わたしがどうしても解けないのは以下の通りです。みんなのため、であれば、殺人もイジメも肯定され、さらに、すべては、みんなの幸福のためになればいい、という前提をとるとします。まず、そのみんなの中に被害者が1人でも含まれた場合は、多数派のためには少数派は犠牲になっていい、とも読めます。(iragaさんのコメント)

 

 

これと同じようなコメントはもう何度も答えてきました。このようなコメントにはもう答えたくないというのが正直なところなのです。殺人もいじめも「みんなの為」になるならばそれは善となるのです。殺人を悪、いじめを悪と決めつけてはならないのです。

例えば頭の狂ったやつが機関銃で通行人を次々と殺しているという場合であればその殺人犯を警察官が殺すことはみんなの為であり、その殺人は善、正しいことなのです。またいじめとは本来、その人を成長させるためにあるのです。その人の為になると思えばいじめも善となるのです。甘やかして育てるだけではなく時には体罰でもって教育しなければならないときも必要なのです。いじめ、体罰の本質を知らずに国はいじめ、体罰を悪としたから現在の学校は崩壊しているのです。

 

 

絶対善進さんは民主主義の原則を非常に大切にされていると理解していますが、異質なものを排除するのは、全体主義ではないでしょうか?また、民主主義の建て付け上、言論の自由、思想・良心の自由、あるいは請願権などが保障されなければならない点について考えると、それは、民主主義が想定する「みんな」の中には、「異質なもの」が必ず含まれていることを意味するのではないでしょうか?つまり、「みんな」のために誰かを排除することを善とすることは、民主主義の原則に反するのですが、この場合、つまり、みんなの範囲を恣意的に伸縮しうる場合において、みんなのため、という前提は必ず善たりうるのでしょうか?ここがどうしても解けないのです。(iragaさんのコメント)

 

 

「異質なものを排除するのは、全体主義ではないでしょうか?」ここにおいてもあなたは「全体主義は悪」と決めつけているのです。悪と決めつけないで、その場合の全体主義が「みんなの為」になるならばその全体主義は正しいとなる場合もあると考えなければならないのです。

また絶対善は「みんなの為」でありこれは「一番みんなの為になる答えは何か?」とみんなで考えることであり、これこそが本当の民主主義なのです。みんなが一番幸せになるだろうという答えを選択することが全体的な利益でありみんなの幸せにかなうことなのです。

またみんなの範囲は例えば国の問題であればみんなとは国民みんなのことであり、村の問題であればみんなとは村民みんなということになる。このように問題によってみんなの範囲は変わるが常に「みんなの為」であることは変わることがないのです。

 

あらゆる社会的問題において「みんなの為になる答え」こそが常に正しいといえるのです。これが間違いであるというならば「みんなの為にならないこと」で正しいというものを示してもらいたいものである。または「みんなの為になること」で正しくないというものを示してもらいたいものである。私は絶対善である「みんなの為」にかなうことはすべて善であると言っているのですからそれを論破するには「こんな場合であればみんなの為であっても悪になるのではないか」というものを一例でも示せばいいのです。

 

例えばある人は私の絶対善を論破しようとして「みんなの為になるならば少女をいけにえにすることも善となるのか」と問いました。これをもっと詳しく書けば絶対的な力を持つ化け物が「少女を一人いけにえに出さなければ村人すべてを殺す」と言ったとします。この時村人はどうすればいいのでしょうか。少女を一人くじなどで選んでいけにえとするのか、はたまた少女をいけにえにするなど絶対にできないとして村人の大人や子供たちも含めて全員死ぬことを選ぶのか。このような場合であればやはり少女一人をいけにえに出すという方を選択するのが正しいとなります。このように少女をいけにえにすることが村民みんなの為になるのであればそれは苦渋の選択ですがやはり正しいとなるのです。

このようにいかなる場合であっても「みんなの為」になるならばそれはすべて正しいとなるのです。例外なんてないのです。

 

みんなに関する問題において「みんなの為」にならない答えが正しいなんてことは誰がどう考えてもありはしないのです。みんなに関する問題で「みんなの為になる答え」こそが常に正しいというのは誰であっても否定することなどできないのです。絶対善とは「みんなの為=みんなの安心・幸せ」で絶対に間違いはないのです。