「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

精神力を向上させるのは幸福ではなく悲しみである

2024年05月08日 | 音楽談義

作家の「マルセル・プルースト」(フランス:1871~1922)をご存知だろうか。

ジェームス・ジョイス(ユリシーズ、ダブリン市民など)、フランツ・カフカ(変身、審判など)とともに20世紀を代表する作家であり、代表作の長編「失われた時を求めて」は後世の作家に大きな影響を及ぼした作品として知られている。

数多くの名言を残したことでも有名で、そのうちの一つ「幸福というものは、 身体のためには良いものである。 しかし、精神の力を向上させるのは、 幸福ではなく悲しみである。」は、思い当たる人がいるかもしれない。

さて、図書館でたまたま「プルースト効果の実験と結果」に出くわした。

   

「プルースト効果」っていったい何?

本書によるとこうだ。

「特定の香りから過去の記憶が呼び覚れる現象のこと。マルセル・プルーストの代表作「失われた時を求めて」で主人公がマドレーヌ(焼き菓子)を紅茶に浸したとき、その香りがきっかけで幼年時を思い出すことからこの名が付いた」とある。

ちなみに、本書のケースでは二人のうら若き男女が受験勉強のときに特定のチョコレートを食べるクセをつけて、テストの直前にチョコレートを食べることで勉強時に詰め込んだ知識が自然に蘇ってくるかもしれないとその「プルースト効果」に期待するというものだった。

その実験を通じて、受験生同士の恋愛模様が絡んできて最後はあっけなく失恋に終わるという内容だったが、青春時代の甘酸っぱい思い出が巧く描かれていた。

さて、人間の知覚は周知のとおり五感として「視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚」に集約されるが、プル-スト効果は「特定の香り」だから「嗅覚」に由来していることになる。

そこで、いやしくも「音楽&オーディオ」のタイトルを標榜する以上、「プルースト効果」の「聴覚版」に言及するのは必然の成り行きだとは思いませんかね(笑)。

つまり「音楽のプルースト効果」

特定の音楽を聴くと分かち難く結びついた過去の記憶(シーン)が蘇ってくるという経験はおそらく音楽好きの方ならあることだろう。

我が身に照らし合わせてみると、50年以上クラシックを聴きこんできた中で、それこそいろんな曲目の思い出があるが、さしあたり2曲ほど挙げてみよう。

✰ ジネット・ヌヴー演奏の「ヴァイオリン協奏曲」(ブラームス)

たしか15年ほど前のこと、とあるクラシック愛好家と親しくさせてもらったことがあり、その方がお好きな女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーについて話を伺ったことがある。

クラシック全般に亘ってとても詳しい方だったが、それによると、「レコード音楽の生き字引」や「盤鬼」(五味康祐氏著「西方の音」19頁)として紹介されている西条卓夫氏が当時(昭和40年前後)の「芸術新潮」で、いろんな奏者がブラームスのバイオリン協奏曲の新譜を出すたびにレコード評の最後に一言「ヌヴーにトドメをさす」との表現で、どんな奏者でも結局ヌヴーを超えることは出来なかったという。

自分にとっても、これほどの名演奏(ライブ)は後にも先にもないと思っているし、教えていただいた方にも感謝しているが、残念なことにその方とは今となってはすっかり 疎遠 になっている。

なぜかといえば、我が家の当時のJBLの音を聴かれて「こんな音は大嫌いだ」みたいな捨て台詞を残して憤然と席を立ち、それっきりプツンとなってしまった。

「音が憎けりゃ人まで憎し」・・(笑)、まあ、いろんな鬱憤(うっぷん)が積み重なった背景があったのでしょうよ~。

ヌヴーの演奏を聴くたびに、そのことがつい思い浮かぶ・・。

✰ モーツァルト「ファゴット協奏曲第2楽章」

37年間もの宮仕え生活を送るとなると、それはもういろんな上司に当たることになる。

振り返ってみると、ウマの合わない上司と当たる確率は半々ぐらいかな・・、自分だって欠点だらけの人間だから仕方がない面もあるな~。

まあ、宮仕えとはそういうもんでしょう(笑)。

あれは宮仕えも後半に差し掛かった頃のことだった。それはもうソリの合わない上司に当たって、何かと理不尽とも思える仕打ちを受けた。

それほどタフな精神の持ち主ではないので、とうとう「心の風邪」を引いてしまい、挙句の果てには不眠に悩まされることになった。

そういうときに購入したCDが「眠りを誘う音楽」だった。ブルーレイ・レコーダーのHDDに取り込んで今でもときどき聴いている。

   

