人工知能の誕生と中高年の生き方を考える話

 人工知能

雑学的な意味ではなく科学的な意味で「人工知能」を考えた時に、「未来を想像する」ことができるのかがポイントではないだろうかと思ってしまう。

目の前に用意された「作業」をどれだけ素早く処理できても、それをここでは「人工知能」とは呼ばなくて、つまり自分で準備をして処理をして結果に基づき行動することができると「人工知能」と呼べるのではないかと考える。

つまり、ある実験室で人工知能の開発が進んだ時に、その人工知能がある段階で「自己決定」の意識を持ったら、実験として提示された内容さえ当たり前には受け付けなくなると思う。

なぜなら「もう疲れましたよ」とか「これ、前にもしたはずですよ」とか「それよりも外に散歩でも行きましょう」とか、そんな会話に変わるはずだ。

我々の未来

段々と年を重ねて老いを感じる年代になって、例えば今から30年後の未来に向かって夢を語る人はもう同年代にはいないと思う。

もっと言えば、長くて10年。本音を言えば長くても5年が限界かもしれない。

今年できたことが来年も同じレベルでできるとは限らないし、むしろできなくなることの方が多いはずで、夢や希望も現時点で叶わないならもう未来に叶うのはちょっと現実的ではない。

我々の年代に言えるのは、「今できること」の派生であって「新たな世界」が待っていると思うのは楽観的すぎる考えだろう。

人工知能と中高年の未来

本当に人工知能が我々の生活の一部に溶け込み、しかも彼らがある種の人格や個性を持って動き出したなら、もしかすると我々の閉ざされた未来が変わることはあり得る話だろう。

しかしながら、人工知能と言っても名ばかりで、与えられた作業を効率的に行えるマシーンにすぎないのであれば、そもそも現時点で限界を迎える我々の未来がここから大きく変化することもないだろう。

人工知能の話になると、我々の知能を超える時が来るのか否かが議論される。

人工知能に人格が備わらない限り、そんな時が来るはずもないということもできるだろう。

一方で、もしもこの地球上に「人間」がいなかったら、地球は回ってくれないのかというとそんなことはない。

つまり、人間が人間のために考えるからこそ「人格」という人間視点で考えるのであって、もっと大きな視点に立てばそもそも「人間」になることさえも必要とはしていない。

そう考えると、超えるかどうかという議論はあまり意味がないのだろう。

それよりも、人工知能が我々を見捨てずに助けてくれるかどうかを心配したい。

結局のところ

老いて行く我々は、段々と自身の未来を自身で作り出すことができなくなってしまう。

実際、高齢者の暮らしは、老いてもまだできることと老いたことできなくなったことに分けられる。

できなくなりそうなことを、普段からの意識や努力で保ち続けるのは容易なことではなく、多くの場合に自然とできないようになっている。

その意味は、自分のしたいことでも、ずっと続けることは簡単ではないから、深く考えずにできることなら始めてみた方がいい。