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多くの人は自分の力で道を切り開き、夢を実現していくことが人生の目的だと考えているのではないでしょうか。

 

「継続は力なり」という言葉がある通り、オリンピックで金メダルを取るのも、幸せな家庭を築くのも、小さな努力の積み重ねによる成果でしょう。

 

日々勤め励むことの大切さを、お釈迦(しゃか)様はこのように説いています。

 

善を急げ、悪から心を遠ざけよ。善をなすのにノロノロしていたら、心は悪事を楽しむ。

悪いことをした人は地獄へ堕ち、善いことをした人は尊い世界へ行き、煩悩(ぼんのう)の汚れを除いた人はさとりという安らぎに入る。

(ダンマパダより抜粋)

 

どのような宗派であれ、それが仏教である限り、その最終的な目的は、苦しみの原因である煩悩(ぼんのう)を断ち切って、さとりをひらくことです。

その目的を達成するためには、お釈迦(しゃか)様と同じように家や財産を捨て、何も持たない僧侶となり、善い行いを実践して功徳(くどく)を積む必要があります。

 

これを、(はい)(あく)修繕(しゅぜん)と言います。

(悪を廃して、善を修める)

 

しかし、全ての人が自分の力でさとりをひらけるわけではありません。そもそも出家をすること自体、一般の人にはハードルが高いことでしょう。

それなら出家できない人には救いの道がないのかと言えば、そうではありません。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏は、全ての人を等しく救いたいという壮大な願いを建て、その願いを実現するための手立てとして、自らがさとりをひらく時に、次のような約束をしています。

 

無量寿経(むりょうじゅきょう) 十八願】

私が仏に成る時、全ての人が心から信じて、私の国である極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれたいと願い、わずか十回でも南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の念仏をして、もしも生まれることができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

 

ここで大切なことは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の教えを心から信じて念仏をするということです。

 

私達が普段「信じる」という言葉を使う時は、「私は夫を信じている」「私は夢が叶うと信じている」というように、必ず主語が「私」になります。

自分勝手な私達は、この世界にあるものを自分の力で判断し、信じられるものと信じられないものに区別して、それが正しいと思い込んでいます。

 

そのために信じるものも信じ方も人の数だけ異なり、価値観の違いから度々争いが起こります。

 

しかし、阿弥陀仏(あみだぶつ)の教えを信じる心とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)から与えられる疑いのない心ですから、信じるまでの過程は人それぞれに違っていても、得られた信心に違いはありません。

 

これを、他力(たりき)の信心と言います。

 

他力(たりき)の信心とは、さとりをひらくということに関して、自分の力では到底叶わないと思い知り、仏の功徳(くどく)にすがって、どうにかこの一生で極楽(ごくらく)浄土(じょうど)に生まれる身になりたいと願い、念仏する心が起こる時に定まるものです。

 

この信心の得難(えがた)いことを、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)正信偈(しょうしんげ)の41行目から44行目に、このように書き残しています。

 

弥陀仏(みだぶ)本願(ほんがん)念仏(ねんぶ)

邪見(じゃけん)憍慢(きょうまん)(あく)衆生(しゅじょう)

信楽(しんぎょう)受持(じゅじ)甚以難(じんになん)

難中(なんちゅう)()(なん)無過斯(なかし)

 

邪見(じゃけん)とは「よこしまな見方。道理を知らない誤った考え方」、憍慢(きょうまん)とは「おごり高ぶる心、自分の考えが正しいと自惚れている人」、衆生(しゅじょう)とは「命のあるもの。人間」を指す言葉です。

 

信楽(しんぎょう)とは「仏の教えを信じ喜ぶこと。往生(おうじょう)を願う心」、受持(じゅじ)とは「自分のこととして受け止める」という意味です。

 

つまり正信偈(しょうしんげ)の41行目から44行目は、「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願に基づく念仏の教えは、よこしまな見方しかできない傲慢(ごうまん)な人々が、自分のこととして受け止め、心から信じることは実に((はなは)()って)難しい。これは難中の難であって、これ以上に難しいことはない」と読むことができます。

 

人生が順調に進んでいると、私達は自分の力で何でもできると、すぐに思い上がってしまいます。そんな時に、仏の教えに耳を傾けようという心は起こらないでしょう。

 

しかし、この世界の原理原則は無常(むじょう)です。どれほど苦労して手に入れた成果も、老いと死によって儚く消えてしまいます。

 

自惚れて伸び切っていた鼻先がポキリと折れ、肩を落とした時に初めて、救いの手を差し伸べてくれる仏の慈悲が身に染みるのでしょう。

 

煩悩(ぼんのう)とは、私達を迷わせ苦しめる原因であると同時に、仏の慈悲の有り難さに気づくための切符でもあるのです。その気づきが、そのまま他力(たりき)の信心の芽生えに繋がるのでしょう。

 

※過去記事は、こちらにまとめてあります。