阿久尻遺跡の方形巨木柱列群」「169 東西ストーンサークル文明:『ストーンヘンジ』と『阿久(あきゅう)・阿久尻(あきゅうじり)遺跡』」参照

 縄文石棒(石柱から男根型に整形)は後に「山の神(女神山)に男が金精様を捧げる祀りに引き継がれており、母系制社会の女神の依り代であり、太陽信仰の日時計の柱などではない。―「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」参照

 松岡静雄(柳田圀男の実弟、海軍大佐)の「ヒナ=シナ」説、吉田金彦元大阪外大教授の「信濃=ひな野」説があり、諏訪は元々「居夷神(いひな神)」の国であった大国主の御子の建御名方命(たてみなかたのみこと)に譲り自らは蓼科山の上に登り「ヒジン様」と呼ばれていたことからみて、蓼科山は古くは「たてひな山」で、死者の霊が天に昇る「ひな=霊の国」の山として信仰されていた。―「縄文ノート40 信州の神那霊山(神名火山)と霊(ひ)信仰」参照

死者の霊(ひ)が肉体から分離して天に昇るとする神山天神信仰は、ナイル川源流の万年雪をいだくルウェンゾリ山・ケニヤ山・キリマンジャロをルーツとし、ピラミッドなどの人工神山に引き継がれて世界に広まり、南印ドラビダ族・チベットミャンマーなど東南アジア山岳地帯・雲南などの「ピー、ピャー、ピュー」信仰が琉球から本土に伝わり「ひ」信仰となったと考えらえれる。―縄文ノート「37 『神』についての考察」「38 霊(ひ)とタミル語pee、タイのピー信仰」「42 日本語起源論抜粋」「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」参照

 古事記は始祖神を「三神二霊」とし「二霊(ひ)群品の祖」として「産霊(むすひ)」夫婦神から人(霊人)が生まれ、日本書紀はその2神を「神皇産霊(かみむすひ)・高皇産霊(たかみむすひ)」としており、太陽神は始祖神話には登場しない。―縄文ノート「24 スサノオ大国主建国からの縄文研究」「31 大阪万博の『太陽の塔』『お祭り広場』と縄文」参照

 

 以上の「縄文人(ひ)信仰説」を補強し、今回、「天照」は「アマテラス」か「アマテル」か、「天照」は「テンテル」か「海照(アマテル)」か、「天照国照彦」は「アマテラスクニテラスヒコ」か「アマテルクニテルヒコ」か、尊称「天照」の名前「大日孁貴(おおひるめのむち)」の「ヒルメ」は「日留女」か「霊留女」か、八咫鏡(やたのかがみ)は「アマテルの御魂」か「太陽のシンボル」か、「人・彦・姫・卑弥呼」は「日人・日子・日女・日御子」か「霊人・霊子・霊女・霊御子」か、「天照」は「日神(ひのかみ)=太陽神」か「霊神(ひのかみ=ヒジン)」か、縄文時代から今も続いているのは「霊(ひ:祖先霊)」か「太陽信仰」か、を検討しました。

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」をご覧いただければ幸いです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

ナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキン邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/

「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正

 5月25日アップしました「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正いたします。

 急いだ拙い作業で失礼しました。

 

<5月26日の加筆修正>

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

<5月28日の加筆修正>

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 

「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神信仰」の修正

 「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神信仰」の最後の部分、男性が女神に捧げる「石棒」「イナウ」「けずり花」と、「幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))」「御幣(ごへい)」を同列においていましたが、次のように書き分けました。

 

 以上、引用が多くて恐縮ですが、十津川村の「けずり花」を女神「山の神」に捧げる祭りは、単なる山や巨木の自然信仰ではなく、アフリカ起源で世界に広まった死者の霊(ひ)が山から天にのぼる神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)を示しており、その信仰を司る祭神は母系制社会の女神であり、縄文石棒やイナウ(アイヌ)、けずり花(十津川村)、金精様(全国各地)は霊(ひ)の再生を願って男性が女神に捧げる神器であり、女神の依り代でもあったのです。

 

