テレビを

 

つけると

 

スーツを着て

 

寂しい話をしているヒトがいる。

 

 

 

 

 

日本に

 

六つも

 

お墓がある

 

政治家を知っていますか?

 

 

 

その人は

 

田中正造(たなかしょうぞう)


 

彼は

 

江戸時代後期の人。

 

 

栃木県の裕福な名主(なぬし/村のトップ)の家の長男として生まれた。
 

 

大きくなると

 

父の跡を継ぎ、

 

村の名主となった。
 

 

 

田中正造の村の領主は六角氏といって、
 

村人たちを搾取し続け、

 

私服を肥やす

 

悪い領主だった。
 

 

田中正造は

 

見て見ぬふりのできない男だった。
 

 

さっそく

 

名主となった田中は

 

領主に改善要求を突きつける。

 

 

領主の六角氏は激怒ムキー

 

たかが名主の分際でムキー

 

無礼にもほどがあるムキー

 

 

田中は明治維新直前、

 

投獄されてしまう。

 

 

この時、

 

田中正造が投獄された牢屋(ろうや)は縦横高さが共に、
わずか1メートルほどしかない

狭い牢屋だった。


立つことも、

 

寝ることもままならない

 

過酷な環境だった。
 

 

翌年、

 

田中は村人たちの必死の助命願いにより釈放される。

 

 

そして

 

明治23年、

 

第1回衆議院議員選挙に田中正造は立候補し初当選する。
 

この年、

 

渡良瀬川(わたらせがわ)で大洪水が発生し、

 

川の上流にある

 

足尾銅山から流れ出た鉱毒によって、

 

稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され大騒ぎになる。
 

翌年、

 

田中は鉱毒の害を視察し、

 

第2回衆議院議会で足尾銅山の鉱毒問題の質問を行った。

 

しかし、

 

当時の日本は、

 

西欧諸国へ追いつけ追い越せ!

 

環境悪化による犠牲はしょうがない!

 

工業立国として西欧諸国と肩を並べることが最優先という空気だった。

 

 

なので

 

田中の

 

”環境”の話しは逆行するものだった。

 

 

だれも

 

田中の話を聞くものは

 

いなかった。

 

 

 

田中は諦めず、

 

その後、

 

何度も

 

何度も

 

政府に強く改善要求をし続ける。

 

そして

 

明治30年になると、

 

ようやく世論も動きだし

 

農民の鉱毒反対運動が激化してゆく。

 

田中は

 

足尾銅山鉱毒問題を

 

東京や地方各地で演説を行うことによって

 

問題の存在をクローズアップさせて行く。

 

 

そして、

 

ようやく農商務省と足尾銅山側は

 

当面の予防工事を確約し

 

着工した。

 

 

しかし、

 

元々やる気のない工事だったので、

 

効果は薄いものだった。

 

 

明治33年2月、

 

農民の怒りは頂点に達し、

 

東京へ陳情に出かけようとしたところ

 

途中の群馬県川俣村で

 

警官隊と激突。

 

流血の大惨事となり

 

農民多数が逮捕される事件に発展。

 

この事件後、

 

田中は国会で事件に関する質問を行った。

 

 

田中正造

 

”これが亡国に至るを知らざれば、之れ即ち亡国の儀につき。。。

 

日本の憲政史上に残る大演説となった。

 

 

田中正造は

 

2日後、

 

今後も国と対峙し続けるということは、

 

所属している

 

党へ

 

迷惑をかけるということになるとの判断から

 

自身が所属している

 

憲政本党を

 

離党することにした。

 

 

田中の離党覚悟の真剣な質問に対し。。。

 

当時、内閣総理大臣、山縣有朋(やまがた・ありとも)は 

 

”質問の意味がよくわからない。”と答弁をはぐらかすばかりだった。

 

 

明治34年10月、

 

田中は議員でいることの無力さを痛感し

 

議員を辞職する。

 

 

そして

 

野に下り

 

鉱毒被害を広く世論へ訴え続ける。

 

そして、

 

とうとう

 

田中は

 

12月10日、

 

足尾銅山鉱毒事件について

 

明治天皇に直訴(じきそ)を決行する。

 

 

しかし、

 

田中は

 

天皇の馬車にたどり着く前に、

 

途中で警備の警官に取り押さえられ

 

直訴そのものは失敗に終わる。

 

 

しかし

 

田中の行動に

 

東京は大騒ぎとなる。

 

号外も配られ、

 

田中の直訴状の内容は広く知れ渡ることになる。
 

 

田中は、

 

そっこく警察に捕えられた。

 

日本国政府は

 

これ以上

 

騒ぎが大きくなることを恐れ、

 

”単に狂人が馬車の前によろめいただけ” として、

 

この問題を不問に付した。

 

 

田中は即日釈放された。
 

 

直訴の直前、

 

田中は死を覚悟。

 

妻に迷惑がかからないようにと、

 

妻カツに離縁状を送っている。

 

しかし、

 

妻カツは

 

その離縁状を破り捨ててしまう。

 

夫婦で正義を貫く覚悟だった。

 

 

その後も

 

田中の粘り強い活動によって、

 

とうとう

 

足尾銅山は閉山となり鉱毒の流出は止まった。

 

 

田中は終生、

 

様々な巨悪と戦い続け、

 

そして

 

遊説の途上、

 

力尽きて亡くなる。

 

 

その時

 

彼の財産は、

 

すべて鉱毒反対運動に使い果たしてしまっていた。
 

 

 

田中は、

 

子供のころ名主の子として、

 

なに不自由なく裕福に育ったにもかかわらず、

 

死んだときは

 

無一文になってしまっていた。

 

 

田中の全財産は、

 

きんちゃく袋1つだけ。

 

中身は、

 

書きかけの原稿と新約聖書、

 

鼻紙(ティッシュ)、

 

川海苔、

 

小石3個、

 

日記3冊、

 

帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。

 

 

田中は、

 

政治家になった為に

 

無一文になってしまった。

 

 

あとにも、

 

さきにも、

 

こんなに

 

純粋な政治家は現れることはないだろう。

 

 

現在、

 

田中正造のお墓は

 

日本に六つある。

 

なぜか、

 

それは彼を慕った人々が、

 

彼の亡骸の分骨を切に願ったためだった。