刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

血塗られた女帝の秘密(*´Д`)

2024-05-06 15:47:21 | 古代史
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天皇の役割は皇祖神の霊を身につけて宮中祭祀を行い国家安泰と大御宝とする民の安寧を祈る役割で、男系男子が行うことになっています。未婚の皇女は神の妻とする斎王の制度が天武天皇から始められ、南北朝時代に終わっています。女性が天皇に即位した事実はその役割を考えるとあり得ません!

京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では明治になるまで女性を天皇として祀っていませんでした。

明治になって記紀神話に基づく国家神道が創設され学校で国史が教えられるようになりましたので、戦後の日本人は記紀神話は太古から伝えられたと思わされていますが、江戸時代に作られたものなのですよ。

それまでの神話は、記紀神話とは全く違う、神仏習合、修験道や道教の影響を受けた中世日本紀と呼ばれるものでした。明治の神仏分離令から記紀神話に強制的に変えられたのですよ!

現存する最古の正史日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、完成は崩御の34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良と組んで優秀な皇子達を排除して鵜野の孫を15歳で即位させ、妃に不比等の娘をつけて実権を握ったのです。

そのことを正当化するために鵜野を持統天皇に即位したことにして、高天原神話を創作したのです!三世紀の建国時代の史実が藤原氏にとって不都合だったので神話に閉じ込めて、その後の歴史を改竄していることが考古学や民俗学などの成果から判明しました。

本当は高市皇子が即位していたのを暗殺して文武天皇を即位させたと推理しています!
日本書紀では高市皇子の母が宗形徳善の娘で身分が低いので即位できないと嘘をついていますが、高市皇子の子長屋王が親王宣下を受けていた証拠が見つかりましたので嘘がバレてしまいました。

ムナカタ族の娘達は応神天皇から六世紀の天皇の皇妃について天皇を産んでいましたので、それを隠すために和邇氏を発明しました。でも天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神からムナカタ族だとバレました。宗像女神市杵島姫卑弥呼を祀っていたのです。

日本書紀では女帝の前例を創作しましたが、二人とも即位していないこともわかりましたよ。持統天皇の後の女帝も誰一人天皇にはなっていないことは先ほどの泉涌寺の祭祀からも判明しています。

詳しくは刮目天の古代史をご参照下さい。お邪魔しました^_^

【関連記事】
藤原不比等が日本書紀で神話を創作した理由が分かりますよ(^_-)-☆
神話が隠した不自然な史実

【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?

伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)


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箸墓の被葬者は大国主の妃台与だよ!(#^.^#)

2024-05-05 08:06:00 | 古代史
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#またいい動画をYouTubeで見つけましたので早速コメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)




いい動画をありがとうございます。箸墓の被葬者は、御存じのとおり、『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記された大物主(大国主)の妻とされた人物ですので、卑弥呼の墓ではないと記紀が明言していますね。

この姫の名前の意味はヤマトとトビ(トビヒコとも呼ばれた大国主命)を恨んで何度も何度も唱える気の毒なお姫様ということで、史実をもとに作られた名前ですよ(^_-)-☆。

ちょっと長くなって恐縮ですが、以下の話です(;^ω^)

247年の卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ、和邇氏の祖神)の死後の内戦を勝利した大国主久々遅彦(豊岡市久久比神社祭神、奴国最後の王スサノヲの子孫、狗奴国の官狗古智卑狗)が外交上卑弥呼の宗女として同じムナカタ海人族の姫巫女台与を女王に立て、纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ、記紀の崇神天皇)を裏切って対立しました。日本列島の大半を支配した山陰・丹波を根拠地とするムナカタ族を束ねる王なので、記紀では出雲の大国主命と呼んだのです。最終的に大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后)が狗奴国(旧奴国)勢に討たれて日本が統一されました。





しかし、280年に西晋に呉が滅ぼされると、台与を討った仕返しで狗奴国は追討されると恐れました。久々遅彦と台与の間の王子ホムダワケを祭祀王として呼び寄せて両親の鎮魂をさせました。記紀では崇神天皇紀の大田田根子の話です。そして狗奴国を卑弥呼・台与の後継国ということにして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにし、父を桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で、母を箸墓で改葬しました。

応神天皇の父とされた仲哀天皇は、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話です。記紀で熊襲征伐のために九州遠征し、神託を疑ったために崩御したとされた仲哀天皇は倭国追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫)で、大国主勢に殺された人物です(九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳で葬られたと推理しました)。

