ウジェーヌ・ドラクロワ民衆を導く自由の女神』(1830年)。直接には、

1830年「七月革命」を描いた作品。あまり注意されないが、画面下部

3分の1を義生者が埋めている。©www.claudinehemingway.com.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【48】 「フランス革命」――古典学説の第1世代

 


 「フランス革命」に関する最初の古典的見解は、フランスの社会主義者ジャン・ジョレス〔1859-1914〕の『フランス革命の社会史 Histoire socialiste de la Révolution Française〔1901-04年〕によって表明されました。フランス革命と言えば、それまでは恐怖政治,ギロチン,ロベスピエール独裁を想起させるような否定的イメージで見られていました。ジョレスはそれを、「ブルジョワ革命」として理念化・理想化して描くことによって、人類の解放への歴史的一階梯という肯定的評価を与えたのです。

 

 ジョレスの提唱をひきついで、詳細な実証研究によって支持したのが、アルベール・マチエ,アルベール・ソブール,ジョルジュ・ルフェーブルら、「古典学説」のいわば「第1世代」です。日本では、「大塚久雄学派」の高橋幸一郎氏が、このグループに属します。

 

 

テニスコートの誓い。1789年6月20日、「三部会」開催中のヴェルサイユ宮殿で

第3身分議員と・一部の第1・2身分議員が集まり、憲法制定まで解散しないこと

を誓い合った。中央で誓言を読み上げる天文学者バイイ。Jacques-Louis David:

"Serment du Jeu de Paume", 1790s. カルナヴァレ博物館 ©Wikimedia.

 

 

『この学派の創始者と考えられるジョレスにとっては、「フランス革命は、ブルジョワジーを権力と経済の主人たらしめた・長期の経済的・社会的変化の結果」にほかならなかった。

 

 こうして、フランス革命の社会史的解釈〔=「古典学説」。ブルジョワ階級資本主義経済が・ついに政治権力を掌握した社会革命として理解する解釈――ギトン註〕〔…〕だけが、真に科学的とみなされる資格をもつのである。〔…〕

 

 フランス革命は、ネーデルラント革命〔=オランダ独立戦争――ギトン註〕、イギリス革命〔清教徒革命と名誉革命――ギトン註〕、アメリカ独立革命にならって、ブルジョワジーを権力の座に押し上げ〔…〕たうえ、資本主義経済を解放し発展させた、より一般的な歴史の展開の一部である。〔Albert Soboul, "L'historiographie classique de la Révolution française. Sur des controverses récentes", La Pensée, № 177, oct., 1974.〕

 

 このグローバルな視角は、〔…〕近代史についてのグローバルな視角の一部である。〔…〕フランス革命の社会史的解釈が、本質的にその〔ギトン註――自由主義史観〔…〕こそが、イギリスに「最初の産業革命」があったとする学説を生んだものである〔…〕

 

 人権宣言は、〔…〕〔ギトン註――フランス〕革命全体を具現するものと言える。〔…〕この思想が普及したのは、ブルジョワの勃興を反映してのことであったが、これが西洋に共通の理想を生みだし、そこから西洋文明の新展開をもたらした。〔…〕わが西洋は、幾多の変遷を経た今〔フランス革命の時点――ギトン註〕、ふたたび人間の解放を実現することに精力を集中することとなったのである。〔Georges Lefebvre, Quatre-vingt-neuf, 1939.〕

 

 〔…〕社会史的解釈〔…〕には、3つの根本的主張が含まれている。〔訳者註――第1に〕この革命は、封建的な秩序と〔…〕貴族に反対する革命であった。〔訳者註――第2に〕この革命は、〔…〕資本主義の社会秩序への移行に必須の段階であり、すなわちブルジョワジーのためのものであった。〔訳者註――第3に〕ブルジョワジーは、民衆の支持に訴え〔…〕て初めてこの革命に成功しえたのだが、結果的には民衆はせいぜい革命の副次的な受益者〔…〕その儀性者ですらあった、ということである。

 

 「18世紀末に至るまで、フランスの社会構造は本質的に貴族社会であった」と言われ〔…〕、フランス革命は、〔…〕領主制と封建社会の特権階層を打倒したという意味で、「ブルジョワ資本主義社会」の到来を画したというのが、ソブールらの主張である。

 

『18世紀フランス、〔…〕「封建的」であるばかりでなく「貴族反動」を経験しつつあ〔…〕るフランスでは、ブルジョアジーはひどい欲求不満に陥っていた。とくに、「労働力獲得の自由,生産の自由,売買の自由など〔…〕資本主義の基本的自由」が制限されているために、製造工業への投資について、つよい欲求不満の状態にあった。


 こうした自由は、イギリスでは広く獲得できるようになり始めていたのであり、これを利用した人びとが産業革命を開始した』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.23-24. .

