植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

ワタシは日韓友好関係の一端を担っているのか?

2024年03月12日 | 雑感
ワタシ達がまだ中学高校生の頃、よく耳にした言葉の一つが「在日」でありました。太平洋戦争が敗戦と言う形で終わったのが昭和20年、ワタシ達はその11年後に産まれましたから、まだ戦争の爪痕や記憶がはっきり日本人の胸に残っていた頃でしょう。

その時代、第二次大戦前に日本が朝鮮を支配し、朝鮮民族の多くを強制的に連行して日本に住まわせ、労働力として働かせたのです。終戦後も朝鮮が南北に分断し、朝鮮戦争などもあって母国に帰国できなくなって日本に残留を余儀なくされた朝鮮人とその子孫のことを未だに「在日朝鮮人」と呼ぶのです。統計的なものは存じませんが、戦後日本の社会に馴染みそのまま帰化した朝鮮民族の方も多いと聞きます。割合その姓に旧姓の漢字を残したので、気を付けてみると「金・張・朴」などが金田とか木下とかの日本姓に変わっていますね。

さて、ワタシはここ10年、自宅周辺でガーデニングを中心に隠遁生活を続け、それまで38年勤めた金融機関の友人とは必要以上に付き合うことも無いとして人との接点を減らしています。老境に差し掛かると交友関係を抑えて、のんびり穏やかな日々を送りたいと願うものであります。
一方で書道・篆刻ではオープンチャットなどを通して知り合い・仲間が増えました。ただこちらは日本各地に住むネット上での友人なので、顔を合わせることは滅多にありません。20名位のお仲間でも実際にお会いしたのは5.6名です。

そんな薄い貧しい交友関係の中で韓国人夫婦のお友達一組がいて、昨日当地に来られました。普段は横浜石川町で「韓国料理居酒屋」を営んでいます。彼らがそれまで勤めていた桜木町の居酒屋から独立するときに、ワタシの所有する空き部屋を一時的に食材保管・登記上の本店住所にしたのです。それ以来6年ほど経過し、なんとかかんとかお店は続いています。彼らは年に一度の「確定申告」のために当地平塚の税務署を訪れ、事業収入を申告・納税しているのです。

それが昨日の来訪目的で、来た時には必ずワタシの仕事場に挨拶に見える、ということが年中行事となっています。そして、昨日は奥様同伴でお昼をご一緒いたしました。毎年同じパターンで同じお店(中華料理店)に行っているんですね。

彼らは終始笑顔を絶やさず、元気な様子でした。コロナやら長期間の消費低迷でお店の経営は芳しくない、とは聞いています。彼のご実家も飲食店で、たしか弟さんが後を継いだとか(はっきりしませんが)
奥様はワーキングビザが無く、お店を手伝うよりほかには仕事が無いのだそうです。お店が不振で、奥様が外で働けないなら、実家のある韓国に変えればいいと思いますが、「いろいろとそうはいかない事情」があるのでしょう。なんとなく、親を捨て、自分の国も捨てた、韓国に戻る訳にはいかない、という雰囲気があるのです。

では、こちらに自分たち夫婦にとって親しい身内が居るか?
いないと思います。親戚兄弟は勿論、韓国時代の友人は日本にはいないでしょう。そうなると、なんと日本人夫婦であるワタシ達夫婦が、いつの間にやら親代わりみたいな立場になっているのです。

ちょっと間が空くと(1年くらいか)みんなに声をかけて「飲み会」を企画します。そもそも、店の立ち上げにはワタシ自身が協力し、それ以降も全く賃料なども貰わずに資材の保管を助けたのです。
恐らく(全くの想像ですが)彼らにとってはワタシら夫婦が現地の両親のような気分でいるのかもしれません。
一緒に卓を囲んで食事をしていても楽しそうで、一切遠慮や他人行儀なふるまいがないのです。アボジとオモニというのでしょうか、彼らのうちどちらかの親とご飯を食べ、勿論お代はこちらもち(笑)が当然の関係と思っているようです。
それはそれで構いませんが、本当に困窮して、お金をなんとかして、と泣きつかれる事態になったらどうするか、という懸念は残っています。
ご近所にはトレーシーさんという家内の犬友がいます。ウチのお店のお向かいには欧州人の奥方が居て、たまにガーデニングの情報を教えたりしています。
韓国だろうが欧米人だろうがみんなフラットな関係で、国によって上下があってはならないと信じるものです。

彼ら夫婦には、できる事なら、いっそのこと帰化して日本人になったらどうかと思っております。

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