跡を継いだ尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が大国主・台与らを討って日本を統一した人物です(遠征の途中で戦死し沼津市高尾山古墳で葬られたと推理しています)。記紀で景行天皇の九州遠征の話になっています。崇神天皇四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話が3世紀後半の史実だったのです(倭国大乱から統一戦争までの詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。


(左クリックで拡大)


と言う訳で、たった13歳で大国主の妃にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様ですので、ヤマトとトビを恨んで、その名を何度も何度も唱えるお姫様という名前にされています。詳しくは「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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米神山が日本建国の秘密を暴く!(^_-)-☆

2024-05-04 15:13:17 | 古代史
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#申し訳ありません。早速ボケかましました。リンクを貼りましたので、ご覧ください!(;^ω^)

#前回断念した米神山の石柱群調査に再度挑戦しようと、動画を調べていたらとてもいい動画を見つけたので、いつのものようにコメントしました。よろしければ動画をご覧になって、お付き合いください(;^ω^)



米神山のご紹介有難うございます。とてもいい動画です。古代史研究をしていますが、安心院町は記紀が隠した最も重要な場所の一つです。安心院町下毛の三柱山古墳は魏志倭人伝にある卑弥呼の墓だと発見しています。古墳マップをご参照ください。

247年の卑弥呼の死後の内戦に勝利した、後に列島の大半を支配した実在人物が安心院町佐田に訪れて最初に王宮を造りました。佐田神社です。記紀神話でヤマトに国譲りをした出雲の大国主命と呼ばれた人物です。佐田川の葦の群生を払って水田にして最初に、豊葦原の瑞穂の国にした場所だったのです。

米神山は二世紀末の倭国大乱で戦死した父・先代狗古智卑狗に勝利を感謝し、加護をお願いした霊山です。麓の佐田京石も山頂の列石も大国主の祭祀場でした。米神山の月の神谷の人工的に南西方向に揃って設置されていた多数の石柱群の謎も分かり、さらに大国主の生誕地まで発見しました。記紀が隠した日本の建国の謎が解明できました。もしもよろしければ刮目天の古代史 「【大発見!】大国主命の生誕地か?」などをご参照ください。お邪魔しました(#^.^#) 

【関連記事】
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
倭国大乱で大活躍した狗奴国の官狗古智卑狗が大国主の父日高彦です。記紀神話で日向三代のホホデミ(山幸彦)として隠された実在人物です。油断したために倭国王難升米に突然襲われて戦死してしまい歴史の歯車が大きく狂ってしまいました。日高彦の右腕で玄界灘を支配したムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が難升米王に懐柔され、安心院町三女神社を宮室としていた娘の卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)が憑依した太陽神のお告げによって政治を行う条件で、纏向の狗奴国王卑弥弓呼を裏切り、対立します。倭国大乱の実相を推理することによって陳寿も正確な場所を知らなかった邪馬台国の謎が解けました。
陳寿も邪馬台国の位置を知らなかった!

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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高野御子の歌(その1)

2024-04-30 09:21:45 | 古代史
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#2024-04-27 23:29:46にアップしましたが、まだ見ていただいていない方が居られるようなので再度、アップします。よろしければお付き合いください(;^ω^)

#もう半年以上も前になりますが、jikan314様の新古今和歌集の部屋で古文を勉強させていただいているので、以前から気になっていた高野御子と呼ばれる人物が登場する歌について、以下のブログ記事に質問コメントしました。そうしたら、いろいろと調べていただきとてもいい成果が得られました。そのやり取りの内容を記録に残すためにブログにアップしました。jikan314様には、今頃になって恐縮ですが、改めて御礼申し上げます。少し長いので分割して掲載します。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)

新古今和歌集の部屋
源氏物語における「あやし」 その2 メモ 索引本間違い修正
源氏物語和歌
2023-08-28 20:24:31


katumoku10(2023年8月30日)
いつも勉強させていただいています。
丁度「怪し」という言葉が出てきたので興味を覚えました。古文は学生時代苦手にしていて、全く素養がないまま古代史研究に嵌り、幼稚な質問で恥ずかしいのですが、一つお教えください。
弘法大師空海が日本建国の主役大国主命を鎮魂する目的で真言密教の修行の場とした高野山を調べるうちに、伊都郡丹生都比売神社の祭神丹生都比売大神の御子に当る高野御子大神が現れました。丹生都比売は大国主の妃の女王台与のことであるのは、だいたい男女ペアの神様として現れることからすぐに気づきましたが、高野御子は大国主の幼名と推理していたので、台与の子供のことではなく、ペアであることを誤魔化すためにこのような伝承にしたのだと考えています。高野山の山号は高野御子から来たものだと考えています。豊岡市竹野町鷹野神社の元宮が父久久遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)の王宮で、大国主はここで生まれたと推理しています(詳細は「刮目天 【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。