 

 

ジャン=バティスト・ラルマン「1789年7月14日のバスチーユ襲撃と監獄長

ド・ローネーの逮捕』(1790年)。フランス革命博物館。©Wikimedia.

青い貴族将校の服装をした監獄長が引き出されている。「三部会」の強制解散

を決めた国王側がパリに鎮圧軍を差し向けようとする折り、軍の要塞監獄を

目標にした「サンキュロット」群集の・暴動的な「先制防衛」行動だった。

 

 

 ここで古典学説は、マルクスを援用して、近代化ないし「資本主義化」には〈2つの道〉があったとします。㋐ ひとつは、「プロイセン型の道」で、絶対王政国家と貴族領主層が、商工業ブルジョワジー(政商)を育成しつつ、自らも表面的なブルジョワ化〔「再版農奴制」の強化〕を遂げて資本主義に移行してゆくというものです。日本の「明治維新」「殖産興業」も、この類型に属します。第2は、「マルクスが[真に革命的な道]と呼んだ・商人ではなく生産者が資本主義を担ってゆく道」です。17世紀に「市民革命」〔清教徒革命と名誉革命〕を経験したイギリスでは、すでに経済的「自由」が獲得されていたので、ほとんど障碍なく  の道を進んだ。フランスでは障碍が多かったが、「大革命」〔1789-95年〕以後、→ナポレオン帝政→王政復古→「七月革命」〔1830年〕→「二月革命」〔1848年〕‥‥と、ジグザグに揺れながら、基本的には  に近い道を歩んだ、というのです。

 

 つまり、「階級闘争」的な観点で言うと、ブルジョワジー(資本家階級)という新たな階級が、封建時代の支配階級である領主貴族とその政府を打倒して、資本主義の発展を邪魔する身分制や諸規制を除去する  こそが本来的な資本主義への道すじであって、㋐ のような妥協的で中途半端な道すじだと、封建的遺制がそのまま残って社会の進歩を阻害する、という考え方なのです。

 

 それでは、 の「資本主義化を担ってゆく」べき「生産者」とは、どの階層なのか? ‥ソブールら、古典学説の第1世代は、「大革命」時代の貴族化した「ブルジョワ」上層部よりも、小商人や手工業者、つまり「サンキュロット」に、それを見ていたようです。政治的党派で言えば、「ジロンド党」よりも「ジャコバン派」なかんずく「ロベスピエール派」です。

 

 たとえば、ジョルジュ・ルフェーブルによれば、「大革命」は、「貴族の革命」「ブルジョワの革命」「平民(サンキュロット)の革命」「農民の革命」という複数の「革命」が、主導権をめぐって争う「複合革命」だった。しかし、究極的には「ブルジョワジー」の経済活動の自由を解放する方向に動いた、とするのです。また、ソブールは、ブルジョワジーは「そもそも貴族の打倒などということは望んでもいなかった」と言うのです。貴族の打倒,封建制の除去〔内容については論争があるが…〕というラジカルな方向に進んだのは、もっぱら「平民(サンキュロット)」の力によってだった。経済活動の自由という「ブルジョワジー」の穏健な要求さえ、「平民」の “実力闘争” がなければ勝ち取れなかった、ということになります。

 

 高橋幸一郎氏の場合は、もっと明確に述べています。「サンキュロット」すなわち自営商工業者層こそは、草創期における「ブルジョワ階級」の存在形態であった。貴族領主化しつつあった・当時のいわゆる「ブルジョワ」ではなく、「サンキュロット」階層こそが、その後の「資本主義化を担」い、「ブルジョワ階級」に成長してゆく階層だったのだ、と。

 

 

ロベスピエールの肖像。ルイ=レオポルド・ボワイ画。1791年頃。

リール宮殿美術館。 ©Wikimedia.

