それは良い、それは悪い…僕はつい、自分の行動やあり方について自分をジャッジし、自分を審判にかけて生きているきらいがある。
すると当然、無意識に他者の行動にも良し悪しをつけてしまう。
そんな自分を戒め、いいか悪いかはともかくとして、と枕詞をつけなければならないほどに、いいか悪いかのジャッジをするために外の世界を眺めているかのようだ。
自分はいい人間にならねばならない…たしかにその心がけが悪いわけではない。
とまあ、こういう具合である。
しかし、いい人間でいたい、善良でいたい、と思えば思うほど、僕はなぜか息苦しさをも感じてきた。
結局そうしないと、世界から罰を食らわされ、生存を脅かされたり、手にできるはずの幸せを邪魔され、制限されて取り逃すかも、という不安が自分の行動を規定してしまうからだ。
僕はだしぬけに突然大きな音を出されるのがとても苦手である。
それは育ちのせいでもある。突然大きな音を立てられると心臓が止まりそうになるほどびっくりしてしまうし、そういう人が自分の近くに存在しないように注意して生きている。
言い分が通らないと暴れたり大声を出したりして、力ずくで状況を支配しようとする人間に隷属させられてきた怒りと恨みに直結するからでもある。
道を歩いているとき、近くで突然大きな音でクラクションを鳴らして挨拶し合う大型トラックだとか、仕事で急いでいるのかストレスが溜まっているのか、運転者が商用軽自動車のアクセルをベタ踏みし、床からグガァー、と660ccのエンジンと無段変速機のむくつけき爆音をまきちらしているのも大嫌いだし、
マフラー(消音器)を改造し、ビー、とかバー、とかいう下品な爆音を立てて走るバイクが通り過ぎるたび、
自分のオナラより大きな音を出すんじゃねぇ~と心の中でいつも叫んでいるのだ。
ところが、である。
先日仕事の残業が中途半端に延び、いつも乗るバスに乗り遅れたので、次のバスまで時間がまあまあ空いてしまった。
暖かければいつものように川沿いをのんびり歩いて帰宅するのも悪くないけれど、この寒さの中歩くのは嫌だ…と思案していると
上司がバイクで近くまで送ってあげるよ、と言ってくれた。
乗せてもらうのはほんの数分だけど、なにせ寒い。頭にちょこっとかぶるヘルメットなので、顔に体感0℃以下の風を受けることになるから覚悟してねと言われたものの
凍える寒さの中で歩くより、バイクの後ろに乗せてもらうという滅多にない体験をしてみるのもいいかなと、ご厚意に甘えさせてもらうことにした。
チョッパースタイル?というのかな。まさに「またがる」という感じの大型バイクで、後ろに乗っかる僕は、バイクのボディに手でつかめるところがないために、運転者である上司の背中から手を回してしがみつくという、なんとも気恥ずかしいスタイルで、帰宅ラッシュで渋滞する夕暮れの幹線道路をすりぬけながらバイクは快走する。
ブボボボ、と低音の野太い排気音が振動を伴って体に伝わり、風を切り景色が飛び去っていく(さしたる速度は出ていないし、決して法規から逸脱した改造がされているわけではないので念の為)のに身を任せていると
排気音の振動、サウンドがたまらなく心地良いと感じている事に気がついた。
自分の会陰あたりを通してその振動が伝わり、空気を切り裂くように内燃機関の爆発を感じて走る。
ふむ、これは爽快だ!
なるほど、周りはうるさいと思っても、乗っている人は楽しいわけだ。
僕は初めてライダーの人の気持ちを理解した。
とはいえ実際に僕が実際バイクを購入して乗るということはないだろう。どうせ乗るなら、快音を奏でることにこだわりをもつ同じメーカーのバイクではなく車の方がいいもんで。
生きていく中でこだわりが増えすぎると、自分の自由さがどんどん小さく狭くなっていく。
そのこだわりは、自分が幸せに生きるために作ったもののはずなのに。
いつしか、やっぱり、単に嫌なものを遠ざける怒りや恨みの転化でしかないものになっている気がする。
道徳を守って、自分を犠牲にしてでも人のために尽くし、不安にかられるような危険を感じるものは徹底的に避け…安全に、善良にと必死に生きているのに、どうしてこんなにつまらないのだろう、となるのだとしたら、根本的に何か間違っているんだよね。
危険を避けて安全を目指すのは、悪いことではない。
危険を顧みずに蛮勇を誇って浮かれて慣れないことに飛びついたら命がいくつあっても足りないし、もちろんそんなことをしたいわけではない。当たり前だけれど。
いきなり僕は明日から人生の価値観を180°チェンジして、なんてことは、当然ない。
それでも、自分のなかで毎日生きているだけでエネルギーを消耗し、いつも疲労感が先に立ち、毎日を生き生き楽しく過ごすことにどうしても引っかかりを感じているとしたら、
それは外側のせいではなくて、僕の内側にある。
僕の中でよかれと思って敷いたこだわりが、カセにしかなっていないとしたら、それを外すしかないんだよねと。
それはつまり、自分が「幸せになるために、不幸せでいよう、その方がたとえ惨めだとしても安全だったじゃんか」というそのこだわりを、もう外しましょうよというわけである。
で、どうするの?も何も、なんとなく楽しそう、と思うものに手を伸ばして味わう、今までなんとなくスルーしてきたものを選んでみる、というそれだけのことだなと思うのである。
結局そこにしか答えはないし、長いトンネルから抜けるための道標は、いつもそこにあって、僕が単にそれを脇に押しやって無視してきただけのことなのだ。
人生で自分が楽しいと感じることを選択しようとするのを禁止してきたのは
もはや、親でも世界でもなく、自分でしか、なかったのだ…。
youtu.be