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【速報】 「パトラとソクラ」さんのレヴュー

 

 

 この間に、こちらでパトラとソクラさん(2名の共同ブログのようなアカウント名ですが、1名のようです)が『力と交換様式』のレヴューを上げられました。読者(の大部分?)の率直な感想もまじえて、この著の論旨を要領よくまとめておられます。私のレヴューと並行してこちらもお読みになるようお勧めします。

 

 

 

【11】 キルケゴール――「婚約破棄事件」と『反復』

 

 

 ネットを漁ってみたところ、『反復』に関して示唆的なブログがありました。全面的に同意するわけではありませんが、そこから 2,3 ピックアップして話を進めたいと思います。

 

 

『キルケゴール自身は『反復』という小説のような作品を、いわゆる「レギーネ体験」という、かいつまんでいうと失恋事件〔キルケゴールが、レギーネ嬢との婚約を、理由も述べずに一方的に破棄した――ギトン註〕の結果として書いたようだけど、そこには哲学とは異なる、渦巻く感情の動きのようなものがあって、はしばしにこめられた宗教的な意味合いはよくわからないながらも、読み手にたいして共感と同時に鋭い思想を伝えてくるようである。

 

 キルケゴールは反復することを指して「永遠」と呼ぶ。永遠なるものが反復して現れるのではなく、すべてものがあまねく移り変わるなかで、反復を実現することができるという点に精神の自由があると、考えているようだ。』

『反復』セーレン・キェルケゴール. my-front-line, 2016.06.30.



 どうやら、『反復』は、哲学小説というよりも「感情小説」と言ったほうがいいもののようです。じっさい、「反復」という言葉の意味内容も、最初のほうと後のほうでは違っているような気がします。

 

 ともあれ、キルケゴール自身の「レギーネ婚約破棄事件」から入って行くことにします。この事件のかかわりでキルケゴールが書いた著作に、『誘惑者の日記』『反復』『責めありや――責めなしや』があります。セーレン・キルケゴールが婚約を破棄した理由はよくわからないのですが、後の読者たちによって、おもに2つの憶測がなされています。① 父が犯した(宗教的な)罪の禍いが自分に及ぶことを恐れていたので、結婚によってレギーネを巻きこみたくないと考えた。父の罪とは、父が末っ子であるセーレンの母(後妻)を強姦してセーレンを孕ませた後で母と結婚したことです。② しかし、セーレンの日記には、父の罪にまつわる “呪い” もさることながら、自身の「過ち、情欲と放蕩」を仄めかしている箇所があります。そこで、何らかの性的または身体的異常のためではないかとの憶測があります。近親相姦、同性愛、梅毒など、当時は遺伝だと考えられていたようなことだったかもしれません。いずれにせよ、まったくの憶測以上のものではありません。

 

 ともかく、キルケゴールはレギーネに婚約指輪を返した後で、また往ったり来たり二転三転しながら、‥彼女を自分から引き離すために、自分の恋は彼女を弄ぶ偽装だったと主張することを思いつき、そういう内容の『誘惑者の日記』を書いて出版します。この本はスキャンダルをまき起こし(当時のコペンハーゲンの上流社会は狭い社会だったでしょう)、レギーネも読んだのですが、にもかかわらず彼女は、婚約破棄の撤回を求める覚書をキルケゴールにしたためています。「彼女は雌獅子のように戦った」「あんなに喚きたてて私を驚か」したとキルケゴールは日記で回想しています。

 

 けっきょく、2か月後にキルケゴールはレギーネに正式に婚約破棄を伝えたあと、復活祭の日に教会で、レギーネとばったり遭遇してしまいます。その時のレギーネの “謎の微笑” に動かされて、キルケゴールは、またぞろ復縁を考え始めた矢先、レギーネが他の男と婚約したことを知ります。それは、『反復』を書きあげた直後のことで、キルケゴールは、著作の末尾を破棄し、そこに、レギーネと女性一般を呪詛する個人感情丸出しの文章を補充したのです。

 

 

 

「セーレン・キルケゴール」 ドルメン風の記念碑

 

 

 このような経緯を見ると、この著作中の「反復」という語が、たんなる哲学概念ではなく、そこにレギーネとの復縁の願望が流れ込んでいることは否定できません。

 

