美作・津山城 その3です。
最後に本丸の天守台に攻め込みます。
本丸には本丸御殿がありましたが、現在の津山城は復元された備中櫓以外の建造物は何もありません。というても、移築物の鶴山館がある。あっ櫓風のトイレもある 料金所もある 鐘楼もあったな
天守は本丸の西寄りに建っておりましたが、現在は天守台の石垣だけです。
腰巻櫓から見る天守曲輪。中央のボーンと出て足軽が乗ってるのが天守台で、それを石垣で区画し天守曲輪と呼ぶ。
本丸から見る天守曲輪。その手前に建つ石碑は森侯入封三百年記念碑。正四位松平確堂篆額津山城跡碑。
ちなみに、森家は四代長成に嫡子なく永禄10年(1697)改易。永禄11年より松平宣富(結城秀康五男の系統)が入封し以後9代松平氏が廃藩置県まで城主となる。ちなみに 松平家四代長孝のとき秀康の二男系に変わった。そして七代斉民(なりたみ)のとき徳川吉宗系に代わってる。
五番門跡から天守曲輪へ乱入。古絵図によると区画されてるこの東側の石垣には土塀が乗っかってた感じ。右の石垣奥には二層の長櫓が建っていた。
天守台 以前攻城したときは、天守台は修繕ちうで近寄れなかったので今回初めて天守台にさわることができる
天守は破風を持たない4重5階地下1階の層塔型天守で、南側に六番門(櫓門)を付属させる複合式平面の天守であるが、天守へはこちらに見えてる雁木を上がった穴蔵入口から出入りする構造であった。
天守台の石垣は打込み接ぎ、石段の左が切込み接ぎ。たぶん石段から左側は後付けではなかろうか。
天守の再現CG。最上階だけが入母屋で破風を持たない飾りっ気のない天守であったもよう。こうやって見ると破風のない天守て、やっぱなんや物足りんよな。
天守曲輪東面の土塀が乗っかっていた石垣と合坂。
天守台を南東から。左の天守台、右の雁木がある石垣の接ぎ接ぎ加減の違いがお分かりいただけるかと。
天守台南の六番門跡(櫓門)。地面に礎石が見える。
天守台南面。
天守台西側の多門櫓跡。多門櫓の北西隅、南西隅には二重櫓が建っていた。
平成21年に復元整備された天守曲輪北西隅の七番門跡。二の丸から本丸への最短ルートの七番門は、南斗! 3mの段差があり梯子で昇降していたという。
ほな 穴蔵から天守台に突進です。
上から穴蔵を見る。
天守台から見る神楽尾城がある神楽尾山がよう見えた。
東屋が見える山頂が主郭である。山頂からの眺望はバツグンであったな。
天守台の上から見下ろす備中櫓と五番門南土塀。築城当初は備中櫓方面から天守へ直接向かう道があったらしく、備中櫓の前にある石垣には天守台までの通路が開いていたとか。その後 防御性を高めるためか、回りこまないと辿りつけないルートに変更され、この石垣の通路も埋められてしまったという。
穴蔵にあった石。特に興味なし写したけど
天守台から下りて、備中櫓北側にある天守曲輪南からの入口である五番門からほそほそ通路を通り抜けましょう。この門は絵図では冠木門と記されてるが、発掘調査では、主柱と控柱の痕跡が発見されてるので、高麗門か薬医門であったと推測されてるとか。根拠はないけど薬医門に1票。
石垣に挟まれた快適な通路である
快適から抜けたら天守台南面。
振り返るほそほそ通路。
お読みください。
読んでから見てください。
ちなみに 以前松江城の際に申し上げましたが、土塀から本丸に迫る敵に対して矢狭間、鉄砲狭間から射る撃つ放つ! それと控柱は土塀の補強だけでなく、長い板を渡し、守備兵が板に乗り土塀の上から射る撃つ放つ! 上下二段攻撃できるのである。恐るべし日ノ本の城。
備中櫓は前にも討ち入りしましたが、いちおう1階だけ討ち入りました。
備中櫓は一般的な倉庫や見張り台といった櫓の用途ではなく、内部には御座之間や茶室、違棚や御床まであり、御殿の一部として利用されていたそうです。そのため全室畳敷きとなっています。
鶴の丸紋入り釘隠し。
鶴の丸は森りん。三つ葉葵は松平氏
藤棚(局櫓跡)から大手と城下を眺めて退城します!
忘れ去られた石(通称・残念石)も、お忘れなく。平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で見つかったらしい。平成16年3月に谷川から引き上げられ、「歴史石曳き」として修羅に乗せて修羅の如くこの場所まで曳いてきたらしい。残念石なのに展示までされて、よかったやんけ石!に改名。 すんません
お腹いっぱいになった津山城でした。