そこで高野御子をネットで調べると以下のような解説があることを知りました(精選版 日本国語大辞典 )。
高野御子は日吉神社の神の使いといわれる猿の称。
※永久百首(1116)雑

「たかのみこいとも怪しと見まし鳬猿まろをしも引きたててとや」


この歌の直接的な意味は「神の使いが高野御子というのはとても奇妙に見えるかもしれないですが、お猿さんもひいきにしてくださいネ」というあまりよく分からない内容にしてますが、深い意味があるのかなと思います。先生の目から見てそのような解釈でよろしいのしょうか?

この永久百首はデジタル大辞泉で「平安後期の歌集。2巻。永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほか6人が編集。百首の和歌を収録。永久四年百首。堀河院後度百首。堀河院次郎百首。」とありました。
ということは、藤原氏が力を失い院政のはじまりで武家社会の入り口のような時代ですから、藤原政権が隠した公然の秘密「日吉神社の本当の祭神はオオヤマクイではなく大国主」あるいは「神の使いの猿は、大国主の分身猿田彦大神でしょ」ということをやんわりと暴露する内容ではないのかなと考えます。
「鳬」は「かも」でしょうから、大国主の別名の賀茂大神に引っかけたと見ました(^_-)-☆

つまり、当時の貴族の人々は日本建国の真相をある程度知っていたのですが、藤原氏の手前大ぴらにはできず、このような歌が歌集に載ったのかなと思いますが、どう思われますでしょうか?

お忙しい中誠に恐縮でございますが、劣等生にもわかるようにお教えください。よろしくお願いいたします。

新古今和歌集の部屋
永久四年百首歌 源俊頼 猿
その他
2023-09-14 10:09:19


katumoku10(2023年9月14日)
jikan314様
早速拝見させていただきました。貴記事『源氏物語における「あやし」 その2』に大変面倒なことをお願いするコメントをして申し訳ございませんでした。とても詳しくお調べいただいたので高野御子の歌について深く知ることができました。

永久四年百首歌
 雑  猿                  源俊頼
たかのみこいともあやしとみましけり猿まろをしも引きたてじとや


この歌の作者は源俊頼だったのですね。
そして、私がネットで調べた精選版 日本国語大辞典の「高野御子」の歌にあった「見まし鳬」を「見えるカモ」と解釈したのですが、「みまし」というのは御坐のことだったのですね。鳬も「賀茂大神(大国主の別名か分身)」の掛詞かと思ったのですが、ここでは「けり」と書かれていたようですね。
しかし古注で正本がないと言っているのは、この歌の正本ということならば、「見まし鳬」か「みまし(御坐)けり」なのか、よく分からないとも受け取れるのですが、そうであるなら「御坐かも」つまり賀茂大神の掛詞というのも捨てがたいのですが(^^;)
大変、有難うございました。またお気づきのことがございましたら、遠慮なくお教えください。どうぞよろしくお願い申し上げます

katumoku10(2023年9月14日)
たった今、気づきましたので再度コメントさせてください(#^.^#)

ご存じのとおり大国主には様々な別名があり、大己貴命(おおなむち-)・大穴牟遅神(おおあなむぢ-)もそのひとつです。そして「播磨国風土記」には大汝命(おおなむじのみこと)とあります。つまり、jikan様の「みしは、見しと汝(御座)の掛詞のようです。」というご意見のとおり、御坐は「汝(なむぢ)」の尊敬語ですから大国主の掛詞と見ていいように思います。いかがでしょうか?
何度も、申し訳ありません(^^;)

jikan314(2023年9月15日)
@katumoku10 これ以上無理かな?と思って、新古今和歌集を読もうとした途端、机の上のコーヒーを足に溢してしまいました。
これは、大己貴命の神罰だな⁉️と言う事で、急遽図書館に行って調べてみました。
汝(なむじ、なんじ)の国語大辞典を読むと、大己貴命の例を出していました。
とりあえず、宇治拾遺物語をアップしまいましたので、御覧ください。
高野(こうや)を蛇、中山(ちゅうざん)を猿としております。
源俊頼は、歌会で、自分の名前を折り込む程難解な歌を作ります。
このエピソードを知っていたのかも?確証はありませんが。
次は、今昔物語、そして源俊頼の歌論、俊頼髄脳を調べてみます😃

(つづく)