当時、第10トラックの「ファゴット協奏曲第2楽章」(モーツァルト)を聴き、沈んだ心に深~く染み入ってきて「世の中にこれほど美しい曲があるのか!」と思わず涙したものだった。ちなみに、それは娘のお粗末なラジカセで聴いたものだった・・(笑)。

そして、この曲を聴くたびについ当時の「心の風邪」を連想してしまう。

以上、2曲の「プルースト効果」についてだが、いずれもあまり面白くない過去の記憶がつい呼び覚まれてくるのが不思議・・、あっ、そうそう、「夢」だって過去の不愉快な思い出がつきまとってくる傾向が強い。

冒頭に紹介したプルーストの言ではないが、幸福感よりも悲しみ(哀切感)の方が深く記憶に刻み込まれて精神を成長させるのかな・・。

皆様の場合はいかがでしょうか。



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オーディオ・ケーブルについて 一考

2024年05月07日 | オーディオ談義

「T」さん(静岡県)が「音の館」を4月末からオープンされるというので、「このブログで良ければ一役買わせてください・・」と、宣伝の片棒を担がせてもらってから3週間余りが経った。

ところが、どうも目立った効果がなかったみたいで、たいへん申し訳なし~(笑)。

しかし、思わぬ収穫もあったみたいで(ブログの)文中で紹介した「ケーブル」の注文があったという・・。

そこで、追い討ちをかけるみたいだが3年ほど前に製作してもらった「T」さんの「RCAケーブル」(素材はLANケーブル)を改めてご紹介しよう。



ほかにも、4.5mのSPケーブルを作ってもらったわけだが、 こんな細い線材で大丈夫? と当初は半信半疑だったが、実際に使ってみると「ハイスピード サウンド」へと変身を遂げたのだから常識にとらわれないって大切ですね~(笑)。

さっそく、当時 次のように「T」さんあて打電したことだった。

素材の味をそっくりそのまま生かすというのでしょうか、楽器の音色が実に素直に聴こえますし、音の収束が早いため(音が)徒に被ることなく余韻が綺麗にそして漂うように出てきます。おそらく使用されたプラグと線材のマッチングもいいのでしょう。大いに気に入りました。」

たかがケーブルごときでサウンドが大きく変わるのだからやっぱりオーディオって「八岐大蛇」(やまたのおろち)みたいで正体不明だね・・。

それにしても、ケーブルに関する理論は諸説あるのだが、折角の機会なので、とあるメーカーの説を紹介させてもらおう。もちろん、信じる、信じないは貴方の自由なので念のため~。

そもそも、読書にしろブログにしろ 作者と読者の「同意」と「不同意」の繰り返しによる対話 を通じて進んでいくものですからね。

☆ ケーブルについての基本的なポリシー

当社はおそらくどのメーカーよりもケーブルに対して醒めた目を持っている。オーディオシステムに置かれたケーブルは必要悪以外の何物でもなく、その存在を小さくする努力にしか進化を認めらない。当社にとってケーブルの進化とは「消滅へのプロセス」であり、(当社が製作した)〇〇〇〇は自らの存在を極限まで矮小化したケーブルシステムだ。

☆ ケーブル自重

ケーブル自重は当社にとって重要なファクターだ。ケーブルは自重によって自らを振動体(床、壁)に押しつけ、重いケーブルほど芯線が受け止める振動の衝撃は大きくなる。

芯線を振動からアイソレートするべきダンピング材がケーブル自重の増加に一役買うので、意図したほどのダンピング効果が得られないばかりか、ダンピング材に蓄えられた振動エネルギーの解放を、これまたダンピング材が妨げるため、音楽のダイナミクスの変化がケーブルに吸収され、リズムが立たない。この悪循環を断ち切るにはケーブル自重を軽くする意外に有効な手立てはない。


