ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「和歌山城」と「大和郡山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

和歌山」(和歌山県和歌山市

1585年に「豊臣秀吉」の命で「豊臣秀長」が築城しますが、その際、「秀吉」が縄張りを行い「藤堂高虎」に工事を担当させています。

 

城には城代として重臣の「桑山重晴」が入り、関ヶ原の合戦では東軍に味方して暫く城主でしたが、その後「浅野幸長」が37万6000石で入城し、この時に「天守曲輪」が整備され「天守」が造営されたようです。

 

1619年に「徳川家康」の十男「頼宣」が城主となったので1621年には城郭を拡張して、その後は「紀州徳川家」として御三家の一角を担いました。


1846年に落雷によって、「大天守」「小天守」が焼失しますが、御三家ということもあり直ぐにその再建工事が始まり1850年に完成しています。しかし、その天守群と天守曲輪は、太平洋戦争で焼失しました。

 

現在「和歌山」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1958年にRC造りで外観復元された「天守群(大天守、小天守)」や「乾櫓」「二の門(楠)櫓」「二の門(楠門)」に連結している「多門櫓」「台所櫓」です。当城は「連立式天守」ですので、「多門櫓」によって「天守曲輪」を一周廻って回遊できるようになっています。

 

「天守群(大天守・小天守)」に繋がる「台所櫓」 ↓

「小天守」に繋がる「台所櫓」↓

「台所櫓」の屋根 ↓

「台所櫓」から「多門櫓」そして「乾櫓」が繋がる ↓

「多門櫓」そ「乾櫓」が繋がる ↓

「乾櫓」と「二の門櫓」の間の「多門櫓 ↓

「楠櫓」「楠門」に続く「多門櫓」 ↓

「多門櫓」と「大天守」 ↓

 

「大天守」から時計と反対方向に、「小天守」「台所櫓」「多門櫓」「乾櫓」「多門櫓」「二の門櫓」「二の門」「多門櫓」「大天守」と並んでいます。外観は、「天守群」と同様に「白漆喰総塗籠め」で、窓と矢狭間が規則正しく並んでいます。

 

RC造りの「多門櫓」内部   ↓

「多門櫓」内部   ↓

 

 

大和郡山」(奈良県大和郡山市

1580年に「筒井順慶」が入城、「織田信長」の後ろ盾を得て大和を平定し「天守」を建てます。1585年に「筒井家」の国替え後に「羽柴秀吉」の弟「豊臣秀長」が100万石でが入城し、それに相応しいお城にすべく増改築を行いますが、「秀長」が没した後は養子の「秀保」、「増田長盛」が入り総構えを完成させています。

 

関ケ原の合戦後は、12万石以下の譜代大名「本多家」「藤井松平家」「本多家」とが入れ替わりに入城が続きますが、1724年に「甲府城」主であった「柳沢吉保」が入城し、更にその息子「吉里」が藩主となってやっと城主が安定し、産業・文化振興を進めながら幕末・維新まで続きました。

 

現在「大和郡山」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1987年にRC造りで「豊臣秀長」築城当時に近い形で復興された「追手門」と「追手向櫓」を結ぶ「多門櫓」です。また、1984年に復興された「追手東隅櫓」に接続する「多門櫓」もあります。

 

いずれも、「櫓」「追手門」と同様に「下見板張り」の外観を施しています。

 

復興「追手門」と復興「追手向櫓」を結ぶ「多門櫓」(枡形を形成) ↓

復興「追手門」と復興「追手向櫓」を結ぶ「多門櫓」(城内から) ↓

復興「追手門」と復興「追手向櫓」を結ぶ「多門櫓」(裏側から) ↓

復興「追手向櫓」に繋がる「多門櫓」(裏側から) ↓

復興「追手門」と復興「追手向櫓」を結ぶ「多門櫓」(東方向) ↓

復興「追手東隅櫓」に接続する「多門櫓」 ↓

復興「追手東隅櫓」に接続する「多門櫓」 ↓

復興「追手東隅櫓」に接続する「多門櫓」(東側から) ↓

復興「追手東隅櫓」に接続する「多門櫓」(東側から) ↓

 

 

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「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「勝竜寺城」と「小泉陣屋」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

勝竜寺」(京都府長岡京市

「織田信長」が摂津攻めの際に「細川藤孝」に築城させたお城で、「織豊(しょくほう)城郭」の特徴である「石垣」「礎石」「瓦使い」が採用されています。

 

当城では、「細川藤孝」の息子「細川忠興」が、「明智光秀」の娘「玉(細川ガラシャ)」と祝言を挙げました。

 

そして「本能寺の変」後には「光秀」がここに立ち寄って一夜を過ごしたお城でもありますが、「光秀」が「秀吉」との一戦を交える際には、「光秀」は「細川藤孝」親子に加勢するよう依頼したものの、「藤孝」は出家して加勢しない立場を表明しました。

 

「山崎の合戦」では「明智光秀」は「勝竜寺城」に本陣を構えましたが、「秀吉」との圧倒的な戦力の差がありここから敗走せざるをえなくなりました。

 

その後勝利した「秀吉」は、「淀古城」の修築に石材を使用したことで荒廃しましたが、江戸時代に入った1633年に「永井直清」によって修築されましたが1649年の「直清」の転封に伴い廃城となりました。

 

現在「勝竜寺城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1992年に勝竜寺公園として整備され、「本丸」跡北東隅の鉢巻石垣上に建てられた木造の模擬「隅櫓」です。当櫓は小規模で、屋根は「切妻」、外壁は「下見板張り」を施しその隅には「石落とし」を設けています。

 

木造の模擬「隅櫓」 ↓

木造の模擬「隅櫓」 ↓

木造の模擬「隅櫓」(立派な石落とし) ↓

木造の模擬「隅櫓」(「本丸」跡側から) ↓

 

 

小泉陣屋」(奈良県大和郡山市

当地は、「小泉家」と「筒井家」が長い間の対立後、「豊臣秀長」が大和国を治めるようになるとその家臣「羽田家」が入り、更に「片桐且元」兄弟が入城しました。

 

関ケ原の合戦後には、「片桐且元」は「茨木城」へ移り「豊臣家」を支えますが、「大坂の陣」の時に「大坂城」から撤退したことが評価され、弟の「貞隆」は当地に戻り立藩します。その時に、「陣屋」構えの為に整備を行い、以降「片桐家」が幕末・維新まで統治します。

 

現在「小泉陣屋」の「平(一重)櫓」が見られるのは、池の畔に建つ「隅櫓」に付随するRC造りの模擬「多門櫓」です。

 

