郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

K‘sシネマでドキュメンタリ―「津島」(土井敏邦監督)を見た

2024年03月22日 | 日記

 

 

上映後、監督の挨拶があった。

 

「浪江町津島は阿武隈山系に囲まれた人口1400人(3・11前)の平穏な山村だった。原発事故直後の風向きで、北西に30キロ離れた津島に、大量の放射性物質が降り注ぎ、高濃度の放射能に汚染された。2015年9月、住民の約半数700人が原告となり『ふるさとを返せ!津島原発訴訟』を提訴した。原告の切々たる陳述集を読み、これは映像にして残しておかなくてはと思い、2021年、陳述者を尋ね、撮影した。大震災から10年経っていたが、今なお避難生活を送る津島の人びと。ずっと苦しみ、悲しみ、望郷の思い、ずっと悩み考え続けた、今だからこそ語れる原発被害者たちの思いです。」 

 

原発事故4日後、津島地区全員避難の指示が出た。住民は1週間もすれば戻ってこられると思っていた。でも、それっきり今も帰還困難地区、13年後の現在国道114号線(浪江と福島市を繋ぐ)と道路沿いのわずか、1・6%の除染が済んだだけ。毎月赤宇木地区の取り壊された家の前で、線量を測っている区長の今野義人さん、1mの高さで3μSV、 地表に近付けると、30μSV。今野さんは毎月県内外に避難した津島赤宇木地区の住民、約80世帯に各家の線量を載せた便りを送っている。「待っていてくれる人がいるから・・・」 

 

「原発事故後半年くらいだったか、東電幹部と環境省の役人がやってきた。環境庁の役人がぽろっと言った。『100年は帰れません』集った赤宇木住民は、誰も怒鳴らなかった。ただシーンと静まり返った。その時、私は、このまま黙っていたら、津島はなかったものにされてしまう…100年後の我々津島の孫子に、ここには先祖から営々とはぐくまれてきた暮らしがあったことを記録し伝えなくなくてはと思った。」

と語る。

 

 

津島の人たちは口々に言う、「便利ではない、モノも豊富ではない、だけど人間同士の濃い関係がある、四季折々の自然の恵みがある、心豊かな暮らしだった。」

関場健治さんは語る「3月、田んぼの代掻きをするでしょう、かすかな水音が聞こえる、枯葉の下にシャープの芯のような細い水が流れている、雪解け水、ああ春だ、歓びが湧いてくる。田んぼに水をはるでしょう、向こうの山の間から月がのぼり、田んぼに月が映るんです、蛙の大合唱。夏は風呂上がりに夕涼み、満天の天の川、山菜も宝庫、まずフキノトウ、ワラビ、コシアブラ、タラの芽・・」

 

 

津島には、温かい人間関係があり、扶け合いがあった。

戦後、津島には、旧住民とほぼ同数の開拓民が入植した、満州引き揚げ者、近隣の次、三男たち、開拓民は、笹屋根の掘っ立て小屋で茣蓙を敷き、水道も電気もないコメもない、窮乏生活だった。旧住民との関係はよく、「結」でつながっていたという。

 

看護師の今野千代さん「開拓農家に生まれ、集団就職で千葉県の紡績工場へ、その後開業医に住み込みで働き、看護師資格を取る。22歳で、津島に戻り津島診療所の看護師になる。集落の人はみんな家族のようで、患者さんの子どもは私の子どもで、患者さんの孫は私の孫だった。集落の人たちが大好きだったし、皆さんから親切にしてもらった。離婚して悩んでいるとき、「帰りに寄って行け」というので、寄ると、ホカホカのご飯が待っていた。定年退職しても、集落の皆さんと暮らしたかった・・・」

 

