『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA、最相 葉月 (著))



 

 夏場で読書の意欲のないときに、集中的に読んだ。著者の最相氏が全国の教会を訪ね、135人を対象に行なったインタビュー集で、著者は陰に隠れ、各人が一人語りをする文体になっている。読みやすいが、 1096頁の分量の本を読了するのはさすがに大変だった。

 この本の最初のページに、「「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること」と書かれている。この定義に異論はないが、実際にこの本に出てくる「証し」はキリスト教会でいう「証し」よりも広い意味で用いられているようで、信徒の個人史のような記述が多い。「実録キリスト者」「現代キリスト教徒の実像」のような内容になっている。

 カトリック教会では司祭や修道者の召命に関する話や新受洗者の話は読まれることはあるが、「証し」という習慣はあまりない。

 プロテスタントの出版物にあるような「証し」を読みたくて本書を手にした人には期待外れとなると思う。好みもあると思うが、共感したり役に立ったりした「証し」は全体の4分の1くらいだった。

 著者の最相氏は、『福音宣教』誌(2023年5月)のインタビューで、執筆動機について「二一世紀初頭の日本のクリスチャンのありのままの姿なんだということを知っていただく」ためだと語っている。神への賛美や感謝とは関係ない(つまり、「証し」とは言えない)話が出てくるのは、そのような事情からなのだろう。

 さらに、次のように語る。「教会の「証し集」というものはそれほど面白いものではないわけです。それはやはりパターン化された教会用語でしゃべっていらっしゃるからなんですけれども、それでは世の中に売る本としては成立しない。「感謝」「恵み」「奇跡」「聖霊に満たされた」と語る時、「それはどういうことか」ということを、別のことばで分かるように言い直して、変換していただくということは、何度も何度もこの本の取材で繰り返しやったと思います」

 

 つまり、当然のことながら、この本は、一般向けに販売するためのものであって、キリスト教を宣伝するために出版されたものではない。それゆえ編集方針からして、教会の「証し集」とは違う。教会や信仰内容に対して毒を吐く人物の不平や不満が収められているのも、一般読者へのサービスなのだろう。

 しかし、そんな薄められたような「証言」を人は読みたいのだろうか。
 例えば、仏教徒の「証し集」を読むときに期待するのは、「年に1、2回、お墓参りに行っていますし、毎朝仏壇には手を合わせています。あ、般若心経くらいは唱えられますよ」などという程度の自称信者の話ではないし、お寺や教団への度を越した不満話でもない。

 それより、仏道修行の意義、悟りとは何か、仏教徒として何を思って生きているのか等々、そういう話こそ期待するのではないだろうか。生きた仏教を信徒の証言によって知りたいと思うのではないか。少なくとも私は、現代日本の仏教徒たちの「ありのままの姿」には関心はない。

 その際、仏教用語を使ってもらっても一向にかまわない。彼らの特別な信仰体験が一般用語の中に埋没してしまうことを恐れるし、日常用語で説明できないからこそ、専門用語ができたのだから、読み手こそ、それを尊重すべきだと思う。わからないのならネットで調べればいい(編集上の工夫としては「注」を付ければいい)。

 そもそも、霊的な世界の体験を「別のことばで分かるように言い直す」ことなどできないのではないか。「聖霊に満たされた」ことをどうやって非信者の日本人に分かりやすく言い直すことができるのだろうか。


 また、本書はこれだけの大著でありながら、教派の偏りが大きい。救世軍や正教会の記事は、日本人キリスト教徒の比率から考えるとかなり多いと思われる。正教会の神父様方の記事は面白かったし、救世軍のことはほとんど知らなかったので不満ではないが、バランスが悪いのは否めない。

 反対に、日本キリスト教団の東京神学大学関係の牧師や信徒の話はほとんどなかったようだし(わずかに触れられている記事もある)、改革派系の教会も扱われていないようだ。プロテスタントではメインラインだと思うので、彼らの信仰が扱われていないのは物足りなかった。これはかなりのマイナスだと思う。

