フランスの風刺画(1815年頃)「1815年10月20日イギリスが、アフリカ人を
講和の仲間に入れて、奴隷貿易廃止条約を結ぶ」。Bibliothèqe nationale de
France. ©Wikimedia. 奴隷貿易の廃止は、初め人道主義に基く運動により
1807年まず英国で成立し、08年アメリカ合州国,14年オランダが続いた。
英国は1815年ウィーン会議でも各国に要求し、和平取引の一手段とした。
1840-57年、英国は西アフリカ諸国と 45の条約を締結し、奴隷貿易を禁
ずるとともに、内陸探検を正当化し、アフリカ植民地分割の基を築いた。
【57】 「フランス革命」の文化的影響
――「近代ジオカルチュア」の成立と拡散
このあと第Ⅲ巻では、英仏抗争〔18世紀〕~英国のヘゲモニー〔19世紀前半〕のもとで、「近代世界システム」周辺部での南北アメリカ諸国の独立、および「システム」が外延部〔アジア・アフリカ〕に拡張してゆく「取り込み」の過程を描いています。この段階で「システム」に取り込まれるのは、ロシア、トルコ,西アフリカ,インドなどです。一部だけでもご紹介したいですが、その前に、「フランス革命」の文化的・政治思想的影響、つまり「近代ジオカルチュアの成立」という・より大きな問題を片づけておきたいと思います。そのために、先に第Ⅳ巻を見ることにします。
『フランス革命とは、英仏のヘゲモニー争いの最終局面の一部であり、〔…〕ヘゲモニー争いは、〔…〕イギリスの勝利となって終った。〔…〕
英仏のヘゲモニー争いがもたらしたひとつの結果として、資本主義的世界経済が、2度目の〔1度目は、16世紀の「地理上の発見」――ギトン註〕大規模な地理的拡大を経験したという事実がある。4つの地域、すなわちロシア,オスマン帝国,インド亜大陸,西アフリカが、〔訳者註――近代世界システムという〕かの枢軸的分業体系に組み込まれた。
決定的に重要なことは、これまで外延部にあった世界が資本主義的世界経済に「周辺」として組み込まれると、どんなことが起こったか〔…〕である。組み込み以前の〔…〕構造はそれぞれに違っていたのに、組み込みによってこの4つの地域は、大なり小なり似通った構造をもたされることになった。
最後に〔ギトン註――第Ⅲ巻〕第❹章では、〔ギトン註――南北アメリカ諸国の独立を述べて、〕はじめて、公式の植民地の脱植民地化の概念を扱った。なぜそんなことが起こったのか、なぜそれが新たなヘゲモニー国家〔イギリス――訳者註〕の出現と結びついていたのかを論じた〔…〕。
しかし、南北アメリカにおける脱植民地化は、「入植者」〔白人植民者――ギトン註〕のそれであって、先住民の生活権の回復ではなかった〔…〕。唯一の例外はハイチであったが、そのハイチは孤立させられ、破壊されてしまった〔…〕
フランス革命が全体として近代世界システムに与えた文化的影響を、この巻〔第Ⅳ巻――ギトン註〕のキイをなす主題としたい〔…〕。それを私は、近代世界システムのジオカルチュアの産物と見なしたい。つまり、この世界システムの全域で広く受け入れられ・以後の社会的行動を制約することになる・一連の思想,価値観,規範など〔その基本は、ⓐ進歩の思想 ⓑ主権在民――ギトン註〕のことである。
フランス革命は、政治変革の正当性〔「進歩」の思想――ギトン註〕と主権在民の概念を正当化した〔…〕。ペアをなす・この2つの信念は、さまざまな影響をもたらした。まず第1に、2つの概念が広く流布した〔…〕反応として、① 近代の3つのイデオロギーが生まれた。保守主義,自由主義〔「中道自由主義」――ギトン註〕,急進主義〔…〕である。中道自由主義がほかの2つのイデオロギーを「飼い馴らし」、19世紀が進行するとともに、勝利していく〔…〕。具体的には、ことはイギリスやフランスのように、② 自由主義国家の創設というかたちをとって進行する。
1832年「6月暴動」。1830年「七月革命」の結果、立憲王政が誕生したが
これに不満な急進派(共和派)に率いられたパリ民衆が蜂起した。
『レ・ミゼラブル』(2012年・英米映画)より。©Wikimedia.
またこの過程は、③ 主要なタイプの反システム運動〔社会運動とナショナリズムを総称する・ウォーラーステインの用語――ギトン註〕の誕生を促進したが、同時に、その〔反システム運動の――ギトン註〕インパクトを一定の範囲内に抑える役割をも果たした。反システム運動の概念は、ここではじめて登場する。ここでは、市民権という概念によってもたらされた利点と、そうした利点の程度に〔…〕抱かれがちな幻想とを扱う。最後に、この過程はまた ④ 歴史的思考に基く社会科学の形成を推進したり、反対に抑制したりしながら進行する。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.6-8. .
