明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

魔女狩りはなぜ近世ヨーロッパで最盛期を迎えたのか?池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』

 

 

魔女狩りという言葉は、しばしば「中世ヨーロッパ」とセットで用いられる。魔女狩りなどするのは迷信深い中世人だろう、という先入観があるのだろうか。だが『魔女狩りヨーロッパ史』によると、魔女狩りがピークを迎えた時期は1580~90年前後、1610~30年前後で、いずれも近世になる。15世紀以前にも魔女狩りは行われているが、個人に対する裁判が中心で、大規模な迫害はなかった。

 

近世もまだまだ宗教の時代であるとはいえ、中世ほど魔女狩りにふさわしい時代ではないように思える。ルネサンスを経て科学技術も進歩し、迷信も少しは薄れた印象のある近世ヨーロッパで、なぜ大規模な魔女狩りがおこなわれたのか。『魔女狩りヨーロッパ史』の第7章を読むと、むしろ近世だからこそこの悲劇が起きてしまったことがわかる。

 

この本の第7章『「狂乱」はなぜ生じたのか』を読むとまず見えてくるのは、近世ヨーロッパにおける農村の劇的な変化だ。新大陸が「発見」され、ここから多くの金銀や産物が流入したことで、いわゆる価格革命が起きる。これによりもたらされた経済変動で農村の貧富の差が拡大し、困窮する農民が多数出現し、古くからの農村共同体は解体してしまった。

こうして農村の雰囲気が悪化していたところに、宗教改革による宗派対立が拍車をかける。しかも1560年以降は「小氷期」にあたるほどの厳しい冬が何度も訪れ、深刻な冷害が農村を襲った。こうした苦境のもと、共同体での助け合いもなく、隣人同士のいさかいが絶えないぎりぎりの状況が続き、いつ鬱積した村人たちの不満が爆発してもおかしくなかった。

 

こうした不満の矛先が「魔女」に向けられるのにも、近世特有の事情がある。『魔女狩りヨーロッパ史』7章で指摘される事情は、農村の「文化変容」だ。宗教改革イデオロギーに影響を受けた都市エリートたちは、その理念を広めるため農村に送りこまれる。彼らのめざした「文化変容」とは、カトリックプロテスタントそれぞれが理想とする秩序をつくりあげるため、農村から迷信や異教的要素を排除することだった。彼らの影響を受けた農村の指導者層も「文化変容」の担い手となり、田舎の習俗をきびしく監視した。

 

農村に入り込んだ都市エリートたちは司法官や教会関係者で、彼らは異教的呪術をさかんに攻撃し、悪魔化した。農村の民間伝統だった呪術や占いが蔑まれてゆくなか、かつて「賢女」とよばれていた産婆や呪術使い女・女性の治癒師なども「魔女」とされ、排除の対象になっていく。ここにおいて、農村にため込まれたストレスが魔女へ向けられる条件が整った。貧富の格差に苦しみ、さまざまな災厄に見舞われた民衆は、魔女をスケープゴートに仕立て、責任を転嫁した。「文化変容」をもたらしたのは都市エリートや農村指導者など「意識の高い人びと」だったが、彼らの影響を受けた民衆もまた、呪術的世界観の中に生きている互いを監視し、魔女を告発したのだった。

 

農村の「文化変容」の担い手たちは、異教的要素を排撃し、この世に清浄な社会秩序を打ち立てることをめざしていた。当人たちは進歩的で理性的なつもりだったのかもしれない。だが社会のエリートである彼らも、魔女や悪魔の存在は信じていた。18世紀になり、エリートの間に合理主義が生まれると、魔女狩りは急速に減っていく。合理主義が一般の人々の間にも広まると、魔女狩りを推進したエリートたちも、田舎の迷信や呪術と同じように不合理な存在とみなされるようになった。こうして、魔女狩りは終焉を迎える。

 

合理主義が非合理な魔女狩りを駆逐した、というのは非常にわかりやすいストーリーではあるが、理性がいつでも人間社会をよい方向へ導いてくれるわけではない。近世人よりはるかに合理的なはずの現代人も、さまざまな蛮行に手を染める。いや、むしろ理性を持っているからこそ、人は一見非合理な行動を正当化できるのかもしれない。この理性というものの一筋縄ではいかない性質について、『魔女狩りヨーロッパ史』著者の池上俊一氏は以下のように簡潔にまとめている。

