こんにちは、なむら(@michipokomichi)です。

 

今回はミチが小3になったということで、まとめ的な内容です。過去のブログと重なるところがあるかと思います。また、とっても長くなってしまったのでお暇なときにでも読んでもらえたら幸いです。

あと、つらい渦中にいる方は読んでいて気分が悪くなってしまうかもしれませんので、自衛をお願いします。

 

 

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息子とは2歳半〜3歳半すぎの1年2ヶ月ほど離れて暮らしておりました。その間息子には児童養護施設に入所してもらっていました。その時のことを書こうと思います。

 

なぜ入所することになったかと言うと、第1にお金がなかったからです。そのとき私は職場で自殺未遂をして救急車を呼ぶことになり、職場に迷惑をかけたという理由で懲戒免職になっていました。

2か月入院し、半ば逃げるように退院したものの絶不調でした。1日1日生きるのが精一杯で、育児などできませんでした。そのため、諭吉が時短勤務をして送り迎えから息子の世話全てをしていました。時短勤務の影響で収入が減ってしまったのです。貯金に手をつけていましたが、底が見えてきて私たち夫婦は焦っていました。 しかし義実家は介護問題を抱えており、私の実家は実母との仲が悪く、頼れるところがありませんでした。

 

子どもがいなければ…何度思ったでしょうか。最低な母親です。Twitterで乳児院という施設があるということは知っていたので、そこに入れないかなと思っていました。 その頃私は住んでる市の家庭支援センターと繋がってました。家庭支援センターの方に全ての事情を話して、家庭訪問をしてもらっていたのです。その担当さんに悩みを話してみることにしました。

すると当時息子は2歳すぎ。乳児院は2歳までということを知りました。2歳を過ぎると児童養護施設になるそうです。そして管轄も家庭支援センターではなくて、児童相談所になると聞きました。児童養護施設に児童相談所、なんだか聞いただけで怖くなります。しかし生きるためには必要だよなと思い、家庭支援センターの担当さんに児童相談所につなげて欲しいと連絡しました。

 

初めて児童相談所に行った時は緊張しました。諭吉と2人で行きました。家庭支援センターの担当さんも同伴してくれました。正直、記憶が曖昧です。 受付で約束してることを話し、待合室で待ちます。病院の待合室のような作りでした。しばらくすると担当の方が2人来ました。 相談室に入り、私と諭吉から聞き取りが始まりました。家庭支援センターから話は聞いているようで、状態の確認のような感じでした。私はあまり話せなくて、主に諭吉が返事をしていました。

私と諭吉の意見は一致しており、息子を児童養護施設に入れたいということに間違いないと確認すると、児童相談所の担当さんは「分かりました。それでは手続きをすすめますね。」と言ってその場は終わりました。

児童相談所とのやりとりは主に諭吉がしていました。ここは良かったなと思います。やはり男親が動くのは大きいです。

 

しばらくして児童相談所から施設決定の連絡が入りました。在住市では空きがなく、隣の市の施設に入所となりました。車で1時間ほどの距離でした。 決まってからは早くて、「では◯月◯日に入所になります。洋服などの着替えと、おもちゃは2つ持っていっていいそうです」と言われました。保育園にも事情を話して退園の手続きをしました。保育園は元から私が入院していたことも話してあったので、凄く親身になってもらっていました。


保育園を退園する日、今までの製作のまとめをいただきました。そして先生たちが見送ってくれました。担任の先生は「ミチくん、がんばるんだよ」と声をかけてくれました。なにもわからない息子はニコニコ笑っていました。園庭を走って入り口に向かう息子を見て、涙が溢れました。あぁ、本当に保育園最後の日なんだと思いました。

 

次の日、朝から施設に向かいました。 住宅地の中にある静かな場所でした。重い門を開けると、広い空間が待っていました。数台停めれる駐車場があり、左手にホールのような建物。右手側には子どもたちがいそうな建物がありました。 待合室に通されると、たくさんの人がいました。10人くらいいたでしょうか。ミチはその時点で異変を感じ、私の影にずっと隠れていました。

その場にいたのは、ミチの担当になってくれる先生、心理士さん、栄養士さん、などでした。どんな遊びが好きか、好きなキャラクターはあるか、食べ物は何が好きか、アレルギーはないか、それぞれ専門の先生から質問をされました。少しその場に慣れた頃、担当の先生と諭吉とミチは席を外しました。後から分かりましたがそれが別れでした。