【関連記事】
猿田彦大神の石碑のなぞ?
高野山の秘密?
高野御子は、スサノヲの子孫で、倭国大乱の英雄狗古智卑狗「日高彦の御子(ひだかひこのみこ)」が大国主ですので、それを省略した形で高野御子(たかのみこ)としたようです。出雲三代の大国主の系譜を隠すための隠語なのでしょう(#^.^#)



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高野御子の歌(その2)犬猿の仲の由来かも(^_-)-☆

2024-04-28 20:18:06 | 古代史
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新古今和歌集の部屋
宇治拾遺物語  吾妻人生贄をとどむる事
物語 2023-09-15 06:38:19

宇治拾遺物語巻第十 六 吾妻人、生贄をとどむる事


今は昔、山陽道美作国に※中山、※高野と申す神おはします。高野は蛇、中山は猿丸にてなんおはする。その神、年ごとの祭に必ず生贄を奉る。人の女のかたちよく、髪長く、色白く、身なりをかしげに、姿らうたげたるをぞ求めて奉りける。昔より今にいたるまでその祭怠り侍らず。それにある人の女、生贄にさし当てられにけり。親ども泣き悲しむこと限りなし。人の親子となることは前の世の契りなりければ、あやしきをだにもおろそかにやは思ふ。ましてやよろづにめでたければ、身にもまさりて おろかならず思へども、さりとて逃るべからねば、嘆きながら月日を過す程に、やうやう命つづまるを、親子とあひ見ん事今いくばくならずと思ふにつけて、日を数へて明け暮れはただねをのみ泣く。 ※岡山県津山市一宮にある大明神。主祭神は鏡作命ではあるが、大己貴命(大国主命)、瓊瓊杵命が合祀されている。

<以下省略>

katumoku10(2023年9月15日)
こんばんは!宇治拾遺物語、名前しか知りませんでしたが、とても面白い話が載っているのですね。どうも、有難うございます。 それで、生贄の話はヤマタノオロチと似ているし、身長七、八尺の大猿は猿田彦大神でしょう。ニニギノミコトの天孫降臨の道案内の神ですから、一緒に祀られているわけです(^_-)-☆

犬猿の仲の猿を犬に喰わせるという話も面白いですね。神にも弱点があるということでしょうか?犬はどこからの発想なのかははっきりしませんが、今、思いつくのは魏志倭人伝の狗奴国や狗古智卑狗ですね( ^)o(^ ) 女好きの大猿は、大国主久々遅彦のことです。

弥生後期(2世紀)に半島南部の鉄のネットワークの元締めだった先代久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神、スサノヲの子孫)のことです。各地の首長はネットワークに参加するために綺麗な娘を差し出すしきたりがあったようです。それによって血縁関係で結ばれ、首長間の序列も作られたと見ています。 精力絶倫の大国主のシンボルは陽石です。縄文時代からの石棒信仰です。宇佐市安心院町佐田地区が、大国主が最初に国造りした「豊葦原の瑞穂の国」と突き止めましたが、「こしき石(いわ)」という陽石が田んぼの中に米神山方向に向いています。頭の部分に平石が置かれていて、これを取り外すと暴風が起こるという言い伝えで、誰も触りません。

大国主の支配した倭国のシンボルが安心院町の豊葦原瑞穂の国でしょう。



また蛇神はナーガ(龍蛇神)で初代奴国王の天御中主はナーガ(中)を信奉する海人族の王という意味です。

福岡市吉武高木遺跡に降臨した呉の王族で、天皇家の祖神です。日本書紀が隠しましたが、人々は龍神とか水神様として祀っています。

吉備の中山では奴国王スサノヲの弟ニギハヤヒ大神を朝廷は吉備津彦という名前にして備前国一之宮吉備津彦神社と備中国一之宮吉備津神社で祀らせています。中山という地名は、竜王山・龍王山と同様に全国にあります。当然、当時の人の共通の理解なのだと思います。

宇治という言葉も大国主の宇佐に因んで、ウサギ=大国主が治める場所という意味です。同時に菟遅は大国主の祟りという意味もあると思います。伊勢神宮内宮の宇治橋や門前町の地名の宇治は祭神の天照皇太神が大国主だと暗示しています。

斎宮に来ていた未婚の皇女は大神の妻ということです。朝には蛇のうろこが布団の上にあったという話は有名ですね。アマテラスが男神であることは当時の人々の共通認識だったと思います。

江戸時代になって本居宣長が古事記を広めたので、その後明治になって国家神道創設や学校教育によって記紀神話に変わっていったのですが、現代日本人は洗脳されていますが、記紀神話は新しい神話なのです。