合理的・機械論的宇宙観や理性尊重の懐疑主義が、そのまま人間の不条理な行動を抑制するわけではない。むしろ理性という認識の機械装置の根源的動力因は、人間の内部に潜む非合理な衝動なのであり、合理と非合理がたやすく入れ替わることは、二十世紀の次なる蛮行──ナチス・ドイツを見れば明らかだろう。(p216)

なぜ秋田県では高齢女性(ババ)がヘラでアイスを盛るのか?杉山彰『ババヘラ伝説』

 

 

春先になると、秋田では公道沿いにビーチパラソルが立ち並ぶ。カラフルな傘の下では、売り子が金属のヘラでコーンにアイスを盛り付ける。秋田の夏の風物詩として知られるこの路上アイスは、おもに中高年女性が販売していることから、いつのまにか「ババヘラ」の愛称がついた。この独特の語感、とぼけているのに妙なキレのある絶妙なネーミングは、一度耳にすると不思議と忘れられない。

 

しかしこれは高齢者に失礼な呼び名でもあるため、あまり大っぴらに言っていいものでもなく、NHKでは「ヘラアイス」の名で紹介された時期もある。2002年には「ババヘラ・アイス」が商標登録されたこともあり、ようやくこの独特な呼称は市民権を得ることになった。このころ、ロッテから「ババヘラ味のガム」が発売される可能性があり、急遽商標登録する必要に迫られたためだ。

 

ところで、なぜババヘラアイスは高齢の女性が売っているのだろうか。「ババヘラ」がそう名付けられるに至った背景事情が、杉山彰『ババヘラ伝説』には記されている。

ババヘラの売り子である女性たちの平均年齢、どのくらいか知っていますか。70才を超しているのです。85才の売り子の方もいるということです。路上アイス売りは全国にいるにしても、この年代の女性ががんばっているのは、秋田だけでしょう。最近は40代から50代の「若手」もずいぶん増えてはいるのですが、主流はやはり高齢者です。それでこそ、ババヘラという卓抜したネーミングも生まれたわけです。

勤続30年という女性もいるのですから、売り子たちも最初から70才だったわけではありません。しかし、70才から30年を引いてもわかるように、最初から若い娘だった、というわけでもありません。

最初は、農家の主婦の農閑期のパートだったのです。農家の主婦は、過酷な自然条件や労働条件に耐える能力を備えていて、さらに農繁期を除けば、雇用が容易だったために、うってつけだったのです。(p41)

 

 

ババヘラアイスの普及には、農業県独特の労働事情がかかわっていたことになる。こうして雇用された農家の女性たちにとり、ババヘラ販売はいい気分転換になっているようだ。あんばいこうババヘラの研究』には、こんな売り子たちの声が紹介されている。

「山菜の季節は十和田湖、桜の季節は角館、県内の行楽地のあっちこっちに行けるのも楽しいな」

「田んぼと家の中だけでない、別の世界を見せてもらって、うれしい」

「家にばっかしいると身体の具合悪くなる。外でいろんな人と話ができるから、みんな、この仕事好きなのよ」

農業とはちがい、ババヘラ販売にはさまざまな土地へ移動できる楽しみがある。この楽しみを奪わないため、業者は売り子をワゴン車で配置場所へ移動させるとき、どこに降ろすかは告げないルールがあるそうだ。この事実を、「農業をやっている人も時には狩猟民だった頃のDNAに突き動かされ、あちこちの土地をさすらいたくなるのだろう……」などと解釈するのは考えすぎだろうか。

織田信長はいつから「革命児」扱いになったのか

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呉座勇一さんが信長評の変遷について語っている。この動画はかなりよくまとまっていて、動画の後半(1:10~あたり)では信長の「革新性」は本当かを検証しているので、信長の実像を知りたい人には参考になりそうだ。今回興味を惹かれたのは前半だったので、動画の内容を追いつつ、時代ごとの信長評について見ていきたい。

 