【58】 「イデオロギー」とは何か? ――
近代世界の3つのイデオロギー
『1815年に新たに〔…〕現れた政治的現実で最も重要なことは、政治は変革されてあたりまえという考えが、時代の風潮となったことであった。〔…〕さらに、ますます多くの人びとの心の中で、主権のありかが、君主〔…〕から「国民」に移行したという事実もある。これが、フランス革命・ナポレオン時代の主要なジオカルチュア上の遺産であったことは明らかである。
その結果、変革は当然〔…〕とし・主権在民の〔…〕実践を求める人びとの要求と、〔…〕自分たちの権力を維持し・無限の資本蓄積を追求しつづけたい〔…〕有力者たちの願望とを、どのようにして調整するかが、1815年およびそれ以後、人びとが直面』する『根本的な政治課題となった。
〔…〕相対立する・こうした利害のギャップを埋めようという試みを、ここでは「イデオロギー」と呼ぶことにする。イデオロギーは、たんに世界観のことではない。〔…〕イデオロギーとは、政治的メタ・ストラテジー〔超戦略――ギトン註〕である。』したがって、『政治変革が正常な現象と見なされているところにのみ存在する〔…〕。資本主義的世界経済が行き着いた世界が、まさにそれであった。日常の政治活動の手引書としても、〔…〕活動に伴う現実的な妥協を正当化する信仰箇条としても、19,20世紀を通じて大いに使われたイデオロギーを醸成したのは、まさにこのような世界だったのである。〔…〕
イデオロギーとは、実際には、近代化にかかわる政治的プログラムのことである。〔…〕
〔…〕イデオロギーとしての自由主義は、〔…〕フランス革命の結果であって、その〔ギトン註――「フランス革命」そのものの〕政治文化を示しているわけではない』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,pp.10,18. .
つまり、「イデオロギー」とは、たんなる世界観でも、凝り固まった偏見でもない。それは、広く言えば、異なる意見を調停して、人びとを一つの方向に向かせるための・つまり「政治」のための手段であり、一種の「信仰箇条」なのです。近代の場合には、それは必然的に、異なる「利害」のあいだを調停するものとなります。なぜなら、近代においては物質的「利害」が、人びとの一致を困難にする最大の障害として登場するからです。
イギリスの炭鉱で働く子供たち。作者不明,19世紀か? ©MeisterDrucke-952332
では、近代以前は、どうだったのか? 私は、古代にも「イデオロギー」はあったと思います。ただそれは、「物質的利害」を調停するためではなく、「ミニシステム」の中で生きていた人びとを、その外に連れ出すために必要だったのです。「ミニシステム」の枠を超えて、その外にある「聖なる」存在を信じさせ、貢物や力役を奉納することを納得させるためには、特別な「イデオロギー」が必要でした。これは、単なる暴力や脅迫では達せられないことです。
近代の「イデオロギー」は、ひとことで言えば「自由主義」〔中道自由主義〕です。「自由主義」が登場すると、反発としてその両側に「保守主義」と「急進主義」が生じました。「長い16世紀」に勃興した「近代世界システム」の有力者たちにとっては、「無限の資本蓄積」こそが信仰箇条であって、「自由主義」は、それをやりやすくするための政治的手段ないし “看板” としてのみ利用価値を認められるにすぎませんでした。彼らにとっては、㋑ 統治者(王)は「聖なる」存在である、㋺ 階層秩序は絶対的必然(自然なもの)である、という旧いジオカルチュアが維持できるのであれば、そのほうがよかったのです。それらのもとでも、さしあたって資本主義活動に支障は無かったからです。彼らの意向に適合するイデオロギーが、「保守主義」〔その時点ごとに、起こりうるすべての「進歩」を食い止め、可能な限り旧に戻そうとする立場〕です。
ところが、「フランス革命」が引き起こした激しい政治的変化が「進歩」〔政治の変化はあたりまえ、という考え〕の思想を提起し、ナポレオン戦争は、それをヨーロッパじゅうに〔南北アメリカにも〕拡散しました。同時に、もとは、国家の・他の国家にたいする自立を意味する「主権」の概念が〔自明なこととして、そのような「主権」は国王が持っていると考えられていたのが〕、「国民」こそが「主権」の保持者だと考えられるようになってきた。こうして、近代特有の「ジオカルチュア」が拡散し、とくに、資本主義の個々の作用に疑問や不満をもつ人びとの心を強くとらえるようになったのです。こうして「急進主義」が形成されてきました。
ウォーラーステインの(『近代世界システム』執筆当時の)考え方では、「自由主義」とは、ⓐ「進歩」の思想 ⓑ「主権在民」という「近代ジオカルチュア」と、「無限の資本蓄積」の追求を優先する人びとの利害とを調停する「イデオロギー」であったのです。
【59】 イデオロギー ――
「保守主義」と「(中道)自由主義」
エドマンド・バークらの『保守主義のイデオロギーは、フランス革命が、社会的諸力の「自然な」長期的進化の筋道を混乱させるような・意図的な政治的変革の例であった、とする革命像と深く結びついてきた。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅣ』,2013,名古屋大学出版会,p.11. .