 

 


【49】 「フランス革命」――古典学説の第2世代

 

 

 当時の貴族男性の正装は、「キュロット」すなわち半ズボン(はかま)と長ソックスという出で立ちでした。市民(ブルジョワ)の上層部は、カネを貯めて土地と爵位を買い、貴族領主化することを目標にしていましたが、まだ貴族の地位を買えない市民も、「キュロット」を穿いて、恰好だけは貴族になりきるのがハヤリだったのです。長ズボンは、労働者の服装だったのです。

 

 「サンキュロット」とは、キュロットを穿かない人、つまり長ズボンの人という意味です。貴族になりたいなどとは思わない人たち、具体的には、商店・作業場の職人・雇人や自営業者,零細な商工業主がふくまれていました。ちなみに、「サンキュロット」派の頭目とされるロベスピエールも、肖像画↑を見るとキュロットを穿いています。はたして、どれだけ庶民意識を持っていたのか、疑われるところです。

 

 ロベスピエールに代表される小市民・「サンキュロット」層は、政治的・経済的に、どんな階層だったのか? 彼らは何をめざしていたのか? ……ここは、フランス革命史で、たいへんに論争されてきた部分です。

 

 古典学説・第1世代の考えを端的に言えば、高橋幸一郎氏のようになるでしょう。「サンキュロット」こそは、萌芽期における真正「ブルジョワジー」の存在形態だった。なぜなら、「ブルジョワ革命」であるフランス革命をもっとも大胆に推し進めたのは彼らであったから。

 

 これに対して、第2世代というべきホブズボームは、ロベスピエールらのジャコバン派政権は、むしろ資本主義敵対的な「小市民」層の政権だったというのです。封建的拘束が除かれて市場資本主義の力が解放されると、競争と階層分解によって貧富の差が広がることは避けられない。大ブルジョワジーから経済的圧迫を受けた「小市民(プチ・ブルジョワ)」層は、資本主義の発展を災いとみなすようになり、大ブルジョワジーの財産を国家が没収して分配するような・平等主義的な政策を望むようになる、というのです。

 

 第2世代は、フランス革命を「ブルジョワ革命」だとする点では、古典学説の基本線を維持していますが、「サンキュロット」・小市民層の役割については、第1世代とは逆に、資本主義発展を阻害するものだと考えるのです。

 

 

ホブズボーム〔…〕は、〔…〕「フランス革命は、〔訳者註――1789年の〕国民議会の手で与えたもの〔領主権の地代化,教会財産の国有化と払い下げ,貴族特権・特権身分免税の廃止,労働組合・争議の禁止などのブルジョワ改革――ギトン註〕の大半を、ロベスピエールの手で奪い去った」というのである。〔…〕ブルジョワ革命の代表であった〔はずの――ギトン註〕ジャコバン派が、自らの行動によって「中小保有農民,小商工業者の最後の難攻不落の牙城」をつくりだしたのであり、これが「農業と小経営の資本主義への移行を遅らせ」遅々として進まないようにしてしまったのだ』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.25. .

 

 

 日本では、高橋幸一郎氏の弟子すじにあたる遅塚忠躬氏が、大学の講義で同様の見解を述べておられました。

 

 

William Hamilton『断頭台に引き立てられるマリー・アントワネット』1794年.

 フランス革命博物館. ©Wikimedia.

 

 

『フランス経済の資本主義的な部分というのは、農民とプチ・ブルという動かざる基礎の上に置かれた上部構造であった。土地を持たない自由な労働者は、たんに都市に向かって遅々と動いていったにすぎない〔容易に離村しなかった――ギトン註〕。規格化された商品の生産は、他の国では進歩的な産業経営者の資産形成の原因となったが、この国では、十分に大きな・拡大可能な市場を形成することができなかった。大量の資本が蓄積されたとはいえ、それが国内産業に投資されるべき理由もなかった〔地主的土地所有や外国投資に費やされた――ギトン註〕〔Eric John Ernest Hobsbawm, The Age of Revolution, 1789-1848, 1962.〕

 