 なお、「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、「私は幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です」と書きましたが、幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))と御幣(ごへい)は神が宿る神籬(ひもろぎ:霊洩木)であり、石棒・イナウ・けずり花・金精とは神器としての役割が異なり、修正いたします。

 

 古事記によればアマテル(天照大御神)が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡しているのであり、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトの太陽神のように、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としており、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」なのであり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

194 十津川村の「けずり花」と「山の神」信仰

 録画していた5月22日NHK・BSの新日本風土記十津川村(とつかわむら)」(2019年1月初回放送)を見ましたが、杣師(そまし:きこり)が「けずり花」(男性のシンボル)をつくり、各家や山の神木に宿る「山の神」に供える信仰や、山人(やまびと=やまと)の村の農業・食事・祭りなどたいへん興味深い番組でした。

 

 私が注目したのは、「山の神」=女神が宿る神木に男が「男根」に似せた「けずり花」(なんとも奥ゆかしいネーミングです)を供えるという点です。
 「縄文ノート34 霊(ひ)継ぎ宗教論(金精・山神・地母神・神使)」(150630→201227)で紹介しましたが、仕事でよく通った尾瀬のある群馬県片品村には次のような3つの興味深い祭りがあります。山村や離島などには古い歴史の伝統が今に残っている宝庫なのです。

(1) 猿追い・赤飯投げ祭り(花咲地区)
 ・赤飯と甘酒を本殿周辺の70数基の石祠に備える。
 ・拝殿の前で東西に2列に並び、赤飯を「エッチョウ」「モッチョウ」と言いながら交互に投げ合う。
 ・御幣をかかげた猿役を村人が追い、山に追い返す。

(2) 十二様祭り(針山地区)
 ・十二様は「山の神」の別称で、女神。
 ・男が性器型などのツメッコを作り甘い汁粉に入れて煮て、裏山の十二様に供え、帰って食べる。
 ・十二様が嫉妬するので集落の十三歳以上の女性は甘酒小屋に集まり参加できない。
⑸ 金精神社(上小川地区)
 ・女体山(日光白根山)に金精(男性性器型)を奉納。
 ・男性のみが金精を捧げる登拝行事が行われる。

 これらの「お山信仰=女神信仰」は一般的には「自然信仰」で、番組では「山の恵みに感謝する」「山の怒りを鎮める」というような説明をされていましたが、「猿追い祭りは、武尊山に降り立った祖先霊(霊:ひ)を御幣(ごへい)に移して里の武尊神社(祭神は穂高見命※、後に日本武尊を合祀)に運んできた神使(しんし、つかわしめ)の猿を、再び、祖先霊と共に山に送り返すという、古代からの信仰を伝える神事で、出雲族の霊(ひ)信仰を示しています」と私は考え、「御幣は現在は木の先に白い紙垂をつけたもので、白布(幣帛:へいはく)を付け、神に対する捧げものを意味するとされていますが、元もとは死者の霊(ひ)が乗り移る依代(よりしろ)である神籬(ひもろぎ:霊漏ろ木)でした」と見ました。


 その後、この「御幣」はアイヌの「イナウ」や「縄文石棒」と同じで、女神に捧げる「男根」をシンボル化したものであり、「女神の依り代」と考えるようになりましたので、初出時期の順に紹介します。

 

参考1 縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰 190129・0307→200411
(7) 御柱、神籬(ひもろぎ)、幣帛(へいはく:みてぐら、ぬさ=麻)、御幣、イナウ(アイヌ
 死者の霊(ひ)が天に昇り、降りてくるという昇天降地の宗教では、御旅所である「お山」が重要な役割を果たしますが、山に昇り、降りてくるという葬儀などのイベント的な行事から、同族の結束を固めるために、より日常的な信仰の場として、「山から里へ」と信仰の場を移すようになりました。
 そして、共同の祭祀の場として神社を設けるとともに、霊(ひ)が宿る依り代として、御柱や神籬(霊(ひ)漏ろ木)、さらには小型化した幣帛(へいはく、みてぐら、ぬさ=麻)、御幣、イナウ(アイヌ)などを、祭祀の道具として使うようになりました。なお、私は幣帛・御幣とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です。