江戸時代の知識人のあいだでは、信長の評判はよくなかった。彼らは信長の能力は認めつつも、倫理面で大いに問題があったとしている。小瀬甫庵は「武道のみで文をおろそかにした、家臣に対し酷薄だった」、新井白石は「天性残忍」と信長を評する。さらに白石は、足利義昭を追放した信長を「不忠」と批判する。儒教道徳が浸透し、君臣間の秩序が定まった江戸時代では、主君に逆らったものを評価するわけにはいかない。天皇の権威の高まった幕末には、頼山陽のように信長は「勤王家(=朝廷に献金していたから)偉い」と評価する人物も出てくるが、この「勤王家信長」のイメージは明治時代にも引きつがれる。

 

 

明治に入っても、信長はそれほど人気者ではなかった。動画で紹介されている明治42年の「世界英雄番付」では、信長は前頭六枚目にすぎず、北条時宗伊達政宗より評価が低い。なお横綱は秀吉で、圧倒的人気を誇っている。こうした信長評をくつがえし、はじめて彼の革新性を論じたのが徳富蘇峰『近世日本国民史』だ。徳富蘇峰はまず信長を、身分家柄を問わず人材を抜擢した「平民主義の実行者」と称賛する。さらに、蘇峰は信長が明へ侵攻する計画をもっていたとして、彼を「無意識の帝国主義者」と持ち上げる。この信長像には、当時大陸に矛先を向けていた明治国家が重ね合わされている。蘇峰からすれば、信長は島国根性を打破し、海外へ雄飛しようとしたスケールの大きな政治家であり、この流れを止めてしまったのが徳川氏の鎖国政策だ、ということになる。

 

帝国主義とは別の側面から信長を高く評価した人物もいる。歴史学者の田中義成は、1924年に刊行された『織田時代史』において、信長が旧体制を破壊し、かつ新体制を打ち立てたことを「革命的進歩」と論じた。田中は鉄砲隊の組織や鉄張りの船を建造したことなど、信長の戦術・兵制改革を評価しているが、このあたりは現代の信長評にも通じるところがある。また、田中は頼山陽と同じく、信長を勤王家と位置づけた。信長が足利義昭を追放したのち、天皇を擁して天下に号令したことは「一大革新」だというのだが、現代人の立場からするとなぜこれが「革新」なのか、今ひとつわかりにくいところはある。将軍が中心だった徳川時代より、王政復古を実現した明治のほうが「新しい」という話だろうか。

 

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そして戦後になり、「勤王家」という理由で信長が評価されることはなくなる。だが、「革新者」としての信長像は残る。このイメージを拡散させるのに貢献したのが、司馬遼太郎国盗り物語』になる。1966年に刊行されたこの作品において、司馬は信長を「この人物を動かしているものは、単なる権力欲や領土欲ではなく、中世的な混沌を打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な欲望であった」と評した。『国盗り物語』は1970年代後半には文庫化され、多くのサラリーマンの愛読書になった。この頃盛り上がっていた大衆歴史ブームに乗り、司馬作品の信長像は多くの読者に刻みこまれ、「勤王なき革新者」としてのイメージを定着させていった。

 

 

動画中では語られていないが、戦後の歴史研究者にも信長の革新性を指摘する人は多い。たとえば小和田哲夫『集中講義織田信長』には、変革者としての信長の特徴が一冊にまとめられている。この本に書かれているのは、一向一揆と対決して政教分離をめざし、能力本位の人材登用をおこない、楽市楽座や関所の撤廃で財政を豊かにする……といった、「近代的合理主義者」としての信長像だ。こうした開明的な信長のイメージは、今も根強く存在する。だが、信長研究が進展するにつれ、しだいに信長の革新性を疑問視する流れも出てくる。

 

信長の政略

信長の政略

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2013年に刊行された谷口克広『信長の政略』では、終章で信長の政略を総合的に評価している。この章では、信長が朝廷や室町将軍、仏教など既存の権威を基本的には尊重していたとし、「革命児」などというイメージは彼にそぐわないと指摘する。また、検地が不徹底で中間搾取や重層的土地支配などを認めていた点も、革新的ではないと評価する。この本では信長が関所の廃止や兵農分離をすすめたことなどをもって「保守か革新かと分類するならば、間違いなく革新」としているが、従来の信長評にくらべれば、革新性の強さがやや後退している印象がある。

 

 