 こうして、〔…〕歴史の見方のもっとも微妙な部分に差しかかる。すなわち、民衆の力が、どのような役割を果したのか、ということ〔…〕である。〔…〕「革命は貴族が始め、平民が完成した。」〔…〕とすれば、ブルジョワジーの出番はどこにあったのか。〔…〕1789年には、』ブルジョワジーは『民衆勢力の支援を得』『貴族から主導権を奪ったものの、テルミドール反動〔1794年、ロベスピエール独裁政権を倒したクーデタ――ギトン註〕や,革命暦3年の民衆の敗北〔95年。新憲法下の制限選挙で、保守的な「総裁政府」が成立し、サンキュロットは弾圧された。――ギトン註〕,「バブーフの陰謀」〔96年、土地公有化を掲げてクーデタを企てたが、未然に発覚し逮捕された。――ギトン註〕などによって、また最終的には「ブリュメール18日」のクーデタ〔99年、シェイエースとナポレオンが「総裁政府」を倒して「統領政府」を樹立し、権威主義・中央集権化を進めた。――ギトン註〕によって、民衆の力を抑えこもうとしたのである。

 

 〔…〕サンキュロットの場合は、プチ・ブル商店主たちと職人の指導する諸勢力の同盟という形であったのだが、これらの政治的党派は、しだいに好戦的革命派を代表するようになっていき、そのぶんブルジョワ階層の代表という性格は薄れていった〔…〕

 

 大衆がこれほど積極的な行動をとったのは、プチ・ブルの指導』があったため『であった。このことは、サンキュロットについて言えるだけでなく、比較的豊かな農民の指導』が役割を果した『農民一般にも当てはまる。〔…〕こうした(都市および農村の)小生産者は〔…〕革命の前衛であり「妥協することのない反封建派」であったと〔ギトン註――古典学説第1世代の著作で〕言われている。


 しかし他方では、〔…〕19世紀フランスの工業発展のスロー・ペース,ひいてはフランス・ブルジョワジーが全体として成功しなかったこと〔…〕を説明する〔…〕のも、まさしくこのプチ・ブル集団にたいしてなされた譲歩という事実であり、この譲歩が〔…〕永続的な影響を与えたということである。』

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.25-26,55-56[169]. .

 

 

Charles Louis Muller『サン・ラザール監獄から呼び出される恐怖政治の

最後の処刑者たち 1794年7月』カルカッソンヌ美術館 ©Wikimedia.

 恐怖政治末期には監獄が逮捕者で溢れたため、ロベスピエール派は裁判

手続を簡略化して処理を加速、94年7月27日(テルミドール・クーデタ)

に至る18日間に 1,366人が処刑され、「大恐怖」と呼ばれた。

 

 


【50】 「フランス革命」――

「大西洋革命論」と「自由主義革命論」

 

 

 以上のように、「古典学説」は、「フランス革命」は「ブルジョワ革命」であったという基本テーゼを堅持してきたわけですが、これに対しては「1950年代以来、あらゆる方向からの集中攻撃」が加えられてきました。

 

 そこにおいて、いわば台風の眼となったのは、ロベスピエール派の「恐怖政治」にかんする評価‥‥というより、嫌悪であったと言えます。多くの理不尽な義生を強いた「恐怖政治」は、「近代」を導いた肯定的な流れからすれば異端であった、ないし異常であった、そう言いたい意識的/無意識的情念が、多くの批判的言説の底流にあったと思われます。その背景には、この 1950年代から徐々に暴露された「スターリン粛清」の惨状がもたらした衝撃と「ロシア革命」への幻滅がありました。

 

 さまざまな方向からの見解のすべてを参照する余裕はありませんが、ここでは、ウォーラーステインがおもに取り上げている「大西洋革命論」「自由主義革命論」「イデオロギー革命論」を、順にかんたんに見ておきます。ウォーラーステイン自身の見解は、「イデオロギー革命論」に近いものと思われます。

 

 「大西洋革命論」と「自由主義革命論」は、「革命」と見られる変化の範囲を時間的・空間的に大きく取ることで、「大革命」期〔1789-95年〕ないしロベスピエール執権期〔1793-94年〕の苛烈な印象を薄めて、「フランス革命」を救い出そうとするものだと言えます。

 

 

ハイチ革命(1791-1804)。January Suchodolski『サン・ドミンゴの戦い、一名

椰子樹高地をめぐる戦闘[1803年]』1845年。ポーランド軍事博物館 ©Wikimedia

 

 