参考2 縄文ノート33 「神籬(ひもろぎ)・神殿・神塔・楼観」考 200731・1226
 青森市の「三内丸山遺跡」の6本列柱の巨大建築物を作った人々の宗教的エネルギーと現代を繋ぐものとして梅原猛氏は「ねぶた祭」をあげていますが、諏訪の「中ツ原遺跡」の8本列柱は現代の「御柱祭」や「御柱(天御柱心御柱・心柱)信仰」「神籬」「ぬさ:御幣、アイヌのイナウ」などに広く受け継がれています。

 

参考3 縄文ノート23 縄文社会研究会「2020八ヶ岳合宿」報告 200808・1209
⑨ 縄文人をマンモスハンターの子孫の狩猟民とする「日本民族北方起源説」がみられますが、アイヌが漁民であり、刺青をしていて民族衣装が前開きの南方系であることや、琉球(龍宮)のアクセサリー貝が北海道まで運ばれ、琉球の始祖の「アマミキヨ」に由来する奄美大島、天草、甘木(天城)、天が原、海士などの地名が北上・東進していること、神の依り代(よりしろ)である御幣(幣帛(へいはく)、幣(ぬさ))とアイヌのイナウとが同じであること、琉球のサバニや奄美の板付け舟がアイヌのイタオマチプ(板綴り舟)と同じ丸木舟に舷側板を張った構造であることなどからみて、縄文人は海人(あま)族であるという大前提でその宗教思想や文化を見るべきと考えます。

 

参考4 縄文ノート102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神 211013
 石棒(男根・金精)というと男社会の祭りとばかり私は思い込んでいましたが、尾瀬湿原のある群馬県片品村の仕事で、女体山(日光白根山)に男が金精を捧げ、山の神「十二様」(女神)に男が性器型などのツメッコ(すいとん)を入れた汁粉を供える祭りで、女性は女神が嫉妬するので参加できないことを知り、びっくりしました。女性差別ではなく、女神信仰の母系制社会の祭りが続いていたのです。
 さらに武尊山のほとりの武尊(ほたか)神社の猿追い祭りでは、2組に分かれて「エッチョー」「モッチョー」と言い合いながら赤飯を投げるのですが、男性たちは赤や紫などのスカーフで頬かむりをしており、元々は女性の祭りであった可能性があります。

 

参考5 縄文ノート181 縄文石棒と世界の性器信仰 231115
 なお、信州を中心に中部・関東・近畿に広がる「ミシャグジ」信仰は、古木の根元に石棒を祀るのが最も典型的なミシャグジのあり方であることを藤森栄一・今井野菊・宮坂光昭・古部族研究会(野本三吉、北村皆雄、田中基)らが明らかにしていますが、私は「ミシャグチ=御蛇口」であり、縄文時代から続く女神の神山天神信仰が水神信仰となったと考えます。―縄文ノート「98 女神調査報告2 北方御社宮司社・有賀千鹿頭神社・下浜御社宮司神社」参照

⑹ 石棒の役割
「縄文ノート102 女神調査報告6 北沢川・月夜平大石棒と男根道祖神」(211013)において、私は石棒の宗教上の役割について、「地母神祭祀石棒、天神祭祀石棒、家族祭祀石棒、水神祭祀石棒」と整理しましたが、山上の石棒や環状集落の広場の石棒について触れていなかったので、追加・修正します。


 以上、引用が多くて恐縮ですが、十津川村の「けずり花」を女神「山の神」の宿る神木に捧げる祭りは、単なる山や巨木の自然信仰ではなく、アフリカ起源で世界に広まった死者の霊(ひ)が山から天にのぼる神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰)を示しており、その信仰を司る祭神は母系制社会の女神であり、縄文石棒やイナウ(アイヌ)、けずり花(十津川村)、金精様(全国各地)は霊(ひ)の再生を願って男性が女神に捧げる神器であり、女神の依り代でもあったのです。

 

 なお、「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、「私は幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です」と書きましたが、幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))と御幣(ごへい)は神が宿る神籬(ひもろぎ:霊洩木)=神木であり、石棒・イナウ・けずり花・金精とは神器としての役割が異なるのであり、修正いたします。

