ゲイの視線、バイの視点。

愛と思いやりをもって、最後まで生き抜くのみ。

#0157 Ordinary days

気分良く始まった一日のはずだった。

やってきたバスに我先にと順番そっちのけで乗り込もうとするじいちゃんばあちゃんに軽くイラつきを覚え、

乗り込んだら乗り込んだでいい席を確保しようと、乗り込んですぐ立ち止まって左右を見て後ろをつまらせる。

挙げ句にいい席がなかったからと立ったはいいものの、座りたい席を見つけたのか、バスが動き出しているのに駆け出して最後尾まで突進するおばちゃん。

もう、何やってんだよ…心で思うと同時に、ついに舌打ちが出てしまった。

天井を見上げ、イラついている自分の間抜けさにハッとなる。

オイオイ、どうした自分。何をそんなにイラついているのだ?別にどうということではないだろうに。

何かストレスが溜まっているわけではない。はて、なぜだろう。気分も悪くない。

でも他者の狼藉や粗相に対して過敏にイラついて癪に障るのは、何かあるからに違いない。その原因は粗相をしている目の前の他者にはなく、それを見ている僕の側にあるのだ。

ともあれ別に気分は悪くないのだし、そういう日もあるさ、ということにしよう。

仕事は淡々と気分良くこなし、悠々と定時で職場をあとにする。

バスは15分遅れていたけど、なんとも思わない。気分の良い日あるあるだ。

週末で明日は休みだとばかりに、のんびり歩いて買い物のためにあちこち寄り道をする。

車好きな僕は行き交う車を無意識に眺めるのだけれど、希望ナンバーで自分の誕生日と同じ数字をナンバーにしている車を見つけた。こういう機会はめったにない。

かくいう僕も自分の愛車に希望ナンバーで自分の誕生日にしていたわけですが。

奇遇だねぇ、こういうこともあんだねぇ、と思っていると、わずか5分くらいして、また別の車が僕と同じ誕生日のナンバーをつけていた。

こうなるとなにか意味づけをしたくなる。

エンジェルナンバー的な解釈だと、初心に返りましょうとか、人生の転機が近いですよだとか、はたまた、自分を愛でましょう的なことが書いてあったりする。

自分を愛でる?正直よくわからない。どういうことだろうか…とそうなってしまう育ちをしている。

愛でるのが無理なら、否定したり責めたりするのだけはやめよう、と過ごしている。

次は、自分がしたいことは抑えずにやろう、手を出してみよう、自分の心に正直になろう、というチャレンジだな。

暖かくなったはものの、くしゃみ鼻水目のかゆみでどよ~んとなり、身体が重くて気合いが入らない、といつもと同じ春がやってきたようだ。

淡々と買い物を済ませて、気分良く帰宅する。こうして、何の変哲もないけれど、日々気分良くいられる時間が増えているというのは、とてもよい変化であり、僕が回復してきているという証なのだし、良しとすべし、と思うのであった。

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#0156 最後の伏線回収

それは良い、それは悪い…僕はつい、自分の行動やあり方について自分をジャッジし、自分を審判にかけて生きているきらいがある。

すると当然、無意識に他者の行動にも良し悪しをつけてしまう。

そんな自分を戒め、いいか悪いかはともかくとして、と枕詞をつけなければならないほどに、いいか悪いかのジャッジをするために外の世界を眺めているかのようだ。

自分はいい人間にならねばならない…たしかにその心がけが悪いわけではない。

とまあ、こういう具合である。

しかし、いい人間でいたい、善良でいたい、と思えば思うほど、僕はなぜか息苦しさをも感じてきた。

結局そうしないと、世界から罰を食らわされ、生存を脅かされたり、手にできるはずの幸せを邪魔され、制限されて取り逃すかも、という不安が自分の行動を規定してしまうからだ。

僕はだしぬけに突然大きな音を出されるのがとても苦手である。

それは育ちのせいでもある。突然大きな音を立てられると心臓が止まりそうになるほどびっくりしてしまうし、そういう人が自分の近くに存在しないように注意して生きている。

言い分が通らないと暴れたり大声を出したりして、力ずくで状況を支配しようとする人間に隷属させられてきた怒りと恨みに直結するからでもある。

道を歩いているとき、近くで突然大きな音でクラクションを鳴らして挨拶し合う大型トラックだとか、仕事で急いでいるのかストレスが溜まっているのか、運転者が商用軽自動車のアクセルをベタ踏みし、床からグガァー、と660ccのエンジンと無段変速機のむくつけき爆音をまきちらしているのも大嫌いだし、