『キルケゴールは〔…〕ギリシャ的な「想起」あるいは「追憶」に対応する概念として「反復」という言葉に思いつき、この語に付すべき意味について思いをひそめていたとき、たまたま復活祭の出来事〔レギーネとの再会――ギトン註〕に遭遇したのであった。そこから「反復」の問題が、愛の反復は可能かどうかという彼自身の問題と結びついて具体化して現実的になり、〔…〕わずか2週間という短時日に書き上げられた』

桝田啓三郎「解説」, in:『反復』,1983改訳版,岩波文庫,pp.318-319.

 

 

 そこで、前回、柄谷さんを通して再引用した『反復』冒頭の一節を、もういちど見ておきましょう:

 

 

ギリシャ人たちが、あらゆる認識は想起である、と説いた〔…〕

 

 反復想起は、じつは同じ運動なのである。ただ、その方向が正反対であるにすぎぬ。というのは、想起されるものは、すでに過去にあったものであり、いわば後方に向かって反復される。これに反して、ほんとうの反復は、前方に向かって想起するのである。したがって、反復、それが可能であるならば、人間を幸福にする。これにひきかえて、想起は、ひとを不幸にする

前田敬作・訳『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,1995新装版,白水社,pp.205-206.

 

 

 将来に向かっての「反復は、人間を幸福にする」が、過去の体験の「想起は、ひとを不幸にする」とは、どういうことなのでしょうか?

 

 『反復』は、著者の分身である「恋愛中の青年」と、彼の話し相手となりつつ彼を冷静に観察する年上男性の語り手「コンスタンティン・コンスタンティウス」の2名を登場させます。その「青年」の語る恋愛が、「想起の恋」というべきものなのです。彼女と逢ってからまだ1日も経っていないのに、もうその体験は、浄化された美しい追憶となって「青年」の胸を熱くしています。うがった見方をすれば、「青年」は彼女に「真・善・美」と「愛」の「イデア」を見て(想起して)いるのかもしれません。


 

 「青年」は、『部屋の中を歩き回りながら、ポウル・メラーの詩をなんどもくりかえすのであった。

 

ゆり椅子にひとり座せば

やるせなく忍び寄る若き日の夢

ほのかのよみがえるあこがれは

おんみ おとめらの星

 

 彼の眼には、涙が浮かんでいた。そして、椅子に身を投げると、またもこの詩句をくりかえした。この光景は、わたしに痛切な印象を与えた。〔…〕


 彼は最初の日から、もう自分の恋を思い出すことができた。つまり彼は、彼の恋愛そのものを、すっかり終ってしまったのだ。〔…〕たとえその少女が明日死んだとしても、なんら本質的な変化をひき起こしはしないであろう。彼は、またぞろ〔…〕涙でいっぱいになるであろう。〔…〕恋愛そのものにかんしては、最初の瞬間から彼は老人になっているのだ。』

『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,pp.213-214. 

 

 

コペンハーゲン

 

 

 しかし、著者キルケゴールに生じている事情をこれに重ねると、「青年」が涙を流して恋を「想起」する理由は想像できます。「青年」は、自分が結婚などできるとは思っていないのです。理由は、とても彼女には説明できないような恐ろしい罪悪です。にもかかわらず、彼は恋に落ちてしまった。相手は、まったく無邪気に彼を信じて幸福に満たされている。「青年」も、片時も彼女に会わないでは落ち着かないが、あまり付きまとっても迷惑だろうと考えて苦しい自制を強いられている。ばかりか、彼女に恐ろしい秘密を隠しながら付き合うという欺罔をあえてしている、という罪悪感が彼をさいなみます。

 

 「神の裁き」が正しく下されるならば、こんな恋は、いつ終ってもおかしくない、と「青年」は思う。だから、彼女との逢瀬は、日ごと・別れた瞬間に過去の思い出と化してしまうのです。これが、「ひとを不幸にする」「想起の恋」にほかなりません。

 

 

『こうした誤解のもとに結婚生活へふみきることは、彼にはできないことだった。それは、彼女を永久の欺瞞に引き渡すことを意味したからである。かといって、自分の頭も心も別のもの〔罪意識を感じないですむ “追憶” の詩情――ギトン註〕を求めていて、それを彼女の上に投影しているのである。だから、彼女はその影にすぎない――』

『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,p.222. 

