私の記憶が正しければ、津山城を攻めるのは3度目。ただ私の記憶は、たまに無くなることがあるので信用しないでください。

 

岡山県津山市山下

美作・津山城(つやまじょう)別名:鶴山城

 

この度は天候と桜に合わせて出陣。駄菓子!天候はバッチ合いましたが、桜がバッチ合いませんでした。まぁそれはそれで良しとしまして。この津山城 往時は77棟の櫓が立ち並んでいたと云う。明治の廃城令で、屋敷、櫓、門など建物はすべて取り壊され石垣のみが残りました。この度はその櫓台の石垣に重きを置いて攻城した訳です。重きを置くだけで全部撮るわけではない。

 

津山城は慶長8年(1603)から13年の歳月をかけこのわしが完成させたのじゃ。わしのおとさんは信長さまの家臣であった森可成じゃ。おにさんが可隆長可成利(乱丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)なのである。おとさんもおにさんもみんな討ち死にしてしもてのう、森家の家督はわしが継いだという訳である。

言い忘れた、わしの名は森忠政である。よく覚えておくように。

 

津山城大手である観光センターや本陣にした駐車場やらがある南入口から入って正面に三の丸南面石垣にぶち当たります。

 

ぶち当たる前に石垣に沿って右に折れ料金所の方へ行きましょう。

 

料金所は足軽が多くいたので写してませんが、料金所手前には冠木門跡があります。これは料金所を通過してからの三の丸への桝形。正面の石段上は鶴山館という藩校があった所。こんな石段があると枡形の威力を発揮できないので、おそらくこの石段は藩校ができたときに正面の石垣を崩して造られたものかと。

 

その枡形をグイーンと180度左に曲がって石段を上がると三の丸です。地面に見えてる石列は礎石ではなく石段のよう。ここには門はなかったよう。

 

三の丸へUターンするところの桝形を仕切る石垣。

 

三の丸へ突入すると出店と足軽が大勢いたので写さずに枡形からの石段を振り返って撮る。そしてまた180度旋回する形で向こうに見えてる先ほどの鶴山館の方へ。

 

上から見る桝形。桜の木が・・・

 

2つ前の画像左石垣が凸ってる部分に芭蕉の句碑雁木もあるがこの石台は櫓台ではなさそうで、句碑のために積まれた石段かと。

 

鶴山館の前から見る二の丸東外れの切岸。地肌がむき出しになってるが、石垣が組まれてたのかどうかは知らない。右の石垣は忠魂碑がある玉櫓台石垣。

 

三の丸東端に火縄蔵跡とその土塁。文字通り火縄銃を所蔵してたものかと。

 

土塁のとこから見る玉櫓石垣。その向こうが本丸東面石垣で…細かく言えば、十四番門からの奥に横矢掛かってるのが瓦櫓台。

 

三の丸やや東から見る備中櫓  平成14年(2002)「築城400年記念行事」の一環として復元され、平成17年(2005)3月に完成。

そもそもなんで備中櫓と呼ぶのかというと、鳥取城主池田備中守長幸(いけだながよし)(池田長吉の長男)に由来すると伝わる。森忠政は長女於松(おまつ)を池田長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。これで婿はんの長幸くんもご満悦ってわけイヒ

ちなみに 池田長吉は輝政の弟である。

 

三の丸を西側へ廻り込んで行きます。これは右の桜で隠れてる鉄砲櫓台横の土の部分。往時から土なのかどうかは知らない。石がゴロゴロしてるのは石垣が崩落したのかもしれない。そのまま石垣は復元されてないのかも知れない。しらんけど

 

二の丸南西隅部の長柄櫓台。荒々しい野面積みがカッコイイがちょっと孕んでますよ。

 

長柄櫓横のバッチ打込み接ぎの昇櫓台。長柄櫓の石垣に比べて石材表面が揃えられてるのがお分かりいただけるかと。算木積みもバッチ決まってますね。

 

三の丸西側です。ドーンと横矢掛かってるのが塩櫓石垣。石垣目当てやと桜の木がジャマになってきますが、桜の名所なので仕方がない。

 

逆撮り塩櫓横矢部。

 

二の丸北西部にある白土櫓の石垣。

 