☆ 芯線直径

「太い芯線は重低音が出る」というのは本当だ。ただし、その重低音がソース(CDやレコード)に含まれるものかどうかは疑わしい。太いケーブルを使って重低音が出たとしても、その先にはウーファー(低域用ユニット)の“か細い”ボイスコイルが繋がっている。したがって、その重低音がソースに含まれるものであれば、ボイスコイルと同じ線径のケーブルを使っても再生されるはずだ。つまり、ケーブルによる低音の差とは固有振動数の異なるケーブルの音色の差でしかない。

太い芯線は振動エネルギーの蓄積が大きく、エネルギーの解放が遅れるため、音楽のダイナミクスの細かな変化に追従できない。いったん振動すると止まりにくく、振動(鳴き)を止めるために芯線を締め上げると逆にストレスがかかる。それは音の伸びを妨げ、周波数レンジを狭める。同様に重いケーブル自重や、きつい撚り合わせも芯線にストレスを与える。ケーブルに限らず、あらゆるコンポーネンツに与えられる「ストレス」と「ダンピング」は音楽の躍動感を殺す2大ファクターだ。

もう一度ウーファーのボイスコイルの太さに戻って考えて欲しい。質の良い低音をケーブルの太さに求めるのは本筋ではない。もっと別のところ、つまり電気の通り道の太さにではなく、振動の通り道の明快さに求めるべきだ。

☆ その他(特記事項)

・ ケーブルをひもやビニタイで縛らないこと。どうしても必要な場合はゆるゆるの状態に。また、シールド線は被せないこと。効果がないばかりか、逆にアンテナとして働く場合の方が多い。

・ +側と-側のケーブルはツィストしても、しなくてもよい。前者では音像型になり、ハムに対しても若干強くなる。後者ではレンジの広い音場型になる。当社はこちらを好む。なお、ツィストする場合はけっしてきつく撚りあわせないこと。芯線にストレスがかかり、レンジが狭く歪っぽい音になる。したがって、1ターンあたり3cm以上の緩いツィストにすること。とにかく「ケーブルにストレスをかけない」これがもっとも重要なキーワードだ。

というわけで、「T」さん製作のケーブルは、この理論にピッタリ当てはまるんですよねえ・・、今でも重宝してま~す(笑)。



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事実は小説よりも奇なり~「死に山」~

2024年05月06日 | 読書コーナー

ようやく今日(6日)で長かった連休も終わりです。

温泉観光地・別府の宿命とはいえ、県外ナンバーの車による渋滞も終わるので営業関係者には申し訳ないが内心ではほっとしています。

で、連休に入る直前のブログ「本のお薦め」(4月27日付)の中で紹介したように、この期間中は家にこもって、日頃にもまして「読書三昧でいこう」と、書いてたのをご記憶でしょうか。



このうち、とりあえず3冊を読了したがいちばん面白かったのは「死に山」だった。ぜひ皆様方にもご一読をお薦めしたいので中身に分け入ってみよう。

本書は「ノンフィクション」である。表紙の副題にあるように「世界一不気味な遭難事故」「ディアトロフ峠事件の真相」とある。

概略はこうである。

「1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム九名(ウラル工科大学在学生)はテントから一キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。

氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。

最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

彼が到達した驚くべき結末とは…!」

どうです! ちょっと興味をそそられませんか・・。

何しろ「全員死亡」しているので、最終的な真相は「憶測」以外の何物でもないが、要は「科学的説明がつくかどうか」の一点に絞られる・・、そして、本書は見事にその着地に成功していると見た。