 

 

 はたして、彼女の「誤解」――か?「青年」自身の精神の呪縛か?――のうえに立脚した・この「青年」の恋の結末は? ‥‥キルケゴールは、初稿では、「青年」はピストル自刹したと書いていたようです。それが、レギーネの「裏切り」を知った後に改稿された現行版では、姿をくらました、となっています。いずれにせよ、この恋は続けられなかったのです。

 

 

『わたしの若い友人は、反復ということを理解しなかった。反復を信じもしなければ、つよく欲しもしなかった。彼の運命の難しい点は、彼が相手の女性をほんとうに愛していたことだった。けれども、彼女をほんとうに愛するためには、彼が陥っていた詩人的惑乱からひとまず脱け出すことが必要であった。〔…〕

 

 もしも青年が反復を信じていたら、彼の人生は、どんなに豊かなものになっていたことだろうか。彼は人生において、どのような深い内面性を獲得していたことであろうか。』

『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,pp.229-231. 

 

 

 「惑乱から脱け出す」ために語り手コンスタンティウスが「青年」に提案したのは、1年間離れてから再会してやり直すことでした。この・「やり直す」ことが、ここで言う「反復」の意味です。そのための手立て――いやでも離れざるを得なくする策略:ほかの女ができたと見せかける――も、「青年」の同意を得て準備し、さていよいよ実行、という段になって、「青年」は突然失踪してしまったのです。

 

 

コペンハーゲン   

 

 

 ‥‥こうしてみると、「反復 wiederholen」とはやはり、たんなる「くりかえし wieder holen」――同じものの再獲得――ではないことがわかります。「反復」は、それが可能であった場合には、「どのような深い内面性を」もたらすかわからない、どれほど「人間を幸福にする」かわからない、とキルケゴールは言うのです。その意味で、my-front-line子が指摘する↑ように、「すべてのものがあまねく移り変わるなかで」、それにもかかわらず人間が「精神の自由」を発揮したときに、「反復」は実現される、といえるのです。それは、過去の経験への固執・精神の固結を意味しません。逆に、「反復」によって精神は、みずから予想もしていなかった新たな内容を獲得して変貌をとげるのです。ちょうど、虫を惹き寄せる「野生の匂い」を放っていた花が、しおれて果実に変貌すると、より豊穣な「園樹の香り」で満たされるように:



『野生の木は、花がよい匂いをはなち、培養された木は、果実がうつくしい香りをもつ。〔老フラヴィウス・ピロストラトゥスの英雄譚〕

『反復』扉裏のエピグラム, in:『キルケゴール著作集』第5巻,p.204. 

 


 

【12】 キルケゴール――『反復』と『ヨブ記』

 

 

 「青年」が訪ねて来なくなってから、コンスタンティウスは、自ら「反復」を実践してみるべく、かつて学生時代を過ごしたベルリンを再訪します。しかし、この「実験」は、さんざんな結果でした。かつて独身同士で気の合った下宿屋の主人は、結婚していました。ベルリンの街路は、人と馬車が増えて、がまんならないほど砂埃が立っていました。かつて気に入って通い詰めた「首都劇場」も、観客が増えていて、周囲の私語に邪魔されて不快な思いをしました。

 

 予定を切り上げてコペンハーゲンに帰って来ると、自宅では下男が大掃除の真っ最中で、期待していた静かな古巣などどこにもありませんでした。こうして、コンスタンティウスは、「反復」について考えることを放棄してしまいます。

 


『牧師も演説家も、詩人も小説家も、水夫も葬儀屋も、英雄も臆病者も、ほかの人びとはみな、人生は往きて復 かえ らぬ水の流れである、という点で意見が一致しているではないか。だのに、どうして反復などというばかげた観念にとりつかれ、さらにばかばかしいことに、それを原則にしようなどと考えたのであろうか。わたしの若い友人は、なるようになれ、と考えたのだ。彼としては、反復など始めるよりも、そのほうが賢いやり方だった。』

『反復』扉裏のエピグラム, in:『キルケゴール著作集』第5巻,p.274. 

