古代日本の歴史を謎解き

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弥生時代の倭国は九州の事

2021-12-19 13:30:44 | 歴史
邪馬台国九州説で申し訳ありません。
魏志倭人伝に登場する邪馬台国と卑弥呼
メインの部分
・女王の国まで(帯方郡:ソウル当たりから)1万2千里
・壱岐対馬を経由して末廬国(松浦半島)まで海路1万里
・残り200里で九州北部
で間違いありません。
遺跡研究からは奈良の
箸墓古墳と纏向遺跡
纏向遺跡では大きな村つくりの跡があり
卑弥呼がもらったとする沢山の鏡も出土しています。
箸墓古墳は,径100歩と卑弥呼の墓と一致
最初の前方後円墳と云われています。
魏志倭人伝にある
邪馬台国に至るには南へ水行10日陸行1月
を奴国(博多湾)を出発で南と東の間違いあり
と解釈して邪馬台国 金季節の主張です。

この二つの事実が成り立つ方法は
倭国とは九州の国の集まりで
近畿には大和朝廷の始まりの国ができ始めていた。
大陸が知る倭国の知識は
『論衡』(ろんこう)では
・周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
・成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。
紀元前1000年ぐらいです。
漢書では
楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
後漢所では
57年 倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
実際に博多湾の志賀島で発見された「親魏倭王」の金印です。
この時代も倭国からの一方的な接触です。
その後、枠大乱が100年ほど続き
100国が30国にまとまり
女王卑弥呼が登場します。
新羅本記では
173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
この時代には
邪馬台国を中心に連合国家体制が出来ていたようです。
漢は朝鮮半島に
108年に楽浪郡を設置
204年に帯方郡を設置、一大卒と呼ばれる役人たちを使って支配します。
そして魏志倭人伝では
伊都国に大陸の役人一大卒がいて恐れられています。
伊都国までの情報は間違いありません。
近くの奴国、不弥国も間違いないでしょう。
しかし、その南につまびらかに出来ない国々が
その南に卑弥呼が住む邪馬台国
さらに南に、卑弥弓呼の狗奴国です。
卑弥呼は大陸の役人を邪馬台国まで迎え入れてはいません。
邪馬台国に初めて入国した役人は
248年 卑弥呼の死後、張政らで
以後、壱与とともに新しい国造りしました。
これにて弥生時代が終焉します。
張政らは正しい邪馬台国の場所を知っていたはずですが
その場所は詳しく紹介していません。
理由は、最初に紹介した位置関係が
正しかったからです。

同じ時代に
山陰地方に出雲
近畿地方に大和
の国があり、同じように祈祷師を信仰する
祈祷信仰の連合国だったのでしょう。
もちろん、山陽地方や四国にも沢山お国がありました。
古墳時代には、それぞれの国が発展します。
後の旧唐書には
日本国は倭国の別種なり。
その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、
日本国と倭国は別で
東の国(近畿)が日本と名を変えた
それか
倭国が日本と名を変えた
それか
倭国と周囲の国々を合わせて日本とした。
いずれかはわかりませんが
倭国と日本と二つあった時代があった事は
間違いないようです。
古墳時代でも
日本は九州、出雲、大和など沢山の国々わかれていました。
その前の弥生時代は
九州も北部の倭国と南部の狗奴国があります。
九州北部が卑弥呼信仰連合の倭国で間違いないと思います。
長くなってしまいました。
次時間があるときにわかりやすく説明したいと思います。

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