施設には、未就学児寮、小学生以上の男女寮、全部で3つあると説明を受けました。仏教系の施設だからか、それらしい理念のお話を聞きました。正直私の頭には入ってませんでした。覚えているのはミチの名前の由来を聞かれたことです。 そして、「じゃあ、これで…」となるまで、私はもうミチにはさよならも言えないことに気がつきました。

 

元気にしててね、また会いに来るからね、せめて一言声をかけたかったです。でもそんなことをしたらミチは私のところに来てしまいます。 玄関に行くと、諭吉が待っていました。施設の先生に「また児童相談所から連絡があると思いますのでお待ちください」と言われました。

 

帰りの車の中で、私は涙を抑えることができませんでした。最後ではないけど、最後に抱きしめたかった。声をかけたかった。

あの時聞いたラジオは今でも覚えています。

 

児童相談所から連絡が来たのは2週間ほど経った頃でした。最初の面談は施設の意向で2ヶ月後となりました。(面談の頻度と回数は各施設で違うようです) 回数は月2回。最初は2時間からでした。

 

初めての面談の日、緊張していたのを覚えています。ミチは私たちのことを覚えているだろうか。忘れてしまってないだろうか。 待合室で待っている時、震えが止まりませんでした。そこへ、先生に連れられて、ミチがやってきました。 ミチはぼーっとした表情をしていました。私たちがいるのに気がつくとなんとも言えない表情をしました。そして先生の手を離して、そっと私のところへやってきました。私は強く抱きしめました。2ヶ月ぶりでした。 何を話したか覚えていません。ただ、ミチに会えたのが嬉しくて胸がいっぱいでした。時間が来ると先生が迎えに来ました。ミチはぐずることもなく、大人しくしていました。私はミチの手を握り、「また会いに来るからね」と言いました。

 

午前中2時間だけの面会が何回かあると,次のステップです。

今度は午前中からお昼ご飯を一緒に食べるまでの4時間になりました。それも何回かすると午前中から夕方までになりました。どこに行ってもいいと言うことなので、施設の最寄りから数駅の大きな繁華街に行ってみたり、自宅で遊んだりしました。 

その次がとうとう外泊面会です。それも朝10時から翌日10時まででした。それを何回かして今度はお昼後まで、次は夕方までと時間が長くなりました。

自宅で過ごすことが増えるようになって、どんな遊びをしたらいいんだろう?どんな食事を用意したらいいんだろう?そんな悩みにも施設の先生は親身になって対応してくれました。3食3日分の食事を写真を撮ってレポート作ってくれたりしました。量もわからなかったのでとても参考になりました。

会いに行くとミチが笑顔になるのが増えて嬉しかったです。少しずつミチも帰り際にワガママを言うことも増えてきました。「(寮に)帰りたくないなー」と言うようにもなりました。

 

そんな頃、家庭復帰を考えるようになりました。ちょうど来年度の保育園申し込みが始まる頃でした。3歳児、募集枠も増えるところです。幼稚園は預かってくれる時間が短いため、保育園の利用が必須でした。このチャンスを逃したら、小学生まで無理かもしれない。そんな焦りから私は行動に出ます。

市役所の子ども課に行って、事情を説明しました。市役所側からすると「来年度の4月に家庭復帰するのならば申し込みは可能」と言うことでした。(住民票も移動させていたため)慌てて施設に電話をします。すると先生もびっくりした様子で、「それを決めるのは児童相談所なので、そちらに確認取らないと」と言われました。それを諭吉に話して、諭吉から児童相談所に連絡してもらいました。


まもなく何回目かの児童相談所、施設側との面談が決まりました。 そこで来年度4月の家庭復帰への意思は固いこと、夫婦の意見は一致していることの確認がされました。 そうなると児童相談所からは、【私が一人で育児ができるか】の練習をしましょうと言う提案をされました。 具体的には、金曜日の午後にお迎えに行ってワンオペで寝かしつけをする。そして土日を過ごして日曜日の夕方に施設に戻る、という外泊面会をしようということでした。 私は車の運転ができません。そのため電車で移動することになります。ミチと2人で電車なんて、ベビーカーに乗っていた頃、隣駅に買い物に行くくらいでした。その頃のミチはもう3歳、ベビーカーに乗ってくれるわけないし、そもそも空のベビーカーを1人で電車に乗って施設に持って行くなんて、そんな強いメンタルはありませんでした。

そのため、まずは2人で電車に乗る練習から始まりました。面会とは別に、2人で電車に乗ってお出かけすることになりました。2時間程度だったかと思います。

「やれますか?」と児童相談所の担当さんに聞かれて、「やります」としか返事は出来ませんでした。

 

事前にイメトレするために実際乗る電車に乗り、駅を降りて周りに何があるかなど確認して臨みました。 その日は緊張して緊張して眠れなかったのを覚えています。4月まで時間がなかったので2回ほどで練習は終わりました。