 

 

 周囲の環境で、同じことが繰り返されても、けっして「反復」にはならないという良い例が、コペンハーゲンに帰る語り手を乗せた「郵便馬車のラッパ Posthorn(pp.275-276.)です。この「ポストホルン」というのは、金属の管を1回巻いて朝顔をつけただけの楽器で、ひとつの音程しか出ません。いつも同じ音で、1日じゅう勝手にプープー鳴らされても、少しも旅の慰めにはならないし、うるさくてイヤになるだけです。つまり、主体を「自由」にはしない。主体が自らの「精神の自由」に基いて投企し受け入れる行為だけが「反復」となりうるのです。

 

 

ポストホルン

 

 

 こうして、コンスタンティウスは自分の屋敷に戻って、以前と変わらない変化のない生活に埋没します。もちろん、これは「反復」ではありません。

 

 ところが、そこに、失踪した「青年」からの手紙が舞い込みます。どこから出しているのかもわからない、住所の書いてない手紙が。

 

 

反復は、超越であり、また永久に超越でありつづける。彼がわたしに何の解明も求めないのは幸運なことだと言ってよい。というのは、わたしは、わたしの理論を放棄して、お天気まかせ風まかせの毎日を送っているからだった。反復は、わたしにとっても超越的すぎる。わたしは、自分自身のまわりを周航することならできる。しかし、自分自身を越えて出ていくことはできない。アルキメデス的一点を見つけることはできない。』

『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,p.289. 

 註※『アルキメデス的一点』: テコの原理を発見したアルキメデスは、「地球の外に足場を与えられるならば、私は地球を動かして見せる」と豪語したという。

 

 

 つまり、「反復は超越である」とは、「自分自身を越えて出ていく」ことが「反復」である、という意味にほかなりません。なぜなら、「反復」とは、主体がまったく予想もしていなかったものが「向うから」やって来、にもかかわらず主体はそれに賭け、それを主体的に受け入れることだからです。

 

 

反復はたんに観想のためのものでなく、それは自由の課題であること、それは自由そのものを、意識の自乗を意味すること、それは形而上学の関心であり、そして同時に形而上学が座礁する関心でもあること、〔…〕真の反復は永遠であること』

桝田啓三郎・訳『不安の概念・序言』, in:『反復』,2008,岩波文庫,p.329.

 


 ここで、小説『反復』の最終フェイズに移りたいと思います。「青年」の手紙は、語り手の返書を許さない(住所を明かさないので)まま、つぎつぎに送られてきます。しかしその内容は次第に、旧約聖書の『ヨブ記』に集中していきます。

 

 

 語り手コンスタンティウスは『脇に退いて青年に席を譲り、青年が、彼にそなわる宗教的な原始性をもって反復を発見することになる。かくして一歩一歩と彼は、人生によって教育されながら、反復を発見してゆく。』

桝田啓三郎「解説」, in:『反復』,1983,岩波文庫,p.326.

 

 

「ヨブと慰め芸人たち」 ネーデルラント派(ライデン)1530-41年頃  

 


 

旧約聖書『ヨブ記』《あらすじ》

 


 『ヨブ記』のヨブは、町の住民のなかでも特に高潔の評判が高く、7人の息子、3人の娘、そして多くの財産に恵まれていた。ある時、天上の神は、天使たちを集めてヨブの義 ただ しさ,信仰の厚さを褒めたたえたが、「サタン」という天使だけが反対して、「ヨブの信仰は利益を期待してのものだ。財産を奪い取ってやれば、たちまち神を面と向かって呪うにきまっている。ヨブに[試み]をしましょう」と提案した。神はヨブを信頼しており、サタンの試みは失敗すると確信していたので、してみるがよろしい、と[試み]を許可した。

 

 そこで、災害と外国軍がヨブの家を襲い、ヨブの従者と財産と息子・娘たち全員を滅ぼした。しかしヨブは、「主が与え、主がお取りになったのだ。主の御名は褒めむべきかな」と言って神を讃え、戸外で全裸で生活するようになった。そこでサタンは神の許可を得て、ヨブを皮膚病にした。ヨブは灰の中で暮らすようになった。ヨブの妻はヨブに、「あなたは、神を呪って死んだほうがいい」と言ったが、ヨブは、「我々は神から恵みを受けているのだから、災いも受けるべきである」と言って取り合わなかった。