信長の「革新性」の例としてよく持ち出されるのが長篠合戦だ。この戦いはしばしば、鉄砲を大量に用いた先進的な織田軍vs騎馬突撃にこだわる旧態依然とした武田軍、という対比で描かれる。だが、武田氏研究の立場からすれば、このような単純な見方はなりたたなくなる。2014年に刊行された平山優『検証長篠合戦』によると、武田氏も鉄砲の重要性は理解していて、信玄の時代からすでに鉄砲衆を編成している。武田氏が鉄砲を軽視したことはないが、織田氏にくらべて鉄砲や弾薬の入手ルートが限られていたため、織田軍の火力に圧倒されてしまったのが長篠合戦の実態のようだ。ここで評価するべきは信長の「戦術革命」ではなく、大量の鉄砲と弾薬を調達できた経済・流通の手腕かもしれない。

 

 

さらに保守的な信長像も出てくる。神田千里『織田信長』では信長が朱印に用いた「天下布武」の「天下」とは日本全国ではなく、五畿内のみを指すと主張している。信長の目的は武力による全国統一ではなく、将軍を補佐し畿内の秩序を回復することにあったというわけだ。この主張が正しければ、信長はむしろ体制の擁護者になる。それならなぜ信長は義昭を追放したのち別の将軍を迎えなかったのか、という疑問は出てくるが、一時期は信長が義昭の権威を確立しようとしていた、という話なら受け入れられないわけではない。最終的には信長は四国攻めを計画するなど、全国統一へ向けて動き出していたように見えるが、その事実と「保守」としての信長像を整合させるのは難しいように思える。

 

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信長の革新性を示す要素として持ち出される「兵農分離」についても、疑問がもたれている。平井上総『兵農分離はあったのか』によると、戦国時代に兵士として動員されるのは正規の武士・奉公人と軍役衆であり、百姓は基本的に戦闘員ではなかった。つまり、「兵農分離」は信長の専売特許ではなかったことになる。事実、第三次川中島の戦いでは四月から九月まで武田軍と上杉軍が対峙している。「織田氏以外の戦国大名は百姓を動員しているから農繁期には戦えない」というわけではない。このように、「革新者」としての信長像は、歴史学の立場から徐々に修正が加えられている。

 

 

といっても、信長が何も新しいことをしていないわけではない。千田嘉博『信長の城』では、小牧山城の城下町において紺屋町や鍛冶屋町など、職業ごとに住居が集中していることを指摘している。小牧山城の同職集住は近世城下町に先立つもので、信長の先進性を示すものといえる。ただし、武家屋敷が小牧山城周辺に分散していたことは、信長に有力家臣を城下へ集中させる権力がなかったことを示している。このため、信長は岐阜城では求心的で階層的な城郭をつくり、家臣に対して圧倒的な上下関係をみせつけることに成功した。中世的な「同輩中の第一人者」から抜けだそうとする姿勢が、岐阜城の城郭構造にも反映されている。このように、城郭考古学の立場からは、信長の「革新性」を示すことができるようだ。そもそも、清州城から小牧山城、そして岐阜城から安土城へと居城を移転したことは、信長の合理性の現れとされてきた。信長の城郭は、彼の新しさの象徴でもある。

 

 

研究者はともかく、歴史作家の描き出す信長像は「革新」寄りになりがちだ。そうでなければ面白みがないし、時代がそんな信長像を求めることもある。『司馬遼太郎の時代』によると、『国盗り物語』がよく読まれた昭和50年代は、高度経済成長が終わり、その先が見通しにくい時代だった。司馬作品に書かれた「革命家」信長は、先行きの不透明な時代を乗りこえ、新秩序を打ち立てる英雄として求められた一面がある。令和の今も先が見えない時代である点は、昭和50年代と変わらない。この時代に求められる信長像はどんなものか。本当のところはわからないが、『麒麟がくる』で描かれた承認欲求の強い信長は、個人的に強く印象に残っている。「信長は世間体を気にしていた」という谷口克広氏の説を取り入れた結果、あの感情の起伏の激しい信長像ができあがったのかもしれない。創作側が歴史研究を積極的にとり入れれば、斬新な人物像も描けるということだろうか。

 

プロテスタンティズムが経済発展に貢献した本当の理由とは?『経済成長の起源 豊かな国、停滞する国、貧しい国』

 

 

