姉に対する苛立ちが消えた。
また、と言うべきか。これまでになく、と言うべきか。心穏やかに接することが出来るようになった。

きっかけは、昨日の日記。書き終えたとき、私はあることに気付いた。それは、自分自身の問題点。何故、苛立つのか。何故、悲しいのか。私はその原因を見出した。常に他人との間に壁を作り、心から人を愛することの出来ない私は、愛というものを過大評価していたのだ。

姉への愛(という名の幻想)を糧に生きていた日々、姉と共に見た光景は輝かしくて精彩に満ち、「あの頃は本当に楽しかった」と懐古せずにはいられない。これが、世に言う「思い出は美化される」という現象なのだろうか。確かにそう、あの日々は決して楽しいばかりではなかった。むしろ、生き辛くて仕方がなかった。

私はいつも怯えていた。姉の興味を失うことを。姉の愛情が自分に向けられていないと思い知ることを。私はいつも張り詰めていた。わずかな認識のズレも許せず、誤解に対して過敏になり、精神の均衡を失った。食事や睡眠に支障が出た。生物が当たり前に行なっていることが、努力しても出来なくなった。生きているのが辛かった。夜になるのが怖かった。それでも期待を捨てられず、自殺するだけの勇気も持てず。しかし、だからこそ、些細な変化や当たり前の日常を嬉しいと感じることが出来た。姉と通じ合えただけで、心から笑うことが出来た。

今の私には、それが出来ない。記憶の中で鮮やかに輝くあの光景を再び姉と共に見ても、あの頃のようには笑えない。この変化が、姉の笑顔を曇らせる。姉が悪いわけではないのに、姉にはどうすることも出来ない理由で、私の存在そのものが姉の心を曇らせている。姉を置き去りにして、私は幸せになってしまった。私が、姉を、置き去りにした。それが、どうしようもなく悲しいのだ。

しかし、このように感じるのは、愛を過大評価しているからではないか。

種の存続のためのシステムに過ぎない愛という現象、脳に流れるありふれた電気信号を、まるで万能の魔法のように神格化しているから、たかが心変わり程度で罪悪感に苛まれなければならないのだ。愛は、万能薬ではない。その事実から目を背け、間違った認識を抱くから、苦しむ羽目になっただけ。それだけのこと。当たり前のこと。

特別な感情など何もなくても、人はうまく付き合っていける。愛などなくても、恋から醒めても、姉と共に生きていける。そこに思い至った途端、姉に対する苛立ちが消えた。そしてまた、私は気付く。あの苛立ちは、姉に対するものではなかった。姉に対して何も出来ない自分自身に苛立っていたのだ。

姉は心を病んでいて、現実を正しく認識出来ない。私の言葉は姉に届かず、姉の目に映るのは私ではない。しかしそれでも姉の脳は、私について考えている。私の望む形ではないが、姉は私を愛している。これまでもずっと、そして今も。それを知っているからこそ、私は何も出来ない自分に苛立つのではないのか。特別な感情を失ったくらいで、人生が終わるわけではないのに。特別な感情を抱いていた頃、姉との関係がうまくいっていたわけではないのに。

私はただ、愛を言い訳にしたいだけなのだ。
愛は素晴らしいものだと言える自分になりたいだけなのだ。