小説・詩ランキング

ミケランジェロ『最後の審判』部分。 再降臨するキリストと聖母。

 

 

 

 

 

 

【4】 氏族社会は、なぜ自由なのか?

 

 

 「氏族社会」では「個人の自由」と「自立」が卓越していたというモーガンマルクス柄谷氏のテーゼについて、前回、なかなか実証も検証も難しいのではないかという感想を書きました。しかし、実証とは別に、思弁による根拠づけがあれば理論の説得力は増す、ということがあります。「氏族社会の自由・自立は、生産手段の共有から来るものではない」のだとしたら、何から来るのか?‥という問題です。

 

 柄谷氏の根拠づけは、「個人的所有」と「交換様式A」です。「氏族社会」は「個人的所有」と「交換様式A」の社会であったから、成員の自立性も、氏族集団の自立性も高かった、というのです。この点を、きょうの最初に振り返っておきたいと思います。

 

 まず、「氏族社会」の「個人的所有」について、前回の引用からカナメ部分を切り取ってみます:



『共産主義は、たんに国有化あるいは共同所有化によって成り立つのではない。それは、いわば「個人的所有」(私的所有と区別される)を確立することによって成立する。マルクスはその例を氏族社会に見出した。〔…〕

 

 マルクスは、モーガンの『古代社会』を読んで、個人的所有に基づく共有〔『資本論』では、「共同占有に基づく個人的所有」――ギトン註〕、つまり、共同体に従属しない「唯一者」たちの連合によって、それまでの共同体とは異質な共同体が成り立ちうることを悟った。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.350,352.

 


 「それまでの共同体とは異質な共同体」、つまり、「独立した自由な個人」からなる「高次の共同体」が、未来の共産社会:アソシエーションだ。それは、成員が「個人的所有」をもつ「氏族社会」の共同体を、モーガン『古代社会』から読みとって着想された、と言うのです。

 

 そうすると、マルクスの考えでは、「氏族社会」は、「個人的所有」をもつ諸個人の連合体だ、ということになります。氏族社会の「個人的所有」とは、どんなことを指しているのか、柄谷氏の文からも、引用されたモーガンからも明らかではありません。

 

 が、なんとなくイメージは湧きます。各家族が、自分のキャンプ地のまわりの土地と水と自然の産物を、誰のものでもない〈コモン〉の一部として占取しているということでしょう。全体は、地域の〈自然〉に対する「共同占有」ですが、個々の家族体(個人)の・平等な権限が、この野性的未開状況の中で成立していると想像できます。成員(家族体)の土地は、「共同体」から一方的に割り当てられたわけでも、上級権力から「班田支給」されたのでもありません。氏族社会の人びとは、「共同体」にも上級権力にも従属していません。

 

 前回の・イロコイ族の村の図を再出しておきましょう。

 

 

 

 

 つぎに、「交換様式A」について:

 

 

『たとえば、「アジア的」な農耕共同体でも、生産手段は共有されているけれども、そこに氏族社会のような個人の独立性はない。〔…〕下位にある集団は上位の権力に従う。

 

 一方、生産力から見てより未開である氏族社会では、下位にある個々の集団が上位に対して半ば独立している。それをもたらすのが互酬交換、つまり、交換様式Aである。それが「兄弟同盟」をもたらすとともに、集権的な国家の成立を妨げるのだ。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.349.  

 

 

 「交換様式A」(互酬交換)のほうは、氏族内の成員どうしの関係よりも、個々の氏族集団と上位の集団(部族)や首長との関係、また氏族集団どうしの関係にかかわっているようです。商品交換(交換様式C)でも税貢の上納(交換様式B)でもない互酬交換(交換様式A)が卓越している・集団間の関係が、下位・基底集団の独立性を高め、同位集団どうしの水平的連合をうながしていると言うのです。

 

 これらのことは、「集権的国家」の成立を妨げる「力」となります。その典型が、古代ギリシャは氏族制の都市国家をつくったが、みずから集権的国家をつくることは無かった、という史実に現れています。

 

 柄谷氏によれば、中世ヨーロッパの封建的分裂(強力な統一国家が成立しなかったこと)も、交換様式Aが卓越していたことの現れだと云うのです。

 

 しかし、交換様式Aについては、この「第4部」にはほとんど説明がありません。「序論」「第1・2部」をレヴューする時に、検討することとしましょう。

 


 

【5】 エンゲルス――

『ドイツ農民戦争』を、なぜ書いたか?