ただ、小泉の地には戦国時代からの「小泉城」があり、その後も城郭の構えで当時からの「櫓」が有ったとも思われますが、現在建つ「隅櫓と多門櫓」は当時の「櫓」を反映(復興)したものかどうかは不明で、模擬櫓ではないかと思われます。

 

現在、城跡には「片桐家」が興した「石州流茶道宗家」の居宅「高林庵」が建ち、その脇に建つ「隅櫓と多門櫓」を堀代わりの「薙刀池」越しに見た光景は、趣を感じる素晴らしいものがあります。

 

「薙刀池」越しに見た「隅櫓」と「多門櫓」(左に少し屋根が見える) ↓

 

また、近くで櫓を見ることができ、堀越しに眺める以上に大きく感じられ、「多門櫓」は入母屋屋根で外壁は「海鼠壁」を付けて優美さを強調する施しを行っています。

 

「隅櫓」に付随するRC造りの模擬「多門櫓」(海鼠壁を施す) ↓

「隅櫓」に付随するRC造りの模擬「多門櫓」(海鼠壁を施す)

 

 

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「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「丹後田辺城」と「福知山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

丹後田辺」(京都府舞鶴市

1392年に「一色満範」が丹後守護となって守護所を築きますが、1578年に「織田信長」の丹後平定に際して「細川藤孝」が「明智光秀」と共に「一色家」を滅ぼします。

 

1580年に「細川藤孝・忠興」親子は、本城として「宮津城」を、支城として「田辺城」を築きますが、1582年に「本能寺の変」が起こり、「藤孝」は隠居して「田辺城」を居城とします。

 

1600年の関ヶ原の合戦では、「忠興」は「田辺城」に入って籠城、戦後は「京極高知(たかとも)」が入城しお城の改修を行います。

 

1668年に譜代大名の「牧野親成(ちかしげ)」が入城して以降は、「牧野家」のお城として幕末・維新まで続きます。

 

現在「丹後田辺城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1940年という早い時期にRC造りで復興された「二階櫓」の南側に接続する「続櫓」です。「天守」同様に「白漆喰総塗籠め」の外観になっています。「彰古館」と名前が付けられ資料館として使用されています。

 

RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(右側) ↓

RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(手前) ↓

RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」(左側) ↓

RC造り復興の「二階櫓」に接続する「続櫓」 ↓

 

 

福知山」(京都府福知山市

当城の前身は、室町時代に「塩見頼勝」が築いた「横山城」でしたが、「織田信長」からの丹波平定を任された「明智光秀」が「塩見家」を攻めて当城を手に入れ、その後お城を拡張して「福知山城」と改称しました。

 

平定後は、「光秀」の娘婿である「明智秀満」等が入城しましたが、関ケ原の戦い後は「有馬豊氏」が城主となり、ほぼ現在のような縄張りと建造物配置がなされたようです。

 

その後は、「岡部家」「稲葉家」と替わりますが、「稲葉紀通」の時には領民への重税や殺害、隣の城主だった「京極家」にも争いを仕掛けるなど大変な悪政をしたことから改易となります。そして「京極家」「松平家」と城主の入れ替わりが続きましたが、1669年に「朽木稙昌(くつきたねまさ)」が入城した後は、幕末・維新まで「朽木家」が統治します。

 

現在「福知山城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、1986年に竣工したRC造りの外観復興「天守」と同「小天守」を繋ぐ「続櫓(渡櫓)」です。外観は「大天守」「小天守」と同様の「下見板張り」となっていて、天守群の入城はこの「続櫓(渡櫓)」からとなっています。

 

RC造りの外観復興「天守」と同「小天守」を繋ぐ「続櫓(渡櫓)」(西面)  ↓

RC造りの外観復興「小天守」に繋がっている「続櫓(渡櫓)」(西面)  ↓

RC造りの外観復興「小天守」に繋がっている「続櫓(渡櫓)」(東面)

 

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「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「長浜城」と「膳所城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

長浜」(滋賀県長浜市

「織田・徳川軍」対「浅井・朝倉軍」がぶつかった「姉川の戦い」で戦功をあげた「木下藤吉郎(秀吉)」が、北近江3郡を与えられ「小谷城」に入城しますが、山城で統治しづらいことから、今浜(現在の長浜)にお城を築き1577年に完成します。

 

「秀吉」にとっては初めてのお城で、城持大名に昇格し、名前も「羽柴秀吉」と改姓しました。

 

一時、「織田信長」死後の跡目を決める「清須会議」で「柴田勝家」の養子「勝豊」が入りますが、その後「秀吉」対「柴田勝家」の「賤ケ岳の戦い」で戦功をあげた「山内一豊」が入城します。

 

1606年に「内藤家」が入りますが1615年に転封によって廃城となり、天下普請で築城が急がれた「彦根城」の部材として流用されました。

 

現在「長浜城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、RC造りの模擬「天守」東側に模擬で建築された「平櫓」があります。模擬「天守」の1階の外壁「下見板張り」に併せて、当櫓の外壁も「下見板張り」を採用し、窓は「突き上げ窓」と古い形式を導入しています。

 

摸擬「天守」の東側に建つ模擬「平櫓」 ↓

摸擬「天守」の東側に建つ模擬「平櫓」 ↓

 

 

膳所」(滋賀県大津市

関ケ原の合戦後の1601年に、来る「大坂方(豊臣方)」と一戦があるだろうと「徳川家康」の命による「天下普請」で、東海道や琵琶湖の水路も抑えることができるこの琵琶湖湖畔の場所に、「藤堂高虎」を使って「水城」を築城させました。

 

歴代「城主」は、譜代大名が統治していて、1601年に築城して入城したのが「戸田一西(かずあき)」で、その息子「氏鉄(うじかね)」が二代目です。

 

その後は、徳川四天王と謂われた「酒井忠次」の次男として生まれ、1575年に「織田信長」の人質として織田氏の下へ赴いた後1580年に「本多家」の養子として入った「本多康俊」が入城します。そして「菅沼家」「石川家」と城主が変遷して、1651年に再度「本多家」が入城すると、幕末・維新迄を当家が統治を続けます。

 

現在「膳所城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、城内唯一城郭建造物風の模擬「平櫓」があります。外観は「下見板張り」の「平櫓」ですが、中は浄水施設となっていて、これを建築する際に、城跡を意識して建てられた模擬の櫓となっています。

 

浄水施設を城郭建造物風の模擬「平櫓」で建造したモノ ↓

浄水施設を城郭建造物風の模擬「平櫓」で建造したモノ ↓

浄水施設を城郭建造物風の模擬「平櫓」で建造したモノ ↓

浄水施設を城郭建造物風の模擬「平櫓」で建造したモノ ↓

 