「経済成長には文化が重要な影響を与えている」という主張でもっとも有名なものが、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの精神と資本主義の倫理』だ。たしかに16世紀後半から18世紀初頭はオランダ、そして20世紀初頭まではイギリス、それ以降はアメリカと、プロテスタントの多い国が経済をリードしてきた歴史がある。だが、それは本当にプロテスタントが勤勉に働き、「資本主義の精神」がこれらの国に根付いたからなのなのか。『経済成長の起源 豊かな国、停滞する国、貧しい国』によると、プロテスタンティズムが経済成長をもたらした要因は、もっと別のところにあるようだ。

 

この本の第4章では、プロテスタント識字率の高さに着目している。ルターが聖書を読むことの大切さを訴え、新約聖書をドイツ語に翻訳したため、多くの人が聖書を読めるようになった。こうして識字率が高まったことは、経済成長という恩恵をもたらした。ベッカーとウイスマンの研究によると、19世紀のプロイセンではプロテスタントと教育のあいだには強い正の関連性があることが明らかになった。そして、プロテスタントの暮らす地域は経済的に豊かになっていたことも確認された。この研究から、本書では「プロテスタントの優位性は彼らの教育水準の高さによるのだともれなく説明できる」と結論づけている。

 

そして、プロテスタンティズムが経済成長に与えたもうひとつの影響があるという。プロテスタントの国々では宗教改革によりカトリックの力が弱まったため、教会の権威で政権を正当化できなくなった。そこで国王は議会に目を向けた。国王が権力維持のため議会の協力を必要とすればするほど、議員の多くを占める経済エリートの要望を受け入れなくてはならなくなる。財産権の確保やインフラへの投資を望む彼らの意向が政治に反映された結果、社会全体が豊かになる流れができた。

ルービンによれば、これこそ宗教改革後にイングランドやオランダ共和国で経済的な飛躍が始まった理由で、その一方でカトリック国のスペインが、新大陸からの大量の金銀が流入していたにもかかわらず、経済発展におくれをとった理由にほかならない。ハーバード大学の経済学者ダビデカントーニらは、宗教改革後のドイツでも、宗教エリートから世俗エリートへの権力の移行という同様な現象が起きていたことを明らかにしている。プロテスタントが支配的な地域では、大学卒業者がますます公共部門に就職するようになり、建設される建物も宗教施設から行政施設へとシフトしていった。こうした事実は、統治者がますます多くの有能な官僚を獲得したことを示しており、国家において官僚化が進むと同時に、法的な思考も宗教的なものから世俗的なものへと変化していったことを示唆している。宗教法は精神の領域に追いやられ、国家は世俗的な問題に対処するようになっていった。(p146)

ルターやカルヴァンは、経済を発展させるために教えを説いたわけではない。だが、結果としてプロテスタンティズムは複雑な過程をへて、プロテスタントの住む国々を豊かにしている。どんな教えが後世にどう影響を及ぼすか予測などできないのだから、長い目でみれば、経済発展も運や偶然の要素が大きいということになるだろうか。

司馬遼太郎人気を支えた「大衆歴史ブーム」はなぜ生まれたのか?福間良明『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』

 

 

「司馬さんの書かれるものは日本外史とでも呼ぶべき種類の史書ではあるまいか」とは、有吉佐和子の『坂の上の雲』評だ。このように、司馬遼太郎作品はたんなる歴史小説の枠をこえ、一種の教養本として読まれている。司馬作品は物語中にしばしば「余談」がさしはさまれ、そこでは司馬の政治や軍事、世論などへの見解が自在に語られる。こうした特徴は吉川英治山岡荘八といった、それまでの歴史作家の作品にはないもので、読者の歴史への知的関心をかきたてるものだった。なぜ司馬の「歴史教養本」は時代に求められたのか。『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』によれば、司馬作品の人気を支えていたのは、昭和50年代に起きた「大衆歴史ブーム」だという。

 

昭和50年代に司馬作品を愛読していたのはおもに中年男性だが、かれらは教養主義が盛んだった時代に若き日を過ごしている。1950年代にもっとも盛んになった教養主義は学歴エリートだけでなく、進学できなかったため人文知への憧れをもつ勤労青年をも広く巻き込むものだった。かれらは文学や思想、歴史など実利を超越した学問にふれ、純粋に教養と向き合った。そうした青年たちがやがて中年になり、しだいに哲学や文学への関心が薄れゆくなか、残ったのが歴史への関心なのだという。