須藤カノさん「飯舘村から、津島の酪農家に嫁いだ。夫は出稼ぎに出て、年に3か月ぐらいしか帰ってこない。酪農を舅と二人でやっていたが、夫は借金をつくり失踪してしまった。離婚して3人の子どもを抱え途方に暮れた。一家心中するしかない、長女に「みんなで死のうね」と言ったら、小学生の長女が「死ぬのはイヤだ。ご飯を食べなくても我慢する」私は、目が覚めましたね。津島の鉄工所で男並みに朝から晩まで働きました。給料は男ほどもらえなかったけど。集落の人達は、子どもに「腹がへっただろう」と握り飯くれたり「コメはあるか?」と米を持ってきてくれる、仕事帰りを待っていて、「これ持って行け」と野菜をくれる。子どもたちは津島の人たちのお蔭で育てられた。3人の子どもを高校まで出しました。津島での暮らしは、貧しかったけど、生きている実感があった、楽しかった、夢があった」

 

石井ひろみさんは語る。「アルバイト中に、大学生の現在の夫と出会った。21歳で津島の旧家の嫁に入った。結婚式の翌朝から、土間で湯を沸かすことで1日が始まった。言葉は分からない、誰かにどこへ行っても見ていられるような生活。ともかく笑顔で挨拶しようと思った。舅姑は失敗しても、いいんだよ、と優しかった。私達夫婦が、東京に行く用事があった朝、姑が倒れた、近所の人が『私が看るから、行っておいで』と言ってくれるし、私も『お願いします』と躊躇なく頼める濃い関係・・・40年かかって、津島の暮らしに馴染んでいった。私は父親が転勤族で、転校ばかりして故郷がなかった。津島、ここが私の故郷、居場所だと心底、思えるようになった。原発事故は、やっと手に入れた故郷を奪ったのです」

 

 

 残ると言い張る父親を無理に避難させ、避難生活の中で、父親も母親も亡くなった。県内に避難して、「放射能がうつる」と学校でいじめられ、不登校になった子ども達…

 

「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」は、2021年7月判決、「勝訴」「国、東電の責任を認める」の垂れ幕が裁判所の前で掲げられた。

 

今野秀則原告団団長は語る「いいえ、敗訴です。除染をするとは言わない、元の津島にするとは言わない。『たった、1400人の津島、今後何人が戻ってくるのか? 新しい土地で、住まいを用意し、経済的な保障はするから、そこで暮らせばいい?!』、経済効率から言ったら、そうかもしれない、でも、私は違うといいたい。放射能で故郷を汚したのは、東電福島原発です、原発推進を進めた国です。だったら、除染して、元の土地にして返すのが道理でしょう。不便な山村の暮らしかもしれない、でも私たちには心豊かに、愉しい暮らしだったのです。それを壊しておいて、ヤレ何人戻るのか?とか、いつまで過去に拘泥するのか、前を向いて進もう、便利なところで新しい生活をしろと指図する。おかしいでしょう。こうやって小さいもの、弱いものを踏み潰して、経済成長、復興をしようとする。これを見過ごしたら、この国は何度でも、自分らの方針、政策をすすめるために、小さいもの弱いものを犠牲する、棄民政策です。」

…口調は穏やかだけれど、東電、県、国への満腔の怒りが伝わってくる。

 

 

最後に語るのは紺野宏さん。紺野さんの家は、開通した国道114号線の近くで、1.6%の除染済み区域に入る。

紺野さんは、築200年の家の屋根や梁を残して、改築した。この家を建てた先祖に家を壊すことの承諾がとれないから、新築は出来なかったと言い、夫婦で住み始めた。「今は柳の林になっているけど、原発事故前は田んぼでした。柳を伐採して、田んぼの土を入れ替え、コメ作りをしようと思っている。戦後の開拓民の苦労を思えばなんでもない。津島で暮らすことは創造することなんです。ああしようか、こうしようかと考え、暮らしをつくっていく。故郷はそれをする土台なんです。原発はそれを奪った。私は私の『覚悟と決意』で津島に生きて、死んでいきます。」原発事故を起こして、責任を取らない東電、国、津島で暮らすことで、落とし前をつけると言う強い意志、覚悟が胸に迫る。

 

 