マフラー(消音器)を改造し、ビー、とかバー、とかいう下品な爆音を立てて走るバイクが通り過ぎるたび、

自分のオナラより大きな音を出すんじゃねぇ~と心の中でいつも叫んでいるのだ。

ところが、である。

先日仕事の残業が中途半端に延び、いつも乗るバスに乗り遅れたので、次のバスまで時間がまあまあ空いてしまった。

暖かければいつものように川沿いをのんびり歩いて帰宅するのも悪くないけれど、この寒さの中歩くのは嫌だ…と思案していると

上司がバイクで近くまで送ってあげるよ、と言ってくれた。

乗せてもらうのはほんの数分だけど、なにせ寒い。頭にちょこっとかぶるヘルメットなので、顔に体感0℃以下の風を受けることになるから覚悟してねと言われたものの

凍える寒さの中で歩くより、バイクの後ろに乗せてもらうという滅多にない体験をしてみるのもいいかなと、ご厚意に甘えさせてもらうことにした。

チョッパースタイル?というのかな。まさに「またがる」という感じの大型バイクで、後ろに乗っかる僕は、バイクのボディに手でつかめるところがないために、運転者である上司の背中から手を回してしがみつくという、なんとも気恥ずかしいスタイルで、帰宅ラッシュで渋滞する夕暮れの幹線道路をすりぬけながらバイクは快走する。

ブボボボ、と低音の野太い排気音が振動を伴って体に伝わり、風を切り景色が飛び去っていく(さしたる速度は出ていないし、決して法規から逸脱した改造がされているわけではないので念の為)のに身を任せていると

排気音の振動、サウンドがたまらなく心地良いと感じている事に気がついた。

自分の会陰あたりを通してその振動が伝わり、空気を切り裂くように内燃機関の爆発を感じて走る。

ふむ、これは爽快だ!

なるほど、周りはうるさいと思っても、乗っている人は楽しいわけだ。

僕は初めてライダーの人の気持ちを理解した。

とはいえ実際に僕が実際バイクを購入して乗るということはないだろう。どうせ乗るなら、快音を奏でることにこだわりをもつ同じメーカーのバイクではなく車の方がいいもんで。

生きていく中でこだわりが増えすぎると、自分の自由さがどんどん小さく狭くなっていく。

そのこだわりは、自分が幸せに生きるために作ったもののはずなのに。

いつしか、やっぱり、単に嫌なものを遠ざける怒りや恨みの転化でしかないものになっている気がする。

道徳を守って、自分を犠牲にしてでも人のために尽くし、不安にかられるような危険を感じるものは徹底的に避け…安全に、善良にと必死に生きているのに、どうしてこんなにつまらないのだろう、となるのだとしたら、根本的に何か間違っているんだよね。

危険を避けて安全を目指すのは、悪いことではない。

危険を顧みずに蛮勇を誇って浮かれて慣れないことに飛びついたら命がいくつあっても足りないし、もちろんそんなことをしたいわけではない。当たり前だけれど。

いきなり僕は明日から人生の価値観を180°チェンジして、なんてことは、当然ない。

それでも、自分のなかで毎日生きているだけでエネルギーを消耗し、いつも疲労感が先に立ち、毎日を生き生き楽しく過ごすことにどうしても引っかかりを感じているとしたら、

それは外側のせいではなくて、僕の内側にある。

僕の中でよかれと思って敷いたこだわりが、カセにしかなっていないとしたら、それを外すしかないんだよねと。

それはつまり、自分が「幸せになるために、不幸せでいよう、その方がたとえ惨めだとしても安全だったじゃんか」というそのこだわりを、もう外しましょうよというわけである。

で、どうするの?も何も、なんとなく楽しそう、と思うものに手を伸ばして味わう、今までなんとなくスルーしてきたものを選んでみる、というそれだけのことだなと思うのである。

結局そこにしか答えはないし、長いトンネルから抜けるための道標は、いつもそこにあって、僕が単にそれを脇に押しやって無視してきただけのことなのだ。

人生で自分が楽しいと感じることを選択しようとするのを禁止してきたのは

もはや、親でも世界でもなく、自分でしか、なかったのだ…。

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#0155 春の匂い

深夜外に出ると、春の匂いがした。否、正確にいうと春がもうすぐ来るよ、という先触れの合図となる匂いだ。

ヒサカキ沈丁花にはまだ季節が早すぎるし、多分違うだろう。土の匂いなのだろうか。でも確実に、何かしらの芽吹きのような香りがほのかにして、僕は毎年それで春の到来が近いことを体で実感するのだ。

僕は正しくこの感覚を他者に共感してもらいたい…とはもはや思わなくなった。

まして、正しくはこの香りが何であるのかについても、さして興味はない。

誰かの捉えた春の匂いと、僕が捉えた春の匂いが同じでなくてはならないと、どうして僕は悶絶していたのだろう。共感してもらいたい、と苦悶していたのだろう。

ただ僕は、僕と違う世界を見て違う感覚を味わっている他者と、ただその場を共有して、ほっこりしていたかっただけなのだと、最近気がついた。これも年の功、経験値というヤツか。

その代償として、加齢によるものだけれど、寒さで膝が悲鳴を上げるという人生初の経験に苦悶しているところだ。

暑いのも嫌なら、寒いのも嫌だ。

それでもなお、もうすぐ暖かくなるのだという希望を感じるあのやや青い、あの苦ささえ感じる芳香に、僕は魅入られるのだ。

世界はどこまで行っても、僕の見え方でしかないし、他者にとっての見え方でしかない。

それでいいのだ。

ただ僕はいまここに在り、魅入られるものに手を伸ばして味わうことだけを決意するのだ。

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