 

抽象的な思想・哲学・文学は、理解し、味読するのに時間的・精神的な忍耐を必要とする。体力や時間に恵まれた若いころに比べ、中年ともなると、現場実務のみならず管理業務が重なり、精神的な負荷は大きくなる。休日も家族や親族と過ごすことが多いだけに、難解な人文書と向き合うことは容易ではない。「生」「真実」といった青春期特有の問題関心も、日常生活で苦労を重ね、人生の見通しが定まってくるなかで、薄れてくるのは避け難かった。

それに比べれば、「歴史」は、手を出しやすい教養だった。たしかに、アカデミックな歴史学では、古文書を読みこなし、地道に史料批判を重ねる作業が求められる。だが、歴史読み物に触れるだけであれば、そのような手間をかけることなく、時代の流れや歴史人物の思考(と思われるもの)を味読できる。(p170)

 

日々の仕事に追われ、人文知を学ぶ余裕のなくなった人々にも、教養志向の名残りはある。こうした人々の需要にこたえるのが、歴史だった。1970年代半ば以降は『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『峠』など司馬の主要作品が文庫化されていたため、通勤時間中に読むことができた。しかも司馬作品の「余談」は細切れに味わうことができ、新書よりも手軽で、通勤電車のなかで読むサラリーマンにも負担にならなかった。教養主義を通過した人々にとって、司馬作品は「携帯可能な大河ドラマ」であると同時に、著者の歴史的知見を吸収できる魅力的な書物だった。

 

応仁の乱』や『観応の擾乱』などの硬い歴史本がベストセラーになる昨今も、ある意味「大衆歴史ブーム」が続いているといえなくもない。ただ、これらの本はプロの歴史研究者の手になるものだ。SNSが発達し、細かく歴史的事実が検証される現代では、実証史学の精確さが求められるのだろうか。SNS上では、司馬作品の史実としての不正確さへの批判を時おり見かけることがある。歴史研究者もアマチュアも、これらの批判に加わっている。司馬遼太郎が現代に生きていたら、作家としては大きな存在感を示すだろうが、歴史家であり続けることはむずかしいのかもしれない。

「古代文明は都市と遊牧民の交易から生まれた」という観点が面白かった第一回『3か月でマスターする世界史』

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NHKEテレ『3か月でマスターする世界史』が先日スタートした。番組冒頭から岡本隆司氏が佐藤あゆみアナに「コロンブスと聞くと何を思い浮かべますか」と問いかけ、佐藤アナが「新大陸の発見です」と答えると、「新大陸の発見という視点は、ヨーロッパという特殊な地域から見たものです」と指摘する一幕があった。「世界史をアジアの視点からとらえ直す」という番組の軸がここで示された形になる。

 

第一回は、古代文明の誕生と遊牧民との関りについて見ていく回。とかく大河とのかかわりが強調されがちな古代文明について、この視点は新しい。古代の都市は農耕地域と遊牧地域の境界に生まれているが、これは両者が交易をおこなっているからで、交易の拠点として都市が生まれる。商業が活発になると貧富の差が拡大するため、富める者は富を外敵から守るため都市を城壁で囲む。遊牧民も外敵になるため、強固な城壁が必要になる……といった内容だった。中国については、古代都市と遊牧民の関係性は『紫禁城の栄光』で明確に描きだされている。

 

 

それではどうしてシナの古代都市は、みなモンゴル、山西の高原と北シナの平野部の接点に多く発生したのだろうか。この謎を解くカギは、モンゴル高原遊牧民族と、北シナの平野部の農耕民族とのあいだの貿易関係にある。遊牧民は家畜の皮を着、ミルクやヨーグルトを飲み、バターやチーズを食べ、羊毛をかためてつくったフェルトのテントに住む。これは一見まったくの自給自足経済のようであるが、人体の維持に絶対必要な炭水化物、つまり穀物は農耕民族から買い入れなければならない。そこで歴史時代以前から、高原の遊牧民たちはキャラヴァンを組織しては北シナの平野に降りていって、そこの農耕民と貿易をしなければならなかった。そうした取引場、定期地位は当然農耕地帯のへりにある。北京、邯鄲、安陽、洛陽、西安、咸陽あたりでひらかれたわけで、ここには農耕地帯の奥地からも多くの人びとが交易のためにあつまってきて、やがて定期市は常設の市場となり、そのまわりに集落が発達しはじめた。これが北シナの古代都市の発生である。(p22)

