※ 元司法試験考査委員(労働法)

 

 

今日の労働判例

【大成建設事件】(東京地判R4.4.20労判1295.73)

 

 この事案は、会社Yの海外研修制度で米国留学した従業員Xが、卒業後にYを退職したため、留学前の約束(留学後5年以内に退職したら費用を返還する、など)に基づいて、YがXに費用の返還を求めた事案です。その際、XからYに対して、賞与や賃金、立替金、退職金などの請求権があったため、それが相殺された残額が請求されました。

 裁判所は、Yの請求を認めました。

 なお、XからYに対して、出張費用の返還請求が無効であることを前提に、上記各請求権の支払いを求めており、裁判所は、この請求を否定しました。

 

1.消費貸借契約の成立

 1つ目の論点は、消費貸借契約が成立したかどうかです。

 裁判訴は、誓約書(消費貸借契約は誓約書を提出したことによって成立した、と認定されています)Xが留学費用の消費貸借契約の内容について担当者にその内容を何度か確認するなどした点などを根拠に、消費貸借契約が成立した、と判断しました。

 ここでは、意思表示の有効性に関しどのような基準が適用されるか、が注目されます。すなわち、近時の労働判例では、特に従業員にとって不利益な合意・同意をする際、「自由な意思」という高いレベルでの意思表示が求められることがあるからです。ところが裁判所は、「自由な意思」を基準とせず、通常の意思表示と同様に(敢えて判断基準を明示していません)判断しています。(別の論点に関する場面ですが)金銭消費貸借契約は雇用契約とは別の契約であると言及している部分があり、金銭消費貸借契約は雇用契約に関するものではなく、雇用契約上の不利益を与えるものではないことが、通常の意思表示の基準が適用された背景でしょう。もっとも、Xもこの移転を特に問題にしていないので、「自由な意思」が採用されなかったのかもしれません。

 

2.消費貸借契約の有効性

 2つ目の論点は、この消費貸借契約が労基法16条に違反するかどうか、という有効性の問題です。

 労基法16条は、「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」と規定されており、海外留学の費用負担に関する合意が、「労働契約の不履行」に関するものかどうか、「違約金」「損害賠償額を予定する契約」に該当するかどうか、議論の余地があります。

 しかし本判決は、労基法16条が適用されるかどうか、については直接言及していません。「労基法16条に反するか否か」という論点設定をしているところを見ると、適用されるかどうかを問題にしている(直接適用性)ようにも見えますが、規定の文言ではなく、規定の趣旨に合致するかどうかを問題にしているところを見ると、適用されないことを前提に議論している(類推適用性)ようにも見えます。少なくとも言えることは、本事案では、「労働者の自由意思を不当に拘束して労働契約関係の継続を強要する」かどうか、が判断基準とされたのです。

 そのうえで、①留学先やその内容の選定がXの自由だったこと、②X個人の経歴に資するものだったこと、③返済金額や条件が不合理ではないこと、、④留学は業務でないこと、⑤その他、を理由として(もちろん、それぞれ具体的な事実と証拠によって慎重に認定されています)労基法16条に反しない、と判断しました。

 ここで特に注目されるのは②と④です。これらは、多くの裁判例で表裏の関係として議論されています。すなわち、留学(事案によっては、留学ではなく研修)が業務であれば、無効とされる可能性が高くなり、業務ではなければ可能性が低くなる、とされ、個人の経歴に資することは、業務でない面を強くする要素、と整理されている裁判例が多いように思われます。

 けれども、②と④は、どちらかという風に簡単に割り切れるものではありません。会社がわざわざ従業員に仕事をしない時間と相当の金銭的補助を与えて勉強させるのですから、将来、会社にそれが還元されることを期待しているはずです。単なるご褒美で、何の還元も期待せずに留学の機会を与える場合の方が稀でしょう。他方、従業員としても、例えば海外留学の経験やそこで得た資格(大学や大学院の卒業、MBA、現地の専門家の資格など)を、絶対にその会社のためにしか活用しない、と考えている人よりも、会社を離れた場合にも役に立つと考えている人の方が多いでしょう。

 そうすると、②と④はそれぞれ独立して、しかもそれぞれ「ある」「なし」の二者択一的な判断がされるのではなく、②と④のいずれの要素が強いのか、という相対的・総合的な判断がされるべき要素である、と考えた方が、より実態に合致した判断方法のように思われます。

 本判決は、形式上は②と④を分けて、それぞれの該当性を判断していますが、④で指摘した事実には②に関わるものも多く含まれており、実態は、②と④の相対的・総合的な判断がされている、と評価できるように思われます。

 

3.相殺合意の有効性

 3つ目の論点は、未払いの賞与や給与等との相殺の合意が有効かどうか、という労基法24条1項に関する問題です。上記1の中で、誓約書の有効性が問題となりましたが、誓約書が、5年未満の退職の場合の相殺を認める内容だったことから、ここでも、誓約書の有効性が問題となりました。

 裁判所は、上記1と同様の事情を指摘して「自由な意思」がある、として相殺を有効としました。

 先例となる最高裁判例(日新製鋼事件(最二小判H2.11.26労判584.6)が、相殺の有効性の判断基準として「自由な意思」を設定していることから、「自由な意思」がここでの判断基準になったのですが、上記1と同じような判断なのに、上記1では「自由な意思」が判断基準とされていませんから、両者間で異なる判断基準となってよかったのかどうか、なぜなのか、もう少し詰めた議論がされるべきかもしれません。

 

3.実務上のポイント

 各論点について、上記のとおりそれぞれ検討すべきポイントが残されていますが、留学や研修の費用の返還請求に関しては、それが転職の機会を奪うものかどうか、逆に本判決が上記2で言うように、従業員の自由意思を制約するかどうか・労働契約継続を強要するかどうか、ということが、最終的な判断の分かれ目であることについては、ほとんどの裁判例で方向性が一致しています。

 結局、会社が機会・資金を提供する際の条件として許容されるかどうか、という面と、従業員の職業選択の自由の制限として許容されるかどうか、という面の、バランスの問題です。

 この観点から見た場合、本判決も他の裁判例と同様、会社側の事情と従業員側の事情として、どのような事情がどのように評価されるのか、という観点で、実務上参考になる事案です。

 

 

※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。

 

 

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!