読者レヴュー(ネット)から一件だけ借用させてもらおう。

「原作タイトルは「dead mountain」。草木が生えていない山という意味。日本語タイトルは売れ行き狙いのひねったタイトル。よくない。

ドキュメンタリーの書き方は素晴らしい。1959年と2012-2013年を一章づつ割り当てて、交互に関連させながら記述していく。冷静な筆致で、そのためにぐいぐいと引き付けられる。日本の本ではこんなきちんとしたノンフィクションはない。実に面白かった。

事件内容
1959年の冬、ウラル工科大学の学生とOBがウラル山脈北部のオトルテン山に登るため出発し、2月1日、ホラチャフリ山(dead mountain)の東斜面でキャンプした。その日の夜、何かが起こり、全員死亡した。

最終的にテントは見つかったが、テントには内側から切り裂かれた跡があり、誰一人、テントにはいなかった。遺体はテントから1.5kmほど離れた場所で見つかったが、それぞれ、ロクに服を着ていなかったし、ほぼ全員が靴を履いていなかった。4人は低体温症、3人は頭蓋骨骨折などの外傷で死亡していた。一人は舌がなくなっていた。一部の衣服からは異常な濃度の放射能が検出された。ディアトロフはリーダーの名前。


様々な仮説
1.マンシ族による攻撃。
事件の起こった頃、マンシ族はそのあたりに居住していなかった。また、ホラチャフリ山には獲物がなく、近寄らなかった。平和な人々で、捜査活動に最初から協力した。この仮説は最初に否定された。

2.雪崩
斜面の傾斜角は16度で、雪崩の起こる確率は非常に少ない。テントは発見された時、立っていたし、この仮説も否定された。

3.強風
一人か二人、外に出た時に吹き飛ばされたので、それを他のメンバーが助けに出た。この仮説ではなぜ全員がテントの外に出たのか、誰も靴を履かなかったのか説明できない。テントを切り裂く必要もない。

4.武装集団
一行の持ち物は後に確認すると、ほとんど何もなくなっていなかった。三人の遺体に激しい損傷があった点は崖(高さ7m)から落ちたことで説明される。舌がなかった点は雪解け水による腐敗現象と思われる。

5.兵器実験
同時期に「光球」が目撃されている。これは2月初めという証言だったが、2月17日と推定されるので、この仮説は否定される。

6.放射線関連の実験
衣服についていた放射能は異常というレベルではなかった。冬の核実験でウラル山脈に到達したことも考えられる。この仮説も否定された。
最後に謎を解くのは、NOAAの気象科学の専門家である。今はポピュラーな現象だが、この当時は知られていなかった。これ以上、書くと良くないので、これで終了。

以上のとおり、簡にして要を得たレヴューです! これでわざわざ本書を読まなくても内容を把握できたことでしょう。

で、問題は最終的な真相(科学的な仮説)をここで明らかにするかどうか・・、ハムレットみたいに悩みますな~(笑)。

そして、これは日頃の個人的な思いだが、他人のブログを読んでいて いちばん腹が立つ のは「肝心なことは明らかにせずに、もったいぶった書き方」をしていることに尽きる!

したがって、このブログもこの轍(てつ=わだち)を踏むわけにはいかないでしょうよ(笑)。

したがって、真相を明らかにしておくことに決めた。

ただし、もし本書を読みたいという方がいらっしゃるのであれば、ここから先は読み進まないようにね~(笑)。

で、その真相とは・・。

何よりもテントの設置場所が悪かった。冬のウラル山脈は想像を絶するほどの強風が吹きつける。周囲の地形(小高い二つの山に囲まれていた)により、何と「超低周波音」が発生し、それがテントにも盛大に押し寄せた。

恐怖に捕らわれた学生たちは取るのもとりあえず、全員が真っ暗闇の雪原にほとばしり出た。そして、あるものは道に迷って雪原の中に埋まり、あるものは崖から落ちて重傷を負った。そして全員が死亡した・・。