 

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトの太陽神のように、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」なのであり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 

□参考□
<本>
 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)
 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)
 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)
<雑誌掲載文>
 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)
 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)
 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)
 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)
 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)
 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)
 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)
 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)
 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)
 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)
 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)
<ブログ>
 ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina
 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/
 ヒナフキン邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/
 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

「スサノオ・大国主ノート153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点」の紹介

 Gooブログ「ヒナフキンスサノオ大国主ノート」に「153 『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)』の修正点」をアップしました。https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 2009年3月に『スサノオ大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。

 その結果、『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたので、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。

 主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。

 この国の建国史を論じるなら記紀神話が認めているスサノオ大国主7代の葦原中国(あしはらのなかつくに:豊葦原の水穂国)と魏書東夷伝倭人条などに書かれた「委奴国」の関係、と邪馬壹国、さらに天皇家の建国との関係について、統一的な整理・把握こそ重要と考えます。

 本ブログの「縄文論」としても、採集栽培・漁労・狩猟の縄文時代から、鉄器(鉄先鋤)により葦原の沖積平野を開拓し、水利水田稲作を普及させたのが縄文海人族のスサノオ大国主一族なのか、それとも中国・朝鮮半島からきた弥生人征服者なのか、内発的自立的発展なのか外発的発展なのかか、検討する参考にしていただければと思います。雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

  ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

  帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

  ヒナフキン邪馬台国ノー      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

  霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

  ヒナフキンの縄文ノート       https://hinafkin.hatenablog.com/

 

193 「やまと」は「山人」である

 海人族(天族)であるスサノオ大国主建国論からスタートした私は、縄文人の貝やヒスイ・黒曜石などの海洋広域交易から縄文海人(あま)族から縄文社会分析を進め、さらに日本列島人起源論においても「海の道」の分析を進めてきましたが、長野県や福島県の黒曜石産地での神名火山(神那霊山)信仰や温帯ジャポニカ・芋もちソバ食などの照葉樹林帯文化から縄文山人(やまと)族の分析に進み、海人族と山人族が共同して日本列島にやってきたと考えるようになり、縄文ノート186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」(240301)をまとめるに至っています。

 この縄文から続く海人族・山人族の文化は、天皇家のルーツである「山幸彦」と兄の「海幸彦」に引き継がれ、さらには「大和」を「やまと」と読むことに繋がったことについて考えてみたいと思います。ずいぶん前にFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論35 『ヤマト』は『山人』」(100505)を書きましたが、いくつか補足しました。

http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-date-201005-2.html参照

 小学生の時ですが、「大和」を「やまと」と読むと教わり、「嘘だろう!『だいわ』『おおわ』ではないか」と思い、稲作が始まって「米を入れるために軽い弥生式土器が生まれた」という説明には「米は米俵や木の米櫃に入れるもんだ」と反発するなど、私は教師を信用しないへそ曲りの子供でした。

 その後、若いころの私の高知の友人に「山戸」君がいましたが、彼の名字は「やまと」読みでした

 諏訪湖畔には「大和(おわ)」地名があります。連続母音の省略で「おおわ」から「おわ」になったのです。―ヒナフキンの縄文ノート「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照

 また大和(だいわ)書房の社長で多数の古代史本を執筆された有名な大和岩雄(おおわ いわお)氏は高遠町(現伊那市)出身です。

 さらに信州出身者に連れられて飲んだ新橋駅南の新橋駅前ビル1号館2Fの「正味亭 尾和」は東大卒で電通から転職した尾和正登さんの店で、上田出身の氏の名字の「おわ=尾和」は元々は「大和(おおわ)」だったと思います。

 「やまと」については、「山戸、山門、山都」「夜麻登、山跡」など地名由来の名前とする説が見られますが、そもそも奈良盆地には「やまと」地名がありません。

 記紀の記述によれば、薩摩半島西南端の阿多に天下りしたニニギが阿多都比売に妻問いしてもうけた「ホデリ:海幸彦(漁師)」が「隼人(はやと)」と呼ばれたことからみて、その弟の「ホオリ:山幸彦(猟師)」は「山人(やまと)」なのです。

