なぜ成功を掴めない人は同じ表情を見せるのか?という話

 先日の格闘技イベントの感想で

格闘技に限らず、生きていれば運命的な選択肢がやって来ます。

そもそも選択肢を避けることもできますが、その選択肢を掴み取るために手を伸ばすなら、何らかの対策が必要だと感じます。

結論から触れると、掴み取った人はその対策が功を奏したわけですが、掴み取れなかった人には特有の表情があります。

具体的に何がこうだとは伝えられないのですが、選択肢に手を伸ばす前に見せていた表情とは全く異なり、もっと言えば自信や余裕さえ見せていたはずなのに、結果は出せなかったということです。

自信や余裕は、実際の立場とは異なり、出そうと思えば出すことができます。

特にプロスポーツ選手の場合、それがファンへのサービスになっていたりもするので、自信のない表情や弱音ばかりでは務まらないのかも知れません。

例えば、ランニングという運動で、1キロの距離を何分で走れるのかを「キロ〇〇分ペース」というような言い方を使います。

運動経験者ならキロ4分ペース前後。市民ランナーならキロ5分ペースという具合に、その数値で走力が分かります。

しかしながら、1キロの距離を走る時と、50キロの距離とではそもそも求められるスタミナが違います。

なので、1キロの距離をどれだけ速く走れても、50キロの距離をどれだけ速く走れるかは推し量れません。

自信や余裕を見せた人は「1キロ」での経験で、50キロに挑めば結果は全く想像とは違うでしょう。

つまり、そもそも自信や余裕は、経験不足故に持つものとも言えます。

なぜなら経験を重ねると、50キロ走を完走する時に欠かせないポイントがあって、それに対策を幾重にも施し挑むからで、早々に余裕は出せないからです。

自信は練習をやり切り、あとは本番で試すのみだという段階であれば、想像外のことに不安を感じるよりも、今までの練習や努力を振り返り、そこに自信を持つことはできるでしょう。

いずれにしても、やり切れないと自信も余裕も持つことはできません。

不運が重なり、対策が思うように発揮されずに失敗してしまうこともあり得ますが、そんな結末を迎えた人は失敗に落ち込むよりも、失敗から手ごたえを感じ、どこか清々しい表情で次回への意気込みがみなぎっています。

しかしながら、自信や余裕があるように見えた人で、挑戦した結果が失敗に終わった時に、同じような顔つきを浮かべるのは、自身も気づいている根本的な基本をお座なりにしてしまったからでしょう。

例えば、10キロ走を完走できるのかという挑戦で、どんなケースであっても成し遂げる覚悟をした人は、走力の向上だけでなく、天候やコース状況などにも余念がありません。

なぜなら、起こり得ることを事前に知ることで、失敗に落ちいるリスク回避しているからです。

一方で、「余裕でしょう!」と、一度もその距離を走ったことがない人は簡単に思ってしまいます。

確かに別の機会で同じくらいの距離を走れたと記憶していて、「同じようなもの」と思い込んでいるからです。

確かにそれでも上手く行く時があって、だからこそ努力や基礎をしなくなってしまうのかもしれません。

しかし、運命を変えるような大切な場面ほど、失敗ではいけないのです。

だからこそ、自分で補えることはできるだけカバーして、結果に結びつけたいと思うべきです。

対策ができて上手く行った人、運もあって失敗にはならなかった人もいるでしょう。

しかし、「これくらいだろう」と勝手に想像して失敗してしまうパターンは、何度繰り返してもなかなか直せません。

そして、そんな時に見せる表情には、どこか似ているものがあります。

「簡単だから出来そうだ!」ということでも、絶対に成功させるとなれば話は違います。

人生は上手く出来ていて、ポンポンと運よく成功できることもありますが、理屈や練習という裏付けがないとどこかで失敗し、それが大きな運命の別れ道ということも珍しくありません。

困難なことで出来たら凄いと思われることよりも、絶対にミスれない挑戦の方が何倍も厄介です。

プロとアマの決定的な違いは、安定感ではないかと思います。

一発の凄さではありません。

絶対に落とせない時に、落としそうになっても広い上げられるような粘りがプロということです。