 

 

 科学思想の普及と産業革命によって、キリスト教的な考え方が相対化していたイギリス、また、啓蒙思想とフランス革命によって、キリスト教を否定する風潮が一挙に噴出したフランスとは違って、ドイツでは 19世紀になってもキリスト教的な考え方が強く残っていました。「ヘーゲル哲学は、キリスト教神学を脱宗教化して論理化したもの」にほかなりませんでした。

 

 「したがって、ヘーゲルにもとづくとき、〔…〕実際にはキリスト教を暗黙のベースにしながら、そうでないかのようにふるまうことになる。そのことは、ヘーゲル〔1770-1831〕の死後に形成された青年ヘーゲル学派〔ヘーゲル左派〕において顕著であった。」たしかに、資本主義のもとで極限にまで窮乏化したプロレタリアートが立ち上がって資本主義を倒し、社会主義社会をもたらすというマルクス主義の社会変革論が、「ヨハネ黙示録」などのキリスト教神学をベースにしているということは、しばしば指摘されます。「青年ヘーゲル派」を構成したのは、シュトラウス,フォイエルバッハ,ブルーノ・バウアー,シュティルナー,モーゼス・ヘス,マルクスらでした。「彼らはフランスの社会主義を受け入れ、唯物論を唱えるようになったが、ヘーゲル哲学の枠組みを出たわけではなく、むしろそれにもとづいて考えていた。」(p.356)

 

 

1843年,マンチェスター,エルメン&エンゲルス商会の紡績工場。

独仏白映画『マルクス・エンゲルス』(2018)より。

 

 

『マルクスたちより年少であったエンゲルスは、青年ヘーゲル派の影響を受けたものの、そこに深入りすることはなかった。〔…〕彼はギムナジウム〔中学+高校〕を中退して、父の仕事を手伝った。そのためもあって、ヘーゲル学派のような知識人の仲間には入らず、独自に考えたのである。1842年に家業を手伝うためにイギリスに滞在したとき〔マンチェスターに父と友人が所有する紡績工場の支配人となった――ギトン註〕、22歳のエンゲルスは、産業資本主義の実態を知ると同時に、〔…〕賃労働者の運動、すなわちチャーティスト運動に遭遇し、それまでの意見を改めた。

 

 当時知られていた社会主義理論は、〔…〕知識人が考案した社会改造論でしかなかった。彼らは現存の資本主義的生産方法とその結果を批判したけれども、それがいかにして形成されたかを説明できず、〔…〕対処することもできなかった。ただそれを悪いと非難するだけであった。

 

 それに対してエンゲルスは、イギリスの産業資本主義と、それに呼応して出現したチャーティスト運動、すなわちプロレタリア階級自身が創りだした社会主義運動に注目したのである。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.356-357.  

 


 こうしてエンゲルスは、1845年に『イングランドにおける労働者階級の状態』を出版して、マルクスらドイツの社会主義者の注目を集めることとなります。並行してイギリス古典派経済学を研究して『国民経済学批判大綱』を書き、他方で、モーゼス・ヘスから着想を得て「史的唯物論」を構想します。マルクスとの共著『ドイツ・イデオロギー』〔1845年頃執筆〕は、「史的唯物論」の最初の下書きスケッチとして知られていますが、そのなかの・「史的唯物論」を論じた「フォイエルバッハの章」は、エンゲルス単独で書き下ろしたものです。

 

 エンゲルスは、ヘーゲル左派の知識人や、プルードンらアナーキスト的傾向の社会主義者に対して批判的であり、マルクスは、この年下の急進主義者から大きな影響を受けました。マルクスを、いわゆる「マルクス主義」の方向に向かわせたのはエンゲルスだったと言えます。マルクスが、エンゲルスに負けじと過激化を遂げて書き上げたのが、1948年「二月・三月革命」の直前に出版されたアジテーションの書『共産党宣言』でした。


 

『しかし、エンゲルスは 1848年革命の〔ギトン註――失敗した〕あと、それまでになかった態度を示した。〔…〕1850年に『ドイツ農民戦争』を書き、16世紀の宗教指導者トマス・ミュンツァーを社会主義革命運動の先駆者として称賛した』

柄谷行人『力と交換様式』,p.358.  

 


 じつはエンゲルスは、革命前の 1846年には、「ミュンツァーの千年王国論を支持して人気のあったヴァイトリングを痛烈にやっつけ」た文章を発表していました。ヴァイトリングは金髪のエレガントな仕立屋の青年で、訪問販売員のような物腰で社会主義を煽動していました。

 

 そのエンゲルスが、革命後は一転してミュンツァー礼賛に走ったのです。何がエンゲルスを変えたのか?