 広辞苑によれば「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされており、まさに古事記に書かれた「毛のあら物、毛の柔(にこ)物」を取る猟師なのです。「御子人(みこと=命、尊)」「旅人(たびと)」「商人(あきんど)」「素人(しろうと)」「玄人(くろうと)」「助(すけ)っ人(と)」「盗人(ぬすっと)」など、「ひと」を「と」と読む例からみても、「山人」=「やまと」であり、「海人(あま)」は「あまと」の「と」が略されたと考えます。

 これを裏付ける傍証があります。それは、沖縄では自分達(沖縄人)を「ウチナンチュウ」と呼び、本土の日本人を「ヤマトンチュウ」と呼んでいるのですが、沖縄には「ヤマト」は侵攻しておらず、沖縄を支配下に入れたのはハヤト(薩摩隼人)なのです。

 ここで思いだされるのは、ヤマト朝廷による720年の「隼人の乱」の鎮圧であり、この時、阿多の栫ノ原遺跡(丸ノミ石斧・曽畑式土器出土)などを拠点とした隼人(ハヤト:南風人)を縄文時代から深い交流があった琉球の海人(ウミンチュウ)は応援したと考えられます。この対立の記憶は現代まで残り、「ウチナンチュウ」対「ヤマトンチュウ(山人)」の対言葉となって続いた可能性が高いと考えます。

 

 阿多天皇家2代目の山幸彦・ホオリは琉球(龍宮)に渡り、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、古事記では鰐、日本書紀では龍)を妻として帰り、海辺の産小屋でトヨタマヒメは鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産みます。このウガヤフキアエズは、トヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、このタマヨリヒメは若御毛沼(わかみけぬ:後に神武天皇の忌み名)ら4兄弟を産んでいます。大和天皇家の初代神武天皇の祖母と母は琉球(龍宮)人なのです。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(2018秋 季刊日本主義43号)参照

 若御毛沼らは、傭兵隊として宮崎県北部の美々津、豊国の宇佐に立ち寄り、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年滞在し、生駒山脈の麓の白肩津(日下)で敗退し、南に下って熊野をへて奈良盆地の大物主(スサノオの子の大年一族)とスサノオ7代目の大国主一族が支配する「美和(みわ:三輪)→大和(おおわ)」の国に入り、天皇家10代目の御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)の時にその権力を奪い、「大和(おおわ)国」を「やまとの国」と読み変えさせたと考えます。―『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 天皇家のルーツを朝鮮半島高天原からやってきた弥生人にしたい皆さんや、邪馬臺国を「やまだこく」と読み「大和国(やまとのくに)」に当てはめたい邪馬台国畿内説のみなさん、女山(ぞやま)のある「山門郡」(福岡県みやま市瀬高町)にあてたい九州説のみなさんにはショックかも知れませんが、縄文時代からの「海人族(隼人族)」と「山人族」の歴史を古事記はきちんと伝え、天皇家の母方ルーツが薩摩半島の縄文山人族と龍宮(琉球)の海人族であることを隠していなのです。

 昭和天皇記紀に書かれたこの先祖の歴史を無視し、琉球の民衆に多くの犠牲を強いた玉砕戦を容認し、敗北後には沖縄を基地としてマッカーサーに差し出したのです。私は憲法9条戦争放棄の発案は統帥権を持った昭和天皇以外にありえないと分析しましたが、琉球をその枠外に置いたのです。―「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(2016秋『季刊 日本主義』35号)参照

 人間天皇家は、記紀に書かれた「阿多」「龍宮(琉球)」の山人族のルーツを公表し、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになった経緯を明らかにすべきです。

 縄文論としては、人類起源説(肉食進化説=東アフリカサバンナ起源説、糖質DHA食進化説=西アフリカ熱帯雨林起源説)、人類拡散説(草原の道拡散説(ウォークマン説)、海の道拡散説(シーマン説))、縄文文化・文明説(海人族文化・文明説、山人族文化・文明説)」についてさらに全体的に議論・探究を進めたいと考えます。

□参考□

<本>

 ・『スサノオ大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンスサノオ大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキン邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/