つまり、「フランス革命」以後の近代世界における「保守主義」は、あらゆる政治的変革を否定する考え方ではないのです。その点で、「政治の変革はあたりまえ」という「進歩の思想」(ジオカルチュア)は、保守主義者にも深く浸透していたと言えます。
Josua Reynolds, ”George Clive and his family with an Indian maid" 1765.
『インド人女中とジョージ・クライヴの家族』Staatliche Museen, München.
©Wikimedia. ジョシュア・レイノルズは、エドマンド・バークと共に
英国保守主義のサロン「文学クラブ」を結成した。
「あらゆるイデオロギーがそうであるように、保守主義も」、その政治プログラムを実現するためには、何よりもまず、「国家権力を維持しつづけるか、取り返すかしなければならないことを熟知していた。国家の諸制度こそは、彼らの目標を達成するのに不可欠な〔…〕道具」であった。
「保守主義者にとって理想的」な解決は、自由主義の傾向が、国家機構の中からも外からも完全に無くなることでした。しかし、次善の解決策としては、「政治的変革〔…〕は、可能な限り慎重にやるように、立法者たちを説得することであった。」
「保守主義が、政治的な力を維持しつづけ」ることができたのは、「[主権者]とされた民衆のあいだで、改革への幻滅が繰り返された」からでした。その意味では、「主権在民」という「ジオカルチュア」の第2項もまた、保守主義者にとって、否定し去るよりは、タテマエ上認めて利用すべき当代思潮となっていったのです。
「保守主義者は、権威を具現するものとしての国家は支持したが」、国家が立法を行なうことは歓迎しませんでした(これは、立法が権威の強化を意味した日本の「明治国家」とは、大きく異なる点です)。国家の立法は、「フランス革命」に見られるように、強制的な・つまり急激な変革を意味したからです。したがって保守主義者は、「中央集権的な国家には懐疑的であった。その結果、〔…〕地方分権主義を好む傾向が」生じた。保守主義の主な信奉者である「名望家たちは、地方レヴェル」に権力基盤を持っていたからである。
「イデオロギーとしての自由主義は、政治哲学としての自由主義」つまりロック,ヒュームらの理想主義的な哲学「とは対立するもので、」むしろ現実の党派的鬩ぎ合いのなかから生まれた政治プログラムなのです。フランス革命や急進派の「人民主権の要求に直面して」それを躱 かわ すために「立てた超戦略 メタ・ストラテジー としての自由主義は、良き社会についての形而上学としての自由主義とは対極のものであり、多数の・しばしば相矛盾する利害の相剋によって生みだされたのである。」
「自由主義は、いわゆる[近代的であるという意識]を前提にして〔…〕、保守主義の対極として自らを定義した。自由主義者は、自ら普遍主義者だと称してもいた。〔…〕近代的世界観が真実である」と「確信していた自由主義者たちは」、この世界観を「喧伝し、あらゆる社会制度に、この世界観の論理を注入しようとした。そうすることで、過去の[不合理な]残滓をこの世から一掃しようと」いうのであった。
「自由主義者たちは、進歩は必然だ」と信じていたけれども、「人間の努力なしに達成される」とは思っていなかった。「自由は、与えられるものではなく、闘い取られるものである」というのが、彼らのスローガンでした。「時はみんなの味方であり、必ずや・より多くの人により多くの幸福をもたらす」。このことを「肝に銘じて意識的・継続的に〔…〕改革を進めていくことが不可欠である」と。
しかし、「自由主義が、一つのイデオロギーとして〔…〕支持と権威を獲得するにつれ、その左翼としての性格は弱まっていった。〔…〕19世紀になると、自由主義は中道として制度化された。〔…〕両極を都合のいいように定義すれば、ひとはいつでも自分を中道におくことができる。自由主義者とは、このことを基本的な政治戦略とする決心をした人びとのことである。〔…〕要するに、自由主義者とは、変革のペースをコントロールし、自分たちが最適と考える速度にもっていこうとする人びとのことである。」
「1814-15年 ウィーン会議」の風刺画。1815年3月。作者不明。
ボドリアン図書館。©Wikimedia
「自由主義は、けっして反国家主義のメタ・ストラテジーなどではなかったし、〔…〕夜警国家のそれですらなかった。〔…〕自由主義はいつでも、〔…〕個人主義という羊の皮をかぶった・強力な国家のイデオロギーであった。」
「イギリス,フランス両国は、」16-18世紀の「あいだに、すでに強力な国家機構を完成させていた・ただ2つの国であった。しかし」両国家とも、まだ「民衆のあいだに十分な正統性を獲得して」はいなかった。「フランス革命は、この2つの国家がそれまで持っていた正統性を打ち壊してしまっ」た。「19世紀の自由主義は、この正統性を」再生させ、「結果として、これらの国家の力を、国内的にも、世界システム上においても、強化しはじめたのである。」(pp.11-14,16-17.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!