 

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「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「彦根城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。当城には多くの「多門櫓」や「付櫓」があります。

 

彦根」(滋賀県彦根市

「関ヶ原の合戦」後、「徳川家康」は畿内の有力外様大名に睨みを利かすべく「佐和山城」に「直政」を入城させます。しかし「直政」は、2年後に「関ヶ原の合戦」で受けた傷が原因で逝去し、後を継いだ「直勝」がまだ幼少であったので、家老の「木俣守勝」が「家康」と相談して「彦根城」の築城を進めました。

 

築城に際しては、天下普請によって進められ、1606年に三重三階「天守」を含む第1期工事が完成し、「直勝」が入城しました。その後表御殿等の建築が進められ1622年に完成しました。

 

病弱だった「直勝」に替わり異母弟であった「直孝」が継ぎ「大坂夏の陣」の働きの他幕政にも関わり35万石まで加増され「井伊家」の基盤を盤石なものにしました。その後は代々老中や大老を輩出し下記で紹介する「埋木舎」の主でもあった「井伊直弼」を輩出します。

 

現在「彦根城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、まずは国宝「天守」に付随する「下見板張り」で屋根は「入母屋」になっている「付櫓」、更にそれに連結する切妻屋根で長い「続櫓(多門櫓)」、「天守」にもう一つ付随する切妻屋根の「付櫓」があります。

 

国宝「天守」に付随する「付櫓」(一番奥と手前)、右は「続櫓」 ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」(入母屋屋根で下見板張り) ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」(左側、入母屋屋根で下見板張り) ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」に繋がる「続櫓(多門櫓)」 ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」に繋がる「続櫓(多門櫓)」(天守から見下ろす) ↓

 

藩主の下屋敷の池泉回遊式庭園「玄宮園」から国宝「天守」を見上げた時に、入母屋屋根の「付櫓」と「続櫓(多門櫓)」によって見え方が一層優雅にしてくれています。

 

国宝「天守」に付随する「付櫓」と「続櫓(多門櫓)」(玄宮園から) ↓

 

次は、「西の丸」跡の北西隅に建つ重要文化財「西の丸三重櫓」に東側と南側に連結する長い「多門櫓」です。「東多門櫓」の城内側には3カ所の出入口があり、「南多門櫓」には1カ所の出入口があります。城外側には、四カ所の縦格子窓が並び、その下には〇と△の鉄砲狭間が城外を監視しています。遠方から見える「三重櫓」と「多門櫓」は綺麗です。

 

重要文化財「西の丸三重櫓」に東側と南側に連結する長い「多門櫓」 ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」の東側に連結する長い「多門櫓」 ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」の南側に連結する長い「多門櫓」 ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」に連結する長い「多門櫓」内部 ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」に連結する長い「多門櫓」内部 ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」に連結する長い「東多門櫓」(北側から見上げる) ↓

重要文化財「西の丸三重櫓」に連結する長い「南多門櫓」(西側から見上げる) ↓

 

続いて「本丸」跡に入る関門である重要文化財「太鼓櫓門」に付随する「続櫓」です。当門の東側に付随する形で城内側へ伸びていて、門内に入城してくる敵兵を横から攻める所謂「横矢を掛ける」形となっています。

 

重要文化財「太鼓櫓門」に付随する「続櫓」 ↓

 

この「太鼓櫓門」に辿り着く為には重要文化財「天秤櫓門」を通り抜けなければならず、門の両先端には「入母屋屋根」が交互逆になっている「二重櫓」が建ちますが、その後方(太鼓丸跡)に「続櫓」が連結して建ちます。

 

重要文化財「天秤櫓」の後方に延びる東側の「続櫓」 ↓

重要文化財「天秤櫓」の後方に延びる東側の「続櫓」(内側から) ↓

重要文化財「天秤櫓」の後方に延びる西側の「続櫓」(内側から) ↓

 

最後に、お城に入城する際、「彦根駅」から「表御門」まで向かう間に通り過ぎなければならない「佐和口御門」跡があります。そこには「二重櫓」と左右に「多門櫓」が延びてその先端に「二重櫓」が建つという構成になっています。

 

「いろは松」から向かって左側(西側)の現存重要文化財「佐和口多門櫓」は「佐和口」の枡形を囲むように二度屈折していて西端に重要文化財「二重櫓」が連結します。その「多門櫓」の窓下には、多数の「鉄砲狭間」が並んでいます。

 

重要文化財「佐和口多門櫓」(右側、枡形を囲み堀沿いを西に延びる) ↓

重要文化財「佐和口多門櫓」(左側、枡形を囲み堀沿いを西に延びる)、右は復元「二重櫓」 ↓

重要文化財「佐和口多門櫓」と「二重櫓」(鉄砲狭間が並ぶ) ↓

重要文化財「佐和口多門櫓」と重要文化財「天秤櫓続櫓」と国宝「天守」のコラボ ↓

重要文化財「佐和口多門櫓」 ↓

 

一方右側(東側)は1960年にRC造りで復元した「多門櫓」で直線的に延びて東先端で復元「二重櫓」と接続します。こちらも窓下に沢山の「鉄砲狭間」が並びます。

 

RC造りで復元した「二重櫓」に繋がる「多門櫓」 ↓

RC造りで復元した「多門櫓」と東先端に繋がる「二重櫓」 ↓

RC造りで復元した「多門櫓」(手前)と重要文化財「佐和口多門櫓」(奥) ↓

 

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「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「大垣城」「亀山城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

大垣」(岐阜県大垣市

1535年頃に「宮川家」「氏家卜全」等がお城の基礎を造り、1596年に「伊藤祐盛」によって「天守」が造営されました。

 

「関ケ原の合戦」では、「石田三成」が当城に入城して西軍の本拠地としますが、「徳川家康」の策略によって戦いの場が「関ケ原」へと移動します。戦いが終了した後も、「大垣城」の攻防は続きますが、城内で西軍間での裏切りがあり開城してしまいます。

 

江戸時代に入り、1620年に「松平忠良」によって改築が行われ、更に1635年以降「戸田家」の城下町となって幕末・維新まで続きます。「戸田家」は、三河以来の徳川家の家臣で、その藩祖「戸田氏鉄(うじかね)」は、「膳所城」「尼崎城」を経て10万石で「大垣城」に入城します。

 