 

 

『エンゲルスは 1850年になぜ、このような仕事をしたのか。それは、48年革命がヨーロッパ各地で敗北に終ったこと、のみならず、それが奇妙な結果をもたらしたことが、彼に深刻な疑問をもたらしたからだ。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.359.  

 

 

 柄谷行人氏によれば、エンゲルスを「千年王国」と「革命神学」の宗教指導者に近づけたのは、革命の・この「奇妙な結果」にほかなりませんでした。「奇妙な結果」とは何か? 柄谷氏のエンゲルス論では、ここが重要です。

 

 

ヴィルヘルム・ヴァイトリング(1808-1871)    

映画『マルクス・エンゲルス』(2018)より。   

 


『たとえば、イギリスでは、チャーティスト運動が、労働組合の合法化を獲得するとともに終息してしまった。エンゲルス〔…〕こうふりかえっている。

 

〔…〕悪魔のしわざと罵られていた労働組合が、いまでは工場主たちから、正当このうえない権利を有する制度であり、また健全な経済学の学説を労働者の間に広める有益な手段である、と諂われ保護されるようになった。ストライキでさえも今では、ことに工場主諸君が自分に都合のよい時に自分でそれを引き起こしたときには、まことに有益なものと認められるようになった。〔『イングランドにおける労働者階級の状態』「1892年ドイツ語版への序言」, in:『マルエン全集』第2巻.〕

 

 このように、労働者階級の要求が一定の水準まで実現されたことが、それまでの自然発生的な「階級闘争」を消滅させてしまった。資本主義経済は、資本家と労働者という階級関係を必然的に創り出すが、それが必ず「階級闘争」をもたらすわけではない。労働組合が〔…〕合法化された時点で、賃金をめぐる闘争は “労働市場” の一環にすぎなくなる。それはむしろ、賃金法則〔賃金は、労働力の再生産に必要な水準にまで引き下げられること――ギトン註〕が成立する前提である。《賃金法則は、労働組合の闘争によっては打破されない。それどころか、〔…〕この闘争によって貫徹されるのである。〔…〕〔エンゲルス「賃金制度」,1881年, in:『マルエン全集』第19巻.〕

 

 したがって、プロレタリアートは階級的利害のために闘争するだろうが、それが階級そのものを揚棄するような闘争となるかどうかは別の話である。むしろ、彼らは一定の要求が満たされたら、それ以上の闘争はしない。つまり、現実の階級闘争』『階級を揚棄する運動になるとは決まっていないのだ。〔…〕エンゲルスは 1842年にイギリスで産業プロレタリアートの “階級闘争” を目撃したが、49年には早くもその消滅に出会ったのである。〔…〕階級的利害の追求は〔…〕残ったが、階級そのものの揚棄をめざすような “階級闘争” は消えた。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.359-360.  

 

 

 エンゲルスはかつて『ドイツ・イデオロギー』で、「彼ら〔プロレタリア――ギトン註〕をなお生産諸力や彼ら自身の生存につなぎとめている唯一の連関である労働は、彼らのもとでは自己活動〔自己実現の活動――ギトン註〕のあらゆる見かけを失っており、それが彼らの生活を維持するとしても、結果はただ彼らを不具化しているにすぎない。」「プロレタリアたちが人格として自己を主張するためには、こんにちなお存在している彼ら自身の存在条件〔…〕、すなわち労働を廃棄しなければならないのである。だからこそ彼らは、〔…〕自らを人格として確立するためには国家を打ち倒さなければならないのである。」「こうして事態は今や、諸個人が〔…〕彼らの生存を確保するためにも、現存の生産諸力の総体を占有しなければならないところにまできている。〔…〕占有は、団結〔…〕革命によってのみ実現することができる。統合された諸個人による生産諸力の総体の占有とともに、私有は廃棄される。」(中野雄策・訳, in:『ワイド版・世界の大思想』Ⅲ-4,pp.254,260-261.)と書きました。

 

 マルクスもまた『共産党宣言』において、「プロレタリアートは、ブルジョアジーとの闘争において必然的にみずからを階級に結成し、革命によって〔…〕旧生産関係を廃止するが、他方またこの生産関係の廃止とともに、階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を〔…〕廃止するのである。」と書きました。

 

 すなわち、プロレタリア階級は、自己を解放するためには国家と疎外労働、そして階級制度そのものを廃棄する革命を起こすほかはないと、彼らは主張していました。ところが、いまや、このテーゼが、プロレタリア階級自身によって根底から否定される事態に、彼らは遭遇したのです。