それまでの日本民族の神話・伝承は神仏習合・山岳信仰の修験道や道教・陰陽道などの影響で中世日本紀と呼ばれるものに変化したということは、すでにご存じかも知れませんが、斎藤栄喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書)の中で説明されていました。

昔は全く苦手だった古文ですが、古代史研究でjikan様の記事などで勉強させてもらって、何となく意味が分かり、なんか親しみを感じるようになってきました。また古文の勉強をさせてください。どうもありがとうございました( ^)o(^ )

新古今和歌集の部屋 『宇治拾遺物語』「猿神退治」考 その他 2023-09-16 21:36:33
『宇治拾遺物語』「猿神退治」考
著者 廣田 收
雑誌名 文化學年報 号
発行年 2006-03-15
権利 同志社大学文化学会


katumoku10(2023年9月16日)
とてもいい記事をアップしていただきましたので、早速、論文をダウンロードしました。なんと百ページもあるので、直ぐには読めません。全部、細かいところまで読むとjikan様のご意見どおりになるのでしょうが、私の理解では猿田彦と猿田彦の一族というのは大国主でもあり、すべて同じものなのです。

これは古代人の先祖に対する感性なのだと思います。つまり先祖の霊魂を身に着けるから大業・偉業も可能になるという首長霊信仰です。これは男系首長の話です。2世紀末の倭国大乱から縄文系の人々のそれまでの祖霊信仰と穀霊信仰は乱暴に聞こえるかもしれませんが同じ霊魂なのです。記紀神話や神社伝承などで大国主とその祖スサノヲを同一人物のようにしているので、最初は分かりませんでしたが、当時の人にとって霊魂は引き継がれて、同じものだと見ているのだと気づきました。菅原道真もスサノヲの本地仏である大威徳明王の怨霊なのだと気づきました。

そして縄文・弥生人の神に対する現代人の思い込みが記紀のミスリードだと分かりました。 当時の人々は草木にも八百万の神が宿るというアニミズムだと学校で説明されていますが、歴史学者佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書2021年pp.32-34)に、「当時の人々が個々の草や木を、アニマをもつカミとして崇敬したという証拠は見いだせない。」とあり、原初の人類は太陽や月の運行など自然現象に人知を超えた力を見出しカミとして崇め、同様に大きな磐座、あるいは人類のもちえない能力のある動物を神として崇めていたとあります。ネットでもブログを出されていますのでご参照ください(^_-)-☆。 「日本の神はどこからきたのか? 自然現象から宗教が発生するワケ(2024.4.28 赤字加筆)

縄文時代中期から突然、蛇を頭にかぶる女神像が登場します。この時からヘビ神信仰が起こります。ヘビには人間にない能力があると見出したのです。大国主=猿田彦も、龍蛇神天御中主の子孫です。大猿に結びつけたのは道教の影響です。玉帝の両脇に猿神が居るので、日本書紀で大国主を大猿としたと分かりました(拙ブログ「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?」、「「申」をなぜ「サル」と読むの?」参照)。
(この図の中央上部に玉帝が描かれています。玉帝の左側が觜火猴で、右側が参水猿でしょう。 Wiki「玉皇大帝」より)。

jikan様の宇治拾遺物語の東人の話で、「犬猿の仲」は何が由来なのかを調べたらいろいろ出てきました。例えば、「犬猿の仲に隠された6つの由来」参照! しかし、申し訳ないですが、どれも納得できるものがありませんで、思案していたらやっぱり日本建国時代に答えがあるはずだと気づきました。 つまり犬猿の仲は「大国主VS狗奴国」というのが日本の昔話としては自然です。魏志倭人伝を読んだ人が作った言葉なのか?古代からの日本人が一致する思いが伝承となるはずです。大きな歴史的事件は人々の心に深く残るので口伝えで生き残り、仏教や道教などの影響を受けて寓話に変貌して行くのだと思います。(2024.4.28 赤字追加)

それで思い出しましたが、「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください(^_-)-☆ ご紹介いただいた論文を読んでみて、またじっくりと考えたいと思います。どうもありがとうございました(#^.^#)

【関連記事】
大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v


ストーンサークル 佐田京石 こしき石の謎 石藤@YouTube 8年前


佐田京石/こしき石(いわ)モノクロの写真集ですが、雰囲気がありますよ(^_-)-☆

佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)


ということで最後まで読んでいただき、感謝します。また、何かを発見したらご報告いたします(;^ω^)
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