 

 外国から、ヨブの3人の友人が見舞いに来て、7日7夜ともに過ごしたが、ヨブは皮膚病の苦痛でうめいているので、話しかけることもできなかった。さいごに彼らは、「こんなひどい目にあうのは、何か悪いことをしたからだ。洗いざらい罪を認めて、神に赦しを乞え」と、ヨブを非難した。ヨブは潔白を主張して、ひき下がらなかった。

 

 そこへエリフが登場し、こういう奴がいると神の正義に傷がつく、と言って腹を立てながら、「ヨブに罪があるかどうかは、神ご自身が判断なさるだろう」と告げる。ヨブは何も言い返せなかったが、自身の「内なる神の声」に耳を傾ける。すると、嵐の中から神がヨブに顕現し、ヨブに質問を試みる。ヨブは答える。要点は、神の正義も災いも、神の無償の愛に基いていること、人間は神の世界計画の中心にはいないこと、したがって神が支配する世界には、人間の思い通りにならない災いがあること、である。ヨブは、自分の義 ただ しさを主張するあまり神に対して失礼があったことに気づき、灰の中に伏して悔い改める。

 

 そこで神は、ヨブを非難した3人の友人に怒りを向けるが、ヨブが彼らのために祈ったので、神は3人を赦し、ヨブに財産を2倍にして返し、元の人数の娘・息子を持たせた。

『ヨブ記』《あらすじ》終り

 

 

ヨブに向かって激怒する「ブズのエリフ」  ウィリアム・ブレイク画  

 

 

『苦境に陥った彼〔「青年」――ギトン註〕には、あらゆるものを2倍にしてもらって受け取ったヨブこそ、反復を体験した人であるように思われる。

 

 しかし、ヨブにあって真に彼〔「青年」――ギトン註〕に訴えかけているものは、ヨブが正しいという事実であった。そこでこの点を中心に、あらゆるものが回転する。運命は彼をなぶりものにし、彼を責めあるものとしてしまっていた。そういう事情だとすれば、彼〔「青年」――ギトン註〕はもはや自分で自己を取り戻すことはできない。彼自身が分裂してしまったのである。だから問題は何か外部のものの反復ではなく、彼の自由反復ということなのである。

 

 《彼は歓んでいる、とにかく雷雨さえ来てくれたらと。たとえ彼に下る判決が、反復は可能でない、ということになろうとも》雷雨は彼を正しいとしてくれるにちがいないし、それだけを彼は要求しているのだからである。

 

 そこへ摂理が助けの手を差しのべ、彼をその縺れから救い出す。すると彼は叫びだす、《してみると反復というものは存在するのではないでしょうか? ぼくは一切のものを2倍にして受け取ったのではないでしょうか? ぼくはぼく自身を取り戻したのではないでしょうか? ですからこそ、ぼくはその意味を2倍に感ぜずにはいられないのではないでしょうか? このような反復〔=取り戻し――ギトン註〕にくらべたら、精神の規定となんらかかわりのないこの世の財宝の反復など何でしょう?》』

桝田啓三郎「解説」, in:『反復』,pp.326-327.

 

 

 ↑上の解説の最後の段落(《》外の部分)には、私は同意できません。神の「摂理」がこの「青年」を「救った」とは、キルケゴールはどこにも書いていないからです。(『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,pp.327,338;『反復』,岩波文庫,pp.168-169,184.)