二の丸北西の裏門まで来ました。手前が肘櫓石垣。裏下門へ至る石段向こうが紙櫓台石垣。

 

おっさんが隠れてシャッターチャンスの裏門。ここを出ると薬研堀と厩堀があるが、今回は行ってない。

 

裏下門への石段と紙櫓台。桜が・・・

 

裏下門跡。 石列が門跡であり、門の手前と向こう側のカッケー!連続枡形である。

石段を上がって来ての正面(右の石垣)は切込み接ぎになってる。ちなみに「裏」というだけあって搦手門になる。たぶん

 

裏下門枡形からの石段。

 

紙櫓の雁木。

 

裏下門からの~ この空間は何と呼ぶのか分からない二の丸北にある空間。正面が両側の石垣に渡櫓を乗っけた櫓門形式であったであろう裏中門。この裏中門から本丸へ乱入できる。まだせんけど。

 

左を向けば荒和布櫓台。これは仕切り櫓なのかな?

 

その向こうが本丸北端部で、ちっちゃい石垣が桜門跡、右のドデカいのが大戸櫓の石垣。桜門を通っても本丸へ乱入することもできる。まだせんけど。

 

右を向けば色付櫓石垣。この石垣右奥に格子門跡があり本丸の西下を通り二の丸の南正面に通じている。奥に見えてる高いのが天守台…のはず。

 

 

三の丸の正面(南)に戻りました。こちら表中門跡の大石段。正確には表中門はもうちょっと手前。正面が本丸南面の石垣で、藤棚が見えますが、往時は長局があった。この石段を上がって左に折れると二の丸です。ここは右の石段の方へ行ってみます。

 

二の丸と三の丸の間にあるこちらの曲輪名が不明。右の石垣は表中門の櫓台。石段右側の二つ目の石垣が見付櫓石垣。

 

見付櫓石垣。

 

左側には櫓はなかったみたい。

 

その向こうに見えるのは勾配がカッコイイ弓櫓の隅石。

 

奥に忠魂碑が建つ。

 

その忠魂碑のとこが玉櫓があった場所であるが、櫓台が改変されて忠魂碑台になったと思われる。

 

忠魂碑曲輪から見る三の丸から本丸へ入る枡形南面にある辰巳櫓石垣。

 

忠魂碑曲輪から備中櫓を撮る。出窓に石落し装備の戦闘的な櫓である。石落しというても実際に石は落さない…もうええね真顔

 

 

では二の丸へ。往時はこの石段正面(右上にも)に土塀があった。石段を上り詰め左に折れると四足門があり、四足門を通り二の丸へ入ってたよう。

 

四足門跡。

 

二の丸 本丸へはここを右(東)ですが、左奥(二の丸西側)へ侵攻します。

 

二の丸から備中櫓を見上げる。

備中櫓の外観は漆喰仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。さらに指図によると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙(からかみ)」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。

 

少し進んでもう一回見上げる。

 

備中櫓と復元された土塀を見上げる。

 

ウッヒョ~な曲線美の土塀石垣。この石垣は崩落の危険性があったので積み直しされたそうです。

 

こちらもウヒョーな本丸南西隅部の高石垣。この石垣上には多聞櫓が連なっていた。

 

こうやって見ると手前の隅部の曲線美が分かり難いが、土塀と備中櫓からのウヒョウヒョ横矢美である。そして桜の木がジャマである。

 

本丸西面多門櫓の一直線の美石垣。桜の木が…

 

二の丸をずーと北奥の格子門跡へ。左が三の丸から見た塩櫓台。

 

本丸北西隅は多門櫓からの色付櫓石垣。桜が…キレイね それよりも格子門からこちら側へ乱入してくる敵に、多門櫓から横矢がぶち込まれるという仕掛けである。

 

色付櫓隅を右に折れると格子門跡で本丸北側の三の丸から上がって来た名称が分からぬ空間。奥の低い出張った石垣は虎口を食違いにするための仕切り石垣か。

 

 

ここで表へ引き返して本丸へ侵攻しようと思います。

 

 

孕み防止のために排水口を設け水はけは良くしましょう。

 

 

 

 

自己満足の津山城攻城戦 その2へ続いてしまいます。