現在「大垣城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、まず1959年にRC造り外観復元された「天守」に付随する2基の「付多聞」です。外観は「天守」と同様の白漆喰総塗籠めで、一重二階の「東付多聞」は明治時代になって東面に屋根付き出入口を付けましたが、古絵図では更に東側に多聞櫓が接続していたようです。また「西付多聞」も一重二階でした。

 

RC造り外観復元された「天守」に付随する2基の「東付多聞」(右側)と「西付多聞」(左側)↓

RC造り外観復元された「天守」に付随する「東付多聞」(東面に屋根付き出入口)↓

古写真(戦前焼失前の「天守」に付随する2基の「東付多聞」と「西付多聞」)↓

 

それからRC造り外観復元の「艮櫓」には「先手武具多聞」と「宗門多聞」が付随します。「先手武具多聞」は、「艮櫓」から続く丸い「鉄砲狭間」が目立ちます。

 

RC造り外観復元の「艮櫓」に付随する「先手武具多聞」 ↓

RC造り外観復元の「艮櫓」に付随する「宗門多聞」 ↓

RC造り外観復元の「艮櫓」に付随する「先手武具多聞」(左)と「宗門多聞」(右) ↓

古写真(戦前焼失前の「艮櫓」に付随する「先手武具多聞」と「宗門多聞」) ↓

 

更にRC造り外観復元の「乾櫓」にも2基の「多聞櫓」が付随しています。

 

RC造り外観復元の「乾櫓」に付随する「多聞」(南面) ↓

RC造り外観復元の「乾櫓」に付随する「多聞」「天守」(南面) ↓

RC造り外観復元の「乾櫓」に付随する「多聞」と「戸田氏鉄像」 ↓

 

 

亀山」(三重県亀山市

「亀山城」始まりは、13世紀中盤以降に「関家」によって築かれた「亀山古城」で、現在の「亀山城」の一部まで城域があり約300年間も勢力を維持していました。

 

しかしながら、「織田信長」が伊勢へ侵攻したことで追放され、「岡本良勝」が入城して大改修を加えるとともに「天守」も建てられました。

 

「関ヶ原の合戦」では西軍に属した為「岡本家」は滅亡、その後「関家」「松平(奥平)家」「三宅家」と城主が次々と変わります。

 

「三宅康盛」の時に、幕府の「堀尾忠晴」が「丹波亀山城」の修築命令を出したのですが、誤って「伊勢亀山城」を修築し更に石垣修築に邪魔だからとの理由で「伊勢亀山城」の「天守」を解体してしまいました。

 

その後も、「天守」は建てられることなく、次に入城した「本多家」によって「天守台」跡に現在の「多門櫓」が建てられました。

 

その後「板倉家」「松平(大給)家」が入り、1744年に「石川家」が入城してやっと城主が定まり幕末・維新まで続きます。

 

現在「亀山城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、前述した間違って解体された「天守」が建っていた高石垣の「天守台」に現在建つ「本丸多門櫓」で現存です。「多門櫓」は矩形のL字型をしていて、外側の各面には2箇所の窓が付きます。

 

旧「天守台」に建つ現存「本丸多門櫓」 ↓

高石垣の旧「天守台」に建つ現存「本丸多門櫓」 ↓

旧「天守台」に建つ現存「本丸多門櫓」 ↓

現存「本丸多門櫓」は矩形のL字型 ↓

現存「本丸多門櫓」の出入口 ↓

現存「本丸多門櫓」の出入口 から↓

現存「本丸多門櫓」の内部(壁は土壁) ↓

現存「本丸多門櫓」の屋根は「小屋組み」  ↓

 

屋根は「入母屋本瓦葺」で、外観は2013年に大修理して白壁に復活しています。というのも、1898年に下側に板張りを施していましたが、それを外して元の姿に戻したということです。

 

2013年に大修理して白壁に復活 ↓

明治時代以降大修理するまでの姿 ↓

明治時代以降大修理するまでの姿 ↓

 

 

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4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。

 

「竹中氏陣屋 櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。

 

松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。

 

それによると、1394~1428年頃に小守護「富島氏」が築城し、1569年に「織田信長」に帰属しました。その後「浅井長政」のお城となり1570年に修築され、1573年に「不破光治」による警備がなされ1576年に境城の役割を終えて1579年に廃城になっていました。

 

それを「関ヶ原合戦」勃発前に、「石田三成」が大垣城主の「伊藤盛正」に命じて改修をさせ西軍総大将「毛利輝元」を招き入れようと画策しましたが「輝元」は出陣せず、開戦の前日に「小早川秀秋」が約15,000人の兵を率いて布陣しました。

 

「秀秋」は西軍に与していましたが、以前から恩義を感じていた「徳川家康」に内応を約束していましたが、戦いが始まっても迷っていたようです。眼下では西軍が優勢であり、陣内でも意見が割れていたこともあり戦況を傍観していたようです。

 

この煮え切れない態度に「家康」はしびれを切らし、鉄砲で松尾山へ威嚇したと伝わります。そして「秀秋」は意を決して「大谷吉継」に矛先を向け、それを見た「脇坂安治」も東軍に寝返り、東軍を勝利に導きました。

 

松尾山城」の位置と縄張りは、標高293mの「松尾山」頂上に「主郭」を置き、比高差約「200m」です。「主郭」は北端の「関ヶ原」全体を見下ろせる絶好の位置です。

 

「主郭」は桝形虎口で守られ、南側には馬の背の様な細長い通路の先には「馬出」的な「2曲輪」があり、南東と東方向に細長い「3曲輪」「4曲輪」が築かれています。

 

「主郭」「2曲輪」の西側は多くの曲輪で形成され、広々とした谷底のようになっていて西側には「6曲輪」「7曲輪」が並んでいて広大な陣城です。15,000人の兵士を収容しようとすると、このぐらいのスペースが必要だったのかもしれません。

 

現地掲出の縄張図に加筆した縄張図 ↓

 

さて私達は車を降りると、暫く舗装されたナダラカナな道が続いたので、これが頂上まで続くと思いきや、やはり登城路になると階段が続きます。午前中の「菩提山城」の登下山にかなりの体力消耗があったことから足取りは重く感じられました。

 

登城路途中の「土橋」 ↓

 

約30分位で「主郭」跡に到着、その手前には満開の八重桜がゴールできたご褒美のように迎え入れてくれました。頂上には数組のハイカー達が「関ヶ原古戦場」を見下ろしていました。

 

八重桜越しに「主郭」跡 ↓

 