というのが、本書による種明かしだった。個人的には納得です。それ以外に科学的な説明はつかないと思う。

周知のとおり、人間の耳の可聴周波数帯域は「20~2万ヘルツ」である。

20ヘルツ以下の「超低周波音」・・、低音の「お化け」ですぞ! 聴いたことはないがやはり不気味ですねえ。

オーディオシステムにも むやみやたら に低音を求めると精神に異常をきたす恐れがあるのでどうかご用心を~(笑)。



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人生は一度きりなのがつらい

2024年05月05日 | 独り言

ブログの更新を毎日続けていると「よく話の種が尽きませんねえ・・」と、知り合いから言われることがある。

「いいえ~、近年は質より量を優先しようと心掛けていますので、それほど苦労してませんよ~」と返しているが、どうせ「筆力」だって所詮は素人なので知れており、質の方も大したことはない・・(笑)。

ただし、オーディオ関連の記事はネタが豊富なのであまり困らないものの、その合間になるべく “畑違いの記事” を挟むことにしているが、それが少しばかり隘路になっている。


オーディオばかりの連続記事だと「専門バカ」と思われそうなので、ちょっと意識して変化を持たせているわけだが、たとえば最近の例を挙げると
世の中には二種類の人間がいます」「何が飛び出してくるかわからないブログ」などがそう。


しかし、このことがまったく予想だにしない逆転現象を引き起こしていることに気が付いた。

実を言うと、これらの記事の方が本家本元の「オーディオ関連の記事」よりもアクセス数が多いのである(笑)。

以前から娘や一部の方々から「オーディオ関連の記事は専門的過ぎてサッパリ分からない」と言われて久しいが、このことが改めて裏付けられた感じ。

18年以上もの歳月をかけてコツコツと獲得した大切な読者の方々だが、もしかしてオーディオ以外の記事に興味を持っている方のほうが多いのかもしれない・・(笑)。


この現象をあえて言わせてもらうと「二枚目志望の役者がたまたま三枚目役を演じたところ思いもかけず人気が出てしまった」ような複雑な気分になる。

敷衍(ふえん)すると・・、
一般的に自分の適性は分かっているようで、実は分かっていないものかもしれないですね、人生なんて「何が自分の適性なのか」を追い求める長い旅路のようなもの・・。

たとえば、若いころに慎重に選んだつもりの職業だって、はたして自分に向いていたかどうか・・。

「適性」云々より何よりも「食い扶持(ぶち)の確保」が第一だったので仕方がない・・、実は皆さまもそうじゃありませんか~(笑)。

今さら「宴の後」になって、悔やんでも仕方がないが時間に縛られたくない自由人が憧れだったし、何よりも活字が好きなので外国ミステリーの翻訳家なんてとてもいいと思う・・、もっと語学を勉強すれば良かったかなあ~。

しかし、老後になって現在のように「音楽&オーディオ」が存分に楽しめたかどうかは定かではない・・、「今が
良ければそれでいい、贅沢を言うな!」と、外野席から叱声が飛んできそう。

人生は一度きりなのが つらい (笑)。


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人間性の開放とモーツァルトの音楽

2024年05月04日 | 音楽談義

もうはるか15年以上も前のこと・・、

地元の新聞に、とあるオーディオ・マニアの写真がご自宅の高級装置とともに大きく掲載されていて「素晴らしい音です。どうか興味のある方は聴きにいらっしゃい」と、随分自信ありげだったのでいそいそと出かけて行ったことがある。クルマで30分ほどの大分市内の方だった。

お年の頃は当時で70歳前後の方だったが、高価な機器を購入して部屋にポンと置いただけで「いい音が出る」と錯覚しているタイプで、それは、それは「ひどい音」だった(笑)。

したがって、オーディオの方はサッパリだったが、音楽への造詣はなかなかのもので「結局、クラシック音楽はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きます。」という言葉が強く印象に残った。

まあ極論になるのだろうが、「当たらずといえども遠からず」かな・・。

(以下、音楽論になるが各人の感性に左右される話なので、それぞれ見解の相違があると思う。したがってあくまでも「私見」ということでまずお断り~。)

クラシック音楽を一つの山にたとえるとすると、この3人をマスターすればおよそ7合目までくらいは登攀したことになろう。

個人的にはそのうちバッハについてはイマイチのレベルで、せいぜいグレン・グールド(ピアニスト)を介して、「イギリス組曲」「ゴールドベルク変奏曲」を聴くくらい。代表曲とされる
「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」にはとても程遠い。

