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モン族を追い続けたフォト・ジャーナリスト  竹内正右さんが和英併記のデジタル本で世界に問う!

2024-05-14 05:16:04 | 特別記事

モン族を追い続けたフォト・ジャーナリスト
竹内正右さんが和英併記のデジタル本で世界に問う!

 

 本ブログ編集人(山本徳造)が畏敬するフォト・ジャーナリストの竹内正右さんが5月1日、Amazonが提供する電子書籍サービスのKindleからデジタル本を出版しました。日本語と英語を併記した『ラオス秘密戦争:インドシナ戦争の源を追った唯一のフォト・ジャーナリストの記録(The Secret War in Laos)』(22世紀アート)です。
 サブタイトルは「インドシナ戦争の源を追った唯一のフォト・ジャーナリストの記録(THE ORIGINS OF INDOCHINA WAR FOLLOWED AND DOCUMENTED[1973-2004]WHO WAS ONLY ONE PHOTO JOURNALIST)」。

 

 まずは「まえがき」を読んでもらいましょう。

《「南を解放するには、まずラオスを共産化させねばならない」。1951年、ベトナム労働党(インドシナ共産党を改称)第2回党大会でのホーチミンの言葉である。
 1954年5月、ディエンビエンフーでフランス軍はボー・グエンザップ将軍率いるベトミン(ベトナム独立同盟)軍に屈辱的な敗北を喫し、第1次インドシナ戦争に終止符が打たれた。しかし、中国の共産党政権の影響を懸念し、フランス軍にCAT(Civil Air Transport、エアアメリカの前身)の飛行機と武器、資金を援助していた米国は、アジアの共産化を恐れ、同年7月のジュネーブ協定締結後もインドシナに介入を続けた。
 1955年北ベトナム公安局はKGBに暗号技術と軍事顧問を要請。1959年5月22日付公開文書 「ソビエト初の偵察衛星ボストークに関し、ホーチミンルート上のKGB要員の暗号支援に党中央委員会は合意す」。 同年、G559(ルート造り、輸送)が初の南下。このG559を追う米陸軍安全局(ASA))が声を収録する。
 1961年1月米国大統領となったジョン・F・ケネディはラオスで「特殊戦争」を開始する。
 しかし、1965年3月8日、ベトナム中部ダナンの海岸についに米国海兵隊第9個連隊が上陸、「ベトナム戦争」が本格的に始まる。サイゴンに本部を置く米国軍事支援団 (MAAG) はホーチミン・ルート分析のために 「戦略村作戦」を展開。またラオス北部のファティ (リマサイト85)に設置された全天候電子誘導サイトは、ハノイ、ホーチミン・ルート、そしてパテートラーオの本拠地サムスアを爆撃するための拠点となった。米国は東北タイのウドンタニー、ナコーンパノム、タクリを基地に300万トンという信じ難い量の爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊(HSGU))を組織した。
山岳戦でモンにラオやベトナムの共産側兵士を殺させるという戦略である。しかし、ホーチミン・ルートは、北ベトナムにとっては南部攻略のために死守しなければならないものだ。ラオスでの戦闘は激化し、おびただしい数の死者が出た。だが、前線にジャーナリストが近づくのは不可能で、その全貌が明らかにされることはなかった。ラオスの戦いは 「秘密戦争」そのものだった。
 1975年4月30日、サイゴンが陥落し、米国はインドシナから逃げ出した。ペトナムは多大な犠牲を払って、この戦争に勝利したのである。
 8月22日、ビエンチャンが陥落する。しかし、ラオスの戦争はまだ終わらなかった。米軍が去り、おきざりにされたモンの兵士とその家族を待っていたのは共産側からの報復だった。本当のモンの悲劇」 はそこから始まったのである。
 それから30年。
 2004年の今、アメリカはイラク、アフガニスタンで大量のクラスター爆弾を投下し続けている。アメリカがこのクラスター爆弾を最初に投下したのはラオスである。そして、クラスター爆弾の子爆弾900万個が今なおラオス山中に眠っている。
 2004年6月、イラクでモン兵士の最初の死者が出た。ラオスから米国に逃れて再定住したモンは米国生まれのモンを含めると23万人をこえた。そして、米軍に加われば市民権を得やすくなるという理由で、多くのモンの青年が異国の戦場に赴いている。戦争は終わっていない。》

 

―私たちはいつまで大国のエゴにつき合わなければならないのか―

ホーチミン・ルートを使用した北ベトナム軍の南下を防ぐために、ジョン・F・ケネディはラオスに軍事顧問団を派遣する「特殊戦争」を開始した。山岳民族モンの青年たちを訓練して特殊攻撃部隊を投入し、兵器の実験場と化したラオスで300万トンもの爆弾をばら撒いて、多くの死者を、多くの惨劇を生み出した。ーー長らく明らかにされなかったこの秘密戦争の真実と、今なお続く悲劇の連鎖をカメラで捉えた著者渾身のフォトジャーナリズム。

 

 

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その内容は―

[目次]
 まえがき

第1部 秘密戦争
第2部 共産主義者の勝利のあとで
第3部 ラオス退役軍人会の息子たちはイラク戦争に
 あとがき

Contents
 Preface
Ⅰ A Secret War
Ⅱ After the Communists took power
Ⅲ Sons of Lao Veterans join the Iraq War
 Postscript

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。

 

 