私達も、掲出されている陣城配置地図と向き合いながら、大名たちの陣城の場所確認をしました。まず最初に目に入るのがやはり「石田三成」の「笹尾山陣城」で、まさに真ん前の位置にありました。次に東軍「黒田長政」の陣城「岡山烽火場」等が良く解りましたが、「徳川家康」が最初に居た「桃配山」は林の木々で遮られ見えず、「家康」最後の陣城も、住宅街の中なので分かりにくいでした。

 

関ヶ原古戦場 史跡位置図 ↓

「石田三成」の「笹尾山陣城」 ↓

東軍「黒田長政」の陣城「岡山烽火場」 ↓

 

「主郭」跡の周囲は「土塁」で囲われていて、その下は「腰曲輪」跡になっていました。「主郭」跡南側には「土塁」による「桝形虎口」が完全な形で残っています。これを見ると、最新の防衛システムに修築したことが良く解ります。

 

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「主郭」跡周囲の「土塁」 ↓

「主郭」跡北下の「腰曲輪」跡 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

「主郭」跡南の「桝形虎口」 ↓

 

「桝形虎口」を出ると長い「馬の背」のような道が延びてその先に「馬出的」な「2曲輪」跡が構えていました。「2曲輪」跡の「南虎口」を出ると両脇に「竪堀」が掘られ、その先端は簡単な「桝形虎口」がありました。

 

「馬の背」の様な道先に「馬出的」な「2曲輪」跡 ↓

「馬出的」な「2曲輪」跡 ↓

「馬出的」な「2曲輪」跡の「南虎口」 ↓

先端の簡単な「桝形虎口」 ↓

 

「2曲輪」に戻り、そこから東へ下りていった所に、細長い形をした「3曲輪」跡があります。入口付近には大きな「土塁」が覆いかぶさっていて南側には扇形の「曲輪」が見下ろせますが、「3曲輪」跡の周囲は「土塁」が巡らされているだけでした。

 

「3曲輪」跡入口付近には大きな「土塁」 ↓

「3曲輪」跡下の扇形の曲輪 ↓

「3曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

 

「主郭」跡と「2曲輪」跡の間には西側へ下っていく道があります。下り道の右手は「主郭」跡の厳しい角度の「切岸」が迫り、左下には大きめの楕円形の半分のような形の曲輪が見下ろせました。

 

「主郭」跡南西斜面の「切岸」 ↓

 

下って行った先には「空堀」の表示があり、その辺りは段状になった多くの「曲輪」がありましたが、大きめの曲輪は「5曲輪」跡です。北に向かって進むと「喰い違い土塁」がありそれを抜けた所には広く周囲を「土塁」に囲われた「曲輪」がありました。これらの広々と削平した曲輪群は、多くの兵士たちを収納する為のスペースとして使用されたのでしょうか。

 

「空堀」 ↓

「5曲輪」跡 ↓

「喰い違い土塁」 ↓

「喰い違い土塁」を抜けた所にある「土塁」に囲われた「曲輪」 ↓

 

その底から見上げた「6曲輪」跡は大きな台地のようで、真ん中あたりには「虎口」が見られます。「虎口」に向かって上がると、上は広くここも周囲は「土塁」で囲われていました。特に南東側は「7曲輪」との間が「大堀切」となっていて、そこから眺めるとかなり立派な曲輪に見えます。

 

台地の様な「6曲輪」跡、右に「虎口」が見える ↓

「6曲輪」跡の「虎口」 ↓

「6曲輪」跡 ↓

「6曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

 

「6曲輪」跡から一度下りて底まで行くと「井戸」跡の穴が見られました。

 

「井戸」跡 ↓

「5曲輪」跡を見下ろす、奥が「主郭」跡(「7曲輪」跡下から) ↓

「7曲輪」跡と「6曲輪」跡の間の「堀切」 ↓

 

「7曲輪」跡の「帯曲輪」的な所を歩いて南先端に行くと「虎口」がありました。そこを出た所には、まず右側に1本の「竪堀」があり、次に少しズレて両サイドに「竪堀」が落ちていきます。「竪堀」の所には「土橋」が架かっています。

 

「7曲輪」跡の台地 ↓

右に落ちる「竪堀」 ↓

左右に落ちる「竪堀」の片方 ↓

「土橋」 ↓

 

「7曲輪」跡を戻る際には上を歩いていきましたが、途中に2箇所の「土壇」があり先端はやや右に折れていました。

 

「7曲輪」跡(北方向) ↓

「7曲輪」跡内の中央の「土壇」 ↓

 

「主郭」跡に戻り、まだ見学をしていない「4曲輪」跡へ足をのばしました。ここも「3曲輪」跡と同様に東へ長く延びますが、ここは3段になっていて周囲は「土塁」で囲われています。所々「土塁」の「横矢掛かり」が架かっているのが見受けられました。

 

「4曲輪」跡方向 ↓

「4曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

「4曲輪」跡周囲の「土塁」 ↓

「4曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

「4曲輪」跡の「横矢掛かり」 ↓

 

そこから数分下ると最後の三角形した「8曲輪」跡が横たわり、真ん中あたりが盛り上がっていました。

 

「8曲輪」跡 ↓

 

これで、全ての見所を抑えて見学できましたので、どんどんと下って行きました。

 

小さな「陣城」だと思っていましたが、15,000人の収容となるとこれだけ広大な面積が必要になるのだということが実施に登城してみて非常に良くわかりました。

 

疲れていたのか、甘いものを口が欲していたので、車を返却した後、駅前の喫茶店に入りケーキセットを頼みしばしの休憩をとりました。

 

米原発17時17分の「新快速」に乗車、帰りもお城の話で盛り上がり、特に城友は「歴史人」という雑誌を持参していましたので、それに掲載されていた「山城特集」を見ながら、次回訪城する所を色々と吟味しながら1時間半の城旅は終了しました。楽しい1日を過ごすことができました。

 

 

 

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4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。

 

どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に後方に見えて、「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。

 

「JR大阪駅」で合流し、8時発の「米原行新快速」での車中では、お互いが最近登城したお城の話に沸きながらアッという間に「米原」に到着しました。

 

「米原」からはタイムズのカーシェアによる車で移動して途中「関ヶ原古戦場」跡を通り抜けて約50分弱で「菩提山城」麓の登城口「菩提寺」に着きました。

 

比高差は300mで、だいぶ心して登城しなければならないとスタートしました。ただ登城路は思っていた程急坂でもなく、階段もある程度整備されていたし、頂上までの距離も短いルートを選択したこともあって、意外と早く約35分位で城域に辿り着きました。

 

登城途中でこれから歩む道を眺める ↓

 

ここで「菩提山城」の歴史と城主について触れておきたいと思います。

 