しかし、モーツァルトとベートーヴェンは結構、イイ線をいってる積もり。

モーツァルトはピアノ・ソナタ、ヴァイオリンソナタ、ピアノ協奏曲などに珠玉の作品があるが、やはり最後はオペラにトドメをさす。
結局「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」で彼の音楽は完結する。

ベートーヴェンでは交響曲の2~3つ、大公トリオ、ピアノ・ソナタの最後の3曲(30番~32番)と後期の弦楽四重奏曲群があれば充分。

この二人の試聴期間を振り返ってみると好きになった年代がはっきり区分されていて、20代の頃はベートーヴェンだったが、30代後半からモーツァルト一辺倒でそれがず~っと今日まで続いている。

ベートーヴェンの音楽は今でも好きだが、年代が経るにつれて押し付けがましさを感じてやや敬遠している。

その点「モーツァルトの音楽は自由度が高く飛翔ともいうべきもので、ある程度人生経験を積まないとその本当の良さが分からない」、まあこれは自分だけの思いだろうと、ずっと胸に秘めてきた。

ところが、
丸谷才一氏の「星のあひびき」を読んでいたらふとこのことを思い起こす羽目になってしまった。

            

該当箇所を要約してみると・・、

「20世紀は「戦争と革命の世紀」だといわれるほど、むごたらしい殺戮の世紀であった。これに関連する死者数は何と1億8千7百万人にものぼる。こういう血まなぐさい百年間でもほんの少し功績はあった。
ピーター・ゲイという著名な歴史学者はこんなことを言っている。「暗澹たる20世紀が誇りうるほんの僅かの事柄の一つが、モーツァルトの音楽をそれにふさわしい栄光の位置に押し上げたということである」。

モーツァルトの音楽が脚光を浴びることが20世紀の誇りうる事柄の一つとは、彼のファンの一人として素直にうれしくなるが、ちょっと「大げさだなあ~」という気がしないでもない。

そもそも「戦争」や「革命」と同列に論じられるほどクラシック音楽が重要だとは到底思えないけどね~(笑)。

それはさておき、問題はモーツァルトの音楽が20世紀に入って見直されたという事実。

本書によると19世紀は道学的、倫理的な時代であり、モーツァルトのオペラは露骨な好色趣味のせいで軽薄、淫蕩的とされ、ベートーヴェンの方が圧倒的な人気を博していたという。

たしかにモーツァルトの「フィガロの結婚」は召使の結婚に初夜権を行使したがる領主を風刺した内容だし、「ドン・ジョバンニ」は主人公が好色の限りを尽くして次から次に女性に言い寄るストーリー。

モーツァルトも「女性大好き」人間だったので、まるで自分が主人公になったかのように作曲に没頭した。そうじゃないとあれほどの迫真の音楽は完成しない。

つまり、人間の本性を包み隠さずにさらけ出す彼の音楽が露悪趣味のように受け取られてしまったわけだが、20世紀に入ると19世紀への反動が出てきて、人間性の開放という観点から、文学、絵画、音楽への新たな発見、見直しが行われ、その一環としてモーツァルトの音楽も大いに見直された。


モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったが、彼の音楽は死後、ずっと現在と同じくらい人気があったものと思ってきたのでこの話はちょっと意外に感じた・・。

モーツァルトの音楽に何を感じるか・・、人それぞれだが「露悪趣味」から「人間讃歌」まで、時代の流れや己の人間的な成長とともに受け止め方が変わっていくのが面白い。

とにかく、一見軽薄そうに見えて実はいろんな「顔」が隠されていて、聴けば聴くほどに とても一筋縄ではいかない音楽 であることはたしかだと思う。

この連休中、旅行に行かずにたっぷりと時間に恵まれた方々・・、「You Tube」でモーツァルトの音楽に耳を傾けて 人間性を開放 しましょうや~(笑)。



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