原発事故は生業、家族、コミュニティ、郷土、自然とのつながり――を奪ったと思っていた。だけれど紺野さん、須藤さんの話を聞いて、未来が奪われたんだと気づいた。…故郷に根を張って、あしたに挑戦できたんだ・・・和牛繁殖の畜産を始める、山から御影石の原石を切り出し加工し墓石販売をはじめる…みんな津島で生活を築いていった。

 

ただ、かつての津島の暮らし賛歌…少しひっかかるものがある。

映画のチラシの写真、津島に伝わる「田植え踊り」を演じた後の集合記念写真でしょう、衣装のまま楽器、小道具を手にしている。男性18人、端っこに4人の女性が洋服姿で並んでいる。200年続く「田植え踊り」は、重要無形民俗文化財に指定され、五穀豊穣を願って、小正月に集落の家々を回って演じる。

 

今野秀則原告団団長は、「田植えをする早乙女役で田植えの所作を演じているとき、この地で暮らし伝承して来た祖先の思いが自分の中に流れ込んできた、祖先との一体感…その後、踊る度に感じるようになった。私にとってこの裁判を闘う土性骨、この感覚があるから、闘える・・・」でも、早乙女を何故、中年の男性が演じるのか・・・伝統芸能、集落あげての、一大イベント、稲刈りが終わってから、どこかの家に集まって稽古する、女性は排除されている…かっての家父長制のしきたりで、戦後も変わることはなく、女性は参加しない。

 

 

津島訴訟団事務局で頑張る三瓶春江さん、尊敬する郷土史研究家である義父の代わりとして、走り回るのだと言う。義父の容態が悪化して、死に目に会えなくても、嫁の務めを果たさなくても、義父は「かまわない、行って来い」というだろう。―—弁解しているような・・・嫁の立場、周囲から批判、重圧があるのだろうか。確かに濃い人間関係があるけれど、嫁という立場の不自由さ。

 

映画に登場する男性はほとんどが長男、跡取りだ。進学や就職で津島を出ても、家を継ぐため津島に戻ってきた彼らは、津島のしきたり、伝統、暮らしを血肉としている、津島で暮らすことの決断はあっただろうが、戸主として、家業を盛り立て、集落の寄り合いの正会員で村の問題や課題を話し合う。女は嫁として、婚家のしきたりに従い、裏方で、家族のために生きる。

 

今野千代さんは看護師、須藤カノさんは鉄工所の労働者、二人とも離婚をし自立し自分で人生を切り開いている。旧家の嫁となった石井ひろみさんは、40年かけて婚家に、津島に馴染んだという。「津島は私の居場所、故郷」と言う、石井ひろみさんの選んだ人生だけれど。

 

 

ただ、家制度、縦の血縁は、原発事故で揺らいでいるように思う。佐々木やす子さんの次男信治さんは、自衛隊に入隊、がんが脳に転移して、21歳の若さで亡くなる。長年肝硬変を患っていた夫も急死する。津島が好きで、除隊したら、津島に戻って暮らすと語っていた息子と夫を埋葬した先祖代々佐々木家のお墓にきて、息子、夫のそばにいるのが一番心が安らぐという。次男と夫の骨は布に包んで埋めてある。私が死んだら、長男はここまで墓参りに来るのは大変でしょう。自分の家の近くに墓を作るでしょうから、その時のためです。先祖の墓守はしない。

 

紺野さんも「改築した家を子どもに継いでほしいか?」と問われて、「家を改築している時は、できればそうしてほしいと思いました。でも改築し終わると、一切そういうことは思わなくなった。子どもは子どもの人生です。」(ただ…お連れ合いは、誰も帰っていない津島に帰りたかったのだろうか・・・)

 

農家とか商家とか大勢の家族の協力があって成り立つ家業があって、嫁の「滅私奉公」的支えがあって、3世代4世代の大家族は続いてきた。でも今後、原発事故後、津島の人びとの家族の在り方、嫁の立場も変わってくのではないかなと思いました。

 

 

-F-

 

 

 


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