 

 

 


『イギリス以外の国でも、類似したことが生じた。

 

 要するに、48年革命において社会主義運動は全般的に敗北したのだが、〔…〕勝利した側が「社会主義」を取り入れた〔…〕たとえばフランスでは、皇帝となったルイ・ボナパルトは、サン=シモン主義者として産業発展をはかるとともに、労働者の運動を支援した。総体的に見て、1848年の革命は、資本家と労働者の階級闘争を、ネーション=国家によって解決しようとする体制をもたらしたと言ってよい。〔…〕すなわち、国家による課税―再分配を通して、資本制経済がもたらす階級的格差を軽減するというような体制であった。

 

 マルクスも、1848年革命以後、ブルジョワジーが「社会正義」を自らの手段として活用するようになったことを見のがさなかった。

 

ブルジョワジーは、彼らが封建制に対して鍛えた武器〔…〕すべてのいわゆる市民的自由と進歩の機関が、彼らの階級支配を〔…〕攻撃し、脅 おびや かしており、したがって「社会主義的」になってしまったことを、理解した。この脅迫とこの攻撃の中に、ブルジョワジーは正当にも〔…〕社会主義の意味と傾向を、いわゆる社会主義が自ら判断できると思っているよりも、より正確に判断しているのである。〔『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』,1852年; 植村邦彦・訳,平凡社ライブラリー.〕

 

 このような変化が、社会主義を名乗るそれまでの運動を変えたことは言うまでもない。〔…〕イギリスではフェビアン社会主義となり、ドイツでもラッサール〔…〕が主流となった。つまり、国家の政策によって階級問題を解決することが提唱されるようになったのである。

 

 だがここから、資本の揚棄も国家の揚棄ももたらされる見込みはない。こうして、「社会主義」は、公認され拡がるとともに死んだのだ。そしてそのような変化を、マルクスエンゲルスもそれぞれ察知していた。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.361-362.  

 


 19世紀前半には、サン=シモン,フーリエらのユートピア社会主義から、チャーティストの労働者運動の社会主義まで、濃淡はあれ、資本主義と国家の支配を打倒ないし減殺することを目標にしていました。イデオローグとして、その頂点に立ったのが、マルクス・エンゲルスでした。

 

 ところが、1850年を境に、国家と資本家の側が社会主義を取り入れ、社会福祉的な諸施策を行なうようになると、社会主義運動の側も、より労働者に有利な社会政策を、政府に対し提起し、国家を通じて「社会主義」を実現しようと考えるようになり、運動は「体制内化」してゆくのです。

 

 マルクス・エンゲルスにとっては、それは社会主義の発展ではなく、社会主義の「死」だったのです。そこから、エンゲルスが「ミュンツァー礼賛」に転じた理由も明らかになります:

 

 

『エンゲルスが〔…〕『ドイツ農民戦争』でミュンツァー千年王国運動に注目したことは、「社会主義の科学」の発端となった〔…〕彼は、外見上宗教的なミュンツァーの運動に、社会主義の本来的な在りようを見ようとしたのだ。〔…〕エンゲルスは社会主義を、〔…〕史的唯物論の定式とは違った観点から見ようとした〔…〕。すなわち、国家や階級を揚棄するような社会主義は、史的唯物論、つまり生産様式(生産力と生産関係)の観点からだけでは説明できない、〔…〕

 

 では、そのような社会主義は、いかにして生じるのか。エンゲルスが〔…〕1525年のドイツ革命〔…〕について考察したのは、それを問うためであった。〔…〕

 

 ドイツ農民戦争も階級闘争であった。しかし、それが 19世紀』『階級闘争と異なるのは、それが “宗教的な被覆” の下で起こったことである。そして、そこでは、共産主義は、指導者ミュンツァーの下で、「神の国」あるいは千年王国として考えられていた。

 

 〔ミュンツァーの提起した〕綱領は、〔…〕神の国、すなわち預言された千年王国をただちに地上に建設することを要求した。しかし、この「神の国」という言葉でミュンツァーが考えていたのは、階級差別も、私有財産も、また、社会の成員に対立して独立した外的な国家権力ももはや存しないような社会状態にほかならなかった。〔…〕〔『ドイツ農民戦争』,大内力・訳,岩波文庫.〕

柄谷行人『力と交換様式』,pp.362-365.  

