ジェイムズ・ワットの蒸気機関(1769年特許)。
〔上〕D. Napier & Son (London) 建造の1832年モデル。the Higher Techn-
ical School of Industrial Engineering of Madrid (part of the UPM)。
〔下〕ワットによる蒸気機関の改良は、復水器による熱効率向上,制動器,
クランクによる回転運動へのスムースな変換を実現。 ©Wikimedia.
【45】 イギリス産業革命の原因論 ――
国家が介入して独占を支援した。
「通説では、イギリスの産業革命〔…〕は[政府の援助なしに自然発生的に]〔…〕起こったことになっている。」もちろん、そんなことはない。国家の介入はあった。
「18世紀のイギリス国家が他の国(とくにフランス)に比べて自由主義的」であった、と主張する通説は、㋐国家の市場にたいする規制や介入があまりなかった、㋑企業家に重税を課さなかった、という「2つの命題からなっている」。
しかし、㋐について言えば、まず、ⓐ「囲い込み」(穀物エンクロージャー)は、議会の立法によって推進された。ⓑ「ギルドの市場規制機能の排除」についても同様で、1750年以降、議会が大きな役割を果している。同時期のフランス王政(アンシャン・レジーム)が、これらの市場阻害要因に対して何ら手を触れなかったのと比べると、イギリス国家の介入は極めて大きな産業促進要因だったことがわかります。
しかし、これら以上に、ⓒ「世界市場に対してこそ、より直接的な」イギリス国家の「介入があった。」その一つは、「産業革命」の主導的産業である「綿織物工業」にたいする貿易上の保護措置です(p.12.):
『イギリスの綿織物工業は、外国との競争に直面』しないように、イギリス政府による『政策的保護を受け』て『成長した〔…〕。プリント済みの綿織物の輸入は、一貫して禁止されていた。この政策は、生産者に国内市場の実質的な独占権を与えた〔…〕。彼らが外国市場を獲得するのを支援する政策もとられた。すなわち、キャラコやモスリンの輸出には、すべて奨励金が与えられたのである〔…〕。(新しい機械の)外国への輸出を阻止すべく〔外国で「産業革命」が起きるのを防ぐため、機械のほか・技術輸出を禁止した――ギトン註〕、厳しい手段も執られた。〔P. Mantoux, The Industrial Revolution in the Eighteenth Century, 2nd ed., 1928.〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.84-85. .
『1819年の著作で〔…〕シャプタルは、〔…〕イギリス〔の工業――ギトン註〕が有利な立場に立った理由を多数挙げているが、なかでも最初に言及されているのは、「イギリス〔政府と議会――ギトン註〕が1世紀以上にわたって、国内市場には自国製品しか入れず、外国製品は、禁止法や〔…〕関税障壁によって排除するシステムを採用してきた」〔…〕ことである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,pp.96-97. .
さらに、ⓓ「イギリスでは、国立銀行が直接」・産業に「資金を出す〔…〕ことはなかったが、〔…〕かなりの額の公金が私立銀行の資金を増やし〔…〕間接的なやり方で私企業の成功を扶けたのである。」
ジェイムズ・ハーグリーヴズが発明した「ジェニー紡績機」(1764年)。
ヴッパタール博物館、ドイツ。©Wikimedia. 1本ずつ糸を取る従来の
手挽車に代って、8本の糸を同時に紡ぐことができる多軸紡績機。
つぎに、㋑イギリス国家は企業家に重税を課さなかった、と通説が言うのも、事実ではない。むしろ、「イギリスの租税負担は、18世紀を通じて[フランスのそれより急速に重くなっていった]」。「1775年以後に工業成長,都市や人口の成長のペースが上昇したが、〔…〕それらの過程は、実質的な租税負担の激増という状況の中で展開した〔…〕。この租税負担の上昇率は、フランスのそれよりはるかに高かった」。(p.13.)
通説的には、「フランス革命」以前のフランス(アンシャン・レジーム)では、重税が人びとを苦しめていた、それが「革命」の原因の一つとなった、と言われています(「フランス革命 重税」でネット検索すれば、すぐに出てきます)。しかし、じっさいには、イギリスのほうが税負担が重く、しかも急速に負担率が上昇していたのです。にもかかわらず、イギリスでは「革命」が起きるどころか、都市も産業も急発展していました。通説は、この謎に答えなければならない。。。
【46】 イギリス産業革命――綿工業と鉄工業
『産業革命とは何であったのか。〔…〕一連の革新が、どこよりもイギリスにおいて、新しい綿織物工業の繁栄をもたらしたということである。この工業は新たな技術〔…〕にもとづき、工場制度のもとに組織されていた。これと同時ないし直後から、鉄工業でも同様の発展と機械化があった。
この過程〔つまり産業革命――ギトン註〕が〔…〕従来の』生産の革新『と異なる点は、それが「累積的で持続的な変化の過程」の引き金となったということである。〔…〕
18世紀末までは、〔…〕ヨーロッパ市場に供給された大半の綿織物は、インド産であった。じっさい、〔…〕「機械、それだけが、インドの繊維労働者にまともに対抗できる手段であった」とはブローデルの言葉である。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.14,16. .