 

 たしかに、「青年」が神の「摂理」を信じていることは、この手紙から読み取れます。それは、自分に都合の良い事態――しかも、起きる確率がきわめて低い事態――を「摂理」と言い換えているだけかもしれません。しかし、「青年」は、その「摂理」が働きやすいように、コンスタンティウスが勧める策略の実行を、あえて拒んでいるのです。それが彼の「自由」であり、「ぼく自身を取り戻」すことなのです。

 

 その一貫した態度に、「人間の自由の率直さ」↓を見ないわけにはいかないと思うのです。

 

 

『あなた〔ヨブ――ギトン註〕は、あなたが幸福な時には虐げられた人の楯となり、老いたる者の傘、腰の立たない人の杖となりました。あなたは、人びとを欺きはしませんでした。そして、すべてが破砕したとき、あなたは、悩める者の口、罪におののける者の声、不安におびえる者の叫びとなり、黙して悩めるすべての人びとの慰藉、およそ人間の心に棲むことのできるすべての苦しみと痛みの忠実な目撃者、「魂の苦しさによって」神に不平をのべ、神と争うことをすらやってのける・信頼すべき代弁者となりました。人びとは、なぜこのことを隠しておくのでしょうか。〔…〕

 

 ヨブは、自分は正しいという主張をあくまで守りつづけます。彼のこうした態度は、人間が何であるかを知った・あの気高い人間的率直さを証明するものです。すなわち、人間は、花のいのちのように脆く・はかないものだけれど、自由をめざすことにおいて偉大であり、神から与えられ〔…〕神ご自身でさえ奪い取ることのできない意識をもっている』。人間は、このことを自ら知っているがゆえに、自らの信ずる正しさを堂々と主張する。人間の・この率直さを、ヨブの態度は証明しているの『です。〔…〕

 

 

Eberhard von Wächter: "Hiob und seine Freunde"

 

 

 友人たちは、ヨブをさんざん悩ませます。〔…〕ヨブの不幸が彼らの主要な論拠です。それだけで、彼らにとっては、すべてが決定的なのです。〔…〕彼らは手をかえ品をかえて、ヨブの不幸は懲罰であるという命題を変奏するのです。ヨブが悔い改め赦しを乞うならば、すべてはもとどおりに良くなる、と説くのです。

 

 ヨブは、しかし、一歩も譲りません。〔…〕

 

 ヨブは、いわば神と人間とのあいだにおける大事件、サタンが神とヨブとの間に不信をまいたことに起因し、全体がひとつの試練であったということで終る・広汎で恐るべき裁判事件における・人間の側からなされた内容豊かな告訴状なのです。〔…〕

 

 嵐はやみました――雷雨は去りました――ヨブは、全人類の面前で懲らしめを受けました――主とヨブは、たがいに理解し合い、和解しました。〔…〕――人間たちも、ヨブを理解しました。〔…〕――ヨブは、主によって繁栄をもとに返され、すべてのものを2倍に増やされます。――これをこそ、反復と呼ぶのです。〔…〕

 

 このようにして、反復は存在するのです。それは、いつあらわれるでしょうか。〔…〕ヨブにとっては、いつあらわれたのでしょうか。それは、人間の立場からの・考えうるすべての確実性と確率が不可能を証明したときです。ひとつ、またひとつと、彼はすべてのものを失っていきます。それにつれて、希望がひとつひとつ消えていきます。〔…〕彼はいっさいを失ったのです。〔…〕これはもう雷電によってしか解くことができません。

 

 ぼくにとって、このヨブの物語は、言い知れぬ慰めをふくんでいます。』

『反復』, in:『キルケゴール著作集』第5巻,pp.305,320-321,323-327. 



『ひたすら反復を許さないようにみえる状況を、みずから試練としてむかえとることに自由があるという、そのことはわかる気がする。

『反復』セーレン・キェルケゴール. my-front-line, 2016.06.30.

 


 ヨブの物語の結末は、やはり現実にはありえないことだと、現代人の理性は告げるでしょう。「確実性と確率」の信頼度が高まってしまったことを、悔やまないではいられませんが、これはもう後戻りのできないことです。

 

 それでも、私たちがヨブの物語から学ぶことができるのは、① どんな不条理に出会っても、希望を捨てる必要はないということ。しかし、それ以上に重要なのは、② 不条理に出会って喘ぐ人を、不条理な結果を理由に断罪したり、軽蔑してはならないということです。むしろ、周囲の人が手を貸せば、多くの場合には不条理は和らぐのです。

 

 『反復』の「青年」も↑上の手紙文中(省略部分)で述べていますが、こういう事態を「試練」という言葉でくくることは、私にはできません。

 

 

 

 

 

 

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