■竹内正右さんに聞く

 本ブログ編集人(山本徳造)は早速、竹内正右さんにインタビューしました。

―どうして今回は紙の本ではなく、kindleのデジタル本にしたのですか?
竹内 ちょうど20年前の2004年に『ラオスは戦場だった』を上梓した。けど、今回は日本人だけでなく、アメリカに移住したモンの人たち、とくにラオスが戦場だったことを知らないモンの若い人たちに読んでもらいたかった。もちろんアメリカの若い人たちにも。だから、和文と英文の両方で読めるようにしました。

―そうですか。それにデジタル本なら、わざわざ書店にいかなくても、世界中どこにいても簡単に読めますからね。
竹内 ええ、アメリカに住むモン族の若者だけでなく、アメリカの若い人たちにも読んでもらいたい。インドシナ戦争に関し、米国がモン投入の作戦、いわゆる「弾み作戦」を公開したのは、ほんの10年前のことです。それほど極秘のことだった。だから、モン族が果たした役割を、ほとんどのアメリカ人は知らない。

―その「弾み作戦」とは、一体どんな作戦だったのですか?
竹内 この作戦は1959年に極秘組織の「5412委員会」が立案し、1961年1月に承認されています。最終的には、当時のケネディ大統領がモン投入に署名した。本来は米軍の地上部隊を14万の投入する計画でしたが、土壇場で身代わりのモン部隊が投入されたのです。

―身代わりですか。
竹内 ラオスのジャングルでアメリカの青年兵士たちを犠牲にしたくないという本音が突然出てきたわけです。アメリカの国防総省は戦後、「モン投入がなかったら、アーリントン墓地にあるベトナム戦争戦死者慰霊碑の死者数は5万8000人どころか、この3~4倍にもなっていたはず」との公式見解を出している。
 
―ところで、インドシナ戦争の終結でラオスも社会主義国になったので、そこでアメリカに協力したモン族の多くがアメリカに逃れましたね。
竹内 1975年5月14日にラオスのロンチェン基地を脱出したバンパオ将軍とその部下は、タイ北部に移動し、将軍とその一部が米国のモンタナ州に移住しています。

―なぜモンタナ州を選んだのですか?
竹内 インドシナ戦争中、モンタナ州の森林レンジャーが消火作業がないシーズンにラオスに行った。モン族の地上部隊に武器や水、食料、医薬品などをヘリコプターから投下する作業などをして支援をしていたんです。その関係上、モンとの信頼関係が生まれていた。モンの敗北を耳にした森林レンジャーたちは、いち早くモンの兵士とその家族を迎え入れたというわけです。

―最初にアメリカ取材をしたのは? 
竹内 1986年にモンタナ州のモンを追ったのが最初です。

―その後もアメリカ取材が続くのですね。
竹内 1998年にカリフォルニア州での「モン秘密部隊の認証式」を取材した。フレズノ市郊外のモンの墓地やモン伝統行事のモン正月も取材しています。2001年にはワシントンを訪れて、アーリントン墓地のケネディの墓に。2011年に病死したバンパオ将軍のモン伝統葬儀を取材。6日間の葬儀に全世界から30万のモンが集合しました。

―現在、アメリカに住むモンの数は?
竹内 その数、23万人とも言われています。在米のモン人口は2024年現在、35万人弱です。そのうち約20万人がカリフォルニア、ウイスコンシン、ミネソタの3州に集中し、残りの15万人が他の州に散在している。でも、実際にはその2~3倍はいるかも。

―どういうことですか?
竹内 モンの風習として多重婚がある。この独特な習慣は、私がラオスにいたときに、よくみられたものです。一応、在米のモンはアメリカの法律を守らないといけない。それでも違反するものが多くいるわけです。多重婚だから、奥さんが2人も3人もいてもおかしくはない。当然、子供も増える。ただ、第一夫人以外の子供は、アメリカの社会福祉から恩恵を受けることができない。
 
―そうすると、いろんな問題が生じてくる。
竹内 米国社会に適応するモンも大勢いるが、適応しないものも大勢いるのも現実です。チャイニーズ・マフィアに対抗してモンのマフィアに入る若者も少なくない。デトロイトの都会に住むモンの人々を描いた映画『グラン・トリノ』は、俳優のクリント・イーストウッド監督作品でした。その中に、社会からあぶれたモンの青年たちの姿が登場します。

―逆にアメリカ社会で活躍しているモンは多いのでしょうか?
竹内 米軍の幹部将校や、弁護士、医者、会計士になって活躍しているモンの青年たちも少なくない。親たちから引き継いだモンの血がそうさせるのかも知れません。米軍のモン青年たちは、今や米国にとって欠かせない存在となりつつある。在米のモンの指導者バンパオ将軍は生前、「在米の若いモン女性は大学を目指すべきだ」とよく励ましていた。現在、モン女性が、ハーバード、エール、カリフォルニア大学などに数多く在籍している。イラクの前戦には、攻撃ヘリのパイロットを務めるモン女性もいました。バンパオ将軍はこうも言っています。「近い将来、モンも宇宙を目指すだろう」と。案外その日は、近いのかもしれない。


 ―今後、モンを取材する予定は?
竹内 日系人社会を追うかのように、在米モン社会も2025年には米国移住50年目を迎えます。そして、これまで住んでいたラオスの自分たちの村々にベトナムの軍人やベトナム人の入植者で埋まりつつある。ラオスの地下資源や水、森林資源を狙っているんです。アメリカとラオス。私はこの二つの現場を再び歩く予定です。(インタビューが行われたのは5月13日)

 

【同書の一部を紹介】


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