 カトリックについて言えば、個人的に「まさしく我々の信仰だなあ」と感じたものは多くなかった。教会外の人はどう思うのだろう。それらは「証し」になっているのだろうか。

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 しかし、それでもページ数にしては3180円は安いと思うし、良い記事も少なくないので読み進めたのだが、終わりに近づくにあたり、本書に対する不満が限界点を超えてしまった。

 本書には若干長めの「あとがき」がある。そこに本文で「証し」が掲載されている無教会の伝道者・荒井克浩氏がふたたび登場する。

 彼は言う、「神は天上に鎮座している方ではなく、じつに初めから人と共に地におられる存在でした。それを天上のものとしてしまったのは、贖罪信仰をはじめとする人間が作り上げた信仰です。人間は処女受胎を作り、イエスを神格化し、三日後の輝く復活を作り、栄光の神を作り上げました、作り上げた神を偶像として信じるに至ったのです。それがおそらく現在のキリスト教の概要でしょう」(1084-1085頁)と。

 人が自分の信仰に煩悶してその理解を深めようとするのは自由だが、キリスト教の基準である「使徒信条」と大きく反する荒井氏の解釈は、キリスト教系の思想ではあっても、もはやキリスト教とは言えないだろう。「使徒信条」でなくとも、各教派の信仰理解とも異なるものだろう。残りあと数ページでこの文章に出くわした時、大きな脱力感を感じることになった。

 また、著者の最相氏がこの荒井氏の理解に共感し、さらに大きく踏み込んで、自身の復活理解を披露しているのもどうかと思う。

 最相氏は、マルコ福音書の末尾の復活記事(16:9-19)が最古の写本(4世紀のシナイ写本やバチカン写本)にはなく、5世紀の写本になって出てくることを取り上げ、このことをもって、復活は嘘だ、創作だ、ファンタジーだとみなすのは簡単である」(1086頁)などと書く。

 

 「そんな馬鹿な」と驚いた人も多いはずだ。これらの最古の写本には、マタイやルカ福音書もあり、そこにはマルコより詳しい復活の記事が書かれている。マルコの末尾に、それまで知られていなかった復活の話が突然加筆されたわけではない。他の福音書には書かれているので、マルコにも書き加えたということだろう(だろう、というのは、加筆した人の心理は知る術がないから。マルコの原文が「なぜなら」(ガル)で終わっているので、補足したかったのかもしれない)

 

 あえて主張するまでもないが、教会はマルコ福音書しか読まなかったわけではないし、他の福音書や使徒言行録、パウロ書簡、また使徒教父や初期の教父たちの書いた文書によって(あるいは宣教や司牧そのものによって)キリストの復活を知っていたし、信じていたのである。

 最相氏は、誤解したまま、話を続ける。「ではなぜ、後世のキリスト者は三日目の復活を加筆したのか問うてみたい。そして、復活を信じるキリスト教が、なぜ世界を席巻したのかということも。」(1087頁)と。繰り返しになるが、確かに「後世のキリスト者」はマルコ福音書の末尾に、他の文書で知った復活の記事を加えたのだが、これは写本上の問題であって、それ以前にもキリスト者は、「三日目の復活」を信仰の柱として信じていたのである。


 そして「日本のキリスト者たちの声は、この問いを考えるための手がかりを与えてくれるだろう」(同頁)と結んでいるが、残念ながらその「問い」の前提が間違っているので、意味ある実りがあるとは思えない。

 復活信仰の成立の問題と写本の問題を混同しているのは少々お粗末だし、これが著者のキリスト教理解だとすれば、「構想10年、取材6年」と言っても、本書の方向性や内容は推して知るべし、と言えるだろう。本文を読む前に「あとがき」をきちんと読むべきだった。

 もちろん、中には素晴らしい「証し」も少なくないし、「取り上げてもらったことをありがたく受け取るべきだ」という意見もあるかもしれないが、やはり「証し」は書いてもらうものではなく、自らの実存をかけて自分でするものだという思いを強くした。

 これからも、それぞれの教派・教会で信仰者が神の恵みの体験と賛美を自分の生の言葉で書き続けていくだろう。そのような「証し」が以前にもましてなされることを望みたい。キリスト教徒は日本ではマイノリティーであるからこそ、信仰に立脚した真実の言葉が必要なのだと思う。たとえ面白くなくても。