 

これと同様の関係性が、シュメール諸国とセム系の遊牧民族のあいだにも見出せる。ウルではラピスラズリを用いた財宝が出土しているが、これはバダフシャーンで採れたものだ。アフガニスタンとウルを結びつけたのは遊牧民で、他にもメソポタミアで不足している木材や金属をもたらしたものは遊牧民だと考えられる。メソポタミアは大麦の収穫倍率が20~80倍になるほど農耕に適していたが、それでも文明が発達するには遊牧民との交易が欠かせなかった。このように各地の古代文明に共通項を見つけていくのが第一回の特徴だった。他にもメソポタミアにおいて、アッシリアの過酷な支配が失敗したのちアケメネス朝の寛容な統治が長続きしたことが、中国における秦と漢の関係と相似形であることも語られていた。

 

広大な領域国家の誕生にも遊牧民がかかわっている。馬の騎乗をはじめたスキタイがオリエントまで勢力を伸ばすと、オリエントでも同様に騎乗をはじめる。騎兵は敵の背後に回り込んで包囲殲滅ができるため、騎兵を擁する国家は強大となり、アッシリアのような強大な帝国が生まれることが番組中で触れられていた。同様に中国でも趙や秦のように軍馬を確保しやすかった国が戦国時代に強国となり、やがて秦が中華を統一する流れがある。

 

全体として、細かな知識を追うより歴史の構造を大づかみに把握する番組内容には好感が持てたので、次回にも期待したい。

 

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NHKEテレ『3か月でマスターする世界史』が面白そうな件

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4月3日からEテレで『3か月でマスターする世界史』が始まる。テキストのサンプルを見てみると、第1回と2回のタイトルは「古代文明のはじまり カギは”遊牧”」「ローマもオリエント?」といった興味深いものになっており、番組を観る価値はありそうだ。テキストの「はじめに」にでは岡本隆司氏が「アジアから世界史をひも解くと、新しい世界史が見えてくる」と語っている。「西洋中心主義とは?」「キリスト教の発祥はヨーロッパ?」といった回もあるようで、全体としてアジアの視点から世界史をとらえ直すシリーズになりそうだ。

 

 

この番組にはゲストとしてローマ史家の井上文則氏が登場するが、井上氏は東洋史への関心も深い研究者で、宮崎市定の評伝も上梓している。井上氏はローマ帝国シルクロードとの関係を重視していて、『軍と兵士のローマ帝国』でもシルクロード交易がローマの常備軍を支えていた、と書いている。常備軍の維持は多大な財政的負担をともなうもので、シルクロード交易の関税収入がなければそれは不可能だったという。シルクロード交易は、漢の西方進出とローマの東方進出の結果実現したもので、井上氏はカエサル凱旋式パレードで沿道に絹の日よけを用いたことをその象徴として紹介している。ローマ史はローマ史として完結しているわけではなく、ユーラシア史全体の枠組みのなかで捉える必要がある、という視点がここにはある。第2回ではこのような井上氏の史眼を楽しめる回になりそうだ。

 

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番組のナビゲーターを務める岡本隆司氏には数多くの著書があるが、『「中国」の形成』で書かれている『アジアと西洋の「大分岐」』は非常に面白い内容で、豊かだったはずの清朝産業革命が起きなかった理由を教えてくれるものだった。今回の講座でもこの「大分岐」に触れてくれることを期待したい。

 

(追記)第一回では古代文明誕生の背景に遊牧民の活動があったことに焦点を当てていた。古代の都市は農耕地域と遊牧地域の境界に生まれているが、これは両者が交易をおこなっているからで、交易の拠点として都市が必要になる。商業が盛んになると貧富の差が拡大し、富める者はその富を守るため都市を城壁で囲む。遊牧民は都市の交易相手でもあるが、外敵でもあるため、強固な城壁が必要になる。農耕民と遊牧民の対立関係はシュメール諸国とセム系の遊牧民族の間にはじめて見出せるが、同様の関係を漢と匈奴のあいだにも見てとれる。アジアに共通する文明の「型」を見ていくのがこの番組の特徴のようだ。