それからは金曜日のワンオペが始まりました。その頃は金曜日になると緊張するとTwitterに呟いていたので、フォロワーさんに「金曜日が来たなって思う」と言われていました。笑。

 

肝心の保育園は通えることになってました。見事当選したのです(この表現でいいのかな)。しかも以前通っていた園です。色々事情を理解してくれてるところです。説明会も配慮してもらい、1番最後に他に誰もいない状態で園長先生と副園長先生と面談しました。今4月に向けて毎週外泊面会をしていることなどを話しました。

 

しかし結果、交流は不十分で4月に家庭復帰にはなりませんでした。 もう少し回数をこなしましょうと言うことになりました。ミチは施設から近い、他の子たちも通ってる幼稚園に入園しました。入園式には参列したのですが、制服を着てるミチを見て「ほんとに大きくなったな」と実感しました。

4月も以前と同じスケジュールで、金曜になったらお迎えに行き、日曜日に戻るを繰り返しました。そして児童相談所との面談です。 5月の大型連休、それをクリアできるかどうかで家庭復帰を判断すると言われました。その年のゴールデンウィークは9連休でした。正直どんなことをして過ごしたとか覚えていません。それだけ必死でした。

 

連休明け、早速児童相談所と面談です。結果はまだ未定、でした。ひどくガッカリしたのを覚えています。施設の先生からは「どうしてもお役所仕事だから確定しないとなにも話してくれないんですよね」と言われました。外泊面会を続けながら、6月に家庭復帰できるんだろうかと不安ばかりが募りました。

 

そして5月下旬、児童相談所から電話が来ました。

6月に家庭復帰決定のお知らせでした。

「きまったー」そう思いました。

約1年の出来事でした。長かった、でもあっという間でした。

そこからは駆け足で準備をして、お迎えの日がやってきました。

 

お迎えの日、ミチはいつもと同じ笑顔でやってきました。たくさんの荷物を持ってきました。施設で過ごしたアルバム、2か月しか通ってない幼稚園での制作。おこづかいで買っていたおもちゃ、洋服。

そして、同じ寮の子たちや先生が見送りに来てくれました。

ミチは笑顔で「ばいばーい」と手を振っていました。みんな「元気でね」「お母さん、無理しないでね」と声をかけてくれました。

 

大勢での見送りは外泊でもなかったのでミチは不思議に思っていたと思います。私はミチの隣で手をつなぎ、「戻ってきたんだな」と噛みしめたのを覚えています。しばらくしてミチが「もうずっとずっとおとまり?」と聞いてきたのは覚えています。「そうだよ」と答えて、喜んでいたミチの姿は忘れません。



家について荷物の整理をして、それからどうしたかもう記憶にありません。月曜からは保育園です。水曜は諭吉が定時で帰って来ますが(と言っても帰宅は19時)、それ以外はワンオペでした。

今思うとよくやったなと思います。むしろここで無理をしてしまったなと後悔もあります。でも当時は「やりたかった」し、「やれる」と思っていたのです。(「やるしかない」が正しいかもしれませんが。)


1年半全力疾走して潰れたものは2ヶ月の入院では復活しないし、また1年騙し騙し過ごして来た日々は1年では回復しないのです。そしてまた4年ギリギリ頑張って凌いだ心身は1年半じゃ大して回復しないんですよね。視界が狭くなっていた私には分かりませんでした。正常な判断ができなかったのです。

 

結果論として、今現在離婚して別居していますのであの時の判断は間違っていたのかもしれません。小学校入学まで施設に預けていた方が良かったのかもしれません。でもそれもやっぱり結果論だよなとも思ってしまいます。きっとそう思いたいのです。あの時の自分の判断は間違ってなかった。そう思いたいのです。

でもそう発言することによって、いろんな理由で離婚したご夫婦やご家庭を否定することになります。そうではないです。各夫婦、各家庭によって形は違います。それを否定したくはありません。それぞれいろんな思いが交わり、判断・決断しています。それを私は尊重したいし、大事にしたいです。自分がそうしてもらいたいから。

 

これから先、きっと色んな壁にぶつかります。

妊娠前と同じように、想像して対策しても、現実はそれを上回ることもあるでしょう。

 

それでも「私はミチの母親だから」

 

どんなことがあっても、その気持ちだけは忘れずに生きていきたいと思っています。

いつかまた、家族3人で過ごせる日が来るように、全力を尽くしたいです。くれぐれも焦らず、ゆっくりと、今度こそは確実に。

 

 

 

 


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