「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

本のお薦め

2024年04月27日 | 読書コーナー

さあ、今日(27日)から胸躍るゴールデンウィークです。とはいえ、ブログ主は 毎日が日曜日 の人間なので、普段と変わりなしですが(笑)。

むしろ、温泉観光地なので県外からどっと観光客が押し寄せてきて、道路が渋滞するのでかえって迷惑・・、そこで、期間中は 読書三昧 で行くことにしました。

さて、ミステリー作家「宮部みゆき」さんは「蒲生邸事件」を読んでからずっと気になっている存在。

その宮部さんが「読売新聞」日曜版(2015~2019)
に連載されていた「お薦め本」をまとめた「中公新書」がこれ。



ブログ主が ぜひ読んでみたい と思った本をメモしてみた。

☆「闇からの贈り物 上下~あっぱれ!新米女性刑事」(ジャンバンコ)

発端は幼い子供を含めた一家4人惨殺というショッキングな事件。しかも捜査が始まるとすぐに不穏な事実が判明する。被害者家族の夫と現場に残された物証から浮上した第一容疑者と彼の雇った弁護士は過去の未解決事三少年誘拐事件の被害者とその遺族だったのだ・・。主人公の女性刑事の人物造形が素晴らしい!

といった調子。

☆ 「音と身体のふしぎな関係」(ホロウィッツ)

「耳とは何かを考えてみよう。耳は分子の圧力変化を感知する器官だ。私たちは耳が音楽や車のクラクションを聞くことを想像しがちだが、耳が真に 気づいている のは振動である」~中略~

たとえば、映画「ジョーズ」のあまりにも有名なメインテーマ。あの低音の心拍のような曲が流れると、映画の内容を知らない人でさえ何か不穏なものが現れそうだと感じるのはなぜだろう。それはね、あの曲が よりにもよってチューバで演奏されるからなのです。

チューバは非常に低い音を出せる楽器で、生体力学的進化論ではより低い音はより大きな音を意味する。生物が つがい の相手を探す場合は大きな声を出せる個体は好ましい対象になる、ただしそれ以外の場合では大きくて低い声を出す動物は、貴方より大きな 何ものか であって、だからあのテーマ曲を聴くと、私たちは本能的な警戒感を喚起されるのだ・・。

ブログ主から

より深い低音の持ち主は女性にもてそうですね・・(笑)、さらにオーディオシステムでも本格的な低音を出そうと思ったら、スピーカー(ユニット+箱)がどうしても大きくなりますよね。他家でも本格的な低音を聴かされると、まず「恐怖心or警戒心」が先に立ちます・・(笑)。

ほかにも、本書には読んでみたい本がたくさん紹介してあって、昨日(26日)図書館に行って「在庫」分を借りてきました。



そして、もう一冊紹介・・。

☆ 「大楽必易(たいがくひつい)~わたくしの 伊福部 昭 伝~」



「大楽必易 大礼必簡(たいがくひつい たいれいひっかん)」とは,中国の古典『礼記(らいき)』の言葉で、「すぐれた音楽がわかりやすいものであるように、すぐれた礼儀は簡素なものである」という意味です。これを常に自身の戒めとしていたのが 伊福部 昭(いふくべ あきら) という作曲家です。」

音楽評論家にして慶応大学教授の「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏の、これは たいへんな労作 だと思う。

作曲家「伊福部 昭」(いふくべ あきら:北海道)といえば、何といっても往年の名画「ゴジラ」のテーマ音楽で知られている。

ほら、中高年にとって「ジャジャジャッ、ジャジャンッ・・」と畳みかけてくるような音楽を聴くだけで、途方もない大きな怪獣が現れてくるような予感に襲われます、そうまるで「ジョーズ」のような・・(笑)。

本書は片山氏が若いころから謦咳(けいがい)に接された伊福部氏の音楽家としての生涯に言及したものだった。

音楽好きにとっては興味ある事項が満載。

たとえば・・

「バルトークの近代的自意識は鼻持ちならない、ストラヴィンスキーにはそれがない、そこがいい、バルトークの嫌いな人間はストラヴィンスキーが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」(伊福部氏 談)

といった調子~。

で、調子に乗ってブログ主から・・、

「バッハの線香臭さは鼻持ちならない、モーツァルトはそれがない、そこがいい、バッハの嫌いな人間はモーツァルトが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」 アハハ・・。

著者は「あとがき」の中で、伊福部氏をモーツァルトに比肩しうる作曲家として礼賛されている、だがしかし・・、冷静に見てどうなんだろう?

代表作とされる「シンフォニア・タプカーラ」「日本狂詩曲」を「You Tube」で聴いてみたが、どうも「?」だった。

己の感性が貧弱なのかもしれないが、何だか「映画音楽」っぽいなあ・・(笑)。

ふと「コルンゴルト」(1897~1957)という作曲家を思い出した。オペラ「死の都」のアリア「マリエッタの歌」は絶品だと思うが、幼少のころからモーツァルトの再来と謳われたものの、大戦後に生活のため映画音楽に手を出してから次第に評価が下がっていった。

作曲するときに映像に縛られてしまう癖がつくと、(作曲に)必要なイメージを湧き起こす才能が枯渇していくのではあるまいか。

本格的な 音楽の創造 を目指そうとするなら、作曲家は(映像付きの)「映画音楽」とは共存出来ないと思うのだが、どうなんだろう・・。

「眼と耳の優先順位」にも関わってくる問題だが、広くご意見を求めたいと思います~(笑)。



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