being-ただ在ること-それ以外に真実は存在しない。
生きていると様々な思考、感情が心を捕らえる。
そしてそれは怒り、悲しみ、嫉妬、不安、苦悩を生み出す。
私たちはあまりに不自由な生き物だ。
広大な自然と豊富な資源に恵まれ、社会制度はそれなりに充実している。
基本的に何不自由なく過ごせる環境にいながら
それでも幸せを見失っている。
それ故に、私たちはあまりに不自由な生き物だ。
そして、どうか覚えていてほしい。
この不自由さは、誰一人例外がない。
表面上、幸せに見えていても
心の中は多くの葛藤、苦しみ、不安が渦巻いている。
幸せそうに見える人々は、それを表に出さないだけだ。
どんな著名人も、豪邸に住んでいるあの微笑ましい家族も、会社の上司も、同僚も、苦手な隣人でさえも。
誰もが心の中に不自由さを抱えて生きているのだ。
人は人生の中で、自分の心か他人の表面上の姿と向き合って生きている。
それ故に自分だけが苦しんでいる様に感じるのだ。
苦しんでいない者などこの世界に一人もいない。
それを忘れてはいけない。
-being ただ在ること それ以外に真実は存在しない-
観念を捨てなさい。
観念とは、あなたの人格、これまでの生き方、思考パターン、他人の意見、他人の評価、記憶、パフォーマンス、常識…
これらを決定づけるあなたの認識そのもの-観念-だ。
あなたが物事を認識するとき、それは全て観念となる。
認識=観念となる。
その認識を全て捨てなさい。
そこにある木を眺めなさい。
その木の名前など忘れなさい。
それは緑色だとかそういった認識は一切必要ない。
大切なことは、観念を持たずにそれを見ることができるかどうか。
ただそれだけだ。
陽が落ちる夕暮れ時。
「ああいま陽が落ちようとしている」
という認識を持たず、ただそれを眺めなさい。
外の世界を見るとき、あなたは認識し観念を持ち歩く。
あなたの心の中が観念で埋もれているから
幸せを見失うのだ。
この人生は美しいものの連続だ。
どこか遠くへ行かずとも、世界の見方を変容するだけで、美しいものしか存在しなくなる。
いや、元々美しいものしか存在していない。
それはこの世界に生きるあらゆる生命のことだ。
あなたが嫌いなあの人も。、そこに含まれる。
そしてあなた自身も。
観念を捨てなさい。
観念を持たずに-ただ見る-それは瞑想の極意と同じだ。
そして、自分自身へも同じようにいなさい。
いまはまだ、古い思考たちが、あなたの心を鷲掴みにすることだろう。
しかし、いいかな。
変わろうとするその意思が物事を変容させうる。
その一歩が時には世界そのものを変えてしまう。
そんな奇跡をあなたも目の当たりにしたことだろう。
社会におけるテクノロジーの変化、文化の違い、そもそも世界の文明が日々進歩していることはこの世界に住む誰かの意思が形になっているのだ。
そんな奇跡は毎日起きている。
そしてその変化はあなた自身に起きなければならない。
ただ観ているとき。
あなたはただ在ること-being-ができる。
その時、不自由さは消えてなくなるだろう。
この世界の美しさに気づき
幸福とは生まれながら存在する
当たり前の現象だと気づくことができるだろう。