 「大西洋革命論」は、「フランス革命は、より大きな全体の動向〔…〕の一部にすぎない」とし、「より大きな全体」とは、アメリカ独立革命のほか、ラテン・アメリカ諸国の独立,ハイチ革命,「さらには、18世紀末にヨーロッパのほとんどすべての国に起こった」革命的騒乱や政変を含めたものです。「フランス革命は、こうした他の諸革命と[同質]であった」とされます。どんな意味で「同質」かと言うと、「自由主義」革命ないし「ブルジョワ」革命であり、「民衆が貴族に対して闘った[民主主義革命]であった」というのです。そして、ロベスピエールら「ジャコバン派」は、革命の「もっとも急進的な側面を体現」していたという評価になります。

 

 つまり、「大西洋革命論」は、「フランス革命はブルジョワ革命であった」という「古典学説」の基本線から、それほど動いていないと言えます。

 

 しかし、地理的よりも時間的に視野を広げて、「16世紀から 19世紀までを一望する方法」をとると〔自由主義革命論〕、「フランス大革命」なかんずく「ロベスピエール執権期」の特殊性は、より際立ってきます。(pp.26-27,30.)

 

 

『ブルジョワ革命という概念を完全に放棄したフュレリシェは、それに代って、1789年より以前に始まったという「自由主義革命」という概念を提唱している。〔…〕1750年から1850年に至る期間は、全体として「自由主義の大前進時代」であったが、恐怖政治は、「そのなかの短い間奏曲であり、逆潮流」であった、というのである。〔…〕1792年8月10日という日付〔パリに集結した義勇軍とサンキュロット民衆がテュイルリー宮を襲ってルイ16世と王妃を逮捕し、男子普通選挙による共和制を実現させた。8月10日事件――ギトン註〕は、彼らにとっては、自由主義の道を外れた「大脱線」が始まった日であり、この「大脱線」は、恐怖政治期に頂点を迎える。〔…〕

 

 自由主義を崩壊させたのは、大衆の愛国的熱狂であった〔…〕。「革命のリズムが乱れたのは、民衆が介入した結果である」〔François Furet & Denis Richer, La Révolution française, nouv. éd., 1973.〕〔…〕

 

 フュレリシェは、この時期を分析した結果、革命歴第2年〔1794年。7月にテルミドール・クーデタがあり、ロベスピエール政権が倒された。――ギトン註〕以降ブルジョワジーは、その真の目標、つまり「経済的自由,所有の個人主義,制限選挙制度」など〔…〕を再発見したのだ、と』する。

ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.29-30. .

 

 

Horace Vernet『ヴァルミーの戦い 1792年9月20日』1826年。

ナショナル・ギャラリー,ロンドン。 ©Wikimedia. 「8月10日事件」で

国王夫妻を逮捕し・共和制を成立させた国民義勇軍は意気揚々出陣し

フランス東部・マルヌ県ヴァルミーの丘で、プロイセン軍を破った。

 

 

 ……だとすると、「自由主義革命論」の主張するところでも、「大脱線」は、1792年の「国民公会」〔普通選挙による共和制〕から「恐怖政治」〔~1794年7月〕までの期間だけで、それ以外の「大革命」期間は、ブルジョワジーの「自由主義革命」だった、ということになります。「自由主義革命」論もまた、「ブルジョワ革命」という「古典学説」の枠組みと、それほど隔たってはいないように思われます。対象とする期間を前後数世紀にまで広く取って、漸進的な変化を「革命」としてとらえ、そこから 1792-94年の急進部分だけを除いたように見えます。

 

 「古典学説」が対象とする 1789-95年にしろ、「自由主義革命論」が視野におさめる 1750-1850年にしろ、これらの「歴史的転換点が、フランス自体にどういう意味をもっていたか、ということになると、」両学派はそれほど「対立的ではない。」(p.30.)

 

 

 今回の複雑な議論を、ここまでフォローしてくださった読者には、感謝の言葉を述べたいと思います。が、同時に注文もあります。それは、起きてしまった事実を変えたり、起きなかったことにするのは、誰もできない――ということを理解していただきたいのです。解釈を変えようにも、全体として、そんなに大きく変えられるものではない、…ことも、いま↑見てきたとおりです。

 

 では、私たちはどうすればよいのか? ‥それをぜひ考えていただきたい。

 

 これには、さまざまな答えがありうるが、満足できるような解答など、けっして存在しない問題です。かなりの人は、行動によって解答するほかはないと思うでしょう。その場合はぜひ行動してください。そして、それもまた正答ではありえなかったことを、ぜひ知ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