1544年頃には菩提山に「岩手氏」によって砦が築かれていたのを、「竹中重元」が追放して1559年に詰城として再構築したようです。「重元」が亡くなった後家督を継いだ「重治(半兵衛)」は麓の「館」を居館としてました。

 

「(竹中)半兵衛」は、「羽柴秀吉」の軍師として活躍しましたが、「三木城攻め」の陣中で病の為に亡くなり、その後幼い息子の「重門」に替り一時城代として従兄弟「重利」が守りましたが、「重門」に引き継ぎます。

 

「関ヶ原合戦」時には、「重門」は当城を「徳川家康」に差し出しますが、戦後は1608年に廃城として岩手に「館」を構えました。

 

菩提山城」の立地と縄張は、標高402mの菩提山に詰城として築城され、「本曲輪」「二の曲輪」「三の曲輪」「5の(台所)曲輪」がお城の中核部を構成して多くの削平地を有していました。

 

その他に、北から「水の手」「6の(西)曲輪」を設け、「大堀切」の南側には「出曲輪」を設けて「竪堀」「横堀」「畝状竪堀」による各種防御システムを備えていました。

 

「菩提山城 散策マップ」(黒字で加筆しています)↓

 

私達は「大手山道」を上がって行き、まず最小に遭遇したのは「土橋」とその両脇に落ちる「竪堀」でした。少し上がると4段の「段曲輪」があったのですが縄張図に西側に通じる最短道があったので、そちらを通りましたが、この道は非常に危険で左側は断崖絶壁となっていましたので、やはり「段曲輪」を通るべきでした。

 

「大手山道」、城域への「土橋」(両脇は「竪堀」) ↓

「土橋」脇の「竪堀」 ↓

 

帰りに「段曲輪」側を通ったのですが、その北側に「堀切」があり「段曲輪」は「大手曲輪」という名称が付いていて「大手門」を敵の攻撃から守る為に造られたとのことでした。

 

「大手曲輪」跡北端の「堀切」 ↓

「大手曲輪」北端の「堀切」底(右は「2の曲輪」跡) ↓

「大手曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

 

辛うじて細い道を抜け「3の曲輪」跡の「虎口」に入り、先に南側の「4の(出)曲輪」跡とその先端に設けられている「竪堀」等の防御仕掛けを確認する為に足を進めました。

 

「3の曲輪」跡の「虎口」 ↓

 

「3の曲輪」跡の南側には「土塁」が設けら、更にその南側は「大堀切」になっていて深い底が上から見下ろせます。

 

「3の曲輪」跡と南側の「土塁」 ↓

「大堀切」(向こうは「4の(出)曲輪」跡) ↓

 

ロープ伝いで「大堀切」の底に下りるとそれは左右に更に「竪堀」となって落ちていってました。西側の先までは今回行きませんでしたが「水の手」との案内が掲出されています。

 

「大堀切」の底 ↓

「大堀切」の西側へ落ちる「竪堀」、その先に「水の手」 ↓

 

「4(出)曲輪」跡へ上がると西南端に「土塁」があり、西下には「腰曲輪」跡が拡がっています。

 

「4(出)曲輪」跡西南端の「土塁」 ↓

「4(出)曲輪」跡西下の「腰曲輪」跡(南方向) ↓

 

一方、南側の「切岸」が効いた斜面下には「横堀」が横たわり、更にその両脇からは斜めに「竪堀」が落ちていき、両「竪堀」の間には、3つの「畝状竪堀」が畝っています。そしてその下には「堀切」が弧を描いて掘られています。

 

 

「4(出)曲輪」跡南端下の「横堀」(上から見下ろす) ↓

「横堀」(右が「4の(出)曲輪」跡) ↓

「4の(出)曲輪」下の「竪堀」 ↓

「畝状竪堀」(横から) ↓

「畝状竪堀」(南の「堀切」から、奥は「4の(出)曲輪」跡) ↓

「畝状竪堀」南の「堀切」 ↓

 

南西方向にかけて何重にも施された「防御システム」は見事な様相を見せてくれていました。

 

南西方向というと「関ヶ原古戦場」方向になりますが、「関ヶ原合戦」前に城主であった「竹中重門」は西軍に属していましたが、戦いが始まると東軍に属してこの詰城を「家康」に差出しました。東軍は急遽、「菩提山城」西南方向の守備力アップを目指して各種の防御システムを構築したのではないかと思いました。

 

ここから「3の曲輪」跡に戻り、「本曲輪」跡へ進む途中にも、左手に長い「竪堀」が見られ、「5の(台所)曲輪」跡に入ります。「5の(台所)曲輪」は、文字通り兵士たちの食事を作る施設が置かれていたようです。また当曲輪の西下には細長い「帯曲輪」跡が上から覗けました。

 

「3の曲輪」跡と「5の(台所)曲輪」跡の間の「竪堀」 ↓

「5の(台所)曲輪」跡 ↓

「帯曲輪」 ↓

「帯曲輪」 ↓

 

「5の(台所)曲輪」跡から、「2の曲輪」跡の「出枡形」になった「虎口」を上がって行くと、左前と右前に「空堀」が目に入ります。右前の「空堀」は三日月状になっていて「馬出」を取巻く「空堀」で、左前の「空堀」は「本曲輪」跡と「馬出」を分断する「空堀」となっていて、その先端には「本曲輪」跡と「馬出」を結ぶ「土橋」が見えます。

 

「2の曲輪」跡の「出枡形」(右が「2の曲輪」跡) ↓

「馬出」(左側)を取巻く三日月状の「空堀」 ↓

「本曲輪」跡(左)と「馬出」(右)を分断する「空堀」と「土橋」 ↓

「馬出」(左)と「本曲輪」跡の間の「空堀」(「土橋」から西方向) ↓

 

この辺りは非常に複雑に入り組んだ構造になっていました。南に延びる「2の曲輪」跡の南端から下を見下ろすと、先ほど歩いてきた「3の曲輪」跡が厳しい「切岸」の下に拡がって見えます。

 

「2の曲輪」跡(南方向) ↓

「2の曲輪」跡南端から見下ろす「切岸」 ↓

「2の曲輪」跡南端の「切岸」(下から見る) ↓

 

「土橋」を渡ると「本曲輪」跡です。登城途中で何組かのハイカーとすれ違い挨拶を交わしましたが、そこには多くのハイカー達がベンチに腰掛けて食事をしたり休憩を取ったりしていたので、これだけ多くの方々がハイキングに来ていたとは驚きでした。

 

「本曲輪」跡(北方向) ↓

 