「産業革命」が、伝統的な毛織物工業ではなく綿織物工業で起きた理由について、「綿織物は機械化が容易であった」からだとする見解があるが、ウォーラーステインによれば、それは「技術の大発展という仮説に〔…〕矛盾する」。代って、「綿織物の市場のほうが弾力的であった」、つまり、労働生産性が上がって価格が下がると、綿織物の場合には急激に需要が増えた、とする見解もある。これは、庶民の生活必需品という綿織物の性質を考えれば納得できることです。
のみならず、イギリスの綿織物の場合には、安価を武器に「政治的に競争相手を排除」して市場を広げることができた、という事情がありました。「綿織物では、(総体としての)西ヨーロッパがインド〔の手織り綿布〕と競い合っており、政治的圧力によって、ヨーロッパの革新〔つまり機械化〕がインドに普及すること」を、確実に阻止できた〔機械と技術の輸出を厳格に禁止することで〕。こうして、イギリスの機械化綿布は、インドの手織り綿布との競争に勝利し、世界の市場を征服することができたのです。つまり、競争相手がインドであったことが、イギリスの綿工業を有利にした、というのです。
1835年ころの動力織機工場。From "History of the cotton manufacture
in Great Britain” by Sir Edward Baines. ©Wikimedia.
つぎに「鉄工業」を見ましょう。18世紀半ばまで、鉄の主な用途は、家庭用品と農具と武具でした。これらの需要に応ずるには、小規模な鍛冶屋でも十分でした〔じっさいにはイギリスでは、16世紀から製鉄は、木炭精錬の工場が普通になっていました〕。ところが、「18世紀末から 19世紀初めにかけて、新たに2つの用途が重要になった。機械と輸送〔鉄道など〕とである。」
18世紀初めから半ばまでは、「北アメリカ植民地の・鉄製品にたいする需要の増大が、規模の経済を追求する方向へ〔鍛冶屋や小さな作業場での生産から、大規模な鉄工場へ〕の圧力となり」、それが達成されて価格が下がると、「最初は農機具として、ついで繊維産業の機械としての鉄の消費」が拡大した。
しかし、「鉄鋼業の真の発展の基礎となり、それを 19世紀[世界経済]の主導的工業部門」としたのは、1830年代の鉄道であった。鉄道の発展は、炭坑と鉄鉱石〔…〕鉱山の大発展によって、輸送手段への大規模な資本投下を意義あるものにした〔…〕。投資は先ず運河に、ついで鉄道にたいしてなされた。」
それまでの主要な燃料であった木材と木炭から石炭への移行も、この「鉄工業」の発展と軌を一にしていました。
ダービーの「コークス製鉄法」は、1709年に発明されていましたが、それを「他のイギリス人も」行なうようになったのは、ようやく世紀後半でした。というのは、もともと、石炭より木炭のほうが安価だったからです。ところが、ヨーロッパでは古くから森林が枯渇してきており、1750年頃にはついに、木炭の価格騰貴が石炭を追い越してしまったのです。このような事情もあって、「鉄工業」の革新と、木炭から石炭へのエネルギー源の転換は同時に起こりました。
「綿工業における諸発明は、本質的に機械にかかわるもので、〔…〕労働節約的」、つまり労働生産性を上げるものでした。こうして、「繊維産業の技術変化は、前貸し問屋制を消滅させ、工場制度の採用をもたらした。」(pp.16-18.)
『イギリス綿工業の勃興には、基本的に2つの変化が含まれていた。第1にそれは、当時の世界の主要産業における労働組織――生産関係――における大変化〔工場制と賃労働の普及――ギトン註〕を意味した。第2にそれは、目に見える形で世界市場の構造に結びついていた。つまり、原料は完全に輸入であり、製品も「圧倒的に海外に売られ」た。したがってこの産業にあっては、世界市場の支配が決定的な意味をもっていた。ホブズボウムは、〔ギトン註――当時の世界市場のキャパシティでは〕ただ「1国にしか、パイオニア的工業化」を達成できる余地がなかったのだ、と結論している。つまり、〔ギトン註――この最初の段階では、〕イギリスの工業化しか可能でなかったと言うのである。
綿織物はまさしく、それがこの「世界経済」の構造変化をもたらしたがゆえに、決定的に重要であった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.18. .