 

 

 

 

 ここで、少し先取りして言いますと、エンゲルスの言う「宗教的外被」とは、「交換様式D」にほかなりません。他の人が消極的な意味しか認めない「宗教的外被」というエンゲルスの特徴づけ、すなわち革命思想がまとう装いに、柄谷行人氏は積極的意味を読み取るのです。生産様式の観点だけで見れば、19世紀の「革命」も 16世紀の「農民戦争」も、同じ階級闘争です。しかるに、その一方は、賃上げという労働者階級の利益が満たされれば消えてしまうのに対し、他方は、国家と階級差別の廃止をあくまでも要求したのです。この違いは、「生産様式」では説明できません。

 

 柄谷氏が提示する説明原理は「交換様式」です。「交換様式D」から生じてくる「力」が、ミュンツァーの「革命神学」「千年王国運動」といった「宗教的外被」・宗教運動にほかならないのです。「交換様式」は、たんなる観念や集団心理ではなく、「生産様式」と同様の経済的下部構造です。「史的唯物論」で、歴史の発展過程を規定するとされた「生産様式」より以上に、「交換様式」の変化・発展は、人類の歴史に大きな「力」をおよぼしてきたのです。

 

〔…〕〔ギトン註――ミュンツァー〕によれば、本来の啓示、生ける啓示は理性であり、〔…〕信仰とは、人間の中で理性が生けるものとなることにほかならない。〔…〕生けるものとなった理性によって、人間は聖なるものになり救われる。だから、天国はあの世のものではない。それは、この世において求められるべきものだ。〔『ドイツ農民戦争』, in:『マルエン全集』第7巻.〕

 

 この一節は、エンゲルスが共産主義について考えたとき、それを史的唯物論(生産様式)から考えると同時に、それとは異なる何らかの「力」によるものとして把握したということを示唆する。彼はここで共産主義を、ミュンツァーの「神学的=哲学的教理」に見出したが、それは特にキリスト教〔…〕を意味しない。〔…〕異教であろうと、無神論であろうと関係がない。重要なのは、ここで何か観念的な「力」が働いているということである、では、それはどこから、いかにして来るのか。エンゲルスにおける「社会主義の科学」は、それを問うことに始まったといってよい。

柄谷行人『力と交換様式』,pp.366-367.  

 

 

ブロンズィーノ『聖家族と聖アンナ、幼児聖ヨハネ』

 

 

 

【6】 エンゲルス――原始キリスト教研究へ

 


エンゲルスは『ドイツ農民戦争』を書いたのち、ミュンツァーにまったく言及しなかった。〔…〕しかし、実は、エンゲルスはミュンツァーとつながる問題への関心を棄てたわけではなかった。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,p.367. 



 その一つは、ヘーゲル左派のリーダー格であったブルーノ・バウアーへの関心です。バウアーは、『暴かれたキリスト教』(1843年) で「神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった。以後も原始キリスト教にかんする研究を続けていた」。エンゲルスは、1844年のマルクスとの共著『聖家族』では、バウアーをクソミソに批判したのですが、1882年にバウアーが亡くなると、追悼論文で彼のキリスト教史研究を高く評価しています。どうやらエンゲルスはマルクスとは違い、バウアーの研究に関心を持ってフォローしていたようなのです。

 

 バウアーの研究は、『新約聖書』が原始キリスト教のありのままの記録などではなく、後世の創作ないし偽書であると証明することに向けられていました。「福音書」と「使徒行伝」は、フィクションでないとすれば大幅に改作されており、パウロら使徒の手紙類もすべて偽書だと言うのです。エンゲルスは、「ヨハネの黙示録」↓を除いて、基本的にバウアーの主張を受け入れています。(エンゲルス『原始キリスト教史によせて』,1894年, in:『マルエン全集』第22巻,大月書店,p.470.)

 

 エンゲルスがミュンツァーへの関心を持ち続けていた・もう一つの点は、「ヨハネの黙示録」に注目したことです。エンゲルスは、「ヨハネの黙示録」を、キリスト教最古の文献と見、イエス時代の原始キリスト教信仰を伝える唯一の文書と考えていました。

 

 さらに、エンゲルスのもう一つの関心は、原始キリスト教の「世界宗教」への発展に、近代の労働運動のアナロジーを見ていたことです。「世界宗教」への発展とは、ローマ帝国に迫害されていたキリスト教が、逆転してローマ帝国の「国教」となることを意味します。被抑圧者の宗教から、専制的支配者の宗教に転換することにほかなりません。ですからエンゲルスは、近代の労働運動・社会主義運動の発展にも、同様の負の側面を見ていたと言えるのです。

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

 

    Meghan Howland.