「本曲輪」跡の北先端には「横堀」から東下へ落ちる「竪堀」が見られ、両脇下段には「腰曲輪」跡がありました。

 

「本曲輪」跡の北先端下の「横堀」 ↓

「本曲輪」跡東下の「腰曲輪」跡 ↓

 

「本曲輪」からの眺めは、黄砂の影響で岐阜、名古屋方向はドンヨリとしていましたが、「竹中氏陣屋」跡がある岩手地区周辺や新幹線が頻繁に行き来する光景が望めましたので、私達はそこでサッとおにぎりを食べて昼食を済ませ、残る「5の(台所)曲輪」「6の(西)曲輪」の各跡へ足を向けました。

 

黄砂の影響か岐阜、名古屋方面は視界悪い ↓

「竹中半兵衛重治公菩提山城跡」の幟 ↓

 

一旦「5の(台所)曲輪」跡に下りてから、更に下った所が「6(西)の曲輪」跡です。

 

「5の(台所)曲輪」跡から「6(西)の曲輪」跡を見下ろす ↓

 

「6(西)の曲輪」跡はかなり長い曲輪で、「本曲輪」跡の西側「切岸」の下に「横堀(空堀)」を設けていて北側へ掘られていましたが、途中「土塁」で一旦中断し、再び「横堀(空堀)」が伸びて、その先は「竪堀」となって下へ落ちていきます。

 

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「6(西)の曲輪」跡から見上げる「本曲輪」 ↓

「6(西)の曲輪」跡真ん中の「土塁」 ↓

「6(西)の曲輪」跡内の「横堀」から「竪堀」へ ↓

 

一方西側には、これぞ完璧な「竪堀」というのが判る程の鮮明なモノがあり、私は今まで目にしたことがないような「竪堀」を観察できました。

 

これぞ完璧な「竪堀」 ↓

 

また北端には高さのある「土塁」が細長く尾根に沿って築かれているのが印象的でした。この尾根の延長上には「北の水の手」跡があったようですが、そこまで行くのはパスしました。

 

北端には高さのある「土塁」 ↓

 

以上、「菩提山城」の見所をほぼ見終えた私達は、予定時間より約半時間程早く巡ることができたので、この調子で下山して麓(岩手地区)にある「竹中氏陣屋」へ向かおうと下山を急ぎました。

 

「大手曲輪」跡から見上げた「本曲輪」跡 ↓

 

下山は結構膝への負担が大きく、ガクガクとなりながら車に辿り着き、数分で「竹中氏陣屋」跡に到着し、現存「櫓門」を見学しました。

 

「竹中氏陣屋 櫓門」 ↓ 

「竹中氏陣屋 櫓門」(内側から) ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」の「床梁」 ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」脇の「堀」 ↓

「竹中氏陣屋 櫓門」から続く「石垣」 ↓

 

私は昨年8月に訪城していましたので、サラッと写真を撮るだけでしたが、「櫓門」と「菩提山城」とのコラボ写真は撮っていなかったので撮影しました。

 

「櫓門」と「菩提山城」とのコラボ ↓

 

「岩手地区まちづくりセンター」内で「菩提山城」の散策マップ他、各種パンフをいただき、特に「岐阜県の城百景」という冊子は、先日登城した「美濃金山城」「久々利城」他多数のお城が掲載されていたので、今後の行き先候補選びに役立ちそうです。

 

「岐阜県の城百景」という冊子 ↓

「岐阜県の城百景」に掲載のお城 ↓

 

次は、「松尾山城」へ向かいます。

 

 

 

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<速報> 昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。

 

どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。

 

「米原」でカーシェアによる車で移動して「菩提山城」麓の「菩提寺」からスタートしました。比高差は300mですが、お城へはこの登城口が最も近そうなのでここをスタートしましたので、意外と早く城域まで辿り着きました。

 

「菩提山」麓の「菩提寺」からスタート ↓

 

まず「3曲輪」から「大堀切」を越えて「4曲輪」の南側に向かいますと、「横堀」から「畝状竪堀」と共に両脇には「竪堀」が下へ落ちていき、更に「堀切」が見られるなど南東方向に対しては二重三重の見事な防御態勢が見られました。

 

「大堀切」 ↓

「横堀」(左には「畝状竪堀」が見える) ↓

「畝状竪堀」の奥が「4曲輪」 ↓

 

「本曲輪」に辿り着く前に「2曲輪」に入りますが、そこには三日月型の「空堀」を備えた「馬出」があり「土橋」で「本曲輪」に繋がっていました。

 

三日月型「空堀」の手前が「馬出」、奥が「二曲輪」 ↓

「本曲輪」と「馬出」を結ぶ「土橋」と「空堀」 ↓

 

登城途中に何人かのハイカーの方々と挨拶を交わしてきましたが、「本曲輪」では、多くのハイカーたちが昼食を取っていたのには驚きました。この山はハイキングコースになっているようでした。

 

「本曲輪」 ↓

 

「本曲輪」からの眺めは、黄砂の影響で岐阜、名古屋方向はドンヨリとしていましたが、「竹中氏陣屋」跡付近や新幹線が頻繁に行き来する光景が望めましたので、そこでサッとおにぎりを食べて昼食を済ませ、残る「5曲輪(台所曲輪)」「6曲輪(西曲輪)」へ足を向けました。

 

「本曲輪」からの眺め(黄砂でどんよりが残念!) ↓

 

「6曲輪」には見事な「土塁」と「竪堀」が北からの尾根に対する備えを行っていました。

 

見事な「竪堀」 ↓

見事な「土塁」 ↓

 

50分位の滞在で全て見所を抑えた後は下山し、当初の予定時間より早かったし、城友はまだ見たことが無かった「竹中氏陣屋門」を見に行きました。

 

そこからは先ほど登城してきた「菩提山城」も見上げることができました。

 

「竹中氏陣屋門」 ↓

「陣屋門」越しに見える「菩提山城」 ↓

 

続いて、「関ヶ原合戦」跡側の「松尾山城」登城口へ移動して登城しました。最初はなだらかな坂道が続いていたので割とラクチンかと思いきや、やはり途中から階段が続きました。午前中の「菩提山城」登城における足への負担は大きく、非常に足が重く感じられました。

 

駐車場に立つ「小早川秀秋」の幟 ↓

 

「主郭」である頂上に着くと、数組の登山客が「関ヶ原合戦」跡地を見下ろしていました。

 

「主郭」とその「土塁」 ↓

 

そこからは、西軍「石田三成」の陣城「笹尾山」が真正面に見え、東軍「黒田長政」の陣城「岡山烽火場」等が良く解りましたが、「徳川家康」が最初に居た「桃配山」は林の木々で遮られ見えず、「家康」最後の陣城も、住宅街の中なので分かりにくいでした。