リヴァプール・マンチェスター鉄道の開業記念列車。1830年。A.B. Clayton画。
世界最初の都市間鉄道だった。©Wikimedia.
【47】 「産業革命」と「フランス革命」
「産業革命」は、近代史の上で、なぜ、これほど重視されてきたのでしょうか? 私たちが考えなければならないのは、「産業革命」とは、あくまでも・歴史家が考え出した一つの概念だということです。たしかに、人口増加率の上昇,工業生産量の拡大,工場という生産形態や賃労働者数の増加など、それ以前と比較すれば急激な変化があったことは事実です。しかし、工場と賃労働に関しては、変化が誇張されていますし、人口 ... から何からすべてを、「産業革命」という一つの概念でくくるのが唯一可能な考え方、というわけでもありません。
じつは、ウォーラーステインは、この巻のもう少し後のほうでは、「産業革命」という概念を用いない説明のしかたを試みています。ここまでの部分でも、「産業革命」について説明しながら、その歴史的意義を疑わせるような学説を、あえてくどくどと援用してきたのは、その伏線だったと思われるのです。
古典的な通説が、「産業革命」を重視してきたのは、それを「近代」開始の画期と見たからです。これに対して、ウォーラーステインの「世界システム分析」は、「近代世界システム」の開始を「長い16世紀」に置いています。「産業革命」があったとされる 1750-1840年頃の期間は、あくまでも「近代」の途中経過です。しかし、たいへん重要な時期であることは否定しません。なぜなら、史上2つ目のヘゲモニー国家イギリスが、ヘゲモニー獲得に至った時期にほかならないからです。
17世紀に頂点を極めたオランダのヘゲモニーが凋落した後、つぎのヘゲモニー国家をめざして争った主要な候補は、イギリスとフランスでした。この2国は、18世紀半ば頃〔「七年戦争」を終結した「パリ条約」1763年〕までは、経済力も発展度も同等であり、目だった優劣はありませんでした。イギリスの「産業革命」とされる時期こそは、イギリスがフランスを引き離し、「世界=経済」におけるヘゲモニー獲得に向った時期なのです。
この時期を、フランスのほうから見ると、まさに「フランス革命」から「ナポレオン時代」に重なります。‥というより、ウォーラーステインの見方では、フランスがイギリスにたいして決定的に遅れをとり、イギリスのヘゲモニーに屈する過程にほかなりません。が、たんに屈したわけではない。経済的には後塵を拝したけれども、政治的・イデオロギー的な面では、「近代世界」のダイナミズムを創り出す躍動力というべき「反システム運動」〔社会運動と民族運動〕を生みだし、その躍動にも拘らず「近代世界」を求心的に統合する「近代ジオカルチュア」〔「進歩」の思想と「主権在民」〕を確立しました。「反システム運動」と「ジオカルチュア」あってこそ、近代の資本主義的「世界経済」は、こんにちまで破綻することなく存続して来られたのです。
ジャック=ルイ・ダヴィド『キューピッドとプシュケ』1817年。
Louvre. ©Wikimedia.
古典的な通説では、「フランス革命」は、複雑な紆余曲折はありながらもブルジョワジーが支配を確立した「ブルジョワ革命」(市民革命)だったと把握されます。経済面での「産業革命」に対応して、政治面での「ブルジョワ革命」が、「近代」世界をもたらしたとされるのです。
つまり、この考え方では、「フランス革命」は「ブルジョワ革命」であり、ブルジョワジーという階級の支配〔曖昧な言葉ですが、この曖昧さが、この歴史過程の多義的複雑さを表しています〕を確立して「近代」を開いたという点で、「産業革命」と等しい歴史的意義を有するとされるわけです。
「産業革命」が、どちらかといえば漸進的で一貫した上昇過程であったのと比べ、「フランス革命」は、きわめて急激で、しかもジグザグに行きつ戻りつ変転する過程をたどります。これに対応して、「フランス革命」に関する学説見解も、それぞれが明確な政治的主張を背景に負って唱えられてきました。そこで、以下ではまず、それらの代表的な見解をたどってみなければなりません。ウォーラーステイン自身の見解に戻るのは、その後になります。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!