 

西軍「石田三成」の陣城「笹尾山」(正面やや左側) ↓

 

「小早川秀秋」がここで戦火の情勢を見つめていた場所だと思うと、感動を覚えました。

 

さて私達は、約1万5千人の城兵を滞留させていたこのお城の後背地がどのようになっていたのかを探るべく他の曲輪を巡りました。

 

特に「主郭」南の「桝形虎口」を出て「馬出状」になった「2曲輪」との間から下っていく道沿いや、「主郭」の西側とその南側にも独立した台地上の2つの大きな曲輪があり、その間の谷底には「空堀」が南北に掘られその周囲には多くの段上の「曲輪」がありました。「井戸」跡も設けられていたので、この辺りに多くの城兵を待機させていたのでしょうか。

 

「主郭」から南へ出る「桝形虎口」 ↓

「馬出状」の曲輪(2曲輪) ↓

「5曲輪」とその「虎口」 ↓

「6曲輪」 ↓

「6曲輪」から「1曲輪」方向を見る ↓

「井戸」跡 ↓

 

とにかくスケールの大きな「陣城」であったことが良くわかりました。この辺りまで入り込むと、私達だけしか居ないので、ハイカー達は「主郭」の頂上まで来たら「関ヶ原合戦」場を眺めて下山する方たちが大半なんだろうな~と思いました。

 

以上、速報での両城のご紹介でしたが、詳細については後日個々に投稿していきますので、またご覧ください。

 

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只今、ブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞り、具体的なお城の写真をお届けしています。

 

「平櫓(一重櫓)」をスタートするにあたっては、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。

 

「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓

※全国の「平(一重)櫓」の概算数、その出所、算出に当たっての自分自身の定義等を記載

 

「平櫓(一重櫓)」は、単独で建っている例はそんなに多くなくて、複合「天守」に付随する単層(一重)の「付櫓」や「多門櫓」、「二重櫓」「三重櫓」「櫓門」に付随する「続櫓」や「多門櫓」に多く見られます。

 

従って、「櫓」の中では、「三重櫓」や「二重櫓」とは違って、見た目が少し地味な「平櫓(一重櫓)」ですが、色々と歴史やエピソードなどもあるかと思いますので、併せてお届けしていきたいと思います。

 

現在の所、「櫓」類は全国で概算総計は約286基(内、「現存」134基、「復元、復興、模擬」152基で、その内、概算数字ですが「平櫓」148基、「2重櫓」113基、「3重櫓」25基あると思われます。

 

 

本日は、「犬山城」「墨俣(一夜)城」の「平櫓(一重櫓)」をお届けします。

 

犬山」(愛知県犬山市

「犬山城」の始まりは、古くは室町時代に遡るようで、「織田家」のお城でしたが、戦国時代には、「稲葉山城」主だった「斎藤道三」との奪い合いがあったりしました。最終的には「織田信長」の叔父に当たる「織田信康」が入城して修築し、その後は「織田信清」「池田恒興」「中川定成」等の諸将が入城しました。

 

江戸時代に入り、徳川家康の臣下である「平岩親吉」が初代藩主となりますが、その後「名古屋城」に御三家が設けられたことから、「尾張徳川家」の付家老「成瀬家」のお城となりました。

 

「犬山城」城主の「成瀬家」は、「尾張徳川家」の陪臣であり長年、将軍の直臣である大名になれるよう陳情がなされましたがそれは叶わず、明治新政府に替わってやっとのことで諸侯に列しました。しかし、他藩の付家老と同様に1871年の廃藩置県で、大名としては数年間だけの在位になりました。

 

しかし特筆すべきことは、他のお城では、藩主や城主であった各家は、明治時代になって早々と売却したり地元や役所等への寄付や贈呈を行いましたが、「犬山城」だけは、近年(2004年)まで、この「天守」を自費で旧お殿様であった「成瀬家」が所有されていました。その後は、財団法人を作って管理運営を任すようになりました。個人で、所有とは、かなり大変なことだったと思います。

 

現在「犬山」の「平(一重)櫓」が見られるのは、現存の国宝「天守」に付随する「付櫓」です。

 

国宝「天守」に付随する「下見板張り」の「付櫓」 ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」 ↓

 

正面向かって右側に、櫓台の上に建つ「付櫓」は、屋根は「切妻造り」で「天守」同様に「下見板張り」になっていて両脇と先端に開閉式の窓がついています。「天守」よりも前に出張っているので、「天守」入口に対しては「横矢を掛ける」ことが可能でした。

 

国宝「天守」に付随する「付櫓」 ↓

国宝「天守」に付随する「付櫓」 ↓

 

内部は、1階の「武者走り」から一段下へ下りて内部に入る構造となっていました。

 

国宝「付櫓」の内部 ↓

 

同じような部屋が1階の北西隅にありましたが、それは「石落としの間」と言われ、外壁から「出張り」がありましたがサイズ的には「付櫓」よりも狭い部屋になっています。

 

重要文化財「天守」内部の「石落としの間」 ↓

出張っている「石落としの間」(「付櫓」ではない) ↓

 

 

墨俣(一夜)」(岐阜県大垣市

長良川西岸の洲股(墨俣=すのまた)は交通上・戦略上の要地であり、「織田信長」が美濃侵攻にあたって、「木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)」がわずかな期間でこの地に城(砦)を築きました。

 

「信長」はこの城(砦)を足掛かりにして美濃攻略を成功させ、「藤吉郎(秀吉)」は出世の道を開いたと言われています。

 

「信長」や「秀吉」について残る資料からはこの件についての詳細な記載がなかったですが、近年(1977年)に「前野家古文書」の中から当城に関するお城(砦)の配置などが記された貴重な資料が見つかっています。

 

ただ現在の「墨俣(一夜)城」は、当時のお城(砦)の形を反映したものではなく、「大垣城」の「天守」を模したRC造り模擬の「天守」が「墨俣歴史資料館」として建築されています。

 

現在「墨俣(一夜)城」の「平(一重)櫓」が見られるのは、前述した白漆喰総塗籠めのRC造り模擬「天守」の「付櫓」として建てられ、「資料館」の出入口として使用されています。

 

RC造り模擬の「天守」に付随する「付櫓」 ↓

RC造り模擬の「天守」に付随する「付櫓」 ↓

RC造り模擬の「天守」に付随して出入口に使用されている「付櫓」 ↓

RC造り模擬の「天守」に付随する「付櫓」(北側から) ↓

 

 

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